大台ヶ原山 尾鷲道 その1 尾鷲辻〜又口辻〜古和谷林道終点
南大台の道。大台ケ原からの下りで古和谷左股から古和谷林道へ歩いてみた。杉の巨木が二本見られるルートである。
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★尾鷲辻〜又口辻
尾鷲辻には東屋があり、その後ろに尾鷲道が続いている。すぐ乗り越して、南斜面に入る。道は緩やかでジグが切られている。単に歩く為の道としてはずいぶん緩やかである。道の右下(南東)から水の音がして、道のすぐ脇からも水が出ている。谷を少し下りれば確実に汲めるが、15分も歩いて尾鷲辻を越えてほぼ水平の中道に進めばすぐに水量豊富なシオカラ谷支流のヒバリ谷があり、水場としての有り難みはあまり無い。
大台町(旧宮川村)と上北山村と紀北町海山区の境となる堂倉山には小さなアンテナの建物があった。堂倉山と地名が振られているが、堂ー(戸倉)は堂倉山から見て北東方の堂倉谷左股(堂倉本谷・石楠花谷)の対岸の左岸にある。堂倉山は江戸時代の国絵図から伊勢では堂倉山と呼ばれ、大和からは東之川山と呼ばれ紀伊からは二ノ又山と呼ばれていたと、き坊氏が国絵図の画像を使ってWeb上にまとめている。畔田翠山の書く「まきづか(槙塚)」は此処の事のような気もする。緩やかに盛り上がった「むく塚」の転か。
堂倉山の南の鞍部を昭文社の山と高原地図は「白サコ」と書いている。特に白い印象は受けなかったが広い平坦地で、「ひらさこ(平峪)」の転がシロサコでないかという気がするが・・・。松浦武四郎は聞き書きでこの辺りに白欠・シラカケを乙酉掌記に書いている。畔田翠山は「柱かけ」と同地点と思しき地名を書く。丘に囲まれた平坦な窪地である。西側に張り出している尾根の裏手に岩場があるのがマブシ岳(仮)までの途上からよく見えるが、その岩場のことだろうか。場所が分からなくなっているというアリノ木峠はこの辺りでは無いかと言う気がする。堂倉山より南で台高主稜の東側に並行する樫山方面への尾根をアララギ通りと呼んでいる資料を見た。アララギとアリノキは音が似ている。アララギ通りの尾根から堂倉山の高まりを巻いて台高主稜に上りきった地点と言うことで、この辺りがアリノ木峠ではなかったか。
白サコ(?)から緩やかに下りる。最低鞍部までの間で西大台から大蛇ーをトンネルで貫いて樫山方面を結んだと言うトロッコの路盤と交差する。距離にして100mほど完全に重なっていて、その間は傾斜が一段と緩い。その先で巨岩のある所を通る。巨岩の幾つかはハングしていて岩屋として雨宿りが出来そうに見えたが、近寄ってみると庇状の部分は浅く、風があったら雨宿りは苦しそうだ。最低鞍部附近は石楠花が多い。この辺りでは東側の熊野灘を望む展望が開けている。最低鞍部の先からは稜線の西側を巻く。すぐに蛇抜けで道が切れている箇所がある。大巻きしなければならない。この先も何度か蛇抜けで道が切れている箇所があるが、大巻きが必要なのはここと木組峠の下の二ヶ所のみであった。しかし時間の経過とともにこれから増えそうな気がする。他の蛇抜けには鹿が渡っている足跡が見られた。バックには大蛇ーに並び、白崩谷の名の由来である白崩(しらくえ)の高く白い崖が見えるようになる。その右下には白崩谷の源流大滝が見える。
尾鷲辻からスタート |
倒木は少ない |
白サコ? |
堂ー(戸倉) 堂倉山付近から |
大台が 見える |
シラクエ (白崩) |
この崖が 白欠?柱かけ? |
ずっと西斜面の歩き易い横駈けである。次の1450m強のピーク(畔田翠山の記録にある地名「地くら山」からか地倉山と呼んでいる人も居る様だが怪しい。マブシ岳北峰としている人も居るようだが最高点なので当頁ではマブシ岳(仮)としておく)は、地形図(2011年現在)の道の記載と異なり一旦真西の鞍部に出てザレた西尾根を登っている。この鞍部からピークまでは森が枯れていて一部裸地化している。鞍部には桧の大木が一本残っている。2本の木の合体木であるが、片方は既に枯れていて樹種は分からない。東ノ川流域の展望が良い。険しい荒谷山は黒部別山を髣髴とさせる。小屋と架線場があったようで酒瓶やワイヤーが散乱していた。桧の大木から西へ下る路盤が見られ、昔の登山地図にあった南側の大谷から登ってくる道の跡かと思ったが、辿ってみると下降はせずにマブシ岳(仮)の西側を巻く道でガレで行き止まりになっており、マブシ岳(仮)から三角点雷峠の西側の斜面がガレて、放棄された昔の尾鷲道のようである。飯場の跡や顕著な大木があるので何か地名があったのではないかと思われる場所である。ここを雷峠とする本もあるが、雷峠では無い気がする。桧の合体木の大木は二本だが一本に見える。登山地図等でどうも場所のはっきりしない一本木が此処のような気がしているが、そう書く資料は見ていない。昭文社の地図などでは、一本木と言えばもっと南の地点のようである。
西鞍部の桧の 合体木 |
三角点「雷峠1」の 西側は裸地が多い |
荒谷山と 東ノ川 |
マブシ岳(仮)の 西側は白骨林 |
標高差約60mの一登りでマブシ岳、当頁では仮にこの名としておく。「マブシ岳」の名は松浦武四郎の乙酉掌記に見られるが、丙戌前記稿本では「マブシ嶺」であり、地名の配列から松浦武四郎が参考にしたのではないかと思われる畔田翠山の和州吉野郡群山記では「まふし峠」であった。「嶺」の字は現代ではレイやミネと読んでトウゲとは読ませないが、近世ではトウゲと読ませている例が、日本百名山の大菩薩岳に引用される甲斐国志を紐解くまでも無く普通に見られる。マブシ岳は山好きであった松浦武四郎の明治時代(近代)に於ける造語だったような気がしている。ここでは仮に松浦武四郎に従っておく。マブシ岳(仮)山頂付近は若く低い樹林の中である。この辺りは尾鷲辻から桧の合体木までに比べると道の路盤がハッキリしない。昔は桧の合体木からマブシ岳(仮)・三角点「雷峠」を巻いていたのが、崩壊が進んで巻けなくなったので尾根に忠実に歩かれるようになったということではなかったか。昭和40(1965)年の光谷の沢登りガイドでは三角点「雷峠1」に達した後、10分ほど東ノ川側に下って縦走路に出るとあった。
緩やかに下ってコメツツジの群落が砂漠のような三角点「雷峠1」のあるピーク。ここを「マブシ嶺(とうげ)」としている地図もあるが、違う気がする。「光山」と書かれたこともあった。また、日本山岳地図集成ではコブシ嶺(とうげ)としている。これはマブシのマをコと読み間違えたものによると言われている。マブシ岳(仮)からの西斜面の崩壊が最も進んだ大規模な裸地である。尾鷲や長島の海など展望が良いが埃っぽい感じのする場所である。マブシ岳(仮)からここに掛けても架線場があったようでワイヤーが何箇所か散乱していた。三角点の所はピークとは言えないので「嶺」を「ミネ」の意味で用いる「山頂」標識は仮にコブシ峰だったとしても光山だったとしても怪しい。ここから大峰山脈を望むと野呂介石や畔田翠山が釈迦ヶ岳を大峰山で最も高いと書いた気持ちが分かる気がする。鋭鋒釈迦ヶ岳は尖って近いこともあって八経ヶ岳や弥山より高く見える。
砂漠っぽい |
マブシ岳(仮)を振り返る |
「コブシ峰」と・・・ |
木組峠方面・龍辻山 |
地形図では三角点の西側を巻くように道が下りているが、実際は三角点から直に下りている。ヒメシャラなどの若木の中を下りる。道ははっきりしないがどこでも歩ける。下り切った地点(1215m附近)に海山MOCの名で「一本木」の標識があった。小島(1998)によると、この辺りの左(西)側に一本木の名の由来となった杉の巨木があり、古い標識が残っているとのことだが、よく分からなかった。仲西政一郎は一本木を「ブナの大樹」と書いていた。どちらの樹種なのか・・・倒木は至る所に見られたが・・・。ここから南では道は再びハッキリしたものとなる。200mほど尾根線の東側についた道を進み、小さな鞍部で西斜面に移り、横駈けとなる。少し掘られた路盤に落ち葉が深く積もり道はフワフワだ。標高1150mの次の鞍部には「一本木」の標柱があった。後者の一本木は地形が急峻である。次の木組峠もそうだが、同じ地名を指す道標が複数地点にあると言うのは結構な問題のような気がする。この鞍部は古文書にある「中の峠」だと思う。
南の一本木から「新」木組峠までも西側斜面の横駈けが続く。横駈けは緩やかな上りで木組峠への標高差50mは殆ど気付かず登る。木組峠も巻いているが木組峠へ上がる木組谷の谷筋の蛇抜けが深くて横断できないので木組峠まで道を離れて蛇抜けに沿って上がらざるを得ない。木組峠附近は比較的平坦な地形なのに蛇抜けが深く切り込んでいて不思議である。木組峠まで上がると平坦で広く、茶碗や甕の欠片が落ちていた。
木組谷の深い蛇抜けの手前(北)50mほどの所でごく薄くなった道の路盤が尾鷲道に斜めに交差しており、左前方に上がると滑らかに木組峠に上がれる。右後方に下がるのは地形図にある木組から上がってきた道だと思うが、先は確認していない。
木組峠の木組谷側の蛇抜けの南側では古い道の跡が錯綜している。木組峠から新木組峠へは再び平坦な横駈けである。蛇抜けは幾つもある。その内これらによってこの道は通れなくなるのかもしれない。その時は尾根線を辿ることになるのだろうか。この辺りでは稜線の東側の方が緩やかな地形なので東側に道を拓くわけにはいかなかったのかと考えてみたりする。木組峠の南の尾根筋には掘り込まれた道型がある。
新木組峠は急峻な尾根上の一地点で、ちょっとここに登り道の峠があったとは考えにくい。明瞭な鞍部なので誤って木組峠の道標が立てられ、木組峠としては地形図の位置と異なるので「新」の文字が書き加えられたのではないかと思うが、この際この標柱は撤去した方がよいのではないかと思う。
その新木組峠から南は東斜面の横駈けとなる。標高1300m強と1297.4mの三角点のピークと二つのコブがあり、これを松浦武四郎の書く中ノ岳とみなす向きがあるようなので、もしかしたら山頂標識があるかと登ってみたい気もしたが一日の後半で多少疲れてきていたので割愛。古い資料に中ノ峠は出てくるが中ノ岳は出てこない。中ノ岳はマブシ岳同様松浦武四郎の新造と思われる。新木組峠から南では道に石積みが見られるようになる。新木組峠より北側では掘られたり搗かれたりしただけの土の道で石積みは見られない。新木組峠から又口辻の尾鷲道の石積は古びてはいるが1915年の尾鷲の土井家の大台教会への尾鷲道の寄進時の新造ではないかと思う。幅はいずれも一間幅で揃えられている。北側の地道は1928年の神武天皇像運搬用に旧来の歩道に並行して新設された木馬道の跡ではないかと考えている。神武天皇像の運搬は上北山の団体が行ったので紀州側の稜線東側に手を入れられず、大和側の西側横手に道を付けたのか。
神明水は涸れていた。この辺りで幕営しようと考えていたが水の当てが外れたので古和谷まで下りることにした。この涸れることのある水場が本当に神明水という立派な名前なのか、疑っている。又口辻は、地形図では又口への道が今でも記載されているが、又口辻のすぐ先でヤブになっていた。尾根上を龍辻の方へ辿る踏み跡・道型が見られた。吉野郡群山記の「龍の高塚」と「龍の辻」の関係が考えてみてもよくわからない。「龍の高塚」は柳ノ谷を廻る山並みの更に南方の、例えば1167mの標高点のコブなどの名であっただろうか。群山記の図では龍辻より高いコブとして龍の高塚が描かれているが・・・。
補記
翌々年の同じ時期に歩いてみたら神明水の標柱のある三角点「西原」からの沢筋より200mほど北方の1300mの計曲線で囲まれたピークの南東面の沢筋の方が苔の具合が良く、明らかに水が多かった。手ごろな岩から落ちているので、神明水より汲みやすかった。だがここも涸れることがあるようだ。また、木組峠から東の光谷側へ3分ほど緩い谷筋を下りると豊富に水が湧いているのを確認した。谷の左岸にこの水場まで弱い踏み跡があった。木組峠の東側への昔の道は地形図と違い、真南のコブに登ってから東へ向きを変える。この昔の「おちうち越」の道を辿ると、栃山林道の終点付近に下りられて、新木組峠・又口辻を経由するより短時間で地蔵峠に出られる。林道終点近くの尾根末端では尾根の西側から林道に下りる。昔の道の地図はマブシ峠地名考参照。
釈迦ヶ岳 孔雀岳 仏生嶽 |
ヒメシャラの 若木の森 |
一本木の標識 |
落ち葉の道 |
一本木の標柱 |
木組峠下の蛇抜け |
蛇抜け横断は多い |
「新木組峠」 |
西斜面に入り |
神明水 |
簡素な橋 |
石積みが多く見られる |
★又口辻〜古和谷林道入口
又口辻から5分も歩かないうちに古和谷栃山分岐。いろいろ書き直されている道標がある。この道標に右の古和谷へは「廃道?」とも書かれているが歩ける。左へ下りる橡山林道の地蔵峠への道も、橡山(栃山)林道が拓かれてからの新しい登山道と言うわけではなく、江戸時代前期にはあった龍の辻から尾鷲へ抜ける龍辻越の一部であった。しばし尾根伝いに緩い下り坂を歩く。一つ小さな登り返しを経て地形図(2011年現在)とは異なり、1053mの標高点の丘の手前の鞍部から右手の斜面に下りる。急傾斜であるがジグが丁寧に切られている。それでもすごい急斜面の道である。又口辻の古い道標に古和谷方面に「胸突き坂」と言う名があったが、ここのことだろう。少しずつ左(西)へと斜面を移動している。950m等高線の尾根の小さな鼻をを通過して西側の沢筋の吐合附近に下りる。沢筋に出る直前には杉の巨木がある。
樹冠が切れて沢筋に出ても古和谷左股の本流までは下りない。丸石のゴロゴロしたところを横切って古和谷左股の左岸トラバースに遷移する。この辺りの杉の植林は若く、枝打ちされていない若木が多いのでザックが枝に掛かりやすく、道も低い枝に隠されて分かりにくい。それでも石段が見られ、それなりに昔は人が歩いたと思われる。古和谷左股の中はやや険悪な様相である。道は少し高いところを通っている。下手に植林小屋の跡の小さな更地を見る。又口辻の古い標識にあった「山賊小屋」の跡で、ここで寝ることにする。翌朝、更に進み、右岸からほぼ同じ大きさの沢と合わさる地点で下降して渡渉、ここから右岸のトロッコ道である。
当初は胸突き坂を下りた所で古和谷左岸の道の続きが見つけられず、古和谷左股の本流に下りてしまった。渡ってみると本流右岸の小さな山崩れの跡にめくれ上がったレールがあった。明瞭なトロッコ道の終点は標高740m右岸であったが、トロッコの路線が標高800m以上まで伸びていたこともあったのだろうか。
トロッコ道はかなり荒れている。桟道が掛けられている所もある。トロッコ道の傾斜はごく緩いが古和谷の沢筋は急速に下降し、遥かな足下となる。滝があるようで、水の音が響いている。アメ止めの滝の上の辺りでトロッコ道から降りて細い山道を急下降して古和谷の沢沿いまで至る。途中に杉の巨木がある。古和谷に下りる胸突き坂下部の杉といい、この杉といい、これだけの巨木なら、何かしら名前があったのではないかという気がするが寡聞にして聞かない。沢筋まで降りると城壁のような高い石積みがあった。トロッコでこの上まで運ばれた木材が一気に標高を落とすインクラインの跡だという。
インクラインの下からはトロッコのレールがよく残っている。トロッコの路盤跡と同じくらいの幅の路盤跡が古和谷沿いに上流に向かってもある。アメ止めの滝へは片道10分ほどこの路盤跡の寄り道で、跡が崩れている所も多い巨岩の古和谷を遡る。アメ止めの滝は二股の左股に戻るような向きで掛かる真っ黒な滝で暗く大きな釜を持ち、高さは20m程と言われる。古和谷左股にトロッコ道が延びる前の尾鷲道はこの黒い淵を吊橋で渡って尾根に取り付いて、古和谷右股源頭の高い黒滝と尾鷲の海を見て土井氏寄進の又口からの尾鷲道に合流していたようである。これより下の林道終点までのトロッコ道も荒れていて桟道もユラユラしたり軋んだり少し怖いものもあるが何とか歩ける。黒い岩に水流が掛かり滑り易そうな岩場にかかる桟道が多い。殆ど傾斜が掛からぬまま林道終点に至る。
栃山古和谷分岐の 標識 又口辻ではない |
最初は 尾根道 |
石積みのある 胸突き坂 |
胸突き坂下部の 杉の巨木 |
古和谷左股上流沿いは ガラガラの岩場の トラバースが多いが 石は積まれている |
トロッコ道に出た 渡渉 |
トロ道は 更に続いた様だ |
荒れている トロ道 |
揺れる 蛇抜けの橋 |
岩場トラバース |
トロ道の 切通し |
落石に耐えた 石積み |
トロ道切替中の 杉巨木 |
インクライン跡 |
レールが残っている |
路盤の無い所は 桟道 |
林道まで あと少し |
林道終点 土場 |
寄り道 アメ止めの滝 |
林道終点から地形図上(2011年現在)の林道終点までは新しいようでガードレールも無く、次の屈曲点は峡谷になっているが、道幅が狭いと言うことは無く危険は無い。地形図上の終点の少し下手では橡山林道への取り付きを見る。ここから下りだす感が強い。杉の植林から照葉樹林となって宿舎の跡のある林道入口まで問題の無い林道であった。鹿が駈け、アオバトが多く飛んでいた。
又口川の対岸から廃棄物処理場の工場の音が響いていた。矢所橋でクチスボダムを見て廃棄物処理の工場の前を過ぎるとゴミ収集車の通行が多く、歩行には相応の注意が必要である。狭間にキュッと入った坂下隧道をくぐり、尾鷲に下りた。旧坂下トンネルから坂場トンネルまでの旧道も歩道としてなら何とか歩ける。旧坂下トンネルの上の旧坂下トンネルが掘られる前の坂下越の旧道を見つけられなかったのが心残りである。
参考文献
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