とよにだけいちのちず
とよにだけのしゃしん
上歌別から

豊似岳(1104.6m)

 日高山脈主稜上最南端の山。山容は扁平な感じだが稜線は日高らしくやせて鋭い。えりも町の街から眺めると衛峰のオキシマップ山が一枚目、その後ろに二枚目に見えることから二枚岳とも呼ばれるのかと思っていたが、一枚・二枚・三枚は東方の庶野の方から数えるらしい。オキシマップ山の見える上歌別側からは全体で三枚岳と呼ぶと言う。明治時代の地図ではトヨニヌプリと言う字があったが、このピークではなく東隣の観音岳に振られていた。

 JR日高本線様似駅から襟裳岬・広尾方面行きのバスに乗り国道336号線が海岸線から離れる歌別バス停下車。ここから追分峠までは4kmほどあり、歩いて一時間強。1日1便のみ追分峠を経由するバスもある。また、追分峠の跨道橋の上の両脇に駐車スペースは十分ある。

 道営肉牛牧場跡(現・えりも町有上歌別牧野)への道はゲートがあり4月時点では閉まっていたが、夏場は開放されていて自動車で登山口まで入れるらしい。冬場は12月1月は雪が少なく、春まで狩猟期間につき立入禁止が設定されていることがある為、えりも町役場に問い合わせた方が良いかもしれない。


とよにだけのちず1
とよにだけのちず2

 追分峠では積雪はなかったが、標高にして100m、台地上に上がると、この数日の雪で牧場は真っ白だった。しかしダートの車道には雪はなかった。道営肉牛牧場跡(現・えりも町有上歌別牧野)を経て、ダートの道を進んで登山口へ。


国道からの入口

肉牛牧場事務所跡
これらの写真は
2008年11月のもの

登山口の看板

 五万図地図上の登山口には立派な新しい登山口標識があった。標識によると山頂まで2時間だそうな。標識は2枚あるが、「豊似岳」「二枚岳」「三枚岳」と三つの山の名で地形図に名のない山も入っており、どの山につながっているのか混乱すると思う。

 すぐ残雪上となるが、標高600m辺りまでは尾根線には残雪が全くないことが多く、しかし踏み跡らしいものも見当たらず。林床はスズタケが疎に生えているだけで、踏み跡はなくとも登れそうな雰囲気だ。尾根の東よりにはまだ、スキーが楽しめるくらいの雪があった。しかし担いで登った方が早いだろう。650mより上では雪堤が発達し、わかん登山に最適な雰囲気。

 900mで雪堤は斜面に吸収されるが、ダケカンバを刈り分けた跡が明瞭である。時々電信柱もあるが、そこそこ風景になじんでいる。970mでまっすぐに上がっていた刈り分けが直角に右に曲がる。それに合わせて右にトラバースすると先に電波反射板が2枚建っているのが見えるが、そのまま斜面を直上した方が早い。短い低木ブッシュを抜けるとすぐに稜線で視界が開け、戦後の進駐米軍の無線中継所跡である小屋の残骸がある1)。電波反射板には保守用の歩道が付き物なので、やはりあまり知られていないが夏道もあるのだろう。

補記
電波反射板は2009年に聞いた所に依ると撤去されたようだ。

 小屋跡は窓が全部抜け落ち、壁もかなり無く、中は屋根裏まで雪が積もっているが非常事態には何とか雨宿りには使えそうな雰囲気だった。そこから稜線の、はじめの屈曲点(1012m標高点)まではダケカンバのブッシュが激しい。しかし背負ったスキーを引っ掛けるほどではない。が、この登山で、この区間だけはスキーが使えなさそうだ。

補記
小屋跡は2009年に見たら完全に潰れていた。


ヤブな区間は短い

小屋跡・・潰れている

小屋の残骸のすぐ上から

 1088m標高点までは、かなり稜線がやせていて日高らしい。稜線が南北なので雪堤が立派で歩行は容易である。急斜面だが雪崩斜面はなかった。小さな雪庇のすぐ下からブッシュがある。

 次の屈曲点(1088m)から豊似岳までは広い尾根で平坦だ。歩き易かったが、夏にどうなっているかは不明である。途中に大岩が一つあった。山頂近辺は下がハイマツなのがわかった。山頂に着くとそのすぐ先のオキシマップJP(1093m)の方が高い気がしてならない。


1012m標高点から
1088m標高点を見上げる

1088m標高点から
振り返る

1088m標高点から
山頂を眺める
1088m標高点の上にも
巨岩がある

 でも、この山は気に入ったのでまた来る可能性が高いので今回はここで引き返すことにした。今度行く時はニ観別岳まで縦走しようと思う。アプローチもオキシマップ山からにしてみたい。

 山頂からは海を切り裂くように伸びる襟裳岬の姿と、楽古岳を中心とする南日高の山々の神々しい姿を望むことが出来た。


山頂まで
あと少し

山頂から見た
襟裳岬

楽古岳を中心とする
南日高の山々

 牧場と山麓には鹿が非常に多くいた。有刺鉄線にも関わらず牧場内にも入っていた。


ここいらのエゾシカは牧草を食べているので
肉質が良いらしい


山頂間近の巨岩
後方は1088m標高点のピーク

ハイマツの山頂から
振り返る

★山名考

 トヨニという音の山は日高山脈に二つあるが、アイヌ語の由来は異なるようである。本頁の豊似岳は「To-o-i 沼・ある・所」で、音韻変化によってトヨイとなり、さらに訛って「トヨニ」になったと思われると、えりも町史2)にあった。アイヌ語は母音の重出を嫌うのでo の前にy が添加されてトヨイとなる3)ようである。トヨイは豊似湖一帯の地名で、トヨイヌプリはTOYOI nupuri[トヨイの・山]と言うことで、日高山脈唯一の自然湖to[沼]である豊似湖(トヨイ4)・カムイトウ5))の畔に聳える山と言うことなのだろう。松浦武四郎は豊似湖の上の山として「トヨイノホリ」、ニカンベツ川の源頭として「トヨイ岳」と安政3年に記録している4)。松浦武四郎は蝦夷日誌6)では沼見峠を「トヨニ」と記した。野作東部日記は沼見峠の指すアイヌ語としてトヨニ(止余仁)を伝え「止余仁ノ止ハ『トウ』ノ略ニテ沼ヲ云 沼ヲ見下ス故ノ名ナリ」と書く。

 峰続きで同じ山塊であるが、松浦武四郎の安政5年の日誌の解読の頭注5)ではトウフチノホリが元のトヨニヌプリで三枚岳から1.5kmほど離れた、三枚岳連山では最も豊似湖に近い現在の観音岳(932m)とする。明治26年の道庁20万図8)では現在の観音岳の位置にトヨニヌプリと振られていた。松浦武四郎は公的な旅行の記録である安政5年の戊午日誌で観音岳をトウフチノホリ・トウフチ山5)と記した。場所がはっきりしないが同日誌でトブチ岳とあるのも同じ山と思われる。また、観音岳に登り、沼見峠の東側から豊似岳などを描いている9)。渡辺隆(2007)は松浦武四郎の東蝦夷日誌でトヨニ岳とトウフチ山が挿図の中で別の山として描かれていることと、戊午日誌で観音岳をトウフチ山としていることから豊似岳をトヨニノポリとする。東蝦夷日誌の挿図で別の山とされていても東蝦夷日誌そのものが興を添えるために脚色が入っているとされているので、これを論拠として用いることが適切なのかどうか多少疑問が残る。秋葉實(2008)は戊午の絵図を含む野帳(手控)の翻刻に当たり、この絵図を「トヨニノポリ眺望図」と名づけ、描かれる現在の豊似岳にトヨニノポリと注を入れている。

 猿留山道の豊似湖の上(南側)に当たる沼見峠をトウフチ峠とも言い、えりも町史ではアイヌ語の「To-huchi 沼の・姥」(尊称)としているが、南側からこの峠を越えるとtoに入るto puci[沼・の口]ではないかと思う。或いは沼から出る出口か。松浦武四郎は戊午日誌の中で「トウフチとは沼端と云義也5)と書いている。観音岳に登った報告の巻名は「登武智志」であり、これは松浦武四郎が文中でカタカナではトウフチと書いていても濁点を省略したもので、伝えたかった音はトウブチであったことを示しているので無かったか。アイヌ語putの所属形をpuciとするのは知里真志保の地名アイヌ語小辞典にあるが、新しいアイヌ語辞典では見かけない。

 戊午日誌より松浦武四郎が観音岳山頂をトウブチ山と捉えていたことは言えるが、トヨニヌプリを豊似岳山頂と捉えていたとまでは言えないような気がする。近代山岳観の成立前であり、観音岳への登頂を禁忌としていた5)、松浦武四郎に教えたアイヌの人達はトヨニノポリの名をピーク名ではなく山塊名と捉えていたのではないかと思う。明治29年の北海道仮製五万図幌泉図幅では三枚岳連山の西側のニカンベツ川上流左岸尾根上に「トシオロヌプリ」と言う山名が振られているが、その位置は特にピークとも言えないような尾根上のコブに過ぎない。これはTOPUCI or o nupuri[トプチ・の所・にある・山]で、アイヌの人達の間では三枚岳連山の山塊名としての「トウブチの所の山」であり、下流側から見てニカンベツ川の水源近くの右寄りがトウブチの所の山と測量の人に言いたかっただけで、測量の人に聞かれた際に音が、地図作成に於いて位置が違って書かれたものではないかと思う。観音岳に接していないニカンベツ川の側からもTOPUCIらしき記録があると言うことは、トウブチ山もトヨニノポリも共に三枚岳連山の山塊名であって、観音岳や豊似岳のピークと言う狭い地点を指していたのではなかったのではないかと思われる。

 現代ではピーク毎に山名を振ることは普通になっている。松浦武四郎が観音岳をトウブチ山としたり、道庁20万図で観音岳にトヨニヌプリと振られたのはその先駆けであろうが、その頃の常民であるアイヌの人達までがそう考えていたわけでは無かったのではないか。

 一方、北のトヨニ岳は豊似川の源流であることから付けられた名前であろう。豊似川を山田秀三(1984)は「toi-o-i 土・ある・もの(処、川)」で「toi-un-i 土・ある・処」とも呼ばれていたかも知れないとし、トイは食土か川水が泥水になる只の土かと東蝦夷日誌を引用している。豊似岳の名の由来を、豊似川・トヨニ岳の山田説と同じtoy o -iなどとしているものもあるが、異なる伝承と異なる地形がある以上、名は同じでも異なる意味の場合もありうると考えるべきではなかろうか。豊似岳の山名は、確認されていない食土に因むと考えるより、えりも町史の顕著なランドマークである豊似湖に基づくと考える方が妥当である。

 松浦武四郎は「興を添え」フィクションが入ると言われている東蝦夷日誌16)では、トヨニノポリ眺望図を元にしたと思われる挿絵と地図で豊似岳と思しき山を「シトマヘツ岳」としている。本文では方角が異なるものの観音岳の山頂から眺望を遮る存在として「シトマベツ岳」の名を挙げている。シトマベツは現在のシトマン川と思われる。その支流の一つであるガロウ川は豊似岳の衛峰の二枚岳・三枚岳に水源を持つ。シトマベツというアイヌ語はsitu oma pet[山の走り根・にある・川]で、河口付近の庶野の裏の細い尾根のそばの川であることを指していると思われるが、松浦武四郎はシトマヘツの意味を「雪風厳敷して歩行にくきこと4)」と聞き取っており、東蝦夷日誌にも同様のことを記しているので、その険しいニュアンスを、一般向け紀行文で旅情を楽しませる意図もあったと思われる東蝦夷日誌の中で山の名として書いて活かそうとしたのではないかと思う。

参考文献
1)えりも町役場,増補えりも町史,えりも町役場,2001.
2)扇谷昌康,第一編 先史時代,えりも町史,渡辺茂,えりも町,1971.
3)知里真志保,アイヌ語入門,北海道出版企画センター,2004.
4)松浦武四郎,高倉新一郎,竹四郎廻浦日記 下,北海道出版企画センター,1978.
5)松浦武四郎,秋葉實,戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌 下,北海道出版企画センター,1985.
6)松浦武四郎,秋葉實,校訂 蝦夷日誌 一編,北海道出版企画センター,1999.
7)榊原_蔵・市川十郎,野作東部日記,北海道立図書館北方資料室蔵北海道総務部行政資料室所蔵写本複写版.
8)北海道庁地理課,北海道実測切図「襟裳」図幅,北海道庁,1893.
9)松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集6 午手控2,北海道出版企画センター,2008.
10)渡辺隆,江戸明治の百名山を行く ―登山の先駆者 松浦武四郎―(北方新書8),北海道出版企画センター,2007.
11)知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1992.
12)田村すず子,アイヌ語沙流方言辞典,草風館,1996.
13)陸地測量部,北海道仮製五万分一地形図「幌泉」図幅,陸地測量部,1896.
14)山田秀三,北海道の地名,北海道新聞社,1984.
15)松浦武四郎,東蝦夷日誌 6編,多気志楼,1873.


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(2002年1月11日上梓 6月27日修正 2008年10月25日山名考 2009年3月26日再登写真挿入)