大台ヶ原 尾鷲道の地名まとめ(マブシ峠〜新木組峠) その3

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一本木の
位置の諸説

一本木(未勘)

 仲西政一郎((1978))は、その2のマブシ峠と木組峠のほぼ中間の鞍部のわずかに北に寄った標高1200m附近に「一本木」と振る。仲西政一郎調査執筆のエアリアマップ山と高原地図「台高山脈(2)」は1970年版が初版である。添付の冊子では「ブナの大樹が一本そびえる」と説明している。1988年が初版の吉岡((2000))もその位置を踏襲している。尾鷲道では最低鞍部に白い「一本木」と書かれた標柱が立っている。

 竹本隆一((1992))は上述のマブシ峠附近に一本木の地名を振る。竹本隆一調査執筆の日地出版の登山・ハイキング地図「台高山脈」は1961年版が初版で1971年版から改訂新版とされている。

 小島(1998)の「台高の山と谷」の平成9(1997)年の紀行文では竹本とほぼ同じマブシ峠附近の位置のようである。所載の概念図では尾根線が地形図の尾根の走向と合っていないので一本木の位置がコブシ嶺と木組峠の間の木組峠寄りに記されてはいるが細かくは分からない。尾鷲側に向かって、左に「杉巨木があ」るとしている。


推定マブシ峠付近から見た
マブシ岳(仮)西鞍部の合体巨木
右のピークはマブシ岳(仮)

合体巨木
近景

 2011年に一度歩いてみた限りでは、上記の二ヶ所附近でそうした顕著なランドマークになるような木は目につかなかった。既に枯れて朽ちていたことも考えられないことも無い。

 同じ場所に複数の地名が付く事もあるが、ここ一本木の場合はどうなのかと思う。1970年の仲西氏執筆の「アルパインガイド6近畿の山」の台高山脈南部の地図では一本木標柱のやや北に振られる「一本木」の僅かに南から新木組峠まで稜線の道が二重に記され、西側の道に木組からの道が木組峠として突き当たり、東側の道は東斜面に多少下りたりコブに登ったりして描かれている。また、マブシ岳(仮)の西鞍部を尾鷲道は通っておらず国境稜線上にある。仲西氏が三角点「雷峠1」の北の鞍部と誤認し、「台高の山と谷」が「雷峠」としているマブシ岳(仮)西鞍部が本来の一本木で、廃道となった古い尾鷲道と新しい稜線伝いの「雷峠1」を通る道で推定マブシ峠まで二重になる区間であり、尾鷲道がこのマブシ岳(仮)西鞍部を通らないように描かれる不正確な地形図の道と三角点「雷峠1」の位置に惑わされて、仲西氏の感覚で雷峠と一本木が入れ替わり、更に入れ替わった一本木の位置も坂を下りきった地点と言うことで地図上でマブシ峠から標柱のある鞍部まで下げて誤認していたのではないかと邪推するが確証が無い。竹本氏・小島氏には標柱の位置にまで入れ替わる前のマブシ峠の位置の一本木が仲西氏から直接か、或いは別の発表から伝わっていたのではないかと考えてみるが、これも根拠は無い。

 マブシ岳(仮)西鞍部は大谷から上がる険路と尾鷲道の結節点とされ、空き瓶などが散乱する飯場らしき跡もあるので地名が付けられる要件は満たしていると思われるが、この地点への命名は管見では比較的新しい資料である奥吉野研究会(1997)と小島(1998)の雷峠のみを見る。しかし、雷峠はその2で述べたようにマブシ岳(仮)西鞍部ではなくマブシ峠であると考える。マブシ岳(仮)西鞍部は立ち木が少なく森が無く、尾根の中央に桧の合体木の巨木がある。二本の木の合体木で片方は既に枯れており樹種も不明であるが巨木で目立ち、一本に見える。飯場が現役だった頃の営林署の林相図に、西鞍部の地名が載っていないだろうか。また、1961年版の日地出版の登山ハイキング地図が閲覧出来ればと思う。


中ノ峠

 北畠親房加判木本分領際目証文の「中峠」は伝本によっては中ノ峠・中の峠となっている。この証文に「根限」として載ると言うことは台高主稜上の地名であり、記載順序から龍辻や細又よりは北で正木ヶ平よりは南のようである。細又とは国絵図の細又龍辻のことかと思われる。

 正保国絵図に付された道帳の写しである里程大和国著聞記の書き方ではマブシ峠と細又龍辻の間に位置するようである。

 畔田翠山の和州吉野郡群山記の大台山全図では明らかに台高主稜上の地点として、マブシ峠や龍辻に並べてその間に描かれている。また、マブシ峠と龍辻の間に中ノ峠以外の地名が無いことから現在の木組峠や国絵図上の細又龍辻の別名と考えられないことも無い。しかし、和州吉野郡群山記の尾鷲道上の地名の記述は他の場所の地名の書き方に比べて由来などの説明が少なく、淡白な印象を受ける。御勢(1998)の畔田翠山推定踏査路には尾鷲道が入っているが、上野(1969)は畔田は尾鷲道まで足を延ばしておらず、尾鷲道上にあげられた地名は聞書きのように思えるとしている。私も群山記の、他の地域に比べて地名に関する説明の少ない大台山についてを見て同感である。

 北畠親房加判木本分領際目証文の「細又」が現在の木組峠のことだとしたら、里程大和国著聞記の書くような「小峠」と言える地形は、光谷と木組谷の間の、マブシ峠と木組峠のほぼ中間の鞍部(「一本木」の標柱のある鞍部)しか考えられない。「峠」は「手向け(たむけ)」の転などと言われ、山道の登りきった地点を指す用語などとされるが、「峠」の語源をその地形をさす「撓んでいる所」=「たわげ(たわむさまを指す形容動詞「たわ」の語幹+形容動詞の語幹などについて、いかにも・・・のさまである意を表す接尾語「げ」)」と考えるならば、撓んでいる処であると言う地形を指すだけで「峠」として呼称することもあったと考えられる。「たむけ」より「たわげ」の方が「とうげ」の音に近い。中ノ峠は「峠とは登り切った処」という説の反例になるのではないか。

 北畠親房加判木本分領際目証文で、マブシ峠や雷峠を差し置いて中峠が登場している点をどう考えればよいのか分からない。

 紀州側に残る見聞闕疑集では細又龍辻から、まふし峠迄の国境稜線の移動距離を8丁と書いている。8丁とは里程大和国著聞記の13町30間や、丁亥前記の12丁と差が大きい。マブシ峠から8丁国境稜線を南下した地点は木組峠とマブシ峠の間の光谷左股を登り詰めた鞍部の位置に近い。木組峠から「細又龍辻」とされる場所に掛けては紀州側と大和側の稜線の両側に横駈け道があり、紀州側では木津から木津峠を経由して不動谷(小谷小屋谷)を渡り、木組峠辺りを目指して登るも最後までは登らず横駈け道で国境稜線の東側を伝い、中の峠=細又龍辻で大和側で用いているルートと合流、更に8丁北上してマブシ峠で大和側に下りていたことを書いているのかとも考えたくなるが、見聞闕疑集に引用された文書は大和北山との国絵図作成上の合意書であるから、記述は大和側と同じはずである。大和北山側にも同様の文書が残されているのではないかと考えたくなるが、上北山村文化叢書「上北山村の歴史」ではそうした古文書の存在は特に触れられていない。

 中の嶺を、三角点「西原(約1297m)」を中心とした山(ミネ)とする見方があるようだが、き坊氏の表の通り、中の「峠」に対応する表記であることを考えると「中の嶺」は「なかのとうげ」と読むべきで、本来は山を指しているものでは無かっただろう。嘉永元(1848)年の嘉永増補改正大和国細見図にも「中ノ嶺」は見られるが、一連の附名は畔田翠山「和州吉野郡群山記」の大台山全図と酷似しており、成稿を嘉永元(1848)年の前年(弘化4(1847)年)に先行する和州吉野郡群山記を参照したものと思われる。嘉永増補改正大和国細見図も、享保20(1735)年の大和国細見図も中村敢耳斎の作とされているが100年以上の開きがあり、中ノ嶺の増補は校訂した佐々木西里・長谷雨蕉に拠ると考えるべきである。また、享保20年版とほぼ同じ内容と言われる安永6(1776)年の塩屋平助らによる大和国細見図にも一連の附名は見られない。「中の嶺」を山と見なして読む「なかのみね」に準ずる「中ノ岳」「中岳」の名は近世の記録を管見に見ず、近代明治になって松浦武四郎の乙酉掌記(1885)に見られる。近世江戸時代の生まれ育ちであり、勉強家でもあった松浦武四郎が「嶺」の「とうげ」という読み方を知らなかったとは思えないので、「中ノ岳」は乙酉掌記が初出の山好きであった松浦武四郎の、有名な志賀重ミの日本風景論(1894)の言葉を借りるならば、「登山の気風を興作すべし」とする新造による山名ではなかったかとも考えたくなるが、丙戌前記稿本には「上なる山は中ノ嶺と云なるべし」といった中ノ嶺を既存の山の名として捉えていたと思われる記述が見られる。その「上なる山」の「中ノ嶺」とされた山の位置は、松浦武四郎の丙戌前記稿本の記録では龍辻の直下での説明であるので1260m強の「龍辻」のピークのことだったようだが、これは松浦武四郎の「嶺」を「ミネ」と捉えた誤推定と考えたい。

 中の岳/中の嶺はより古い記録の「中ノ峠」に基づく名と考えられる以上、細又龍辻/木組峠より南方に位置する龍辻山や三角点「西原」のピークなどではなく、稜線からの比高が20m程度と小さく、山名を付すにも値しない気もするが、マブシ峠の南であり木組峠よりは北に位置する1216m標高点のコブの方が北畠親房加判木本分領際目証文や里程大和国著聞記を考慮すると妥当ではないかと言う気がする。「中の岳」という山は無かったのだろう。木組峠のすぐ北の1245m標高点は、木組峠のすぐ南の1240m強のコブと合わせて享保3(1718)年の粉本村諸色大控帳にある「細又山」と呼ぶ方が、中の岳より妥当である気がする。


畔田翠山「大台山全図」より

嘉永増補改正大和国細見図より

細又・細又龍辻


木組峠付近と
推定細又山の地図

 南北朝時代(延元3(1338)年)の古文書「北畠親房加判木本分領際目証文」に「ほそ又」が国境稜線上の地名として登場する。

 元禄大和国絵図では細又龍辻が「此処峯通国境紀伊国ニテモ孚(まこと)同名 小瀬村之内大谷口ヨリ紀伊国粉本村迄六里拾壱町 是ヨリ龍辻越道迄之間山国境不相知(あいしれず)」とある。天保紀伊国絵図では「細又龍辻より満ぶし峠まで国境傳ひの道有」と書き、ここから台高主稜を下りて粉本(相賀)への道と、龍辻を経由して尾鷲へ向かう道が分岐して描かれている。

 海山町史(1984)では現在の木組峠としている。野田(2003)も木組峠としている。

 近隣に「細又谷」がある。東ノ川の支流の委細谷のごく下流右岸の支流であるが、源頭は国境稜線まではあと少しの所で達していない。この沢筋と何らかの関係のある地名かとも思われる。

 紀伊国絵図・見聞闕疑集の小絵図での描かれ方からは木組峠付近の旧称のように思われる。細又という地名は細又谷に由来するのではなく、木組峠の東側に光谷支流の源頭の緩傾斜の小さな谷地形が続いていることに由来するのではなかろうかと考えてみた。ホソ(細)は、太さが少ない意味が先に立つが、「ほそくず」のように細かい、小さいことも意味する。また、「龍辻」と付くからには南方の龍辻とも何らかの関係があるように思われる。

 マブシ峠に旧道が考えられるように出口から細又谷を途中まで遡ってから尾根に上がって主稜線に上がり、峰通りで木組峠付近に移動し、木津・粉本へ抜ける道が、木組谷の中を登る道が拓かれる前にはあったのではないかと考えてみた。海山町史(1984)に一部所載の享保3(1718)年の粉本村諸色大控帳の中には「細又山」という山地名があった。木組峠一帯が細又山で、委細谷支流の細又谷は、木組峠辺りを指した細又山方面へ向かう谷筋としての名ではなかったかと考えてみた。

 だが、出口から尾鷲でなく木津・粉本に向かうにしても細又谷から木組峠付近は遠回りで、委細谷から龍辻越の方が近い。木組峠付近を指した細又山に新木組峠という顕著な鞍部を越えて向かうから細又谷と呼ばれたというのも苦しい。どうもよく分からない。

 細又谷の源頭一帯が細又山で、その近傍にある紀州側に下りる所の地名として先にあった龍辻の名を援用して細又龍辻とした考えると素直な気はするが、細又谷の源頭の山(三角点西原(1297.6m)の北方約380mの標高1300mの等高線に囲まれたピーク)と木組峠付近の間には新木組峠を挟んで離れているのになぜ細又の名が付けられているのかを考えなくてはならない。オチウチ越の木組峠付近から細又谷源頭の山まで主稜線沿いを南下する今の尾鷲道は、木津・尾鷲へは木組峠で東に入るより遠回りであるから通る人もなく「国境不相知」だったのだろう。「辻」は枝分かれした道の行き先を被せる例が多い。尾鷲辻・川上辻・龍辻・入之波辻のように下降先もあるが、大台辻のような上昇先もある。粉本村諸色大控帳の細又山の広がりが分からないので、光谷の木組峠に上がる枝谷が委細谷の枝谷である細又谷とは別に細又と呼ばれていて、その源頭の龍辻に準ずる辻であったのが細又龍辻かもしれないというのも棄てきれない気もするが、龍辻への登り口である出口の辺りから見て細又谷源頭の細又山の裏側の新木組峠の辺りに向かう江戸時代中頃には廃道状態であった仕事道或いは踏み跡の分岐点と言う事の、南アルプス小渋川支流の高山沢の源頭の高山の裏手に高山裏避難小屋があるように呼ばれた「細又裏辻(ほそまたうらつじ)」の転が「ほそまたりゅうつじ」でなかったか。

 以上、木組峠の南方約120mの地点を細又龍辻と考えたが、同地点の古い道型は北の木組峠から東の不動谷へ単一の構造で一繋がりになっている。一方、木組峠の北方へは推定マブシ峠南方約230m付近まで道型が見つけられなかった。人口の少ない大和側ではあまり整備されず、木組峠までを人口の多い紀州側の責任で整備していたと言うことのように思われ、木組峠南方約120mは嶺限りの国境から紀州側に道が入り込む地点ではあるが、木組峠の地点が国境/細又龍辻とされていたと言う考えも捨てきれない。

 木本分領際目証文の「ほそ又」は、細又谷源頭の山としての「細又」と考える。細又谷の最下流の右岸には100m程の長さの小さく低くて高さのあまり変わらない細尾根があり、細尾根の向こう側は東ノ川本流である。この細尾根の上に今は車道がある。細又谷の名は、雄大な景観の続く東ノ川本流沿いで小さく目立つこの細尾根に沿った委細谷の分流である、「ほそ(細)・を(峰)・と(処)」の転か、「ほそ(細)・を(峰)・また(岐)」の約が「ほそまた」と考える。

 木組峠の紀伊(東)側は現行地形図でも尾根線に沿って歩道を表す点線が標高1070m附近まで振られており、旧来のものかとも思われるが、松浦武四郎の残した記録からは途切れた末端部の位置に疑問が残る。この歩道を示す点線は昭和43(1968)年発行の五万分一地形図までは橡山・木津方面へつながっていたが、地形描写が誤っていた。昭和42(1967)年測量、昭和45(1970)年発行の二万五千分一地形図から地形は正しくなったが歩道の記載は中途で切れるようになった。二万五千分一地形図の測量に際して古い道までは測量し直さず、旧版地形図からの推定で位置を途中まで記したものの末端の整合が取れず、また廃道に近いとみなされて記載が中腹で途切れることになったかと思われる。


天保紀伊国絵図より細又龍辻付近

委細谷・細又谷落合付近の地図

新木組峠

 竹本隆一調査執筆の日地出版の登山・ハイキング地図「台高山脈」(1991)では木組峠の南隣の鞍部とする。同地図は1961年版が初版で1971年版が改訂新版とされている。横手道の東西が入れ替わる現在は「新」の字が後から書き加えられた「新木組峠」の白い標柱が立っている地点である。

 奥吉野研究会(1997)の谿5号では木組峠の少し南方とし、「最近は殆ど聞く事が無い、地形図からも消えているようだ」としているが、国土地理院で旧版地形図を閲覧した限りでは五万分一地形図・二万五千分一地形図に新木組峠の名が載った事は無いようだ。大阪わらじの会の昭和40年代の記録には普通に通用していたと思われる記述だけでなく木組峠を指す「旧木組峠」といった表現も見られる。奥吉野研究会の谿5号は東大台の正木嶺について、嶺を峠と解釈するには交差点が見られないと指摘している。仮説としてならば正木嶺(まさきとうげ)は、大台ヶ原の駐車場方面から伊勢大杉方面へ抜ける稜線への登りきった地点である日出ヶ岳の南の鞍部の事とも考えられるのでは無いかと思うが、新木組峠も現在は山麓に向けての道の分岐がなく、登りきった交差点とは考えにくい地点である。新木組峠の周囲を探索しても登り付く路盤の跡を見つけることは出来なかった。

 林道をこの鞍部に通して新しい木組峠とする計画でもあって名づけられていたのか。



光山の位置の諸説

光山(未勘)

 「ひかりやま」では無く「ひかるやま」のようである。海山町史に引用される享保3(1718)年の粉本村諸色大控帳には「光る山」が入会山の名として書かれる。明治22(1889)年の南北牟婁郡図では現在の光谷の源頭に「光ル山」と山名が振られる。角川地名大辞典の三重県の巻の小字一覧には「光山」に「ヒカルヤマ」と振り仮名がある。

 昭和50(1975)年の三重国体登山競技の地図では三角点雷峠1の位置に「光山」と振られたと言う。竹本隆一執筆の日地出版の登山地図では三角点雷峠1の位置に光山と山名を振る。昭文社の登山地図では木組峠東方約950mの1184mの標高点に「光山」の山名を振る。

 光谷の源頭と言うことなら三重国体登山競技で山名の振られたピークですら無い三角点雷峠1の位置よりは、マブシ岳(仮)の方が標高が高く妥当な気もするが、三角点雷峠1の位置は光谷の両股に挟まれた源頭であるのに対し、マブシ岳(仮)の位置は右股の源頭に限られることから三角点雷峠1の170mほど北方のコブの位置の方が光谷により強く関わっている山とみなせる気もする。南北牟婁郡図では光谷の名は付されておらず、光谷の沢筋も二股とは描かれていない。光山(ひかるやま)の名は近世には光谷一帯の山地を指したが、山頂を以って山の位置とする近代山岳観に取り残された、位置を一地点に決められない山名と捉えるべきなのかもしれない。明治の小字調査で記録されているので尾鷲の法務局に明治時代の古い地籍図が残されていれば、それを見れば光山という地籍名の広がりを確認できるのではないかと思う。

 昭文社登山地図の位置は怪しい気がする。最高点が山麓から見えない山で、山麓から見えている山の鼻の頂点に山名が付されることはあるが、この位置は光谷の横というべき位置であり、光谷との関わりがマブシ岳(仮)より弱い。粉本村諸色大控帳には「光る山」と「細又山」があげられ、別の山の扱いである。昭文社山と高原地図の光山の位置は光谷源頭の光山ではなく細又谷源頭の細又山に含まれるのではないかと思う。

 光山より光谷が先なら「ひかる」とは谷の様子を形容した言葉であり、光谷下流部が「谷いっぱいに大石がつまって」いる「平凡なゴーロ帯」だというので、大岩で「埋かる谷(いかるたに)」かとも考えてみたが、明治の小字調査では光山は出てくるが光谷は出て来ない。那智の光ヶ峯も「ひかりがみね」ではなく「ひかるがみね」だという。光山の「ひかる」も谷筋だけではなく山の状態を形容しているのではないかと思う。紀州方言で動詞「ひかる」はトマトが成熟して赤みを帯びてくるようなことを指すことがあるが、赤みを帯びていることではなく赤みが加わっていく変化の様子を指した言葉のようである。この辺りの山がとりわけ赤いと言う感じも、光を発している感じもしなかった。太陽の光を反射するような大きな岩場が有って晴れていれば光っているように見えたとしても、曇っていれば光っているようには見えない。字面通りの光輝く山の意では無いだろう。ゴーロ帯だという光谷下流部や、マブシ岳(仮)から三角点雷峠1の西斜面の大規模なら裸地に見られるように、崩れやすい地質の荒々しさを指した「厳る山(いかるやま)」、或いは「厳つ(いかつ)・山」の「つ」が濁音化してルに転訛して約まったもののような気がする。或いはク活用の語幹用法で「厳(いか)・処(ど)・山」かとも考えてみる。雷峠も「いかづちとうげ」と読むなら「厳つ・路(いかつち)」か「厳・処・路(いかどち)」の峠で、「崩れやすい荒々しい峰/処」にある道を意味したのではなかったか。後者の「処」が入る方がはっきり場所を言っている気がする。

 大杉谷の光滝も「ひかりだき」ではなく「ひかるのたき」だという。水煙で虹が見られるからこの名であるなどとされ、明るい場所にある滝で日光を浴びて光っているように見えたが、或いはこの滝の名も本来は腰折れのある猛々しさの「厳つ(づ)・の滝」、或いは滝の後ろの荒々しい崖の所の滝ということで「厳・処・の滝」だったのではなかったかと考えてみる。那智の光ヶ峯(ひかるがみね)も山の斜面の立った「厳つ(づ)・が(の)・峯」か「厳・処・が峯」か、途中に狭く急傾斜な部分がある長谷川の支流の名などに「厳つ(づ)・谷」、「厳・処・谷」といった谷の名があって、その水源の峯と言うことでは無かったかと考えてみる。但し、光ヶ峯の名で信仰の対象になっているのは685.8mの地形図に山名のある所ではなく、市野々から眺められる低い丘だという。


神明水/甘露水

 本来の神明水は今の尾鷲道沿いの涸れることもある細々とした水流の地点ではなく、木組峠の東北東方約140mの豊富な湧き水のことではないかと疑っている。

 「しんめいすい」と読みたくなり、そう呼んでいる人に会うことが多い気がするが、意味の分かるようで分からない熟語である。大台ヶ原筏場道沿いに、似た音の金明水と銀明水がある。どちらも豊富な湧き水である。金明水は神明水と書いている資料がある。銀明水は銀嶺水と書いている資料がある。他の山でもよく似た音の山中の水場がある。

 冷蔵庫から出してすぐのよく冷えた缶ビールを「キンキンだ」などという。山中の湧き水はその場所の年平均気温を反映しているので標高の低い平地の湧き水より冷たく感じる。冷えていることをいう「きん」という形容動詞があり、「きん()・みず(水)」だったのが「きんみぃず」のように訛って「きんめいすい」として書き取られ、「きん」が「しん」に訛ったのが「しんめいすい」、また人によっては「ぎん」に訛っていたのを近くの金明水と区別するために敢えて「ぎんめいすい」として書き取られたのではなかったか。

 又口辻と木組峠の間の道中と思しき所で「甘露水」という水場を記すものがある。筧の水だったというから今の神明水とされる処か、その北側の谷向かい200mの水場のどちらかは甘露水だったのだと思う。


参考文献
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(2011年4月24日上梓 2012年1月22日分割 5月7日改訂 2017年7月23日改訂 2019年7月10日改訂)