一族山 通り峠の 丸山千枚田展望台から |
一族山 | (800.5m) |
いちぞくやま |
入鹿頼兼の一族に因んで一族山と呼ぶともいう。入鹿(いるか)は現在の熊野市の、平成の大合併前の紀和町中心部の元の地名で学校や神社の名で残っている。地元の人は一族山を「大峯山(おおみねさん)」と呼んでいる2)様だ。北面から西面にかけて、熊野古道の本宮道が山麓を巡っている。熊野古道以外の木馬道も残っている。新しい道でも古い道でも多用されている石積みは熊野地方らしい。ドッシリとよくまとまった山体でほどほどの標高ながら存在感は大きい。南面の布引谷川流域には名瀑が多く、中でも布引の滝は日本の滝百選にも選ばれているという。
紀伊続風土記(1839)には「一族山」「大峰山」又は「入鹿一族山」とあった。紀伊続風土記は更に入鹿八幡の棟札に記された総領の姓氏が「山本」であることから、入鹿(いるが)は姓氏などによるのではなく地名であろうと解く。入鹿荘九ヶ村持合の山だったという。大峰環境保全林の看板にもあるように、地元の人には「大峰山」とも呼ばれている2)ようだ。地元で大峰山と呼ばれていることに、「大峰山」と言う地名が奥駈道のある大峰山脈の大峰山に限局されない一般的な地名用語であったことを感じる。大峰山という呼び方は山頂に置かれた明治時代選点の三角点の点名「大峰」にも見られる。
紀伊続風土記の解く入鹿八幡宮の最も古い棟札は延徳3(1491)年のもので、紀和町史別巻にそれ以降のもの共々翻刻されている。延徳3年の施主は山本総領義家とのこと。代々の棟札の文中には何度も「一族」の文字が用いられ、この地域では「一族」と言う言葉が大事にされてきたのだろうという印象である。
紀伊続風土記には村が自然に増えて豪族のような人々が争うので京都から武士が派遣されて、その三人の息子の長子が入鹿の地頭になったと言う話だとある。息子三人の話は近隣の子ノ泊山(蔵光山)にも赤井一族の三兄弟の話4)があり、何かしらの混同か、この地方に普遍的なものがある印象である。
鉱物資源の利用を重視したから一族の山として「一族」を冠した5)との見方があるが、利用できる技術者集団が限られていることや、鉱脈が現在の大河内集落と小栗須集落を結ぶ線より西北に限られていることから、一族のものと考えるにしても林産物(木材・薪・木炭・下草等)を念頭に置いた一般的な入会の意味合いでの一族山ということに限られるのではないかと思う。だが、一族のものなら揃っている姓氏等だけで呼べば分かり良いのに「一族の山」と呼ぶのは奇異である。背反する、入鹿荘九ヶ村持合の山ということと、京都から来た武士の三人の息子の次男・三男は入鹿荘以外の土地を支配しているということが紀伊続風土記に書かれているので、「一族の山」の実態があったのかどうか怪しい気がする。
入鹿八幡宮辺りから見た 一族山 |
地元の古文書に見られる一族山の隣の山である子ノ泊山の別名「蔵光山」が「ぞんこ山」「ぞこ山」4)などとあり、一族山の「族(ぞく)」の音と似ていることが気にかかる。南紀方言語彙に「ぞくる」というものがある。動詞で「落ちる」とか「倒れる」と言う意味である6)。蔵光山の名を検討すると、「ぞくる」の連用形の「ぞけ」で、山崩れのある山と言うことの「ぞけ・を(尾)」で旧記の「ぞこ山」の「ぞこ」となっているように思われる。
入鹿八幡宮の辺りから見る一族山は険しくそそり立つ山で高い岩崖も見える。一族山一帯は岩が多く、そそり立つ斜面の直下は岩の隙間が多いのか水気が乏しい。山肌そのものが「いし(石)・ぞけ(落)」だったのが転訛して「いちぞく」になったのかも知れないと思う。
大峰修験の隠された行場があったので大峰山と呼ぶと言う「南紀の山と谷」の見方2)については、布引の滝に不動明王が祀られているが、あまりに本家の大峰山や新宮本宮と近いので、その理由で大峰山と呼んでは混乱しそうな気がする。文字通りこの辺りで一番の「大きな峰」の意味でなかったか。戸屋岩・布引滝・北側の一峰に修験道の隠された行場があったとする「南紀の山と谷」には出典が書かれておらず、どのような経緯で集められた情報なのかが分からない。地元の伝承があったのだろうか。
・入鹿
入鹿(いるか/いるが)について、林蕃生(1963)が支谷を指す「いる(入)・くわ(小わき)」ではないかとしているが、どの谷がその支谷なのかが述べられていない。熊野川に対しての板屋川のことか。或いは熊野川から奥にある「入り・処(か)」か。埼玉県の入間は、「いりま」だったのが平安時代に「いるま」になったと言う。「いり(入)・か(処)」や「いり(入)・クワ」が「いるか」になることも考えられるのか。
板屋から大栗須にかけては熊野川流域では少ない多少開けた土地であるが、板屋川(入鹿川ともいう)の吐合は他の支流同様狭い上に、少し入り組んでいる。落ち口だけでは上流に開けた土地があるのが分かりにくい。クワは方言で「わき(脇)」のような意味が現代に伝わる。柳田国男は地名において、クワはクボとほぼ同じ意味を指す場合があるとしているが、横に入っているそこそこ大きな板屋川の谷筋をクワと呼ぶのか、どうもイメージがはっきり湧かない。奈良の東大寺の大仏にも使われたと言う古くから知られた鉱産資源や中世に花開いた入鹿鍛冶の伝統から「鋳る処」も考えたくなるが、動詞「鋳る」は上一段活用なので名詞や動詞の連用形に掛かるカ(処)で受けると「イカ(鋳処)」となり、「いるか」の音から離れる。
熊野川から入る処かと考えてみたが、熊野川の河谷は狭く長く屈曲している。人が増えて入鹿に進出してくるとしたら熊野川に沿ってではなく、風伝峠を越えてくる方が先のように思われる。入鹿の「入」は単に入るというよりは、入った奥の意と考える。風伝峠は札立峠などに比べると標高が低く地形も緩やかでかなり入りやすい峠である。風伝峠を越えて下り、平野と言えるほどに谷が広がるのが大栗須や小栗須の入鹿の中心地である。入鹿川と板屋川の名が並立し、板屋地区が入鹿八幡宮と離れて下手に位置することを考えると、入鹿は風伝峠側から入った人々による命名だったのではないかと思う。入鹿は風伝峠から奥に入った生活適地ということの「いり(入)・か(処)」の転か、奥に入った凹んだ所という意味の「いり(入)・ふ(節)・か(処)」の約まったものではないかと考える。
入鹿頼兼の出自については紀和町史(1991)で詳細に検討されているが、はっきりとは分からないようだ。鎌倉時代初期の、尊卑文脈に載る源氏の新羅三郎義光の七世孫、山本頼兼などが入鹿氏の始祖の候補として考えられると言う。
戸屋岩 |
・戸屋岩
紀伊続風土記には「戸屋倉」とあった。戸屋岩のトヤを当初は日本の昔話の絵本などで農家に庭先に描かれる小さな鋭角な屋根を持つ藁で造るような鶏小屋(鳥屋/とや)と例えたのではないだろうかと考えていた。野鳥を獲る猟師の小屋が在ったことによると言う説もあるようだが、戸屋岩のような目立つ岩を猟師の小屋の存在で呼ぶとは考えにくい。
だが、鳥小屋に例えるというのも、尖ったものなら他にもあるだろうということで、おかしな気がしてきた。鶏小屋なら尖った形状になるかもしれないが鷹小屋は尖った形状とはならないようだ。
形容詞「鋭(と)し」の語幹用法で、鋭い岩だと言うことを「鋭(と)・岩(いは)」と言っていたのが約まって「とや」となり、後ろに更に「ー(ぐら)」や「岩」が付けられたのが「戸屋倉」/「戸屋岩」ではなかったか。
布引の滝駐車場から林道を下ると布引の滝が見える。滝の下へ立派な階段がある。階段の途中にはトチノキがある。少し林道を下った処に不動明王の石祠と滝の展望台がある。更に林道を下るとカーブの所にトイレがあり、その少し下手にブロック造りの祠がある。滝の音が聞こえる。下の荒滝からである。
ヘアピンカーブの下で荒滝が見下ろせる。乱れる水だが美しい滝である。ガードレールの下に踏み跡があり、滝の下まで行ける様だ。更に下りると下方から滝の音がする。今度は隠れ滝の音である。その後、松山滝のある松山川を渡る。松山滝の上に当たる。ここの松山川の右岸に上流に向かって石畳がある。「座禅の滝」が松山川の上流にあるとどこかで読んだ。標高320m付近で松山川の右岸から注ぐ支谷の水が10m程度の落差で段々に落ちていたが、それが座禅の滝だったろうか。水が少なく少々滝と呼ぶのは憚られる姿だったが、そこより上の松山川は伏流で水が無かった。車道に戻り次のヘアピンカーブを下りて次の橋の上から松山滝が見える。松山川を渡ると松山滝にも滝壺へ下りる踏み跡があるが、潅木があってカメラアングルが難しい。松山滝は布引谷の滝に比べると水量が少なく細い。滝の上には滑床が続いているのが見える。松山滝の反対側には楊枝川の上に子の泊山から続く山並がそびえている。
布引谷に下りて橋を渡り、右岸にある踏み跡から隠れ滝に向かう。道は多少荒れて歩きにくいが隠れ滝もまた布引滝や荒滝に劣らない美しい滝である。
土伝滝は一族山北面の矢倉川に注ぐ谷の滝で、矢倉川の紀和の層雲峡とも言われた「せばと」の末端に位置する。矢倉川沿いの国道311号線から僅かに入ったところにあり、不動明王が祀られている。
布引の滝 |
ナベラ滝 |
松山滝 |
隠れ滝 |
荒滝 |
シクヤ滝 |
小滝 |
土伝滝 |
参考文献
1)仁井田好古,和歌山県神職取締所,紀伊続風土記 第3輯 牟婁 物産 古文書 神社考定,帝国地方行政学会出版部,1910.
2)新宮山の会,南紀の山と谷,新宮山の会,1977.
3)紀和町史編さん委員会,紀和町史 別巻,酒井一,紀和町教育委員会,1994.
4)紀宝町誌編纂委員会,紀宝町誌,紀宝町,2004.
5)吉住友一・岩出好晃,分県登山ガイド 三重県の山,山と渓谷社,1996.
6)森彦太郎,南紀土俗資料,名著出版,1974.
7)林蕃生,南紀地名の研究,pp39-64,8,熊野誌,熊野文化会,1963.
8)中田祝夫・和田利政・北原保雄,古語大辞典,小学館,1983.
9)日本大辞典刊行会,日本国語大辞典 第一巻 あ-いくん,小学館,1976.
10)柳田國男,柳田國男全集20(ちくま文庫),筑摩書房,1990.
11)紀和町史編さん委員会,紀和町史 上巻,酒井一,紀和町教育委員会,1991.
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