猿留山道位置の地図
猿留山道の地図
猿留山道 その1
さるるさんどう ほろいずみ〜さるる

 黄金道路の海岸線が荒れた時の交通路として江戸幕府によって最上徳内らをして寛政11(1799)年に拓かれた。同じ頃に拓かれた他の道と比べて、東蝦夷中第一の難道と言われたのがその距離の長大さにあったことを実感する。急峻さだけなら様似山道の方が険しいと思う。その辺りの歴史はこちらが詳しい。まもなく黄金道路も殆どトンネルとなり、どんなに海が荒れても猿留山道に実務的な用はないのかもしれない。近年では流行のフットパスとして整備が進められているようだ。


★歌別〜追分峠〜沼見峠
参考時間・・・歌別-1:15-追分峠-0:30-肉牛牧場事務所跡-1:45-ガロウ川渡渉-0:40-342m標高点分岐-0:40-沼見峠

 歌別から追分峠までの国道区間(336号線)はアスファルトだが、風で生長が良くないもののクロマツの並木があったりして、街道として整えられたのだろうなと感じた(えりも砂漠が話題になった頃に植えられたのかもしれないけれど)。上歌別までの国道沿いにあった、小さいながらも歴史と風格を感じさせる馬頭観世音堂も現在の集落と離れた位置だけに、何か猿留山道と関連があったのかもしれないと想像は膨らむ。モセウシナイの小沢とは700mほど離れていたが、或いはまだ詳しい場所のよく分かっていないらしいモセウシナイ小休所と関係があるのだろうか。上歌別の沿道の民家は箕甲と起破風の昔ながらの意匠を残す家屋があり、開拓で開かれた地区とは言っても歴史を感じさせる。


馬頭観世音堂

黒松の並木

三枚岳連山

追分山道の名はあまり
聞かない・・明治16年開通

 追分峠からは旧道営肉牛牧場跡(現・えりも町有上歌別牧野)へ入る車道ではなく、九十九折になっている現道の西側の旧道を歩いた。現道には途中に有刺鉄線のゲートがある。旧道は追分峠からすぐのところが採石場のようになっていて車は通れず、上に続く道に3m以上の土壁の段差があるが、土壁には鹿道がついていた。台地に上がり現道と合流すると豊似岳が見える。道営肉牛牧場の事務所跡は一部の屋根が飛んでなくなっていた。中は書類などが散乱していた。


国道から離れる

追分峠上の旧道

台地の上に上がる

 直進して豊似岳登山口の前を素通りし、等高線に沿って牧場の北の脇を歩く。道には鹿を解体した跡の血が染み付いた場所がみられた。この標高は崖垂の末端になっていて岩礫帯で沢を渡るところは湧水状になっていることが多い。肉牛牧場跡東端付近でチェーンが張られ車道は一旦終る。道の跡はチェーンの先に続いているがネマガリタケが茂っていた。しかし少しこのネマガリタケを漕ぐと再び車道が地図どおりに現れる。アアツ川の源頭に当たり、襟裳岬の展望が良い。眺望は良いが、水が得られないので遠く(シトマン川)から汲んでいたと伝えられる1)アフツ(アフチ)小休所はこの辺りにあったのだろうか。


道の様子

追分峠付近の地図(旧道)

広々とした景色が
広がる

アフツ小休付近所
地図

推定アフツ小休所付近から
襟裳岬を望む

フットパスだが
あまり自然を感じさせない
皆伐地もある

道の山側は岩礫帯

アフチ小休所?
車道にゲートと
少しだけ藪

樹林帯に入る

 この先、両側が樹林になって、地形図にない林道の分岐などがあるが目印等は少ない。下り始めると林道とは別にある江戸時代以来の路盤を歩く部分が現れるが、少し分かりにくい。昔の路盤がジグを切る林道を串刺しにしている部分では昔の路盤を見つけられずに林道を歩いてしまった。ガロウ川の支流(ペンケシトマベツ)、ガロウ川(シトマベツ)1)とも、飛び石で登山靴で渡れたが、夏に通った知り合いによるとガロウ川では靴に水が入る深さがあったと言う。このあたりは目印赤テープと地形図にない林道が錯綜していて分かりにくい。


笹に覆われた旧道

針葉樹下はきれい

でも薄暗い

ガロウ川渡渉点付近の地図

鹿は使っている
整備事業に
感謝

ペンケシトマベツ
(ガロウ川支流)
渡渉点

シトマベツ
(ガロウ川)
渡渉点

林道と
平行している
部分もある

 ガロウ川の左岸の登りで目印テープを慎重に探し、旧路盤を外したつもりはなかったが、帰宅してトラックログを地形図と重ねると、地形図記載の点線とは少し異なる部分を歩いていた。しばらく平坦な二次林や植林の中を歩き、342m標高点への分岐から道がはっきりしてくる。342m標高点には駐車スペースがあり、ホーストレッキング入口の看板もあった。ここより北側から沼見峠にかけては猿留山道でもハイライトなので利用者も多いのだろう。このあたりで、一度道を見失い、東側に平行する林道に逃げたりした。急な斜面をトラバースする道となり、手前に湧水のある沢(パンケシトマベツ;牧場の川源流)を渡り、緩やかに登って豊似湖の見える沼見峠に着いた。豊似湖はまだ凍っていなかった。沼見峠付近の雪の上にツェルトを張って幕営。風が非常に強かった。沼見峠はトウブチ峠とも言ったようだ。


大木もある

急斜面トラバースの道
沼見峠は近い

342m標高点
ホーストレッキングの
標識

 「ガロウ川」と「牧場の川」は河口付近で合流してシトマン川となる。シトマン川を松浦武四郎はシトマベツと記し、その意味は雪風厳しくて歩きにくい1)とか恐ろしい2)と言うことと聞き取っているが、牧場の川が庶野の裏山・丸山のある尾根の裏に沿って1kmに渡って海岸線に平行していることを指している、アイヌ語の situ[山の走り根]に oma[に入っている/にある]である situ oma pet[山の走り根・にある・川]ではないかと思う。アイヌ語の旧記では異種の母音が隣り合うと前の母音が追い出されることがあるのでカタカナで書いてシトマヘツともなる。sitoma に「恐れる」の意味はあるが2項動詞であり、sitoma pet ではアイヌ語の名詞句として文法的に破綻する。が、situ oma の目的語としてとる場所なのかどうかがよく分からない。

 竹四郎廻浦日記の中で武四郎は北からパンケシトマヘツ・シトマヘツ・ペンケシトマヘツと三川を渡っている。猿留山道を歩いていて渡るシトマン川の支流は牧場の川とガロウ川の二つとガロウ川支流の小さな流れであるが、登場順序からガロウ川支流がペンケシトマベツかと推測してもこの川だけ特別に小さいので何か記録ミスがあったのではないかなと言う印象を受ける。パンケシトマベツが牧場の川で、ペンケシトマベツがガロウ川でないかなと思う。

 沼見峠には石祠と石碑が並んでいる。石祠は妙見様で、石碑は馬頭観音、どちらも江戸時代よりあるものだ。安政年間の寄進であることが彫られていた。


★沼見峠〜カルシコタン〜目黒
参考時間・・・沼見峠-1:30-カルシコタン-1:20-目黒

 翌朝は沼見峠から観音岳と東側の520m峰を往復してから目黒へ下山。520m峰からは観音岳が形良く見えるが豊似湖の展望は峠と大して変わらない。道は殆ど稜線上に付いているが、コブは巻かれており、無駄な上り下りはない。路盤は沼見峠南側より細いことが多い。途中、豊似湖へ降りる道を分けて尾根が猿留川へ突き当たる前の最後のコブの前から東側のワラビタイ川へ下りる。稜線も後半まで下がると稜線の少し下(東側)には林道が平行している。ワラビタイ川へ下りる小尾根上の猿留山道の路盤はガロウ川付近同様、不明瞭だ。一部は林道によって破壊されているようだ。林道のすぐ上を平行する部分もある。小尾根の下半分では林道から離れて植林の中の細道となりジグを切って標高を下げ、ロープが垂らしてある尾根取り付きで小沢に下りる。この尾根取り付きは不明瞭で分かりにくい。


妙見様と
馬頭観音

豊似湖(馬蹄湖)と
日高連峰南部

道の様子
上の方

横から見ると
ハート型に見えない
峠の北側の道の様子

ワラビタイ
尾根取付き付近の地図

 小沢に沿って下り、ワラビタイ川を飛び石で渡渉して林道に下りる。林道から小沢を振り返ってもここが猿留山道の旧道入口とはとても思えない。林道はもはや江戸時代の猿留山道の路盤ではないが、大正時代には猿留山道(車道)として使われていた道だ。江戸時代の猿留山道(このページの内容)の東側の尾根には道もないのに現行の地形図で水準点だけが地形図に記載されているが、これが大正時代の猿留山道の跡だ。こちらもいずれ歩いてみたい。猿留山道は時代によって様々なルートに付け替えられており、目黒から直接咲梅川流域へ下る時代もあった。ワラビタイ川に下り着いた所にカルシコタン小休処があったとようだが痕跡は分からない。カルシコタンは karus kotan[きのこ・コタン]で、昔、和人が椎茸を作ったと伝えられるが本当かな?と思う。山越えの道の取り付きのロープが垂らしてあった急斜面の所の小川ということの〔rik-ru us kut〕or[高い所の道・ついている・崖・の所(川)]の転がカルシコタンでないかと思う。


尾根取り付き

ワラビタイ川渡渉点

尾根上から見えた
形のよい山

 林道はカチカチに凍っていた。猿留山道橋を渡り、目黒まで歩いた。目黒は元々、猿留(サルル)と呼ばれていたが、昭和になってから江戸時代末期にこの地に永住した福島屋番人・目黒源吉にちなみ改名されたという。目黒で「目黒さん」の表札を幾つか見かけた。

 黄金道路には他にも「山道」がある。猿留山道の前年に拓かれたルベシベツ山道(ルベシベツ−ビタタヌンケ)は江戸幕府によるものではなく嵐で足止めを食らった近藤重蔵と地元の商人やアイヌの人々によって作られたが、これが猿留山道や様似山道を開くきっかけとなった。現行の地形図の目黒−ビタタヌンケ間の点線で描かれる道も猿留山道の一部らしい。

参考文献
1)松浦武四郎,高倉新一郎,竹四郎廻浦日記 下,北海道出版企画センター,1978.
2)松浦武四郎,秋葉實,戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌 下,北海道出版企画センター,1985.
3)渡辺茂,えりも町史,えりも町,1971.
4)えりも町郷土資料館,猿留山道(えりも町ふるさと再発見シリーズ3),猿留山道復元ボランティア実行委員会,2003.
5)北海道道路史調査会,北海道道路史 路線史編,北海道道路史調査会,1990.
6)知里真志保,アイヌ語入門,北海道出版企画センター,2004.



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(2008年12月6日上梓 2017年6月14日URL変更)