ビャクダン岳/ボウズ岩(ca.1680m)


山頂の卵状の巨岩アップ

 小花之江河の東方にある卵状の巨岩を乗せた1ピーク。古い本にその名があり、名前がついていたなら祠か何か岳参りの痕跡が残っていないか、見に行ってみた。


 淀川宮之浦岳登山道からの距離は約200mである。ヤブは南側(北斜面)がやや薄く、北側(南斜面)は濃密である。距離のわりには苦労させられた。

 山頂南側の露岩に出ると、あとは登るのは簡単であった。卵状の巨岩の足元には花崗岩に発達するというグナマと思われる穴が4つほどあった。4つとも水が溜り、1つは卵状石の蔭になっているからか、苔むしていた。卵状の巨岩をぐるりと廻ってみたが、祠などは見つけられなかった。


淀川登山道から見た
ビャクダン岳(手前)
奥は1694m峰

グナマと見て
間違いないと思う
 帽子は大きさ比較用

山頂の様子

グナマ アップ

ビャクダン岳・ビャクシン沢一帯の地図

★山名考

 当頁でのビャクダン岳の名と位置の出典は三穂野善則(1968)である。挿図と写真のキャプションに記されているが、本文では出てこないようだ。挿図での位置は私の登ってきた所で、写真の花之江河小屋跡と合わせて写っている山容も私が登ってきた山と同じに見える。太田五雄(1996)にも挿図にある。

 「ビャクダン(白檀)」は日本国内ではビャクシンと混用されて、針葉樹「ビャクシン」=イブキを指す。ヤブ漕ぎが厳しくてビャクシンが生えているかどうかの確認を忘れていた。

 「ビャクダン」、「ビャクシン」の地名は屋久島の山中に他にも見られ、この尾之間歩道と安房歩道の間のビャクダン岳のほか、宮之浦歩道脇の坊主岩の別名にビャクシン岩、栗生歩道上にビャクダンガ峰、安房歩道の南側に荒川の支流としてビャクシン沢の名がある。どのビャクダン/ビャクシンの地名の場所も丁度奥岳の入口ともいうべき位置にある。栗生の岳参りでは「ビャクダンガ峰(ビャクシンが一面生えた所)」という大きな岩に立ち寄ったという。湯泊の岳参りではビャクダン(ビャクランとも)に参詣したという(明暦屋久島大絵図に描かれる「白檀峯」か)。他の集落での岳参りでも奥岳の玄関として、或いは奥岳と前岳の境界として、ビャクダン(またはビャクシン)でも祭事が行われていたのではないかと想像してみる。

 当頁のビャクダン岳が、岳参りで立ち寄られたとすれば、小島・尾之間・原・麦生の集落での岳参りが考えられるか。祠も見つけられなかったが、栗生歩道から少し外れたビャクダンガ峰と思しき所では見られた焚き火跡も見なかったので、立ち寄りもされなくなっていたと考えるべきなのか。必ずビャクダン/ビャクシンに立ち寄るというものでもないのか。

 特別目立つ木でもないイブキがそのままそれだけで岩や岳の名となるとは考えにくい。


屋久島断面模式図

 屋久島は海際が急峻で、内側のある程度の高さ以上は傾斜が緩いドーム状の山の島である。傾斜のきつい海寄り部分を「ほき(崖)」と呼び、内陸に進んで傾斜が緩む所を奥山の入口として「ほき(崖)・だな(棚)」と呼んだのが訛ったのがビャクダンでないかと考えてみる。また、急斜面の上端ということで「ほき(崖)・せり(迫)」と呼んだのが訛ったのがビャクシンでないかと考えてみる。

 国土地理院の地形図で「荒川」とされる石塚小屋谷は荒川の本流と目されるということなのだろうが、石塚小屋はそれほど古くからある小屋ではないので、石塚小屋以前は別の名があったと考えても良さそうである。

 石塚小屋谷は荒川が傾斜をもって上がってきて、標高1520mで傾斜が緩んで平坦に延びる谷筋である。この標高1520m以上の荒川の谷を「ほき・たな」と呼んだのが石塚小屋谷の旧名で訛ってビャクダンとなり、その源頭にある小花之江河の手前の高まりをビャクダンという谷か沢の源頭の岳ということで呼んだのがビャクダン岳と考える。栗生歩道のビャクダンガ峰もモチヤマ谷の急斜面が緩む所にある。明暦屋久島大絵図の白檀峯もモチヤマ谷の急斜面を登り切った所の印象で、その場所なら湯泊歩道がすぐ脇を通っている。奥岳の入口で、そこより上では里が見えなくなるので岳参りの祭事を行った集落もあったということではなかったか。尾之間や小島から登るなら割石岳の北の鯛之川への乗り越しが「ほきだな」となるだろう。原や麦生から登るなら雪岳の西が「ほきだな」となっただろう。当頁のビャクダン岳で祭事や立ち寄りは無かったと考える。

 荒川支流のビャクシン沢は吉川満(1991)に安房歩道の渡渉点より上について「この支流上部は、ビャクシンの沢とも呼ばれ、知る人ぞ知る秘境である。」とある。元は荒川に落ちるヤクスギランドまでの全てがビャクシン沢ではなかったようである。ビャクシン沢も標高1450mから上で傾斜が緩くなっている。1450m以上の谷筋がビャクシン沢の名の発祥であり、「ほき・せり」の訛ったビャクシンと考える。宮之浦歩道の坊主岩もそこより上で尾根が広がり傾斜が緩む。

 屋久町郷土誌3巻の小杉谷の章の地図では私の登ってきた所が「ボウズ岩」とされている。山頂の巨岩は坊主のような岩ではあったと思う。

 遠崎史朗著「海上アルプス屋久島連峰」では、私の登ってきたピークと思しき所を「ギロン岳(タクアン石)」と書くが、タクアンなら本高盤岳の方が相応しい呼び名のような気がする。三穂野善則(1968)は「タクワン岩」を「高盤岳」(本高盤岳)としている。高盤岳の書かれていない「海上アルプス屋久島連峰」の「ギロン岳(タクアン石)」に誤認があったのかもしれない。

参考文献
三穂野善則,山岳,屋久島,赤星昌,茗渓堂,1968.
池田碩,花崗岩地形の世界,古今書院,1998.
太田五雄,自然ガイド 屋久島 屋久杉の森と山と海,八重岳書房,1996.
屋久町郷土誌編さん委員会,屋久町郷土誌 第1巻 村落誌 上,屋久町教育委員会,1993.
下野敏見,屋久島、もっと知りたい 人と暮らし編,南方新社,2006.
楠原佑介・溝手理太郎,地名用語語源辞典,東京堂出版,1983.
吉川満,鹿児島県の山歩き,葦書房,1991.
遠崎史朗,海上アルプス 屋久島連峰,雲井書店,1967.
屋久町郷土誌編さん委員会,屋久町郷土誌 第3巻 村落誌 下,屋久町教育委員会,2003.



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(2005年10月20日上梓 2021年11月13日改訂)