トヨニ岳南峰 4月 野塚岳から |
トヨニ岳は国道236号線通称天馬街道のやや北に位置する日高山脈主脈上の一峰である。天馬街道でマイカーのアプローチは抜群に良いが、平野からは目立たず、天馬街道の山間からもあまり見えない。日高山脈主稜線の南側から見た山の姿は屏風を開いたような二枚斜面の迫力あるものだ。南峰を中心として鼎形に支峰と北峰をめぐらせ、特徴のある形をしている。また、日高山脈最南のトッタベツ期カールのある山である。
水量は平水よりほんの少し多めでないかと言う気がした。右股は全体を3つに分けると、下部は小さな函や滝が出てくるがいずれも簡単で岩が白いこともあってきれいである。
豊似川右股F1 魚止めの滝 |
国道の二股橋から左岸林道を1kmほど車で入れて駐車スペースがある。荒れた林道を更に700mほど行って沢に降りる。標高520m付近の大きな釜を持った魚止の滝から沢登りが始まる。その上流では川岸のあちこちから岩清水が流れ出して、良い雰囲気だ。
1000m二股までは滝を巻くのが難しくなってくる。滝の落ち口をすり抜けて登るような所もあって、下りは覚えている登った日の内が楽なのかもしれない。滝はあるが滝と滝の間はわりと平坦で広く、湿っているけれど幕営できそうな高台もある。ヌビナイ右股ほど長くて高いトラバースはないものの、難易度は気持ち上だと思われる。滝はとても多くてはじめはきちんと記録をつけていたが、1000m二股の近づく頃には食傷気味で後半は見直してもよく思い出せない。800m二股の左は滝である。いずれの滝も巻いても沢身に戻るのは容易である。
1040mは二股で、同じ岩盤上にほぼ同じ水量の30-40mの滝となっている。そして滝の体をしていないが、真ん中に細い流れがある。左が北峰直登沢なのだが、左は急なナメ滝で登れなかった。右は急なルンゼ状で試さず。下から見ると真ん中の細い流れのまわりがボコボコしているので取り付いてみるとボコボコはほとんど逆層で、難儀して右の沢に追いやられた。
その上は笹ブッシュだが急斜面で渓流足袋ではトラバースも出来ないので、しばらく右を上がって、斜面が少し緩くなった所で左に水平移動した。どう越えるのが楽だったのだろうか。
この滝が嫌なので、次行く時は800m二股か、1000m二股で左に入って稜線に上がりたい。あとはルンゼ状のところを上がる。ルンゼ状でも横から下りられるところに出ることが出来た。下りてしまえば、逆層気味でチョックストーンもあったりするが、それほど問題ない。
水は1450m辺りまであった。 詰めは山頂までダケカンバと根曲がりブッシュ。ヤブ漕ぎ40分、山頂の5mほど東に出た。後から「山と谷」を読み直すと左寄りに漕いでいった方が楽だったようだ。ハイマツは山頂間近まで殆ど無い。
豊似川右股で現れる滝々、余裕のあった下の方しか写真がない |
北峰と南峰の間の日高山脈主稜線の釣り尾根の踏み跡ははっきりしている。 カムエクの北側やペテガリの北側の方が不明瞭だ。また、北峰の北側、南峰の南側にも踏み跡が続いているのを見た。鹿の糞が多かった。大体、尾根の西側を歩くので豊似川源頭の様子は見づらい。釣り尾根の西側は殆ど草原で、東側は笹の部分が多くて豊似川右股からヤブ漕ぎせずに上がるには800m二股を左に入って南峰カールの岩礫斜面に出、その東寄りを登るのが良さそうだ。1000m二股を左に入った場合の源頭はネマガリタケの斜面で傾斜は緩いが登るのは大変そうだ。
北方 ピリカヌプリ |
南峰から北峰を望む |
トヨニ岳南峰の トッタベツ期最南カール |
★南峰から豊似川左股下降
左股は谷底がU字型で上の方は草原、下がって標高900m辺りまでガレで落石はありそうだが滝はない。狭い谷筋で両岸が切り立ち、真新しい巨石の落下跡も沢山あって恐ろしいが、明るく、美しく、夏のスイスの雰囲気を思わせる。下り始めは南峰の東の少し下がった所から根曲がりを分けていく踏み跡があり、角度はきついものの殆ど登山道状。途中、図の「最上二股」は上に仰いで右の方が大きく、右のすぐ上でナメ滝が見えているが、水のない少し高くなっている左の谷に入ると直接南峰に出る。
900mから700mにかけて滝が連続する。「山と谷」では「滝は3つのみ」 などとあるが、残置ハーケンのあるのは三つだけであっても、その間にも美しい滝が幾つかあった。「山と谷」の3つの「滝」のうちF1は巻き道が出来ているが、人によっては下りる時にお助け紐が必要かもしれない。F2はラッペル。登りでは必要なさそうだ、もしくは左岸を巻ける、と思っていたが後から登ってみた人によると、越えられなかったという。F3もラッペル。ロープなしでも下りられたのだがシャワークライムダウン。登りでもシャワーを浴びる。F2とF3は滑り台状で下の傾斜が緩く、大きな釜を持っている。F3とF2の間に大きなチョックストンがあって下りる分には問題ないが、これを簡単に越えられるのかどうかわからない。
左股の滝場の下は美しい河原だ。湧き水に憩う稚魚の群れ、樹々の下のナメ床、連続はしてなくても緑の釜、岩の模様、深い苔・・・ここほどに気持ちよい河原と河畔林歩きはそうないと思う。
この沢は「山と谷」のグレードで「!」であるが、「!」の中ではかなり上の方と言うか、「!*」を通り越して「!!」では無いかと言う気がする。また、「上部は泥壁」云々とあるが、石が敷き詰められたようになっていて「泥壁登り」と言う感じではなかった。詰めの谷筋によって違いがあるのか。上二股で野塚トンネルの沢に入ってトンネル北口のすぐ横に上がった。この沢も河原歩きだが、豊似川左股に比べると薄暗い印象であった。
★トヨニ岳南峰東南東尾根(残雪期)
積雪期のトヨニ岳の登路は「北海道の山と谷」に3本示されているが、残雪期なら南峰の東南東尾根が最短コースとして使えるのではないかと考え、行ってみた(地図の緑の点線)。
国道から尾根取り付きまで何度か渡渉があるが、春先の晴天の午後でも水量は少なく登山靴にワカンで渡れた。河原は広かった。尾根にヤブや雪庇はなく、急だが広い尾根である。途中の屈曲点(1251m標高点)に目立つダケカンバの大木があり、その根元にデポを見た。
★野塚岳からの縦走(残雪期)
野塚岳から1268のやや北までは広い尾根だ。1268の下りはやせたコブが3つほどある。下り切ったコルにヒグマが峠越えした足跡があった。どこを目的に峠越えしたのか分からないが、冬眠明けだと言うのに斯くも高山までよく登るものだと思った。
次のピーク(野塚トンネル北口真西の尾根の頭)は「マルイチの頭」と呼ばれているようだ。「北海道の山と谷」で積雪期のルートとして1番目に挙げられている事に由来しているらしい。
1251の北の鞍部は吹き通しになっていて積雪がなかった。1322の北側はナイフエッジになっていた。
トヨニ岳の「トヨニ」は、豊似川の水源の山の意であると思われる。豊似川の用字と音は日高山脈南端の豊似岳と同じだが、アイヌ語の元の言葉は異なるようである。
豊似川の豊似について、山田秀三(1984)は「toi-o-i 土・ある・もの(処、川)」或いは「toi-un-i 土・ある・処」の意としている。松浦武四郎の東蝦夷日誌の「トイヲイの略。食土有る儀か(地名解)。又泥水ばかり出る川故とも云り」を引用して解説しているが、食土のことか只の土のことかについては判断していない。一方、豊似岳のトヨニの音は、えりも町史(1971)が To-o-i[沼・ある・所]としている。
土屋茂(1986)は旧記にトヨニが見られず、帯広市の以平(いたいら)が、かつて似平(いたいら)と書かれた事から、豊似と書いてもトヨイと読んだのかもしれないとしている。豊似川流域には「上トヨイ」と「下トヨイ」の地区が豊似地区とは別にある。
また、土屋茂(1994)によると、「国道(336号線と思われる)の豊似川のたもと」に珪藻土らしい土があるらしいという。しかし、それが食べられるものかどうかの伝承は無かったようである。
一原有徳(1960)はトヨニ岳の南のコブとして、トヨイ岳(1220m)を挙げているが、トヨニ岳と紛らわしい名を付けて呼ぶほどのピークとは思えない。トヨニ岳のことを「トヨイ岳」と呼ぶ人が居たということではなかったのかと考えてみる。或いは昔は三角点が設置されていて、その三角点の名が「トヨイ岳」であったものか(三角点の名は漢字で付けられたことが多いようである。「豊居岳」もどこかで見たような気がするが思い出せない。)。明治8(1875)年頃の日本地誌提要には豊居(トヨ井)川水源の山として「豊居山」が挙げられている(明治7年の北海道地誌要領が豊居山の出典として先行していると思われるが未見)。
豊似川のようなほどほどに大きな川の名が食土に因むというのはどうも疑わしいような気がする。泥水ばかり出るというのも普段が清冽な流れなら、たまに泥水が出ることがあっても土がある川とは言わないような気がする。個人的な印象だが豊似川が泥川だったと言う記憶はない。航空写真(国土地理院)や衛星写真(GoogleEarth)で改めて見ても下流まで清冽な川である様子が見て取れる。
松浦武四郎は安政3年に豊似川についてトヨイとし、「山越ウラカワ領なるホロヘツの源ホロハラコツフに当る也」と記している。ホロハラコツフが日高幌別川筋のどこだかはっきりしないが、安政5年には日高幌別川支流メナシュンベツ川沿いにホロコツを記しているので、或いはその辺りかと思われる。但し、明治時代の地図や現行地形図と地名の登場順序が異なっており、上杵臼の辺りとは思われるのだが場所が特定できない。また、現在のメナシュンベツ川であるメナシベツ水源について「右のかたえ入るはラツコのうしろに当り、また左りの方え入るはヘロキナイのヤロマフに当るとかや」と記している。右の方が楽古川の方に向かっているのはすぐに頷首しうるが、ヤロマフ(ヤオロマップ川)は相当北なので間接的にでも行くのは川筋を乗り換えるなど多少面倒なように思われる。日高幌別川本流からトヨニ岳南峰に上がって北峰からヌビナイ川へ下るルートもそれほど難しくないようなので疑問は残るが、歴舟川の方ヘ向かうのにも使えると言うことであったか。
豊似川から野塚トンネルのある野塚平・野塚岳に上がるのは簡単と聞いている。野塚岳からニオベツ川、ニオベツ川から野塚岳も難しくない。日高山脈を横断するには最も容易なルートの一つと思われる。アイヌの人が道として使っていたことを示す資料は見ていないが、豊似川の名は ru y o -i[道・(挿入音)・ある・もの(川)]、又、ru y un -i[道・(挿入音)・ついている・もの(川)]の転訛でなかったかと考える。アイヌ語の r の音は破裂の強い d のように発音する人も多いといい、d と捉えられれば、d と t をアイヌ語では区別しないので t に訛ることがありうる。ニオベツ川の名も、上二股で上流の方向が90度と開いて分かれてトヨニ川方面と楽古川方面に分かれる ru-aw o pet[道の股・ある・川]の転訛ではなかったかと考えてみる。豊似川中流域の函になっている部分については、両岸の上に広がる平坦地の樹林の下の鹿道を発展させて道としていたと考える。
参考文献
五百澤智也,山と氷河の図譜,ナカニシヤ出版,2007.
北海道の山と谷再刊委員会,北海道の山と谷 下,北海道撮影社,1999.
山田秀三,北海道の地名,北海道新聞社,1984.
扇谷昌康,先史時代,えりも町史,渡辺茂,えりも町,1971.
土屋茂,アイヌ語の地名から見た広尾町の歴史と風景,土屋茂,1994.
一原有徳,北海道の山(アルパイン・ガイド11),山と渓谷社,1960.
内務省地理局編纂物刊行会,内務省地理局編纂善本叢書4 日本地誌提要 第1巻( 明治前期地誌資料),ゆまに書房,1985.
松浦武四郎,高倉新一郎,竹四郎廻浦日記 下,北海道出版企画センター,1978.
松浦武四郎,秋葉實,戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌 下,北海道出版企画センター,1985.
田村すず子,アイヌ語,言語学大辞典 第1巻,亀井孝・河野六郎・千野栄一,三省堂,1988.
トップページへ |
資料室へ |