かんのんだけのいちのちず

520mピークより

観音岳(932m)

 猿留山道の脇に聳える豊似岳の衛峰。彼の松浦武四郎も江戸時代に登った。その記録は脚色の入るとされる一般向けの東蝦夷日誌だけではなく、幕府に提出するべく書かれた報告書にも記された。当時の名はトヨニヌプリ又はトプチヌプリだった。山腹には陸路と海路の安全を祈る奥山半僧坊が祀られている。

 沼見峠までは、北側から至る場合は豊似湖(馬蹄湖)の駐車場が最寄となる。南側から至る場合は林道の342m標高点まで車が入る。北側からの場合、駐車場から豊似湖の脇を歩き、ハート型の凹んだ部分から稜線に上がり、猿留山道を辿って沼見峠に至る。342m標高点からははっきりした歩道(猿留山道)を約50分で沼見峠に至る。


 沼見峠から忠実に稜線を辿った。下半分には藪の濃い部分もあったが、後半はスッキリした尾根だ。はじめは薄い藪だが、中間(標高680m付近)までの後半は二重山稜状になりネマガリタケの藪が濃い。680mはスズタケの草原状で奥山半僧坊なるお地蔵さんのような石像を納める石祠があった。石祠の屋根は取れてしまっていた。こちら(地図がガイドチームチロロさんの頁)によると猿留山道と黄金道路沿岸の海路の安全を祈るものとのこと。お参りして続けて登った。 ここまでこちら(日高三股駅長さんの頁)のページのトラックログでは沼見峠から東尾根の北面をトラバースして、真北から奥山半僧坊(680m)付近へ上がっているように見えるが、このような夏道があるのだろうか。奥山半僧坊から先、藪は薄く、830mが小さな岩場になっているが問題なく上がれ、しばらく尾根が平坦だが海の景色が広がり最後に一登りで山頂に着く。山頂からの展望はすこぶる良い。強風だったが空は青く、南日高十勝岳までよく見えた。豊似岳の稜線が天上の回廊といった風情だ。ピンネシリ二観別岳もよく分かる。下山は30分。 沼見峠から東側の520mの丘も登って観音岳の写真を撮って(あまり豊似湖の風景は変わらない)、沼見峠から目黒へ下山した。520mピークへは沼見峠から踏み跡がある。風の強いところで雪がつかず吹きさらしの箇所があった。


二重山稜的部分から振り返る
猿留山道が見える

680m(奥山半僧坊)から
山頂を望む

830mから山頂を望む
観音岳の地図

豊似岳 まるで天空の回廊

奥山半僧坊

二観別岳

十勝岳・楽古岳

★山名考

 冒頭に述べた通り、観音岳は江戸時代・明治時代の地図などではトヨニヌプリ・トヨイヌプリ・トヨニ岳・トブチ岳・トウフチ山・トウフチノホリ等と呼ばれた。松浦武四郎は安政3(1856)年の猿留山道・沼見峠を歩いた竹四郎廻浦日記では、沼の「上の山をトヨイノホリと云」うと記している。猿留山道の沼見峠付近から現豊似岳を望むことは出来ないので観音岳のことかとも思われる。翌々年の安政5(1858)年の戊午東西蝦夷山川地理取調日誌ではトブチ岳・トウフチ山・トウフチノホリと記している。明治時代の道庁20万図では現在の観音岳がトヨニヌプリであり、昭和60(1985)年翻刻の戊午日誌の頭注は現観音岳をトヨイヌプリとするが、渡辺(2007)は松浦武四郎が東蝦夷日誌の挿図の中でトヨニ岳とトウフチ山を二つの山として別に書いていることと、戊午日誌の記録から現観音岳はトウフチノホリであり、現豊似岳がトヨニノポリであるとする。

 秋葉(2008)は、松浦武四郎の野帳(手控)の翻刻に当たり、沼見峠の東側の小山からのスケッチに「トヨニノポリ眺望図」と名づけ、現豊似岳と思しき山にトヨニノポリと訳注を入れている。戊午の日誌の観音岳登山の巻の名が「登武智志」であるので、戊午の時点で松浦武四郎は現観音岳の名としてトウブチ山・トウブチノポリという音のつもりでトウフチ山・トウフチノホリと書いたと考えたい。トウフチはアイヌ語のトプチto puci(<put-i)[沼・の口]で、南側から豊似湖に入る沼見峠を指していたのではないかと思われる。豊似岳のトヨニは古いトヨイという記録から渡り音の入ったto y o -i[沼・(挿入音)・にある・所]で豊似湖一帯を漠然と指した地名であると思われる。トウフチとトヨニ・トヨイの指している場所と意味はそれほど変わらない。また、松浦武四郎は弘化2(1845)年の初航蝦夷日誌では、沼見峠をトヨニと記している。

 明治29(1896)年の北海道仮製五万図では現豊似岳の西側のニカンベツ川上流にトシオロヌプリと山名が振られているが、これも似た意味の〔to puci(<put-i)〕 or o nupuri[沼・の口・の所・にある・山]ではないかと思う。トヨニノホリ・トヨイノホリ・トウフチノホリは松浦武四郎に教えたアイヌの人としては、いずれも三枚岳連山を山塊として呼んだもので、ピーク名として捉えていなかったのではないかと思われる。アイヌ語のputの所属形の一つに、知里真志保の地名アイヌ語小辞典はpuciをあげているが、新しいアイヌ語辞典ではputuのみのようである。

 文化5(1808)年に猿留山道を通った高屋養庵がアイヌの人に聞いた「カムイノボリ」も観音岳付近を指しているように思われる。アイヌ語のkamuy nupuriである。観音岳に限られるのか、豊似岳まで含めた山塊としてなのかは判然としない。

 沼見峠には石祠と石碑が並んでいる。石祠は妙見様で石碑は馬頭観音である。どちらも幕末よりある。観音岳の名は、ここの馬頭観音によるのだろうか。奥山半僧坊大権現が観世音菩薩の化身と言う説ならば奥山半僧坊大権現が祀られることもまた観音岳の名の由来であろうか。


★猿留山道の地図

猿留山道の地図1猿留山道の地図2
猿留山道の地図3猿留山道の地図4

参考文献
1)松浦武四郎,高倉新一郎,竹四郎廻浦日記 下,北海道出版企画センター,1978.
2)松浦武四郎,秋葉實,戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌 下,北海道出版企画センター,1985.
3)北海道庁地理課,北海道実測切図「襟裳」図幅,北海道庁,1893.
4)渡辺隆,江戸明治の百名山を行く ―登山の先駆者 松浦武四郎―(北方新書8),北海道出版企画センター,2007.
5)松浦武四郎,東蝦夷日誌 6編,多気志楼,1873.
7)松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集6 午手控2,北海道出版企画センター,2008.
8)知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1992.
9)田村すず子,アイヌ語沙流方言辞典,草風館,1996.
10)松浦武四郎,吉田武三,三航蝦夷日誌 上,吉川弘文館,1970.
11)陸地測量部,北海道仮製五万分一図「幌泉」図幅,陸地測量部,1896.
12)高屋養庵,高柳義男,高屋養庵による仙台藩クナシリ島警護記録,高柳義男,1987.
13)えりも町郷土資料館,猿留山道(えりも町ふるさと再発見シリーズ3),猿留山道復元ボランティア実行委員会,2003.



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(2008年12月6日上梓)