ピンネシリ 南方から |
ピンネシリ(957.8m)
ポロサヌシベツ川西面直登沢
磨くと美しいオリーブグリーンを呈する橄欖岩の滑床は、やはりオリーブグリーンなのだろうかと橄欖岩からなるアポイ山塊の沢登りを試みた。アポイ岳は平成18(2006)年から、幌満岳は平成16(2004)年から希少植物保護のため登山道以外の立ち入りが禁止されて沢登りは叶わなくなったので、同じ橄欖岩地帯でもその範囲外になるピンネシリを沢から登ってみた。
海岸からアポイ岳ビジターセンター前の交差点を山の方に直進して林道アポイ新富線に入る。この辺りはサクラの木が多く、花がたくさん咲いている。道路脇の笹原の中にヒロハヘビノボラズも咲いていた。途中、道路脇には小さな浅く四角い池が多く見られた。何だったのだろうか。道路は完全に舗装されていた。
ポロサヌシベツ川を渡る橋に名前はなかった。両岸に林道があったが、よりはっきりしていた左岸に入った。しかしすぐに砂防ダムの壁にあたって行き止まりであった。右岸も同様のようだ。車を回すスペースはあった。それほど高いダムではないので横から乗り越えていく。更にもう一つ砂防ダムを越える。川は普通の河原である。石は黒かったり赤茶けたりしている。黒く見えるのは橄欖岩そのもので、赤茶けているものは橄欖岩中の鉄分が錆びたものだろう。地質図によるとこの辺りから橄欖岩地帯に入る1)。
砂防ダムの上にも作業道跡はずっと両岸に続いている。かなり笹がかぶっている部分もあるが、殆どきれいであり、笹も丈が低く浅いもので歩くにそれほど抵抗はない。鹿がかなり歩いているようだ。笹の中に鹿道もある。川の水は谷の規模に比べて少ないように見える。沢沿いにはエゾオオサクラソウとコミヤマカタバミが見られる。
430m二股が近付くと沢の流れは完全に伏流している。しかし湧き水が作業道跡の上を流れたりしている。周りの森は広葉樹主体から鬱蒼とした針葉樹の森になる。針葉樹林の林床は尖った岩がゴロゴロしてその上を厚い苔が覆っている。
430m二股を左に入ると作業道跡は左岸のみになるがまだ続いている。標高550mで作業道跡も終わり、沢に下りるが水は少ない。伏流気味である。それでも600mあたりのちょっとした狭い場所より上では短いながら岩盤が現れる。飛沫が気持ちよい。岩は黒く断面が尖っている。青白く蛇紋粘土化している部分もある。オリーブグリーンの滑床はなかった。ただ黒いだけだった。それも長くは続かず傾斜はきついもののガラガラの沢となり700mの二股で水は切れる。ここは右に入る。
作業道跡の様子 |
笹に覆われている箇所 |
伏流している沢 |
橄欖岩の 岩盤 |
苔生した 源頭 |
草付から源頭を 見下ろす |
右に入って登ると左側に二股からは見えなかった、より大きな涸れ谷がある。後から考えるとこの涸れ谷を登った方が良かったと思う。しかしそのまままっすぐ詰めた。傾斜はきつく、植生は抜け易くはないものの草付きである。上に上がるにしたがって草がしっかりしてきて掴む木も増える。途中、涸れ滝が一つあった。
この沢筋は登り続ければ途中で登山道を横断してピンネシリの山頂に飛び出すはずであるが、900m辺りからハイマツとアカエゾマツのミックスとなってかなりきついヤブ漕ぎとなる。水平に左に移動して最低鞍部方面から縦走路に合流した。最低鞍部をはじめから目指すと最後まで樹林下の草付だ。鹿道もある。この鹿道は山の東斜面にも続いている。
ピンネシリは957.8mの南峰が本峰のようであるが957mの北峰も登れる。標高は1mも違わない。展望は北峰は樹木に覆われあまり良くないがピリカヌプリ方面は北峰からしか見えない。それでも本峰からは野塚岳から襟裳岬までの日高山脈が一望できる。
ピンネシリの三角点は最高点よりわずかに低い位置にあり、ピンネシリの標高は958mはあるのではないかと思う。アポイ岳へ縦走して下山した。吉田岳やアポイ岳が近付いて感じるのは同じ橄欖岩地帯でもアポイ岳・吉田岳とピンネシリは同じ橄欖岩でも微妙に岩の質が違うのではないかという点だ。アポイ岳や吉田岳は山肌が見るからに荒地で峨々としているのにピンネシリは樹木に覆われている。やはりアポイ岳の沢を登ってみたかったと思った。ピンネシリの表面は岩塊斜面が森で覆われた姿で、その岩塊の下では蛇紋粘土化が進み水の通りが悪くなる部分もあって沢に水が流れず作業道跡に水が流れたりするのだろう。
林道沿いで見かけた アミガサタケ |
樹林下の コミヤマカタバミ |
稜線間近にあった フデリンドウ |
吉田岳の サマニユキワリ群落 |
★山名考(ピンネシリ・マチネシリ)
ピンネシリはアイヌ語の pinne sir[雄の・地(山)]とされる。対する雌山(matne sir)はアポイ岳という説の他、ピンネシリ登山口北方の739m峰という説もどこかで見た気がするが思い出せない。
様似町史(1960)2)によると、昭和30(1955)年のアイヌの人への聞き取りで、現在のアポイ岳がマチネシリ(女山)であったが、アポイ岳の山頂で鹿請いのカムイノミが火を掲げて行われてアペオイヌプリ(火・多くある・山)と呼ばれるようになり、アペオイマチネシリとも呼ばれるようになったが、更にアポイ岳と呼び名が縮まったのでピンネシリ北峰を新たにマチネシリにしたという話が明らかになったという。
双耳峰となって見えるのは他の類例のピンネシリと異なっているように思われる。
様似の街からピンネシリを眺めると、北峰に比べると南峰の方が少々鋭く見える。南峰をピンネシリ、北峰をマツネシリとすると、大まかには榊原(2000)3)の山型類型に合致している。アポイ岳は様似から見ても幌泉から見てもピンネシリより鋭角で、山型類型でのマチネシリの条件を満たさないように思われる。だが、ピンネシリの双耳峰としての間隔はアポイ岳との距離に比べれば小さい。様似の街から見てもピンネシリが双耳峰である事は分かるが、それよりはピンネシリとやや低いアポイ岳が並んで聳えている事の方が目立ち、ピンネシリの南峰と北峰の鋭さの差もごく小さい。アポイ岳の山名の由来を考えると、ピンネシリは南北の双耳峰でピンネシリ、アポイ岳がマチネシリであったが、鹿請いのカムイノミは兎も角「アポイ岳」という山の名が広がってしまってマチネシリの名が追われたかと考えてみる。
★川名考(ポロサヌシベツ川・ポンサヌシベツ川)
ポロサヌシベツ川にはまだアイヌ語解の定説がないようだ。邑山小四郎(1962)は「Poro-San-Ush-Pet の急語」として「大きい傾斜の有る川、今の東平宇」を語源としている。東平宇で海に注ぐ川である。ポンサヌシベツ川もあるので「大きい」は「傾斜」に掛かるのではなく「川」に掛かるのであろう。san は棚状地形を指すことはあるようだが san us pet[棚状地形・に付いている・川]で「傾斜の有る川」という意味になるのか疑問である。傾斜のきついという意味なら周辺のコトニ川の方が傾斜はきつい。san を動詞として san usi[山手から浜手へ出る・いつもするところ]の川や、san us pet[山手から浜手へ出る・いつもする・川]なら成り立つ。
松浦武四郎は旭川神居古潭の地名として「サヌシヒリ」なる地名を記し、サヌシの意味を「サヌシは両岸え木をわたし、其上に居て魚を獲ることを云也」と記している5)。現在発行されている著名なアイヌ語辞典6)7)8)でサヌシにそのような意味を見出せる意味を見ないが、木を差し渡すのは棚状地形にも似て、何かしらそう呼ばれる漁法があったとも考えられる。だが、細かい地点の特定が出来ていないので具体的には説明できないが元は何らかのランドマークに基づいた地名であり、その漁法に付会されたと言うことだろう。また、沙流川流域のブトサヌシナイなる地名の解説において、「其本名はサルウシナイにて河口に芦荻多き沢と云儀なるべし」としている9)(putu sar us nay か)。このパターンだと元はサルシナイで湿地が有る川だったのが訛ったということになる。現在のポロサヌシベツ・ポンサヌシベツ川は両者とも河口付近が漁師の家と昆布干場だけになっており、湿原があったかどうかは分からない。ただ比較的それらの位置の標高が低い気はした。上流域に湿地は無い。
松浦武四郎は安政5年に元浦川上流ニセウマナイ川筋の地名としてホロサヌシ・ホンサシナイ(ホンサヌシナイ)を聞き取り、その意味は「神の居る山より落る水と云事也」としている9)。このパターンだと神威岳に限らなくても山地から下りて来る処と言う解釈があてはまるように思われる。この日誌の翻刻注に「nusausi 木幣場」とある。
松浦武四郎と同じ頃の野作東部日記10)では「『サヌウシヘツ』ナリ草多ク生ル処ニテ草所ト云如シ」とあった。sar us pet[草の茂っているところ・についている・川]と解釈したかと思われる。
永田方正は穂別町の地名としてサヌシュペ(現在のサヌシュペ川)を挙げ、san ush pe として「低き川」と訳し「宗谷にサンナイあり同義」とした。san は「山手から浜手へ下りる」意味の一項動詞、us は「いつもしている」というような意味の動詞接尾辞、pe はモノを示す形式名詞であり、「いつも山手から浜手に下りているもの(川)」となる。サンナイが同義となるなら「低い川」ではなく「浜手に下る川」であろう。「低き川」と訳したのは問題があったと思う。サヌシュペ川には国道274号線が沿い、源頭の楓峠を越えると夕張川流域に出る。逆に通れば楓峠から下る川である。
様似町史は地名解の章では「大きい傾斜の有る川」とし4)ながら、アイヌ口碑の章では「サヌシは小型の磯ツブ貝のこと」として河口付近でツブが採れる川だからポンサヌシベツ・ポロサヌシベツと呼ばれたという2)伝承を載せている。アイヌ語辞典6)7)8)でサヌシにツブ貝の意味は見出せないが、そうした方言があったことも考えられないわけではない。だが、ツブ貝のよく獲れると言うことを地名にするのか疑問に感じる。ツブ貝が獲れるのはサヌシベツ川河口に限られない気がする。
松浦武四郎は安政5年に新ひだか町の捫別川中流左岸にサヌシベを聞き取り、サンウシベツではないか、或いは魚が多いので干し棚(アイヌ語で san)が多いかと考察している9)。san us pe[干し棚・つく・川]ということか。このサヌシベという川は地形図で見る限りどうということの無い沢で、源頭を越えるとシュンベツ川に容易に出られそうだが、峠としては下流側のポロナイや上流側のメナシベツの方が標高が低く、現在の車道もこの二つにある。また、安政3年に様似町の留崎の西でサノン(シ)ナイを聞き取っている13)。ルサキ川の西隣の谷で幌満岳の南の一角に向かう沢である。
ポロサヌシベツ川とポンサヌシベツ川の大小は、江戸時代は現在と反対だったようだ。「江戸時代は」ではなく「本来は」と言って良いのかも知れない。松浦武四郎は安政3(1856)年に東からヲンネサヌシベ・ホンサヌシベの順13)に記録しているが、これらの文字はこの年の手控(野帳)14)には見当たらないようだ。弘化2(1845)年の蝦夷日誌15)には西からホンサヌシベ・ホロサヌシベと記録している。蝦夷日誌は享和元(1801)年の福居芳麿の「おくのみちくさ(蝦夷の島踏)」を引用している。福居芳麿は西からシヤヌシベ・オンホ(ネ)シヤヌシベと書いている15)16)。竹四郎廻浦日記のヲンネサヌシベの文字はこれに拠るかと思われる。最上徳内は寛政3(1791)年の日誌17)で西からモサノシヘツ、サノシベツを記している。表現は異なっているがオンネ・ポロ・ポン・モの大小関係12)は福居芳麿が記したものと同じである。一方、明治時代の北海道実測切図(1893)では現行と同じ様に西からポロサヌシベツ川・ポンサヌシベツ川である。流路長では明らかに現在のポロサヌシベツ川の方が長く北海道実測切図でのポンとポロの入れ替えはこの流路長に基づいたものかと思われるが、短いポンサヌシベツ川が本来の san us pet で、ポロサヌシベツ川がその子供的存在と捉えられていたかのではないかと考える。
ポンサヌシベツ川が (poro/onne) san us pe/pet[(大きい/親の)・浜手に下る・いつもする・もの/川]でアポイ山塊での狩りなどから帰るに下るルートであり、ポロサヌシベツ川がその奥地での狩りなどの帰りに使われる頻度のやや少なかった下降ルートの川の名 (pon/mo) san us pe/pet[(小さい/子の)・下る・いつもする・もの/川]ではなかったかと考えてみるが、狩りをする場所がアポイ岳であったとしても獲物の獲れた場所に応じて帰る沢は変更するのが当たり前のような気がする。
二つのサヌシベツ川は両方とも流路が途中で東に90度曲がり、アポイ岳に入り込んでいる。この地形の特徴を言った sir aw us pet[山・の内・につく・川]ではなかったかと考えてみる。留崎の西のサノン(シ)ナイも幌満岳の山にルサキ川より急な傾斜で入り込んでいるので sir aw un nay かと考えてみる。元浦川上流のサヌシ(サムシュ)も北海道実測切図によるとソエマツ沢の二股のすぐ上で股の間の山に登っていく沢のようなので sir aw us -i(/nay) の転訛かと考えてみる。
参考文献
1)兼子勝・舟橋三男・猪木幸男,五万分一地質図幅「幌泉」,工業技術院地質調査所,1955.
2)様似町史編さん委員会,様似町史,様似町,1962.
3)榊原正文,私のアイヌ語地名調査,榊原正文,2000.
4)邑山小四郎,様似町のアイヌ語地名,様似町史,様似町史編さん委員会,様似町,1962.
5)松浦武四郎,秋葉實,丁巳 東西蝦夷山川地理取調日誌 上,北海道出版企画センター,1982.
6)田村すず子,アイヌ語沙流方言辞典,草風館,1996.
7)中川裕,アイヌ語千歳方言辞典,草風館,1995.
8)萱野茂,萱野茂のアイヌ語辞典,三省堂,1996.
9)松浦武四郎,秋葉實,戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌 下,北海道出版企画センター,1985.
10)榊原_蔵・市川十郎,野作東部日記,1855-56.(北海道立図書館蔵原本北海道総務部行政資料室所蔵の複写本)
11)永田方正,初版 北海道蝦夷語地名解,草風館,1984.
12)知里真志保,アイヌ語入門,北海道出版企画センター,2004.
13)松浦武四郎,高倉新一郎,竹四郎廻浦日記 下,北海道出版企画センター,1978.
14)松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集3 辰手控,北海道出版企画センター,2001.
15)松浦武四郎,吉田武三,三航蝦夷日誌 上,吉川弘文館,1970.
16)福居芳麿,板坂耀子,蝦夷の嶋踏,近世紀行文集成 第1巻 蝦夷篇,板坂耀子,葦書房,2002.
17)最上徳内,須藤十郎,蝦夷草紙,MBC21,1994.
18)北海道庁地理課,北海道実測切図「襟裳」図幅,北海道庁,1893.
19)北海道庁地理課,北海道実測切図「浦河」図幅,北海道庁,1893.
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