子ノ泊山の位置の地図

子ノ泊山
瀬原から
写真の方角は子(北)

子ノ泊山
上桐原から

子ノ泊山
荷手野峠付近から

支峰 焼倉山
林道子之泊線(浅里)から

支峰 飯盛山
日足から
子ノ泊山/蔵光山(906.7m)

 子ノ泊山は十二支のうちの子(ね/ねずみ)と関わりある字を用いられた山名1)として知られ、今西錦司提唱の十二支登山発祥の山。しかし山頂直下までブル道が延び、登山する者にとってはやるせなさの残る山登りになる山だろう。「ねのとまり」という変わった印象の山名は平家の落人の平蔵光一味がこの山で「寝泊り」した岩窟があることによる2)とも、新宮の港(泊)を山当てする際に北(子)の方位にあるため3)4)とも言われる。また、修験者の法螺の「音(ね)が止まった」との説5)もある。蔵光山とも言い、一帯を蔵光山地と言う。三角点のある本峰とほぼ同じ高さの北峰がある。


★山名考

・ねのとまり

 元禄3(1690)年の入鹿組在々諸色指出帳の大栗須村の項に「祢の泊り石」6)とあるのは子ノ泊山のことのようである。明治20(1887)年に山頂に設置された三角点の点名が「子ノ泊山」である。地形図(五万図)では大正2(1913)年発行の最初のものから「子ノ泊山」と振られている。「祢の泊り石」の語末の「石」は元は「いし」ではなく、山頂を指す「をせ(尾背)」だろう。

 「子の泊山」と言う山名についての三つの語源説を冒頭に記した。平蔵光一味寝泊り説2)、新宮港(泊)の子(北)の方角説3)4)、修験者の法螺貝の音の止まる山説5)である。他にカモシカが仔(子)を産みに来て泊まったと言う説7)もあるようだが、「こ」は「ね」と音が違う。「子」という漢字の字面による付会で論外である。

 平蔵光と言う氏名は平氏のようだが、地元の紀宝町誌(2004)では「源氏」の落武者赤井蔵光が住み着いたとしている。桐原登山口の紀宝町教育委員会の看板には「平家の落武者赤井蔵光が住み着いたところからこの名があるとされる」とあった。江戸時代の紀伊続風土記(1839)では相野谷の大里村の条で、大里村に赤木三兄弟がいて、その中の弟・赤木清住が蔵光山を領したと書き、続けて山の名は蔵光という人が山中に住んだから蔵光山と言うと解くが、蔵光氏の氏姓についてや赤木三兄弟と蔵光氏の関係については書かれていない。紀宝町誌に一部所引される大里赤井文書では赤木三兄弟は「赤井」三兄弟となり、兄弟の名も紀伊続風土記に記載されるものと似てはいるものの一部異なり、赤井三兄弟が大里村の殿であると書くが同じ伝承に基づくものであろう。こちらでは蔵光氏・蔵光山は登場しない。後述の管見で蔵光氏初出と思われる名所古跡調べには逆に赤井(赤木)三兄弟の話は出てこない。紀伊続風土記の赤木三兄弟の弟が蔵光山を領したと言う話と、蔵光氏が蔵光山に住んだ話は独立であり、赤木三兄弟と蔵光氏は只続けて書かれているだけで関係はない。大里赤井文書の年代や著者は分からないと言うが、記載された内容から慶長(1596-1615)よりは後のようだ。この話は熊野年代記では慶長の二つ前の元号の天正の13年の出来事とされているが、一部が異なって大里赤井文書に比べると文量が少なく分かりにくい文章となっている。内容のあらましだけでなく兄弟の領地として挙げられている地名が配列も含めて殆ど一致しているので独立の文書とは考えられないが、大里赤井文書が熊野年代記を補ったものか、共通する参照された先行資料があったのかなどの文書の系統の問題は分からない。大里赤井文書には三兄弟の話について、年号は不明で赤井衆が火事を出し、それらに関する確たる書物が失われたとある。


苗字 長男 次男 三男
大里赤井文書 赤井 富住 之住 清住
熊野年代記 赤井 高住 清住 元住
紀伊続風土記 赤木 高住 元住・清住

 平八州史(1973)は速玉社に残る「新宮合戦注進状(熊野山総神官等注進状)」12)を引き、蔵光氏を平家の落人とも後南朝の人とも言われてきたが、そうではなく南北朝時代の人であり、赤井氏とは相野谷庄の荘官であって南北朝の争いで大里村のある相野の庄司の兄弟が南朝方に付き、所領である蔵光山に立てこもり討ち死し、これが蔵光山の名の由来であろうと推測しているが、新宮合戦注進状には蔵光氏も相野庄司兄弟の氏名も蔵光山も書かれていない。相野谷も南北朝の争いに巻き込まれたことは分かるが、新宮合戦注進状から蔵光なる人物の存在を推定するのは無理があるように思われる。新宮合戦注進状の中の「相野庄司兄弟」と書かれている部分に紀伊続風土記や大里赤井文書の赤木/赤井三兄弟の記事と合わせて注目したのかもしれないが、同注進状では有馬庄司も兄弟と書かれており、武士が兄弟で事に当たるのは源頼朝・義経兄弟から徳川御三家に至るまで普通のことであろう。この注進状に「兄弟」と書かれたから相野庄司兄弟が大里赤井文書・紀伊続風土記で年代の書かれていない赤井(赤木)兄弟と同一とみなし、更に紀伊続風土記が山に住んでいたとしかしていない蔵光氏がこの争乱で戦死した赤井(赤木)家の一員であったとするのは飛躍がある。そもそも「寝泊り(ねとまり)」が「ねのとまり」になること自体、日本語として駄洒落以上には無理がある。北尾根上には寝泊り岩という岩屋もあるというが、それならなぜ「ねとまりやま」と呼ばれないのか。子の泊山と言う名が先で、寝泊り岩の名が後だからだろう。

 新宮港の子の方角説3)4)は、子の泊山は磁北真北の違いを考慮しても新宮港の西北(戌亥)であり、無理がある。下り船から見れば北(子)に近かったとしても、上り船では西(酉)の方角である。標高や山容に特徴の乏しいやや内陸の子ノ泊山が海上から山当ての対象になりうるのかどうかも疑わしい。また、新宮港の北の山なら「泊の子山」と言う名前の方が日本語として自然な気がする。方角に「泊(港)」が付く場合、その方向からの風に対して安全な港であることを指していることがある(西風泊ニシドマリ・東風泊ヒガシトマリ・鵜泊ウドマリ etc)。しかし南東に開け、北東と南西に航路を持つ新宮港(熊野川河口)の条件は近隣の木本脇の浜港や宇久井港、勝浦港と同じで北風で特に留まる港たりえない。新宮港を子の風の泊と名づける理由は無い。

 修験者の法螺貝の音が止まる説はネ(音)という音だけに拠った付会であろう。

 子ノ泊山南麓の浅里地区は南流してきた熊野川が北に撓む地点にあり、熊野川に沿って吹き降ろす北風から子の泊山によって守られる。浅里は熊野川に帆を掛けた川舟が行き来していた頃には北風を避ける停泊地であったことが考えられる。北風が卓越する冬の川舟の遡行は曳き舟によっていた13)が、夏場の川舟は帆走で遡行していたという13)。夏場でも北風の日が皆無と言うわけではないだろう。地名に用いられる「泊」は海の交通を原則とする14)が、内陸にも見られる15)。風待ちにとまる泊なら海の泊と同じ様式の命名である。農繁期の北風の際は曳き子も足りないことがあったのではないか。熊野灘を航海する船にとっての北風泊ではなく、熊野川を遡行する川舟の「子の泊」=浅里で、その浅里の山ということでの「子ノ泊山」ではなかったかと考えてみた。浅里は船次16)(船継地)ではあったが、浅里=北風泊とする史料は見ていない。浅里の別名が「ねのとまり」だという史料も見ていない。

 「とまり(止/留)」には「果て」の意味がある17)。熊野地・新宮から熊野川を遡るか越路峠を越えて、瀬原に達すると子ノ泊山が直線的な熊野川の河谷の子(北)の果て(とまり)に屏風のように聳えている。このことで呼んだのが、祢の泊り石/子ノ泊山ではなかったか。

・ぞうこう

 次に蔵光山という山名について考える。

 蔵光山の名は現行地形図(2011年現在)では山頂から北東側に偏った地点に振られているが、紀州藩の藩撰地誌である紀伊続風土記(1839)には「入鹿一族山に接して浅里郷浅里村界まで南北凡(およそ)二里許(ばかり)連なれる荘中の高山なり」とあり、山塊として現在の子ノ泊山の別称である歴史はあった。現行地形図で山頂から外れて紀宝町大里の蔵光地区に振られる「蔵光山」は大正2年版の地形図から現行と同様にあるが、現在の地形図での地名は地元の自治体からの上申である。紀宝町としては山頂としての蔵光山ではなく、山地としての蔵光山が蔵光地区と言う認識なのだろうか。

 紀伊続風土記の書く広大な蔵光山の名が、紀伊続風土記が書くように一人蔵光氏の居住による山名とは信じ難い。

 周辺に「蔵光」という地区がある。現行地形図(2011年現在)で「蔵光山」と書かれる山間部の、一の滝より上手が紀宝町大里の字「蔵光」である。

 寛文7(1667)年頃の紀州藩の名所古跡調べでは「ぞうかう山」、「そうこう山」、「ぞこ山」、「ぞんこ山」と書かれる8)。引用した紀宝町誌所収の古文書は寛文7年の調べを元に正徳元(1711)年に書き改めたものの写しのようである。また、大里村北西方の仏尾について「ぞうこう坊基(墓?)所と申て人不知毎日しきみ(樒)枝ヲ指置く候よし申伝候8)と書く。蔵光氏は武士ではなく僧か山伏であったかのようである。また、この頃は人によって発音が微妙に異なり、「ぞうこう」に当てる漢字も平仮名も定まって無かった印象である。仏尾は大里村の北西ということから字蔵光の周辺かと思われる。

 明和4(1767)年頃の成立と見られる18)熊野見聞記では「雑古山」、「ぞうこ山」と書かれているという19)。熊野見聞記と同根か、或いは熊野見聞記の元になっているかと思われる紀州新宮領分見聞記では、大里村の古城跡の条で「仏の尾」には「人知れず樒(しきみ)の枝を数々指し置くといふ。私に曰ふ、近き頃、此山を見し人の語りしは、通り筋より一里が間は草山、それより一里は諸木繁りて通りかたし。此より一里過ぎて上には平かなる芝山あり。誰も登るべしとはなきに甚だ綺麗にして雑(新?)古の塚あり。上に大なる樒の木二本ありといふ」と書く20)。また、上桐原村の条は「辰巳向 後は山 前は雑古(木?)」と書く。上桐原の雑古とは紀伊続風土記の書く蔵光宮で、現在の上桐原の集落の南東の相野谷川の川向こうに位置し、第二殿として蔵光殿を祀る桐原神社のことかと思われる。紀州新宮領分見聞記での仏の尾については、大里村の古城跡の条に古城跡の説明に続けて書かれていて分かりにくいが、古城跡についても仏の尾についても紀宝町誌所収の名所古跡調べの大里村の条に文が似ており、或いは参考にされたかと思われる。名所古跡調べでは独立していた仏尾と古城跡の各条がつなげられたような印象である。熊野見聞記では大里村の条で紀州新宮領分見聞記と同文の山の説明の前に「雑古山」と見出しを付け、最初に「ぞうこ山と申す山あり」と書いている19)という。

 安永7(1778)年の、相野谷川下流に位置した鮒田村の古文書では「蔵高山」と書かれている8)。名所古跡調べや鮒田村の古文書は紀宝町誌と言う形で地元の伝承などとまとめて閲覧できる。古文書の公開を許諾された所有者の方々や、編纂作業に携わった方々に感謝したい。

 天保10(1839)年に完成した紀伊続風土記の蔵光山の条では、この山が大里村持ちで「山の名は昔蔵光といふ人ありて山中に住せしより起こる。屋敷跡に碑石あり。側に七十五人塚といふ塚あり。その臣を葬るといふ。」と書く。


桐原神社社殿
向かって左が蔵光殿21)

上桐原から見た
桐原神社社叢

 紀伊続風土記では更に、山の北東に位置する下桐原村の条で聖徳太子社の境内に「蔵光宮といふ石寶殿あり」とし、正長二年(1429年)三月晦日と銘にある古い鰐口を有したと書く。また、蔵光山の条では「蔵光死して後其霊を桐原村の産土神の境内に若宮と称して祀るといふ」とある。若宮と言う称は祟りやすい神に奉られるともいう。下桐原村は延宝5(1677)年に桐原村が上下に分離したと言う。

 紀伊続風土記は蔵光山の南側の浅里村の条では、子ノ泊山の山頂近い焼倉について、山中仏の尾に「曹洪房といふ山伏の墓といひ伝へて古き石塚あり」とする。墓については子の泊山山頂から町境の尾根に沿って塚(ケルン22))が幾つも見られる。中でも蔵光塚は1m以上の高さを持つ大きなものである。また、山頂と浅里辻の間にある七十五人塚も大きなものである。それらと関連付けられての伝説であろうか。仏の尾は大里村の名所古跡調べで登場した仏尾と同じだろう。山伏の名が「曹洪房」と、最初の音が清音だが同じく名所古跡調べで登場した「ぞうこう坊」のことだろう。

 大正2(1913)年、陸地測量部によるこの辺りの最初の地形図である初版の五万分一地形図「新宮」図幅が発行される。この地形図には「子ノ泊山」と言う山名が載る。

 大正14(1925)年の紀伊南牟婁郡誌の第5章天然記念物第13節各校調査には相野谷村の「寝泊り岩」の伝説が登場する。「ねのとまり岩」とも言ったというこの岩は蔵光山中の奥にあり、茶碗の欠片などがあると言う。蔵光氏は寝泊り岩から出て屋敷を作り隠れ住んでいたが老婆の言で衆人の知るところとなり敵の襲撃を受けて殺され、そこが蔵光屋敷であると書く。また、蔵光屋敷の東の森に蔵光氏の埋蔵金があると書くが、その言い伝えは日本の埋蔵金伝説に普遍的な「朝日さす夕日輝く」に似た「朝日さす夕日さす」から始まる。老婆の言による露見・殺害と言う事情は蔵光山に程近い新宮に育った新宮十郎行家の平家物語23)に描かれる最期に重なる。蔵光屋敷・屋敷跡は相野谷川支流フルベ谷の畔の子ノ泊山山頂の東約1650mの辺り24)だという。この埋蔵金伝説を「紀宝町の文化財」は蔵光(光るもの―黄金―埋めている)という表記から想像されたものと思われるとするが、紀伊続風土記での人名としての蔵光が紀伊南牟婁郡誌での埋蔵金伝説より一世紀近く先であることを考えると、どうだろうか。

 平成16(2004)年の紀宝町誌8)では、子の泊山の北に寄った峰が岩屋になっていて、その岩蔵(いわくら)が光ることから「蔵光(くらみつ)」と呼んでいたとするが、クラミツとゾウコウは異なる音である。その岩屋で子供の泣く声がしたり寝泊りしたと言う。熊野近隣の国土地理院の地形図に載る地名だけでも新宮市内の神倉や大台ヶ原の大蛇ー、尾鷲の天狗倉山のように岩場のことをクラ/グラ(ー)と呼ぶ例は見られるが、この説は字音を字義で解釈したもので先行する他の表記を説明できず受け入れにくい。


一間ごとに
山地境界標として
置かれたと思われる
新荷手野峠コースの
小塚の一つ

浅里林道脇の小塚
手前と右手奥の
二基が写る

七十五人塚を越える
山越え想定図

 蔵光塚に連続する小さな塚と同様のものは林道桐原浅里線沿いの、相野谷川支流古田川の橋から南方へ700mほど進んだ尾根の鼻を回りこむ所(桐原の最終人家から道を約1.6km)でも連なって見られた。二の塚は新荷手野峠コースと、広尾井方面からの杣道が合流する地点にある。蔵光塚は尾根の分岐点に位置する。尾根線は谷筋と共に山間の道の常である。七十五人塚は比較的等高線の間隔が広く等間隔で谷も広い地蔵谷の右股の左股から尾根(814m標高点の西)に上がって緩い斜面をトラバースで主稜線の鞍部に付く地点であり、浅里から西谷を詰めて地蔵谷へ越える地点でもある。林道開通前の新宮山の会の記録で地蔵谷右股の二股に古い植林小屋があったというのは右股が通行されていたと言うことでは無かったか。やまびこ新道より前に詰ノ滝を越えて沢詰めで浅里から桐原を結ぶルートの山越え道があり、大里への分岐点となる主稜線上に目印として置かれたのが七十五人塚でなかったか。蔵光塚の下側に連続する小さな塚の辺りは古い道と市町境が一致していないが、小さな塚の連なりと市町境は一致している。元々は大きな塚は道標で、小さな塚は領有権の主張などをする境界標だったのではないかと思う。紀宝町誌の名所古跡の、浅里村の在所真中より一里(約4km)子ノ方(北)にあるという寺ノ尾山の条に「間毎ニ石ずへ御座候」とあるのも、境界標としての小さな石塚の性格を示しているのではなかったか。寺ノ尾山の広がりが分からないので私が見たものが名所古跡に書かれたものとは言い切れないが、江戸時代前期に知られていたような素朴な山地の境界標が、今も多く連なって残されているというのは貴重な事だと思う。

 蔵光氏の由来は「仏尾」が仏様の尾根と意識され仏様を表す「仏」の字で書かれてしまい、本来の意味が分からなくなってから生まれたものではないかと思う。また、ゾウコウと言う音は濁音から始まるので、蔵光を音読みするような漢語由来だけでなく、古くからの日本語ではない擬音語・擬態語が混ざっていることも考えてみても良いのではないかと思う。南紀方言語彙に「ぞくる」と言う言葉があり、「落ちる」「崩れる」と言う意味である25)が、活用は連用形が「ぞけ」となるなど変則的である。「ぞける」との関連も考えられるが、意味はよりプリミティヴである。仏尾の「ほとけ」とは「解け(ほどけ/ほとけ)」であって崩壊地形を指し26)、「解け(の)尾」で崩壊地形の峰(尾)を指し、その崩壊地形とはここの場合、相野谷の平野部の最奥である桐原から相野谷川を遡って最初の滝場であり、岩が大きく露出する一の滝から四の滝のある蔵光地区周辺のことではなかったかと考えてみた。角川日本地名大辞典の小字一覧27)に記載されなかった仏尾/仏の尾は、ほぼ同義で崩壊していることをいう「ぞけ(崩)・を(峰)」と同じ地域ということではないかと考えてみた。

 相野谷川上流域は滝が多い。仏岩と呼ばれる露岩は各地で見かけるので、滝のように岩が大きく露出している場も「解け」といえそうな気がする。子ノ泊山の近隣に似た音である「ぞく」を持つ一族山があり、一族山にも布引の滝という有名で大きな滝があるが、一族山の山名表記の変遷は蔵光山ほど明らかではない。

 だが、古文書に「蔵光にある滝」のようなことを見ないのが気になる。また、一の滝から四の滝の一帯で滝を祀るようなものは見かけなかった。

 2015年に蔵光屋敷を訪ねてみた。訪ねてみて「仏尾」と「ぞけ・を」は一〜四ノ滝の滝場でなく、フルベ谷源頭の山崩れだと考えるようになった。以下に記す。

・蔵光屋敷

 「何々屋敷」と言う地名は紀伊半島の山間部で見かける。木地師の住居跡などが言われるようだ。蔵光屋敷は単に「蔵光(地区)の(木地師などの)屋敷(跡)」ということではなかったかと考えていた。蔵光屋敷には林道桐原浅里線から作業道の枝道が通じ、紀伊続風土記には「屋敷跡に碑石あり」とあるが2015年に訪ねた時には小祠だけがあった。小祠のGPSでマークした位置は子ノ泊山山頂の東(方位角88度)約1800mであった。フルベ谷左岸の標高350m付近である。人知れず樒を差し置いたとされた状況から、そこに木地師などの屋敷があり、そこで亡くなった木地師が居たかとも考えてみたが、里の寺で無縁仏として供養しても良いわけで、何も伝わっていない木地師が亡くなった現場にいつまでも樒を差し置くように言い伝えられるものだろうかと言う気もする。


蔵光屋敷と七折地蔵の
位置の地図

 「紀宝町の文化財」では、小祠のあるフルベ谷左岸の辺りが「蔵光屋敷」で、対岸のフルベ谷右岸が「屋敷跡」とされている。川を挟んで屋敷を拡げても悪くはないが、深い山間のこの地にそのような大規模な屋敷を構える用途があったのだろうかという気がする。

 作業道からフルベ谷の蔵光屋敷へ下り付いてまず目に入ったのは、険しい山間にしては広大で荒れた、川幅一杯に土砂の積み上がった川原であった。1970年代の国土地理院の航空写真では樹林のようであり、平成23(2011)年の紀伊半島大水害でフルベ谷源頭の林道の辺りが大規模に地すべりしたので、石だけの荒れた川原になったのは最近のようだが、谷幅が広がって平坦になっているのは手持ちの平成5(1993)年の地形図でも見て取れる。但し、下手側はすぐ東の小山からの尾根で谷が曲がって狭くなって河原が終わっており、広い河原は上手側だけに続いていた。


蔵光屋敷の河原
(上流側)
2018年夏撮影
押し寄せる土砂の下手に
屋敷を構えようとは思うまい

蔵光屋敷の河原
(下流側)
正面(東)に尾根の
コブがある
川の流れはコブの右下へ

蔵光屋敷の
東のコブより下は
深い谷で河原はない

尾根のコブの
北西の隅にある
小祠

 奈良県十津川村などでは方言で川の底を「しき(敷)」と言う26)。急峻な子ノ泊山の斜面に突き上げるが谷筋が広くて浅い、桐原集落から見えるフルベ谷源頭の豪雨による大規模な広い谷を埋めてしまう山崩れは数百年の単位で何度も目撃され、「蔵光屋敷」とは、深い山中にあった山崩れが埋めた広い岩河原であったということの「蔵光(の)岩敷(いわしき)」と言うことだったのではないか、「ぞうこう坊墓所」と「蔵光屋敷の東の森に宝物が埋蔵されている」というのは「蔵光の蔵光屋敷の東側の樹林の小山の出尾根に堰き止められて『谷が』土砂で埋められている」と言うことでは無かったか。一〜四ノ滝や一族山の布引ノ滝から、「ぞけた」、「ほどけた」のは滝場のことではないかと先に考えたが、今に小祠が蔵光屋敷にあるのは、蔵光屋敷の小祠の辺りが崩れ落ちた土砂の舌先であり、土砂がこれより下には下ってくれるなと祀られたのではなかったかと考え直す。「ぞんこ」や「ぞうこ」は「ぞけ・を」の「ぞけ」が強調された形であったと考える。蔵光が大里村持ちに定められた時かそれより前であったか、岩屑流は届かなくても土石流と泥流に被害して大規模な山の「ぞけ」、「ほどけ」を目の当たりにした蔵光山の川下の前線の切原(桐原)村で、大里村とは別に里でも荒ぶる神霊を宥める必要があるということで産土神の若宮となったのが、漢字を宛てた「蔵光」が人名ともとれたが故に武士蔵光の霊となって伝わり、紀伊続風土記に書かれたのではなかったか。


蔵光屋敷から鞍部を
越えた北側の
シキミの河原

 人知れず樒(しきみ)を数々指し置くというのは、蔵光屋敷の河床が曲がっている所である「しき(敷)・み(廻)」の誰も見ていない深い山間の所で土石流が差し置かれた(止められた)のが数々(何度も)あったということではなかったか。誰も登らないのにとても綺麗で雑古の塚があるというのは、雑古の塚のある所が美しいと言うことでは無く、人のあまり行かない蔵光屋敷が押し寄せる土砂できれいさっぱり埋められているということではなかったか。上に大きな二本の樒が生えているというのは、小祠の上手の直上の尾根の鞍部へ南側のフルベ谷と北側の谷が両側から広い川原地の曲がっている所である大きな「しき(敷)・み(廻)」が2つ穿入していると言うことではなかったか。桐原方面から浅里方面への山越えの昔の道に、北側の「しき・み」の谷(この谷の名を知りたい)を登り鞍部を越えてフルベ谷へ下りて更に登るルートがあったようである28)。鞍部から北側の谷に下りる道の跡と、鞍部北側付近の北側の沢筋に沿った道の跡は2018年に確認した。

 勝った側なのに落ちているという、平家物語を知っていれば違和感の湧く「源氏の落ち武者」は、フルベ谷源頭という「水源(みなもと)(の土砂)の落ち申し」たのが蔵光山ということではなかったか。落ち武者ならミナモトではなく平だろうということで生まれたのが平蔵光ではなかったか。或いは、「(土砂が)落ち(て敷き詰められ)た平らな蔵光屋敷(たいらなぞうこうやしき)」が「落ちた平蔵光屋敷(たいらのぞうこうやしき)」跡とされたのではないかとも考えてみる。

 より古い表現が「ぞ(っ/ん/ー)け・を(峰)」の「ぞこ」/「ぞっこ」/「ぞんこ」/「ぞうこ」で、後に後ろに「峰」がついて「ぞうこ・を(峰)」ということで「ぞうこう」になったと考える。後に更に山がついて「ぞうこう(の)山」ということで「蔵光山」となったと考える。

 また、安曇野の常念坊に代表される山名語尾としての「ぼう」と言う言葉があった26)ので、山名・山地名として同義反復の「ぞうこうぼう」が、ヲの音が中世までにオの音と同化した29)ことも関係するだろうか、「解け尾」が「仏尾」と意識されるようになって江戸時代前期までに「ぞうこう坊」という僧の名となり蔵光氏が誕生し(或いは使われなくなった wo の音が地名と言う固有名詞の中に残ったのが山名語尾「ボウ」で「ぞうこうを」で「ゾウコウボウ」と表記されたかとも考えてみる)、江戸時代後半に入ると紀州新宮領分見聞記に古城跡の説明に続けて、ぞうこう坊の名を落として雑古の塚が書かれたように蔵光氏は僧ではなく武士だったのではないか、山中で目的が分からなくなっていた数々の塚と関連付けられて死因も戦死では無いかと言う説が生まれ、更に紀伊続風土記の中で地元に伝わる武人である赤井(赤木)三兄弟の弟が蔵光山を領していたという記述に続けて「蔵光が住んでいたから」という山名譚が書かれることで蔵光氏は赤井家の一員となり、大正になり地形図で熊野川本流筋側での呼び方であった「子ノ泊山」が相野谷側にも広く知られるようになると、住んでいただけではなく寝泊りをしたことになり、源氏か平氏か南北朝時代の人かと詮索され、その死は埋蔵金まで付いて家臣ともども討ち死となったものではなかったか。

 紀伊続風土記にある蔵光宮の古い鰐口の年記の正長2(1429)年の前年の、満済准后日記の正長元年5月23日に「大雨。洪水云々。」とある。建内記の同日に「夜来深雨、晩来属晴、更闌又滂沱」とある。正長元年の台風シーズンに天候記録の見当たらない日があるのと、紀伊半島東岸での記録でないのでどうもはっきりしないが、或いは蔵光山では正長元年5月23日の大雨による山崩れが起こり、翌年の雨期を前にした3月晦日に鰐口を新調した山を静める祈祷が行われたのではないかと考えてみる。


七十五人塚

七人塚

・ななね(なだね)?

 七十五人塚の名は子ノ泊山の旧名を含んでいると考える。七十五人塚は紀伊続風土記にもあり、紀宝町誌には「ななじゅうごにんづか」とフリガナがある。子ノ泊山は入ってみれば峻険だが、熊野川下流方面から眺めた山容は伏せた深皿のようになだらかである。この、なだらかな山のあり方を「なだ(平滑・平穏の意17)・ね(嶺)」と言ったのが「ななね」に訛り、「なだね」の意味が忘れられてその稜線が「ななねヶをね(尾根)」と呼ばれ、そこにある山越えの目印の塚が「ななねがをねのつか」と呼ばれたのが訛ったのが「ななじゅうごにんづか」と考える。日本語には d と n 、d と z などに位置の近似から、野良猫をドラネコと言ったり、「退く」を「のく」とも「どく」とも言ったり、「撫でる」を「なぜる」と言ったり、終助詞の「ぜ」を「で」と言ったりするような相通がある35)。ダがナになり、ネがデを経て、或いはゼも経てジュウとなり、ガヲがゴとなり、ネがニとなり、ノがンとなったと考える。七十五人塚が本当に中世の作や弔いの塚だとするには、埋蔵物の調査や形状からの時期の推定が必要だと思う。本来の浅里辻は七十五人塚の場所ではないか。


出合から見た
地蔵谷
水の少ない支流

地蔵谷出合より見た
中ノ谷
石柱もあるが本流

地蔵谷の出合付近
巨大な石柱で溢れる

地蔵谷出合付近の
石柱は右岸から落下

 山頂から50mも離れていない直下にある七人塚は塚としての形状がはっきりしないものだ。塚とされる岩は山の基盤岩が土から露出しているだけで、石や土を積み上げたものとも言えない感じである。当所の七人塚を「ななにんづか」と読むのか「しちにんづか」と読むのかよく分からないが、七十五人塚に関連して「ななにんづか」であり、「ななね・の・ずっこ(山頂)」の転が「ななにんづか」で、山頂のことを指していたのに「塚」と捉えられて、無理をすれば塚と言えなくもない山頂直下の岩のこととなったのではないかと考えてみる。

 紀宝町誌(2004)に「桐原浅里林道の途中に子ノ泊山登山口が右にあり、その左側の谷底に」あり柱状節理の岩の柱が倒れて折れて下向きになっているという七折地蔵(ななおれじぞう)七尋地蔵(ななひろぢぞう)とも)の「七折」も、子ノ泊山の別名としての「なだ・をね(尾根)」か、「なだ・を(峰)の(助詞)」かと考えたが、「ななをね/ななを」と「ななね」が並立するのか疑問であった。

 七折地蔵は折れて横倒しになった柱状節理の岩の柱と昭和54年の地蔵と享和3年の石灯籠があるのが紀宝町誌に写真である。落ちた柱状節理の岩の柱があった岩壁に嘗て3mもあるヒヒ猿の害を除ける地蔵が綱に下がって彫られたというが、本当なら落ちて折れた石柱に地蔵の図像が確認されていても良いわけで、落ちる前に地蔵が彫られていたというのは後付けではないかという気がする。「七折(ななおれ)」も d と n の相通が関わる横倒しになった様を言う「寝倒れ(ねだおれ)」の転訛で、「地蔵(じぞう)」は柱状節理の山の本体から細かに割れた岩を指す「ちぢ(千々)・いは(岩)」(ちぢわ)の転訛ではなかったかと考えてみる。石灯籠が残り、途絶えた祭典が行われていたというのは危ないからこれ以上落ちてくれるなという祈りではなかったか。3mのヒヒ猿(ザル)の害を除ける地蔵を綱で下がって彫るというのは、3mのひび割れと位置のズレかゾレ(状態の悪化)が12mの岩の落下前に発生し、綱で下がってひび割れが進んで崩れないか「ちぢわ」をほじって点検したということではなかったか。岩が落下して折れた直接の原因となった倒れる際にぶつかった樫の大木を伐採した炭焼き職人が後に亡くなったというのはバチ当たりの示唆ではなく、もう亡くなったから話は聞けないというだけではなかったか。子ノ泊山に突き上げる地蔵谷も地蔵に関わる谷ではなく、「巨岩の点在する22)地蔵谷は、入ると話の七折地蔵のような柱状節理から離れた巨大な石柱がよく見られる谷と言うことの、「ちぢわ(ちぢ・いは)」谷だったのではなかったか。

 紀宝町誌の出た2004年頃の林道沿いの登山口を桐原(地蔵尾根)コースの登山口と考えて、七折地蔵を2013年に林道の桐原登山口から地蔵谷に下りて、2019年に四ノ滝の上の出合から地蔵谷を遡って探してみたが、紀宝町誌の写真にある全長12m余という石柱と地蔵と石灯籠を見つけられず、七折地蔵がどこだか分からなかった。紀宝町の「文化財を訪ねて」(1990)の文化財位置図に示される、蔵光の棚田跡の下手の相野谷川右岸の七折地蔵の位置も2020年に訪ねてみたが、石柱と地蔵と石灯籠を見つけられなかった。昭和54年に新しい地蔵が林道工事に絡めて建立されたと言うことなので、この頃の林道の工事と林道脇の竣工の銘板から分かる今の桐原コース登山口の辺りに七折地蔵はあり、林道山側の柱状節理の根元に三ヶ所あるコンクリの祠に収まる新しい地蔵も同じ時に祀られたのだと思う。中ノ谷と分かれた地蔵谷は出合付近の巨岩帯を抜けると傾斜の緩い小石の河原が続く歩きやすい谷筋だが、桐原登山口直下の地蔵谷の二股(標高370m)からまた巨石累々の傾斜のある谷筋となって歩きにくい。川島功(1976)の昭和50年の地蔵谷の溯行記録を見ると当時の登山道は地蔵谷の二股の下手100m以内から左岸の谷筋を離れて今の登山道に続いていたようなので、二股下手から今の桐原登山口の間の斜面を谷筋から離れて登る道があり、その道沿いの紀宝町誌の書く林道より谷側に七折地蔵はあるのだと思う。

・とおみを?・深山

 紀宝町老人クラブ連合会による「ふるさとのむかしばなし」の第七話「蔵光の宝」では子ノ泊山山頂と思われる所を「東明」21)としているが、フリガナが無く読み方が分からない。「とうみょう」なら蔵光山地最高地点としての「遠見峰(とおみを)」のことかと考えてみるも、まずは地元の方に「東明」の読み方を伺ってみたい。また、蔵光山を大里の村人は「深山」と呼んでいた21)としている。こちらもフリガナが無いが一般的な「み(御)・やま(山)」で、奥山のようなニュアンスであったか。「蔵光の宝」は創作の色濃い物語だが、舞台としての地名は伝来のものを用いていると思われる。

・支峰

 南西の843m峰は飯盛山22)で、この山の名も紀伊続風土記に登場する。名所古跡調べでは「飯森山」と書かれている。入鹿組在々諸色指出帳では「いひ森」とある。飯盛山は熊野川からよく見える、盛った御飯のような山である。焼けーの名もまた焼倉山と名所古跡調べ・紀伊続風土記に登場している。紀伊続風土記では「山ノ上に高さ四町許の岩倉あり 峻にして到るものなし」と、南面の大岩壁が書かれているが400mもの高さはなくて多めに見積もっても岩壁の高さは250mくらいだと思う。入鹿組在々諸色指出帳に「祢の泊り石大檜」とある「大檜」も、「見通し」として登場する地名なのでピークの名かと思うが、どこだか分からない。

参考文献
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