日高山脈主稜線上のピークであるものの、上記の山名は地形図にはない。中札内村の日高山脈山岳センターの展示物に幕別町の画家・故土井博詞氏の調べあげた日高山脈山系詳図があり、これに記されていたニカンベツ川の源流に位置する山々である。1005.7mの三角点が二観別岳で、その西の1009mピークが本二観別岳とのことだ。ニカンベツ岳の名は江戸時代の絵図にもあった。
2007年までは幕別町明野に土井氏の作品を展示したギャラリー土井博詞館が開設されていたが現在(2008年)は閉鎖されている。当面再開の見込みはないとのこと。
★仁寒別林道
上近浦バス停付近からは本二観別岳と二観別岳を見通すことは出来ない。ニカンベツ川沿いの林道はバス停からニカンベツ川寄りの少し西の人家の集まりの脇から内陸に入り、昆布干し場の奥から林道となる。名前は「仁寒別林道」と札が出ていた。
折り畳み自転車で、えりも町上近浦のバス停からニカンベツ林道に入った。ニカンベツ林道は非常に整備の行き届いた林道でサイクリングが快適だった。周囲の森がちょっと北海道離れした広葉樹林で湿原が樹林の下に広がっていたりする。
仁寒別林道の様子 |
ニカンベツ川の流れ |
樹林の下の流れ 魚がいた |
林道入口の札 |
林道沿いに清流が湧く |
橄欖岩地帯 |
ポンニカンベツ川とニカンベツ川の合流点付近にゲートと入山届箱があった。その先の観楓橋でニカンベツ川を渡り、T字路になっているので右に入り更に奥へ進むと、標高150mから300mにかけて橄欖岩のニカンベツ岩体を横断する。道は崖に作られ、細かいカーブがあるが川や周囲の森の様子は橄欖岩地帯特有の荒涼としたものになる。赤茶けて積み重ねられたような橄欖岩の岩とアカエゾマツを中心とした低い樹林で景観の変化が楽しめる。
再び道がまっすぐ続くようになり、359m二股に大きな土場があって、車(自転車含む)で進めるのはここまでと思われる。ここから先、左股へは右股の渡渉があり、右股へも林道跡は荒れていた。ここで幕営した。
★359m二股右股から二観別岳へ
登りは右股に入って林道跡を辿り、450mの沢が屈曲して多くの支流が合流しているように地図上で見える部分から二観別岳南面直登沢に入った。直登沢は伏流で沢型だけが合流している。登りだすと水はすぐに現れ、550-750mにかけては開けた明るい雰囲気の沢で、そこそこの小滝もあった。750mで水が涸れてすぐ短い区間のネマガリタケのヤブがあるが、その上でダケカンバの生えた岩礫の草原になっていてナキウサギの声がたくさん響いていた。この草原が稜線間近まで続いていてヤブ漕ぎは比較的楽だったが細長い草原なので見つけられないと延々とネマガリタケを漕ぐことになりそうだ。
少し前日のサイクリングの疲れが残っていて3時間で土場から山頂へ到着。山頂は薄い樹林で豊似岳が大きく見える。十勝海岸も目黒の辺りが少し見える。
359m二股の土場 |
右股沿いの林道はもう車は入れない |
伏流気味の直登沢 |
開けて明るい |
滝も少しある |
水源の様子 |
水源から振り返る このピークに特に名前はない |
地図 |
山頂 |
袴腰山 |
★二観別岳から本二観別岳へ縦走〜下山
本二観別岳への縦走は日高山脈の主稜線の一部であり、ヤブはやや薄くて鹿道が発達している。忠実に稜線を辿るのが良いと思われる。中間付近にやせた岩尾根部分があるが掴む植生はある。1時間ほどで本二観別岳へ到着。本二観別岳の山頂は小さな草原で非常に展望が良く、南日高が一望できた。三角点「美幌」から美幌岳、広尾岳、楽古岳、十勝岳辺りまでが大きく見え、その延長に神威岳・ピリカヌプリ辺りまで指呼できた。その間に小さくコブのように見えていたのは中ノ岳だったかもしれない。何と言っても楽古岳の天を衝く姿が美しい。
稜線から本二観別岳 あと少し |
稜線を 振り返る |
西方 アポイ岳から ピンネシリの稜線 |
本二観別岳山頂で座って休んでいると、ずっと大型の二羽の猛禽類が頭上で鳴き交わし続けていた。そのうち、一羽が自分の頭まであと3mほどのところまで突然急降下してきた。自信はないが大きさと下面の白さからクマタカでなかったかと思う。
本二観別岳からは南斜面を下りた。この斜面はずっとネマガリタケに覆われていた。沢型の上部では伏流水の流れる音が聞こえたり足元が湿っている部分もあったが、沢筋がはっきりしておらず沢筋っぽい箇所はネマガリタケの下の見えない岩がゴロゴロしていて歩きにくいので、あえて沢筋を探さないほうがいいのかも知れない。登りに辿った草原と同じようにナキウサギの声が多く響く樹林下の岩礫草原が南斜面一帯に点在していて、あちこちからナキウサギの声が聞こえるが、この岩礫草原というのは下りにまわすとヤブはないが足場が安定せず歩きづらい。むしろネマガリタケの中を下りたい。
ネマガリタケの 南斜面 |
岩礫草原 ナキウサギの住処 |
本二観別岳南面の水源 |
小滝 |
小滝 |
670mで水が湧き出し1mほどの小滝が2つあって、470m二股から林道跡となり、この古く荒れてもう車が通れない林道跡の土砂崩れの隙間からもナキウサギの声がした。荒れているとは言っても渡渉はあるがヤブもなく、歩く分には全く問題なかった。
土場に置いた自転車に乗ってからはダウンヒルで快適に1時間掛からず海岸まで下りた。
ニカンベツ岳と言う山名は土井博詞氏より前のものとして、谷元旦(寛政11(1799)年海岸線を歩行)の蝦夷奇勝図巻に幌泉会所(現・えりも町中心部)のバックの山として豊似岳周辺の山と対になって描かれる山に振られていた。デフォルメされた山の姿であり、直接海に尾根が落ちる様子は実際の二観別岳と異なっている。図巻の下絵はコロブキ(歌別川河口付近)からのシヤマニ方面の海岸線の展望なので、このニカンベツ岳の名の山は幌泉の裏手の山か幌満岳などのアポイ山塊のようである。
本二観別岳は二観別岳に対して「本」などとホンモノであるかのような接頭語がついているが、アイヌ語に即して考えると、標高はともかく本二観別岳の方が子分的な意味合いである。これらの山の名はこれらの山々を水源とするニカンベツ川・ポンニカンベツ川の川の名から名づけられたと思われる。地元の人数人に伺ってみたがニカンベツ川の水源の山に特に名前をつけて呼んでいるとは聞かなかった。国道の橋の名ではニカンベツは二雁別と表記され、二雁別橋という名であった(読みはニカンベツ)。林道の名では本文の通り、「仁寒別林道」であった。元よりアイヌ語の音に漢字をあてただけであり、表記上の違いに意味は無い。
逐語訳的にならニカンベツ川は ni kar pet[木・を刈る・川]、ポンニカンベツ川は pon NIKAMPET[小さい・ニカンベツ]になるかと思う。山田秀三(1984)によるとニカンベツの解はまだ解明出来ていないという。木を刈りにいく川と言うような上記の逐語訳と似た解説を示す史料がある一方、このアイヌ語の意味を「果物(ニカオプ)を多く産する川」のように伝える史料もあり、それらの信頼度とアイヌ語解の整合性からどちらとも決めかねるようだ。
自分で仁寒別林道を自転車で走った限りでは、特に果物系の樹木が多い印象はなかった。また、上流域まで植林や二次林が多く、本来の自然・植生は既に残っていなかった印象であった。地図からニカンベツ川を見ると、この川は日高地方南部(えりも町域)の比較的人が住むのに良い平坦地が広がる北の端に位置していて、えりも町内の川の中ではかなりの長流である。隣の様似町の、ニカンベツ川の隣でもある幌満川もかなり大きな集水域を持った長流であるが、同じ日に河口で水量を見比べると、ニカンベツ川の方がかなり水が多いような印象であった(但し幌満川にはダムがある)。また、林道から見てニカンベツ川の中下流域の川の流れは安定した深さがあり直線的で、木の運搬には適しているような印象であった。川の中流にある橄欖岩ニカンベツ岩体は木材として優れているアカエゾマツやキタゴヨウを選択的に産する。橄欖岩地帯はアポイ岳周辺のポロサヌシベツ川・ポンサヌシベツ川・幌満川流域にも広がるので、ni kar pet[木・を刈る・川]で、有用な樹木を採る川というようなニュアンスはなかったのかと考えてみたが、和人的視点である。アイヌの人たちは他の樹種も生活に用いていた。
ニカンベツ川流域の天狗岳は北海道実測切図にライキウンヌプリと書かれた。ニカンベツ川支流であるルベシュペ川とニカンベツ川本流が道であり、その股の内側の領域にあることを言う ru aw -ke un nupuri[道・の内・につく・山]と思われる。ニカンベツ川本流筋と支流のルベシュペ川に道があったと考えられる。ルベシュペ川の道は幌満川や様似川流域への道だが、ニカンベツ川本流筋の道はどこに通じているのかと考えてみると、源頭に標高700mほどと少し低くなっている所があり、目黒(猿留)へ直線的に向かうことが出来る。
アイヌ世界の上方のメナシ側の猿留の方から山越えして下って出てくる rik-ru put[高い所の道・の出口]であったのが nikanpet に訛ったものではなかったかと考えてみる。アイヌ語で n と r は相通があるようで、知里真志保の地名アイヌ語小辞典には hunki を hur-ke と解析している(日本語でも角鹿(つぬが)が敦賀(つるが)になったような例がある)。nikarpet のように捉えられるようこともあり、「木を刈る川」といった異分析が行われたのではなかったと考えてみる。
ニカンベツ川から繋がっている目黒の旧名である猿留も道があったことに関わる地名であったのではなかったかと考えてみる。猿留を山田秀三(1984)は「この川口の辺はやや広い平地になっている。・・・一応サロロ(sar-or 葭原・の処)と解したい」としているが、少なくとも現状の浜手は普通の砂浜であり、後背の猿留川沿いは樹林でその後ろの平地は昆布干し場になっている。昆布干し場は兎も角、川沿いが樹林なのは葭原が昆布干し場の処に昔はあったとしてもそれほど大きくなく目に付きにくかったのではないかと思う。サルルとはニカンベツ川を経て日高方面へ向かう car or[口・の処]の転訛ではなかったかと考える。c と s は敬称の「さん」が「ちゃん」になるように、喫茶でサというのにお茶はチャというように、位置の近似から相通が考えられる。
明治時代の道庁20万図にペタヌシリウトゥル山という山名が西隣の袴腰山の位置に振られている。松浦武四郎の記録に猿留川の二股の間の山の名としてヘタンシルトルがある。袴腰山は山塊としては二観別岳と同一と見なせなくも無い。ニカンベツ川とポンニカンベツ川と猿留川の右股と左股の四つの河川に囲まれた pet aw -na sir utur[川・の内・の方の・地・の間]、或いは pet aw ne sir utur[川・の内・である・地・の間]がアイヌ語の二観別岳一帯を指す山の名だったのではないかと考える。
★ニカンベツ川流域地名考
ニカンベツ川流域のアイヌ語地名は明治時代の地図からある程度知られるが、地元の町史のアイヌ語解は昭和3-40年代のやや古いもので、実地調査もされてなさそうであり、その後の調査資料も見つけられなかったので自分で見た感じから少し述べてみる。ニカンベツ川中上流域は現在では居住者は皆無であるが、アイヌの時代は中流域にも住んでいたという。林道を走るだけでも気持ちの良い道なので、機会があれば山に登らず地名だけを調べにまた行ってみたい。
ポンニカンベツ川合流点より上流ではニカンベツ川はシーニカンベツと振られていた。si- NIKAMPET[本当の・ニカンベツ川]。ポンニカンベツ川は pon NIKAMPET。
140m右岸支流にニカルシナイと振られていた。えりも町史は「Ni-kar-us-nay 木・採ること・いつもしている・川」としている。林道から見る限りでは植林され、生えていたのが採るべき樹種かどうかもう判断しようがない。ニカンベツの意味として伝えられる意味の一つそのままであることが気になる。本流とどういう関係なのだろうか。明治時代の地図での取って付けたような何の特徴も無さそうな小沢への名の振り方がどうも怪しい気がする。本当にこの沢はこの名だったのだろうか。rik-ru us nay[高い所の道・ある・河谷]の転がニカルシナイで、ニカンベツ川の別名かニカンベツを説明する言葉だったのでないかと疑う。
200m右岸支流にソーマクオマペッとある。この小沢の落ち口のすぐ下の本流に1m弱の落ち込みはあったが、どうもその落ち込みを見ても so[滝]とは言えない気がした。先のニカルシナイとある谷筋はニカンベツ川の河谷の平野部分の上端の奥側に位置し、平野部がなくなった本流の河谷から平野部に戻るような向きで山の斜面になっている。ニカルシナイとあるソーマクオマペッの一本下手の右岸支流が本当のソーマクオマペッで、河谷の平野部の後ろにある so mak oma pet[平らになっている所・の後ろ・にある・川]だったのではないかと考えてみる。
210mの右岸支流にニシュクアンペッとある。次のシュオプとウヌンコイのすぐ下に落ちる川で、nisey ko- an pet[絶壁・に向かって・ある・川]と考える。
250m辺りの本流沿いにシュオプとウヌンコイとある。シュオプが右岸でウヌンコイが左岸に振られるが峡谷地帯の別名ということであろう。シュオプは箱で函地形、ウヌンコイは u- rerke o -i[互い・の向こう・にある・所]という語構成で絶壁のように立った川岸が向かい合っていることを言っているのだと思う。
ウヌンコイのすぐ上流にアッチーと振られていた。仮製五万図では左岸支流でアチイとある。松浦武四郎がニカンベツのニカンを「釣り」の意味と書いている資料がある。これは釣針がアイヌ語で ap と言うのと何か関係あるのではないかと考えてみる。ニカンベツからどこかへの apa[入口]の訛ったのがアッチ―でないかと考えてみる。猿留山道のアフツと音が似ていることが気にかかる。
350m右岸支流にヤムクシュナイと振られていた。えりも町史は「Yam-us-nay 栗の実・落ちている・沢」とするが、後の版の地図の誤植でないかと思う。様似町史はヤムクシュナイを「Yam-Wakka-Kush-Nai の転化」として yam の「冷たい」の意から「冷水の沢」とするが、Wakka が転化でそっくり落ちるだろうかと思う。林道からは対岸でよく見えなかったので確認できなかった。
ヤムウシュナイのすぐ下流左岸支流にユコリヤナイと振られていた。音だけから考えると yuk o- riya nay[鹿・そこで・越冬する・河谷]と思われるが、どのような谷で鹿が越冬するのかよく分からない。様似町史はエコリヤナイと書くが一文字目の誤読か後の版の地図の誤植でないかと思う。えりも町史も「エコリヤナイ」で意味不明としている。rik-ru oro ne -i[高い所の道・の所・である・もの]の転で、猿留からの道がニカンベツ川本流に下りてきた所にある支流か尾根であったということでないかと考えてみる。
右股の400m左岸支流にコルプイと書かれていた。えりも町史は 「Kor-puy フキの葉・のこぶ山」とする。対案はないけれど沢に振られているような地名でコブ山というほどのものも見当たらなかったので、おかしな気がする。猿留山道の、えりも側の登り口のコロフルと似た音なのが気になる。様似側から登る道の取りつきの rik-ru paro[高い所の道・の口]の転でないかと思う。アッチ―やユコリヤナイの道とは使ったグループや使う季節が違ったのでないかと考える。
450m屈曲部に落ちる幾つかの右岸支流の内の最下流のものにヌタプソーとある。えりも町史では 「Nutap-so 川沿いの崖上・の滝」とするが、nutap に崖上の義はアイヌ語辞典を見ても無さそうである。鋭角に顕著に川が屈曲するこの地点なら nutap と言えるのか。雨竜川中流域のヌタプカウシペ(浅羽山)の辺りと類似していると言えば言えないこともないようなのが気になる。so[滝]だが1m程度のナメ滝はこの屈曲部にあった。しかしごく小さい滝なので、本当にこの程度の落ち込みを so と言ったのか確信出来ない。様似町史に nutap rep[屈曲・の中心]とあるのはヌタプソーのソをレと誤読したのでないかと思う。屈曲部の北側(右岸)に緩傾斜地が広がっている。コルプイから登る道の後ろに広がる平らになっている所ということの ru mak so[道・の後ろ・平らになっている所]の転がヌタプソーでないかと考える。
参考文献
1)知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1992.
2)山田秀三,北海道の地名,北海道新聞社,1984.
3)邑山小四郎,様似町のアイヌ語地名,様似町史,様似町史編さん委員会,様似町,1962.
4)扇谷昌康,第一編 先史時代,えりも町史,渡辺茂,えりも町,1971.
5)谷元旦,佐藤慶二,蝦夷奇勝図巻 蝦夷紀行,朝日出版,1973.
6)渋江長伯,山崎栄作,東遊奇勝 帰路編(渋江長伯シリーズ 下),山崎栄作,2006.
7)北海道庁地理課,北海道実測切図「襟裳」図幅,北海道庁,1893.
8)陸地測量部,北海道仮製五万分一図「幌泉」図幅,陸地測量部,1896.
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