東広尾川から
夕暮れの広尾岳
広尾岳(1231m)

 広尾岳は日高山脈楽古岳の南約6kmの国境稜線上から十勝側へ北に約1q張り出した尾根上にあり、ジャンクションピークよりは高い。広尾市街の南方、役場や紅葉通りの辺りからオムスビ型の山容を眺めることが出来る。昭和41年に広尾山岳会によって開かれた登山道があるが、殆ど整備されていない。しかし何とか利用できる。


 駐車スペースのすぐ先で西広尾川を渡渉する。くるぶし程度の深さだが飛び石では行けないので長靴か胴長があると良いだろう。ロングスパッツでも上手く渡れた。素足もOK。

 対岸に渡った後は広尾岳北面の直登沢に沿って右岸の作業道跡を進む。沢沿いでわかりにくいところはない。小沢を一本渡って、沢が狭くなると尾根取り付きで、直登沢を軽く渡り、これが道か?と思うような急斜面に取り付く。尾根に上がるまでは急傾斜で、ヤブもつかむものとして有り難いほどだが、この部分のヤブは薄い。

 尾根上の状況は、標高400-600mにかけてネマガリタケがかぶっている。密度はそれほどではないが、長い間刈った感じがなくてヤブ漕ぎに慣れてない人には道を見失う恐れがあるかもしれない。目印の赤布が木の上に付けてあるが、煩いほど多いというわけでなく、ヤブに慣れていない人は心細く感じるかもしれない。見失ってもそのまま下りていけば、そのうち西広尾川に下りられるので、それほど問題はなかろう。上に行くに従ってヤブは減る。直登沢の対岸は皆伐されて作業道が網の目のようになっている。積雪期ならこちらの尾根も使えそうだ。

 標高1000mあたりまでは、広くなだらかな登りで、それより上では少し傾斜が加わる上に雪で足場が安定しないので、木をつかんでの登りになった。小さな起伏はトラバースで越える様になっており、丁寧な道造りと思われる。小さな鞍部を過ぎて1100mを越えるとハイマツの茂った岩尾根になる。その辺りでは積雪の為、登山道は全くわからなくて、果たして雪がついてない時はどこを歩くのやら・・・?岩尾根の岩の西の基部を行くような気がするが、今回はすっかり尾根の上を歩いた。雪がない時に尾根上を行くならハイマツを漕ぐ事になることが予想される。

 当日の積雪状況は、登山口ではところによってうっすら白くなっている程度、山頂間近でスネ程度。7,8人の団体様が先に歩いていたのでラッセルの労苦は全くナシ。尾根上、中腹では雪が飛ばされてカチカチの氷が出ていたので最低でも軽アイゼンは必要な具合。ヤブのことを考えると登山適期は晩秋だが、雪の少ない十勝南部とはいえ、遅い時はピッケルなども必要と思われる(今回も持っていった)。

 天気もよく、気温もそれほど低くなく非常に良いコンディションだった。純白の楽古岳の圧倒的な存在感を感じた。楽古岳より高いはずのトヨニ岳がずいぶん小さく低く見える。南方は豊似岳まで見える。国境稜線を越えてアポイ岳の尖った姿もよく見える。

 山頂で会った人は、この登山道のヤブを嫌って中広尾川の400m付近から作業道を伝って北東尾根を歩いてきたと言うことだ。ヤブはマシだが台風の影響で林道が通行止めだったということで登山道経由で登った時より時間がかかったと言っていた。


広尾岳の
地図

広尾岳から見る
初冬の楽古岳

残雪期(2009年4月12日)
国境稜線-0:30-広尾岳-2:20-夏道尾根登山口

 国境稜線のJPから広尾岳まで、広く緩やかな尾根が続いている。尾根上の南東側は木が生えておらず歩きやすい。風が国境稜線に比べると弱いのか、北西側は背の高いダケカンバ林だ。尾根上には小さなお地蔵さんから人の背丈ほどの尖った岩がいくつか見られた。まるで石仏が配されているようだった。山頂の直下のみハイマツが広がり、雪が広く切れていた。ハイマツの下に雪が残っていて、それほど高いわけではないがスノーシューのままではかなり歩き辛い程度のハイマツの丈だった。

 夏道の尾根を下山した。1100m付近にある巨岩を巻くのが、残雪が硬く凍っていて短いのだがツァッケなしでは大変だった。尾根上から下りる辺りは雪が切れてネマガリタケが多く出ていたので、残雪の多い北斜面に下りた。夏道尾根北斜面末端には作業道が見られた。

 尾根の傾斜はスノーシューで下るにはちょっと厳しかった。しかしツボ足ではズボズボ埋まる。時間が思いのほか掛かってしまった。


ピロロ岳から見た早春の広尾岳
この山は北方から見ると
かしいで見える

★山名考

 広尾川の源頭の岳の意であろう。

 広尾について考える。

 山田秀三(1984)は「ピロロ(pir-or 蔭の処)・・・広尾(ピロロ)が元来の会所のあった処の名だったとするなら,古い時代にいわれた『蔭の処』説は捨て難い。」と、アイヌの長に聞いたと言うより古い上原熊次郎の地名考の説を支持したいようである。だが、会所の所が広尾の発祥だとすると、広尾川ほどのほどほどに大きな川の元の名が伝わっていないことになる。会所のあった山蔭よりは広尾川の太い流れの方がランドマークとして有力と考える。

 松浦武四郎の安政5年の聞き取りに、「ヒロウ ヒは石、ロウシケは高しと云事。会所前の石の名也。」という、「ビロウ」と言う地名の解釈にしては分かりにくい記録がある。翻刻注で、「(地名には無い)」とある。安政3年の記録にも「地名ヒロウは会所前に有岩石を以て号る也」とあり、安政5年の聞き取りは確認のようである。広尾川については「ビロウベツ・・・地名はヒロウによつて号る也」とある。pi ri uske[その石・高い・ところ]ということのように思われるが、ピロウシケがどうしてピロウに縮まるのか。また、会所前の立岩にしても、河口まで800mほど離れて広尾川の太い流れの名の前提となるのか疑問である。

 ピロウ/ピロロと似た感じに pira rer[崖・の向こう]というと、会所のあった崖下の向かいにある立岩の事となりそうである。ピロウシケと似た感じに pira ouske[崖・の麓]というと会所のあった所ということになりそうである。会所辺りの崖下で崖に相対して向こうを考えれば、崖の向こうは海を挟んだ立岩だが、十勝平野から南下して楽古川を越えた所で南に続く崖を見れば、崖の向こうは広尾川である。広尾川が pira rer[崖・の向こう]であったのが、会所が出来て会所での事が増え、崖の向こうなら立岩のことだろうとなったのでないかと考えてみる。永田地名解の明治中頃のアイヌの人が言っていたという広尾川を指すピルィペッは pira un pet[崖・にはまる・川]の n が y に転じたものでないかと考えてみる。n が y/s の前で y になる音韻転化は知里真志保のアイヌ語入門にあるが、各地のアイヌ語地名を見ていると他の子音の前でも y に転化する場合があるようである。

参考文献
日高山脈のすべて
山田秀三,北海道の地名,北海道新聞社,1984.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集6 午手控2,北海道出版企画センター,2008.
松浦武四郎,高倉新一郎,竹四郎廻浦日記 下,北海道出版企画センター,1978.
田村すず子,アイヌ語沙流方言辞典,草風館,1996.
知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1992.
知里真志保,アイヌ語入門,北海道出版企画センター,2004.



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(2002年12月3日上梓 2009年4月17日残雪期追加 2020年5月1日山名考追加 2023年11月12日改訂)