探求書
というより、どこかで見たはずで、もう一度見たいと思っているのに不注意で忘失して探し出せないもの
- 縄文杉が屋久杉のスーパースターなら花山歩道は森のスーパースターと太田五雄氏が云々などとあった本。(関連頁:花山歩道)
- 石塚小屋谷をビャクダン沢か別名ビャクダン沢と書いていた資料。資料で見たのではなく安房歩道のビャクシン沢との私の混同かもしれない。(関連頁:ビャクダン岳)
- 柴昌範氏が石塚山を祀ることになった親族の憑霊の状況などを含む詳しい経緯・・・屋久島のどこかで立ち読みした気がするのだけど、思い出せない。本のタイトルも思い出せない。あまり厚くない本だったと思う。(関連頁:石塚山)
- 大神山神社にカグツチ碑が発見された時の話・・・大正末頃。神道家の地方団体の研修旅行の記録だったと思う。発刊されたばかりの濱田青陵の本(山陰美術行脚を含む百済観音?)を持参した参加者がいたことが書かれていた。碑石のカグツチは漢字書きだったと思うがどの漢字が使われていたか覚えていないのでカタカナにて。碑石が沢山ある所で参加者の誰かが見つけたとあったと思う。稀覯本なのでと再録した戦後(昭和30年代だった気がする)の雑誌を見たはずなのだが、今知りたいのは近代ではなく近世以前の事だからと粗忽に扱って、誰が何という雑誌に載せたのか思い出せない。多分、地方団体の会報だったと思う元の本も探し出せない。碑石に年記は無かったと思うが、出雲風土記鈔より後のものなら火神岳との解読の傍証にはならないと思う。(関連頁:伯耆大山槍ヶ峰)
- 御府内寺社備考玉嶋山明星院東江寺の項にある沙羅蓮山石峰寺之縁起の「摂州能勢郡人」が10日に限って膏油を120灯点てるとか中に不浄があれば厨子が鳴動とか凶札を水中に入れて飲むと忽ち癒えるなど云々に摂津国内の資料でも同様の話があり引用していた本があったこと・・・多分東江寺の方が摂津側にあった資料から抽出して縁起に含めたのだと思うが、摂津側の何の本を引用して活字化した本(これも摂津側での本だったと思う)で見たのか思い出せない。能勢郡人が「のせの人」と書かれていた気がする。或いは私の東江寺の略縁起の引用をどこかの本で見た記憶の誤認か。(関連頁:舎羅林山)
- 板敷野・沓掛から石仏の峠に上がる道と石仏に関する聞き取りで嘗ては大事な道だったらしいなどということが書いてある本・・・宮坂武男氏の長野県の城郭の本の桟城の項の中に「古くは大事な道であったようである」とある原典と思われる、コラム(囲み記事)のような形で1ページで載っていて石仏の写真があったのは覚えているのだが何の本で見たのか思い出せない。板敷野地区の旧木曽福島町とも沓掛地区の上松町とも違う町村のことが主題の本だったと思う。(宮坂武男,図解山城探訪 第2集 改訂 木曽資料篇,長野日報社,2002.)(関連頁:木曽の桟 上の山道 実踏)
- 大台ヶ原筏場道沿いの自然林は道から見えやすい道の近くだけ残されて、道から見えない一帯は伐採された云々という話の載っていた本。もう伐採された所も二次林として森林になっているとは思うが。(関連頁:大台ヶ原筏場道)
- 大台ヶ原筏場道不動休付近の遭難碑も建てられたという遭難の詳細記事。遭難したのは学生さんだったと思う。(関連頁:大台ヶ原筏場道)
- 礼振峰の名にフリガナが「れいふりほう」とあった地図か本。(関連頁:礼振峰)
私の忘失でないもの
- ニトヌプリの名のアイヌ誤解を「ニドムヌプリ(森のある山)」とするらしいアイヌ語小辞典という本。角川日本地名大辞典1北海道上巻で引用の体。(関連頁:ニトヌプリ山名考)
- 田村義彦(2004)にある土井與八郎が大正4年に大台教会へ「寄進した道は柳ノ谷の八十町(ママ)ばかりだそう」の出典。(田村義彦,再びの山 尾鷲道,pp40-43,56,自然保護ニュース,大台ヶ原・大峰の自然を守る会,2004.)(関連頁:大台ヶ原尾鷲道 その3)
- 小題を「どうがん岩」としながら本文でドウガン岩を「どんがく岩」と書く民話を収める本(関連頁:推定ドウガン岩)
- 夕張マッターホルンを北大山岳部が天狗岳と呼んでいたことを書いてある本。山の履歴簿第2巻に出典として日本山岳会の戦前の「山」第2巻第2号とあるが、「山」と題された日本山岳会の会報の「山」にも雑誌の「山」にも戦前の発行で第2巻第2号という号がない。何らかの出典の記憶違いがあったと思われる。そう言う資料があるなら見たい。(関連頁:夕張マッターホルン)
(2021年10月24日開始)