大台ヶ原 尾鷲道の地名まとめ(マブシ峠〜新木組峠) その2
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里程大和国 著聞記 |
正保国絵図の道帳の写しである里程大和国著聞記に「ヲチウチ越」と言う名で小瀬(小橡)から尾鷲へ抜ける細道筋の名として挙げられる。その説明では小瀬から東ノ川大谷口までの間のアラ谷ボウ峠と、大谷口からのマブシ峠・中ノ峠を含むという。ヲチウチ越が出口でなく大谷口に下りること、より南の龍辻越が栃本村からカザヲリ谷を登ることから、峠「アラ谷ボウ」は現在の荒谷峠や荒谷山(八剣山;1267.2m)では無く、荒谷の直接の水源である又剣山(1377.2m)附近ではないかと思われる。元禄大和国絵図・天保大和国絵図では台高主稜線上に「おちうち越」の文字が振られるが、その位置はマブシ峠や細又龍辻と鑑別が不能である。紀伊国の国絵図では出てこない。並河誠所による日本輿地通志(五畿内志)の一つである大和志(1736)では「落牛越」と言う名で紀州牟婁郡界から北山川畔の白川へ向かう間道が挙げられるが、この落牛越に付けられた説明は現在のアゲグチ峠と思われ、これを「八良越」とする里程大和国著聞記と食い違う。八良越は国絵図では「八郎越」となっているが同じものであろう。並河誠所らも実地調査に数年を掛けたと言われるが、人口密度の低いこの辺りに関しては調査が甘かったのだろうか。
見聞闕疑集の中の元禄国絵図作成の際の国境合意書の写しでは元禄13(1700)年に大和側で「おちうち越」と呼ぶルートが、紀伊側では無名であり、粉ノ本(相賀)と大谷口を結ぶルートで、途中にマブシ峠と細又龍辻があることが確認されている。八郎越については、両国で八郎越と呼び、尾鷲南浦から東ノ川の古川へ抜けるルートであることが確認されている。
おちうち越は小瀬から相賀・尾鷲方面へ向かう一連の峠道の、大和側での呼称だった。落牛越は野田美芳(2003)の「紀北の近世 庄屋記録」に一部掲載される「紀州海辺港細見図(1801)」では八良越より更に南側の檜尾峠(高峰山)越のルートのように描かれるが、大和志同様元々利用者の少なかったこれらのルートの名の後世の混乱と見るべきだろう。里程大和国著聞記に「是ハ杣道」とあり、初見で辿れるような道ではなかったはずだ。
「おちうち」を地名用語語源辞典から、オチは落で「崖、傾斜地」で、ウチが縁(フチ)の転で、三角点雷峠1の高まりの西斜面が大規模な裸地の崖となっており、その横を越えるルートであることを指しているかと当初は考えていたが、例えば「石内」なら「石落ち」で石の落ちる崖ということもあるかも知れないが、何が落ちているかを明示しない「落ち」だけでは、主語を明示しなくても崖の印象になる「崩れ」と違って感覚的にだが崖と成らないような気がしていた。紀州側で無名という事で、大和側の人が滅多に行かない遠い海辺の方に行く道である「をち(彼方/遠)・へ(辺)・ち(路)」或いは「をち(彼方/遠)・へち(辺端)」の転訛で、「遠くの方への道」或いは「遠い陸地の端」のような意味だったと考える。
おちうち越と龍辻越の地図 東ノ川以西は粗い推定 |
里程大和国 著聞記 |
正保国絵図の道帳の写しである里程大和国著聞記でヲチウチ越の途上、大谷口から5町ほど河原を進み22町登った地点として挙げられる。ここまでの記述だけでは大谷口から東ノ川沿いに550mほど下ってから木組谷を登った現在の木組峠附近の位置かとも思われるが、更に国境へは十三町あり、それまでに中ノ峠があると言う。元禄国大和絵図では東ノ川畔の大谷村から上がり、稜線附近で「満ぶし峠」と最初に現れる地名であり「此処峯通国境紀伊国ニテモ孚(まこと)同名 是ヨリ細又龍辻迄之間国境傳ヒノ道有」とある。紀伊国の天保国絵図では紀伊側に下りる道は無く尾根通しで国境稜線を移動するように書かれており、同図では不動谷の支流の間を下りる道が細又龍辻から下りている。また、満ぶし峠について「此処峯通国境 古之本村より大和国小瀬村の内大谷口迄六里拾壱町 此処より二之又山までの間山国境不相知」とある。大谷は上北山村文化叢書「東ノ川」では東ノ川の左岸にあった一時的な集落と書かれるが、元禄国絵図では東ノ川の右岸に「大谷村」と描かれる。里程大和国著聞記では大谷口に杣小屋があると書く。また「小瀬村の内」とあり、その西側にも道が続き、山を越えて北山川支流小橡川沿いの小瀬村につながっている。この道は栃本から出口へ向かう荒谷峠より北側で山を越えるように描かれている。
松浦武四郎はマブシ峠に類する地名を明治20(1887)年の丁亥前記の実踏の記録の中に残していないが、木組から登りきった後、大台を後方に見て峰通しに12丁進んでから下りると記しており、里程大和国著聞記に書かれたヲチウチ越と同じルートを歩いたと思われる。
大正2(1913)年発行の陸地測量部による五万分一地形図では、上記のヲチウチ越に相当しそうなルートとして現在の木組谷の中から直接木組峠に上がる、現行の地形図と同じルートのみが描かれている。
昭和8(1933)年の天野正善による大台ヶ原山略図では三角点「雷峠1」の南約60度西約450mの位置に「雷峠」と地名が入れられている。地名は大台教会によると言う。この雷峠に大和側や紀伊側から登りつく道は描かれていない。
以上よりマブシ峠は明治時代前期まで大和側木組から大台主稜線に登る峠の名称で、おちうち越はマブシ峠で稜線に上がった後、稜線上を南行して細又龍辻に達し、そこから紀伊側に下りていたと考える。大和国々境諸峠道図、或いは臺(台)嶽全図を参観出来れば詳細な事情が分かるのかもしれないが機会を得ていない。小橡(小瀬・栃本)から尾鷲に至るルートの大規模な改修は明治44(1911)年に起工し、初版の地形図の発行と同年である大正2(1913)年に落成したという。この時までにヲチウチ越はマブシ峠経由から、木組谷の中を木組峠へ直接上がるルートに切り替えられたのではなかったか。
おちうち越の江戸時代推定路と マブシ峠(雷峠)の位置の推定地図 |
大和側から国境稜線に上がるルートは、少なくとも地形図が作られていない明治時代前期までは現在の地形図に振られる木組谷の中を登り詰めるルートとは異なっていたと考えなければ里程大和国著聞記の里程や松浦武四郎の記録と合わない。
そのルートはまず大谷口から国絵図にある通り東ノ川畔を下る。下る距離は里程大和国著聞記にある約五町(約550m)で、そこから登り始め、尾根線を伝い、大台ヶ原山略図にある「雷峠」に登り詰め、台高主稜を南下し、木組峠南東方120mの主稜線上を大和から抜ける「国境」として紀伊側に下りる。
あらましは以上で、東ノ川河畔から大台ヶ原山略図にある「雷峠」まで尾根線を登ることが要点だが、細かいルートについては上記の資料だけでは決められない所があるので、里程大和国著聞記に合わせて大谷口〜登り口、登り口〜マブシ峠、マブシ峠〜国境の三区間に分けて右図のように2本のルートを想定し地図上に書いてみた。
まず、登り口であるが、大谷口から五町(約550m)下った地点(右図中「登り口b」)は取り立てて尾根に取り付きやすい地形に見えない。松浦武四郎は木組に泊ってから台高主稜に上がっているので、木組を経由する登り口として適当な木組谷出合を「登り口a」として考えてみた。里程大和国著聞記の元になった調査が終わった正保5(1648)年は東ノ川流域の開発が始まった頃とされる慶安3(1650)年の2年前であり、国絵図に載らなかった通り、東ノ川地区でも最奥の木組地区は村の体はまだなしていなかったのではないかと思う。正保の頃のおちうち越は木組を経由していなかったことも考えられるので登り口bからのルートも検討する。
木組谷出合から木組谷に沿って登った後、木組地区から木組谷右岸の尾根へ登る。木組谷右岸の尾根には標高620m附近に小さな鞍部がある。一旦ここへ上り詰める。その後、この地方の山道によく見られるように尾根線を台高主稜まで登り詰める。登り詰めた現在の三角点「雷峠1」の南約60度西の鞍部、海山MOCの名で「一本木」の銘板が掛けられていた地点附近、三角点「雷峠1」の肩がマブシ峠で、紀伊側に下りるにはここから尾根通しに南行し、現在の木組峠、国絵図でいう細又龍辻から木津・相賀(古之本)へ下りるか、更に南行して龍辻から尾鷲へ向かったと思われる。マブシ峠〜木組峠の現行の尾鷲道は、それなりの歴史の感じられる尾根の西側の横駈け道だが、この区間も当初は尾根線伝いだったことも考えられ、松浦武四郎の「峯まま行」という言葉もあるので、二本のルートの距離について検討する。赤と青の二色で推定ルートを考えたが、一色が三つの区間で一繋がりであると言うことでは無いことを断っておく。
大谷口-登り口 | 登り口-マブシ峠 | マブシ峠-国境 | |
里程大和国 著聞記 |
5町 (約550m) |
22町30間 (約2450m) |
13町30間 (約1470m) |
地形図上 水平距離 (推定路赤) |
約720m | 約2540m | 約1980m |
地形図上 水平距離 (推定路青) |
約550m | 約2200m | 約1770m |
地形図上 沿面距離 (推定路赤) |
- | 約2690m | - |
地形図上 沿面距離 (推定路青) |
- | 約2390m | - |
左の表は里程大和国著聞記に記された里程と地形図上の実際の距離を比較するものである。里程において尺貫法と国際単位系の換算は時代や地域によって異なるとのことだが、明治24年の度量衡法における換算を「概算」として用い、一の位を四捨五入した。地形図上での距離測定はプログラム「カシミール3D」を用い、これも一の位を四捨五入した。里程大和国著聞記ではマブシ峠から「国境」までの距離として書き、その「国境」がどの地点を指しているのか不明瞭だが、松浦武四郎の丁亥前記の下り始めてからの地形描写と北畠親房加判木本分領際目証文の記述から、現在の木組峠付近が里程大和国著聞記の「国境」であることは間違いないように思われる。また、ヲチウチ越を尾鷲村へ抜けるルートとして記述しているので相賀に抜けるルートではないことも考えられないわけではないが、栃本から出口を経て尾鷲村に向かう「龍辻越」に別項を立てており、ヲチウチ越について「小瀬村ヨリ尾鷲村ヘ塩調ニ参ル道也」とも書いているので小瀬から海岸への最短ルートとして、また国絵図には木組峠付近と思われる細又龍辻からすぐに下りて相賀へ向かうルートが、龍辻から尾鷲に向かうルートとは別に描かれているので、「国境」を古い道型が嶺限りから東に入る木組峠南南東方120mの地点として計測した。更に、標高差の大きな登り口-マブシ峠については稜線上の勾配の急な区間の等高線の密度に大きな変化が無いようなので三角形に近似して沿面距離を算出した。登り口a からのものについては標高450mから620mまでと620mから1240mまでの二つの三角形を、登り口b からのものは標高390mから610mまでと620mから1240mまでの二つの三角形を考えた。
沿面推定路近似模式図 縦横の比は地形図上の標高差と 平面距離の比におおよそ揃えた |
精密な里程で一致しているとは言えないが、傾向としてこの尾根線とマブシ峠を通る、おちうち越旧道推定ルートは間違ってはいないのではないかと思う。木組峠付近を国境と仮定する限り、マブシ峠をこの位置以外に想定すると里程大和国著聞記に書かれる里程から大きくずれてしまう。また、無駄になる標高差が大きくなり、通行の負担となる。木組峠南東120mを地形図と道型と「嶺限り」から国境としたが、この地点の北側の木組峠までと東側への道型は滑らかに一繋がりで掘り込まれており、木組峠の北側には繋がる道型を見いだせなかった。紀州側から登ってきて木組峠までを紀州側の道として整備しており、木組峠より北側は人口の少ない大和側の担当であまり整備されていなかったとも考えられ、「国境」は木組峠であり、マブシ峠〜国境は120m短い、赤・青それぞれ、約1860m・約1650mとすべきとも考えられる。
場所が確実な大谷口からの距離が5町(約550m)の登り口b から青点線の推定ルートを通して国境までが、里程大和国著聞記の里程と近い。マブシ峠-国境が地形図上の数値の方が大きくなっている中で、登り口-マブシ峠の青の沿面距離が小さいのは急勾配をつづら折りにするなどで里程の距離が伸びていたことによるか。地形的に何の特徴も見られなかった登り口b から登り出すのは不自然な気もするが、置いておく。
里程大和国著聞記に記された登り口〜国境の里程は5町余計である可能性があり、登り口a -マブシ峠の赤とマブシ峠-国境の青の里程より多い約420mが相当するかとも考えてみるが、木組谷にある程度入ってから登り出すのなら、木組谷に入ることを記しておくべきで、勾配の緩やかな木組谷下流の底を歩くのは「上リ坂」に入らないと思う。登り口の厳密な位置に疑問は残るが、正保の頃は大体青点線の推定ルートの稜線伝いであったと考えておく。或いは地形的に分かりやすく、小橡と西原の大字界になっている登り口a から上方の青点線に向かって尾根線(緑の点線)を辿ったか。
当初はマブシ岳(仮)西鞍部から西へ下る路盤の跡が見られたことや、奥吉野研究会のマブシ岳(仮)西鞍部を雷峠とする見解、仲西政一郎の登山地図に記された大谷からマブシ岳(仮)南鞍部へ上がる「険路」から、大谷口から直接大谷を登るルートが昔はあり、その上がりきった地点であるマブシ岳(仮)西鞍部がマブシ峠かと考えていたが、里程大和国著聞記の里程に合わない。また、大谷口から東ノ川を少し下っている国絵図の表現とも合わない。
松浦武四郎は明治20(1887)年に木組から木津へ山越えをし、丁亥前記を記録として残しているが、マブシ峠も雷峠も木組峠も細又も実踏の文中に出てこない。木組から坂を上り詰めた地点として「八丁坂休場」を挙げ、そこから「峯まま行」き、「十二丁にして下る」と書き、その辺りでは後方に大台を見ると言う。12丁で下る地点の地名は記録されていないが、12丁と言う数字は里程大和国著聞記の13町30間に近く、そこが木組峠南南東120mであり、八丁坂休場がマブシ峠であり、大正2(1913)年の地形図に載る木組谷の中を通る道や「木組峠」の名はこの頃にはまだ無かったのではないかと思われる。松浦武四郎は2年前の乙酉掌記で、案内人が木津から北山へ帰るのに通る道筋を「馬背越」と聞き取っている。また、乙酉掌記の草稿である乙酉紀行では白崩谷附近における聞き取りで南大台主稜上に木津から出口への道として「馬ノ背峠」を書いている。また、乙酉掌記での「馬ノ背峠」については乙酉紀行では「雷峠、馬の背」と書いている。尾鷲と相賀を結ぶ馬越(まごせ)峠と紛らわしいが、或いは振り仮名の無い「馬背」「馬ノ背」はウマノセではなくマノセと読ませるつもりで書き、明治時代の地元の発音がマノセになっていたか、マブシを誤って聞き取ったものではないかと考えてみる。「八丁坂休場」については、標高620m弱の鞍部からマブシ峠までの長大な坂には控えめに見積もっても10丁以上の距離がある。
松浦武四郎の丁亥前記の 道(おちうち越)の推定地図 |
松浦武四郎の「十二丁にして下る」地点を木組峠南南東120mと考えると里程大和国著聞記の13町30間に近いが、松浦武四郎の歩いたルートを通して考えると下った地点としたのは木組峠南南東120mとは言い切れない。丁亥前記で松浦武四郎は下った先が不動谷の二股であり、そこから少しまた登るように書いている。二股は右が「腰森」で左が「不動」だという。考えられるのは現在の橡山林道の終点付近、不動谷の928m標高点の二股か、940m主曲線の横断する二股のどちらかである。木組峠の南のピークから東に伸びる尾根の500mほど先に南東への支尾根があり、木組峠からこの支尾根上に杣道ではない古く太い道の路盤が明瞭に残っている(踏み跡だけからなる整地もされていない新しい杣道もほぼ平行している)のを2012年4月に確認している。木組峠から掘り込まれた路盤で東に延びる尾根に上がり、この尾根から支尾根に踏まれた路盤が滑らかに入り、広い南斜面を掘り込まれた路盤で下り、次第に細くなる尾根末端に向かって踏まれた路盤と掘り込まれた路盤が続く。斜面の勾配に応じて不規則にうねる掘り込まれた路盤は近世の整備された山道で見られる。
この支尾根に入る地点を「下る」場所とするならば、先に推定したマブシ峠からの距離は約20丁となり、12丁とは大きな開きがある。この支尾根上の古い路盤は林道の少し上の標高1030mより下で判然としなくなり、松浦武四郎がどちらの二股に下りたのかは特定できなかった(林道へは尾根の西側へが下り易い)。928m二股の右股にもそれなりの水量があった。丁亥前記は孫太版(松浦武四郎記念館版)と吉田版(冨山房版)で、この辺りの里程と地名に差異が目立つ。松浦武四郎が歩きながら里程も記した詳細な手控を作らずに曖昧な記憶によって書いたようにも見え、あまり重きを置くべきではないのかもしれないが、まだ検討を要する。明治44年測図大正2年製板の五万分の一地形図では、この尾根の末端で小径は東側に寄って沢の右岸に下りていた。これを考慮すると「腰森」とは928m二股の右股のように思われる。928m二股の右股には落合の右岸から栃山林道終点付近に向けて仕事道が有り、栃山林道終点から更に道が続き、前述の五万図の小径に相当する部分は、小さな緩い沢地形になっていた。また、940m二股の左岸は急峻な一枚の斜面で道が付いていたと考えるのは不可能なように思われた。明治45(1912)年に大杉谷を遡行して大台ヶ原に登った大北聰彦一行もこのルートから木津へ下山した。谷の名は不動谷しか記していないのでどちらの二股に下りたかは分からないが、銚子川の上流に出て「新たに造られた木馬道を不動谷の澗流に沿ふて製板所に着いた」と言う。
マブシの原義は、マブシ峠のすぐ北側でマブシ岳(仮)から三角点「雷峠1」のある尾根の西斜面が大規模な裸地となっていることに着目した「マブ(崖)・背(せ)」か、「マブ・をせ(峰背)」か裸地の足元にある「マブ(崖)・足(あし)」の約まったものではないかと考えてみる。崖を「マブ」と呼ぶ方言は奈良県宇智郡などにある。奈良県でも吉野郡では田畑の畔や畑の境界にある石塚などを意味すると言う。この裸地が昔から裸地だったのかどうかがよく分からないが地質的に変わることはありえない。昔の尾鷲道は現在のガレた西斜面の裸地になっている部分をトラバースしていたようなので、今ほどに大きく崩れた崖ではなかったのかもしれない。奈良県宇陀郡では、マブは「山の端の荒地」を指したと言う。崖とまでは言わなくても崩れ易い地質の荒地であり、そのすぐそばか足元の峠ということではなかったかと考えてみる。日本語では母音が連続すると片方が追い出されることがある。松浦武四郎の記録は「マノセ」かもしれないが、里程大和国著聞記からかなりの年月が経っているので、「マノセ」であったとしても訛音と考える。八丁坂休場の「八丁(はっちょう)」はマブ同様に山地が分解していることを言う、「はつれ(解)・を(峰)」の転かと考えてみる。
見聞闕疑集では台高主稜線上峰伝いの移動距離を八丁とし、里程大和国著聞記や丁亥前記の数値と差がある。里程大和国著聞記と、実踏の記録である丁亥前記との(2+α):1で、峰通しの移動距離に13丁前後を採用して論を進め、それなり成り立っていると考えているが、見聞闕疑集の数値の違いについてはよく分からない。里程大和国著聞記の大谷口〜国境の里程に5町分の齟齬が考えられることはその1で述べた。13丁前後の里程で上記の通り実際の地形との関係に説明が付くので、齟齬は各区間の里程ではなく端作りと合算里程の方だと考えている。正保から元禄までの間に大和側或いは紀州側でも道帳の里程に齟齬があることが指摘されて、元禄国絵図の際には書面上で端作りと合算里程は変更せず、末端の台高主稜上の里程だけを変更していたかなどと考えてみるが、まだ30間分が不明である。正保国絵図付帯の道帳が紀伊側ではどうなっていたのか、見聞闕疑集の元になった元禄国絵図作成の覚書の中ではどうなっていたのか、そうした資料が相賀組のあった紀北町などの地元にまだ残されているのかどうか、元禄国絵図作成の際の資料が大和側で残されていないのか、自分には分からない。
「マブシ嶺」のカタカナの「マ」と「コ」の混同による読み間違いが始まりで継続していると思われる「コブシ嶺」は1969年の昭文社の登山地図から見られると言う。
天保5(1835)年の仁井田長群による登大台山記では龍辻周辺の地名として雷峠を書くが、それ以上の位置の情報を欠く。登大台山記の書き方では仁井田長群が雷峠を通過したかどうか、単に聞き書きしただけかどうかも判然としない。登大台山記によると仁井田長群の登山には相賀庄の世話人を通し、木津の住人が案内に当たっている。
松浦武四郎は明治18(1885)年の乙酉掌記の草稿である乙酉紀行に木津西谷(不動谷か)から主稜線に上がる地点として雷峠を記しているが、これが登大台山記の写本を読むなどの事前調査によるものか、実踏時に地元の人から聞き取った情報なのかは判然としない。
雷峠の位置の諸説 |
明治22(1889)年の北牟婁郡地誌では相賀村の山地の説明に何度か雷峠が登場する。銚子川の右岸の尾根上の山や左岸の尾根上の山だけでなく、船津川の左岸の尾根の山までも雷峠からつながっているように記述されており、北牟婁郡地誌の文面から雷峠の位置の特定は出来ない。見落としがあるかもしれないが「雷峠」が相賀村の章だけに登場し、近隣の他の村や浦の章では出てこないことから、雷峠は相賀村周辺に於ける限られた呼称では無かったかという印象を受ける。北牟婁郡地誌は明治初期から進められたが未完に終わった皇国地誌の編纂の為に地元でまとめた各郡町村取調書や郡町村誌の控えを元に郡として取りまとめたもので、中央に集められた原本は関東大震災で焼失したが、詳細な地図が付いていたと言う。「雷峠」の記載された詳細な地図の控えは北牟婁郡や相賀村を引き継いだ紀北町に残っていないだろうか。
明治36(1903)年の三角点「雷峠1」の選点時の旧点の記によると、俗称雷峠に設置されたこの三角点への順路は、木組と木津を結ぶ峠から三叉路を十七八丁、大台山に向かって行った所であるという。順路の文中に木組と木津の間の峠の名は明記されていないが、点名や文中での「峠」の文字の使われ方から現在の木組峠(右図中E)を雷峠と捉えていたかと思われる。ED間が里程大和国著聞記の時間距離で13丁半(地形図上で16〜18丁)、DC間の地形図上の距離が4〜5丁であるので三角点雷峠の位置から大台を背に時間距離の17〜18丁を進めば現在の木組峠の位置ということになる。
大正2(1913)年発行の陸地測量部の最初の地形図では現在の木組峠の位置(右図中E)に「電峠」と振られるが、雷峠のことであろう。昭和7(1932)年発行の次の版からは木組峠の名に改められ、現行まで木組峠で続いている。三角点「雷峠1」はこの最初の地形図からその位置に載っている。陸地測量部内部において現場での三角点測量と机上での地形図作成に全く連絡が無かったと言うことはあるまい。陸地測量部としては雷峠は現在の木組峠(右図中E)という認識だったのだろう。
大正12(1923)年の「世界の名山大台ケ原山」では白咋と木茱萸峠のほぼ中間(それぞれから30町)を雷峠の位置とする。地図が無いが、木茱萸峠が現在の木組峠、白咋が堂倉山南鞍部とするならば、その中間ということでマブシ岳(仮)や三角点「雷峠1」1410.8m附近の位置(右図中BかC周辺)となる。
昭和8(1933)年の山上1巻2号の天野正善による大台ヶ原山略図では、上述のマブシ峠の位置(右図中D)である。この図では台高主稜上の雷峠から東西の山麓に下りる道は描かれていないが、上述のマブシ峠のオチウチ越旧道を想定すると、この位置に峠の地名が付された理由が判然とする。大台ヶ原山略図に地名を入れたのは大台教会であることが山上1巻2号の編集後記に書かれているが、天野は「研究の余地は十分ある」と保留を付けている。大台教会は田垣内政一氏の時代である。大台ヶ原山略図では現在の木組峠は「木組峠」として記載されている。
仲西(1957)は雷峠を、1411.2m「無名のピーク」の北のコルとする(右図中C)。1411.2mは当時の地形図での三角点「雷峠1」の標高である。仲西は後の書物では三角点「雷峠1」の高まりを「コブシ嶺(とうげ)」としているが、これは乙酉掌記などにある「マブシ嶺(とうげ)」の「マ」を「コ」と誤認したものであろう(仲西氏による誤認かどうかは不明)。仲西監修の古い昭文社エアリアマップ山と高原地図の「台高山脈(2)大台ヶ原・大杉谷・東ノ川」の1978年版を確認してみた。昭文社の山と高原地図シリーズは年度毎に細かい改訂が入ることもあるようだが初版の1970年版を参観する機会を得ていないので内容はほぼ同じであると見なしておく。その中では大谷口から大谷を経て右図中Cの地点へ「険路」と但し書きが付いて歩道が記されていた。しかし、大谷から右図中Cへは裸地の急斜面が広がり登降は険路とするにしても現実的でない。この地図に記された道は、大谷から稜線近くのどこかに上がる道を、上がる地点を特定しないまま沢詰めということでCに上がると推定しての記載のように思われる。
竹本隆一((1992))は日地出版からの登山地図で三角点「雷峠1」のピークを「光山」とする。この竹本隆一調査執筆の地図は1961年が初版で1971年版が改訂新版だと言う。1975年の三重国体の登山競技での地図でもこのピークが「光山」となっていると言う。海山町史に所載の享保3(1718)年の粉本村諸色大控帳では台高主稜附近の入会山として「光る山」が出て来るが、この山と同じかどうかはよく分からない。明治22(1889)年の山崎滝之助による南北牟婁郡図では光谷の源頭に「光ル山」と記されている。マブシ岳(仮)も光谷の一角であり、ごく近接しているこちらの方が三角点「雷峠1」より標高が高いので「光る山」の山頂に付す名として妥当ではないかと言う気がする。
海山町史(1984)では雷峠は出て来ないが、「雷峠山」と言う地名が標高付きで登場する。標高は1414mで、海山町(現・紀北町海山区)の最高峰だと言う。地形図上では海山町の最高地点は堂倉山の1470m強であるが、堂倉山には標高点が設けられていないので、すぐ南の1414mの標高点をもって雷峠山の標高となったものと思われる(右図中A)。北牟婁郡地誌の雷峠の記述を強いて解釈すれば、銚子川・船津川水系の北を限る台高主稜から東へ分岐する稜線の分岐点である堂倉山附近に雷峠や雷峠山があったと考えることも出来なくは無い。
奥吉野研究会(1997)は雷峠をマブシ岳(仮)西方の大谷を登り詰めた地点としている(右図中B)。仲西氏の山と高原地図記載の地名と多少怪しい歩道の推定と、実際の地形や道の分岐を照らし合わせての結論と思われる。が、私はマブシ岳(仮)を巻く尾鷲道の旧道と思しき道の分岐はこの地点に確認できたが、大谷から上がる道の存在は確認できなかった。
小島(1998)は「台高の山と谷」で平成9(1997)年の紀行文で三角点雷峠1の北鞍部(右図中C)を雷峠と書いている。概念図ではマブシ岳(仮)・雷峠1周辺は実際の尾根の走向や道の位置と合っていない。概念図で雷峠が記載されているのはCが最も近いかと思われるがその位置を地形図に落とす事が出来ない。雷峠の位置の記述については仲西(1957)を踏襲したものと思われる。
天野(1933)の大台ヶ原山略図、陸地測量部の初版五万分一地形図の記載から、雷峠はマブシ峠の別名と考える。仲西(1957)は大台ヶ原山略図の雷峠に道が分岐していないことを不審とし、「世界の名山大台ヶ原山」の里程と「雷峠」と言う名の三角点の位置を勘案して雷峠の位置をマブシ岳(仮)南鞍部に決めたのではなかったか。その後、大谷沿いに下流には小道があったといった情報で大谷を詰めた同地点(右図中C)が峠であるとの意識を強めた。しかし三角点の位置は本来の雷峠とそれほど近いわけではなかった。中央から派遣された陸地測量部員による点の記と初版地形図では木津から木組へのルート上に雷峠があると言う情報が木組谷の中を行く新道の造成に伴い、旧道上だった雷峠の位置の情報を改めて記載されたのではなかったか。現在の木組峠には細又・細又龍辻と言う地名もあったが、この地名は一見、峠を指しているとは捉えにくく、雷峠(電峠)が優先されたのではあるまいか。奥吉野研究会の見解(右図中B)は、「世界の名山大台ケ原山」の里程(木組峠・白咋いずれからも30町)にマブシ峠より近く、大谷から上がる道との結節点とも考えられるこの地点に伝わる地名が他に見当たらないことを埋める傾聴すべきものだが、登大台山記や大台ヶ原山略図で雷峠がマブシ峠をさしおいて登場している点、北牟婁郡地誌で雷峠が相賀村に関わる地名として登場している点、松浦武四郎が木津の西谷から登る地点としての雷峠を聞き取っている点において頷首しえないものが残る。また、大谷からの道の結節点としての想定にも疑問が残る。岡本(1923)は峠道としての雷峠でなく三角点の位置を雷峠として捉えていたのではないか。ここ(右図中B)は越え道として紀伊側からの利用が考えにくく、利用されたとしても大和国内に終始する東ノ川と現在の川上村の間、強いて東ノ川から伊勢の大杉方面だったのではなかろうか。仲西氏の誤った根拠を元に仲西氏の雷峠の位置を修正した推論と思われ、推論が適切でも元々の根拠が不適切である以上、適切な結論に至るとは限らないのではないかと思う。紀伊側最奥の二ノ俣谷の上流から台高主稜に上がる歩道が登山地図に記載されていたこともあったが、B地点より北方(A・Bの中間附近二箇所)であった。
「電峠」の読みを住友山岳会(1936)はイナヅマ/イナズマとしているが、「雷」ではなく「電」の訓である。海山町史(1984)と小島誠孝(1998)は「雷峠」に「かみなり」と振り仮名をつけている。古い資料では振り仮名が振られていないことから、最も普通に読めば「かみなりとうげ」となりそうだが、新しい資料にだけ訓が見られるのはどうもよく分からない。或いは新潟県と山形県の境の雷峠と同じく「雷」をイカヅチと読ませるならば、音が似ている光山(ひかるやま)の名とも関わる「厳(いか)つ・ち(路)」(荒々しいさま・道)ということもあるのではないかと思う。マブシ峠について大和国の国絵図では「紀伊国にても孚(まこと)同名」と書かれ、見聞闕疑集では紀州側で無名とされていたが、それだけではなかったということではなかったか。
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