子ノ泊山
瀬原から

写真の方角は子(北)

子ノ泊山
上桐原から

子ノ泊山
荷手野峠付近から

支峰 焼倉山
林道子之泊線(浅里)から

支峰 飯盛山
日足から
子ノ泊山/蔵光山(906.7m)

 子ノ泊山は十二支のうちの子(ね/ねずみ)と関わりある字を用いられた山名1)として知られている。しかし山頂直下までブル道が延び、登山する者にとってはやるせなさの残る山登りになる山だろう。「ねのとまり」という変わった印象を受ける山名は平家の落人の平蔵光一味がこの山で「寝泊り」した岩窟があることによる2)とも、新宮の港(泊)を山当てする際に北(子)の方位にあるため3)4)とも言われる。また、修験者の法螺の「音(ね)が止まった」と言う伝説もある5)。蔵光山とも言い、一帯を蔵光山地と言う。三角点のある本峰とほぼ同じ高さの北峰がある。


★山名考

 蔵光山の名は現行地形図(2011年現在)では山頂から北東側に偏った地点に振られているが、紀州藩の藩撰地誌である紀伊続風土記(1839)には「入鹿一族山に接して浅里郷浅里村界まで南北凡(およそ)二里許(ばかり)連なれる荘中の高山なり」と記されており、山塊として現在の子ノ泊山の別称である歴史はあった。紀伊続風土記には「子ノ泊山」と言う山名は出てこない。子ノ泊山と言う呼称は比較的新しいのでは無いかと思う。明治20(1887)年に山頂に設置された三角点の点名が「子ノ泊山」である。地形図(五万図)では大正2(1913)年発行の最初のものから「子ノ泊山」と振られている。山頂から外れて紀宝町大里の蔵光地区に振られる「蔵光山」も同様に大正2年版の地形図からあるが、現在の地形図での地名は地元の自治体からの上申である。紀宝町としては山頂としての蔵光山ではなく、山地としての蔵光山が蔵光地区と言う認識なのだろうか。

 「子の泊山」と言う山名についての三つの語源説を冒頭に記した。平蔵光一味寝泊り説2)、新宮港(泊)の子(北)の方角説3)4)、修験者の法螺貝の音の止まる山説5)である。他にカモシカが仔(子)を産みに来て泊まったと言う説もあるようだ8)

 平蔵光と言う氏名は平氏のようだが、地元の紀宝町誌(2004)では「源氏」の落武者赤井蔵光が住み着いたと書いている。桐原登山口の紀宝町教育委員会の看板には「平家の落武者赤井蔵光が住み着いたところからこの名があるとされる」と書かれている。江戸時代の紀伊続風土記では相野谷の大里村の条で、大里村に赤木三兄弟がいて、その中の弟・赤木清住が蔵光山を領したと書き、続けて山の名は蔵光という人が山中に住んだから蔵光山と言うと解くが、蔵光氏の氏姓についてや赤木三兄弟と蔵光氏の関係については書かれていない。紀宝町誌に一部所引される大里赤井文書では赤木三兄弟は「赤井」三兄弟となり、兄弟の名も紀伊続風土記に記載されるものと似てはいるものの一部異なり、赤井三兄弟が大里村の殿であると書くが同じ伝承に基づくものであろう。こちらでは蔵光氏・蔵光山は登場しない。後述の管見の限りで蔵光氏初出と思われる史料には逆に赤井(赤木)三兄弟の話は出てこない。紀伊続風土記の赤木三兄弟の弟が蔵光山を領したと言う話と、蔵光氏が蔵光山に住んだ話は独立である。大里赤井文書の年代や著者は分からないと言うが、記載された内容から慶長(1596-1615)よりは後のようだ。この話は熊野年代記では慶長の二つ前の元号の天正の13年の出来事とされているが、一部が異なって大里赤井文書に比べると文量が少なく分かりにくい文章となっている。内容のあらましだけでなく兄弟の領地として挙げられている地名が配列も含めて殆ど一致しているので独立の文書とは考えられないが、大里赤井文書が熊野年代記を補ったものか、共通する参照された先行資料があったのかなどの文書の系統の問題は分からない。大里赤井文書には三兄弟の話について、年号は不明で赤井衆が火事を出し、それらに関する確たる書物が失われたとある。

苗字 長男 次男 三男
大里赤井文書 赤井 富住 之住 清住
熊野年代記 赤井 高住 清住 元住
紀伊続風土記 赤木 高住 元住・清住

 平八州史(1973)は速玉社に残る「新宮合戦注進状(熊野山総神官等注進状)」12)を引き、蔵光氏を平家の落人とも後南朝の人とも言われてきたが、そうではなく南北朝時代の人であり、赤井氏とは相野谷庄の荘官であって南北朝の争いで大里村のある相野の庄司の兄弟が南朝方に付き、所領である蔵光山に立てこもり討ち死し、これが蔵光山の名の由来であろうと推測しているが、新宮合戦注進状の中には蔵光氏も相野庄司兄弟の氏名も蔵光山も書かれていない。相野谷も南北朝の争いに巻き込まれたことは分かるが、新宮合戦注進状から蔵光なる人物の存在を推定するのは無理があるように思われる。新宮合戦注進状の中の「相野庄司兄弟」と書かれている部分に紀伊続風土記や大里赤井文書の赤木/赤井三兄弟の記事と合わせて注目したのかもしれないが、同注進状では有馬庄司も兄弟と書かれており、武士が兄弟で事に当たるのは源頼朝・義経兄弟から徳川御三家に至るまで普通のことであろう。この注進状に「兄弟」と書かれたから相野庄司兄弟が赤井(赤木)兄弟と同一とみなすのは飛躍がある。そもそも「寝泊り(ねとまり)」が「ねのとまり」になること自体、日本語として駄洒落以上には無理がある。北尾根上には寝泊り岩という岩屋もあるというが、それならなぜ「ねとまりやま」と呼ばれないのだろうか。子の泊山と言う名が先で、寝泊り岩の名が後からだからだろう。

 新宮港の子の方角説3)であるが、子の泊山は磁北真北の違いを考慮しても新宮港の西北(戌亥)であり、無理がある。下り船から見れば北(子)に近かったとしても、上り船では西(酉)の方角である。標高や山容に特徴の乏しいやや内陸の子ノ泊山が山当ての対象になりうるのかどうかも疑わしい。また、新宮港の北の山なら「泊の子山」と言う名前の方が日本語として自然な気がする。方角に「泊(港)」が付く場合、その方向からの風に対して安全な港であることを指していることがある(西風泊ニシドマリ・東風泊ヒガシトマリ・鵜泊ウドマリetc)。しかし南東に開け、北東と南西に航路を持つ新宮港(熊野川河口)の条件は近隣の木本脇の浜港や宇久井港、勝浦港と同じで北風で特に留まる港たりえない。新宮港を殊更に子の風の泊と名づける理由は無い。

 修験者の法螺貝の音が止まる説はネ(音)という音だけに拠った付会であろう。カモシカの出産についてもネの音とつながらず、「子」という漢字の字面による付会と思われる。

 子ノ泊山南麓の浅里地区は南流してきた熊野川が北に撓む地点にあり、熊野川に沿って吹き降ろす北風から子の泊山によって守られる。浅里は熊野川に帆を掛けた川舟が行き来していた頃には北風を避ける停泊地であったことが考えられる。北風が卓越する冬の川舟の遡行は曳き舟によっていたという13)。しかし、夏場の川舟は帆走で遡行していたという13)。夏場でも北風の日が皆無と言うわけではないだろう。地名に用いられる「泊」は海の交通を原則とする14)が、内陸にも見られる15)。風待ちにとまる泊なら海の泊と同じ様式の命名である。農繁期の北風の際は曳き子も足りないことがあったのではないか。外洋熊野灘を航海する船にとっての北風泊ではなく、熊野川を遡行する川舟の「子の泊」=浅里で、その浅里の山ということでの「子ノ泊山」ではなかったかと考える。浅里は船継地ではあったが、浅里=北風泊とする史料を探せていないのが課題である。

 次に蔵光山という山名について考えてみる。

 周辺に「蔵光」という地区がある。現行地形図(2011年現在)で「蔵光山」と書かれる山間部、一の滝より上手が紀宝町大里の字「蔵光」である。

 寛文7(1667)年頃の紀州藩の名所古跡調べでは「ぞうかう山」「そうこう山」「ぞこ山」「ぞんこ山」と書かれる9)。引用した紀宝町誌所収の古文書は寛文7年の調べを元に正徳元(1711)年に書き改めたものの写しのようである。また、大里村北西方の仏尾について「ぞうこう坊基(墓?)所と申て人不知毎日しきみ(樒)枝ヲ指置く候よし申伝候」と書く9)。蔵光氏は武士ではなく僧であったかのような印象を受ける。また、この頃は人によって発音が微妙に異なり、「ぞうこう」に当てる漢字も平仮名も定まって無かったのではないかとの印象を受ける。仏尾は大里村の北西ということから字蔵光の周辺かと思われる。

 明和4(1767)年頃の成立と見られる16)熊野見聞記では「雑古山」「ぞうこ山」と書かれているという17)。熊野見聞記と同根か、或いは熊野見聞記の元になっているかと思われる紀州新宮領分見聞記18)では、大里村の古城跡の条で仏の尾に「(新?)古の塚」があり、「人知れず樒の枝を数々指し置くといふ・・(中略)・・上に大なる樒の木二本ありといふ」と書く18)。また、上桐原村の条は「辰巳向 後は山 前は雑古(木?)」と書く。上桐原の雑古とは紀伊続風土記の書く蔵光宮で、現在の上桐原の集落の南東隅に位置し、第二殿として蔵光殿を祀る桐原神社のことかと思われる。紀州新宮領分見聞記での仏の尾については、大里村の古城跡の条に古城跡の説明に続けて書かれていて分かりにくいが、古城跡についても仏の尾についても紀宝町誌所収の名所古跡調べの大里村の条に文が似ていて、これを参考にしていると思われる。名所古跡調べでは独立していた仏尾と古城跡の各条がつなげられたような印象を受ける。熊野見聞記では大里村の条で紀州新宮領分見聞記と同文の山の説明の前に「雑古山」と見出しを付け、最初に「ぞうこ山と申す山あり」と書いている17)という。

 安永7(1778)年の、相野谷川下流に位置した鮒田村の古文書では「蔵高山」と書かれている9)。名所古跡調べや鮒田村の古文書は紀宝町誌と言う形で地元の伝承などとまとめて閲覧できる。古文書の公開を許諾された所有者の方々や、編纂作業に携わった方々に感謝したい。

 天保10(1839)年に完成した紀伊続風土記の蔵光山の条では、この山が大里村持ちで「山の名は昔蔵光といふ人ありて山中に住せしより起こる。屋敷跡に碑石あり。側に七十五人塚といふ塚あり。その臣を葬るといふ。」と書く。


桐原神社社殿
向かって左が蔵光殿19)

桐原神社社叢

 紀伊続風土記では更に、山の北東に位置する下桐原村の条で聖徳太子社の境内に「蔵光宮といふ石寶殿あり」とし、正長二年(1429年)と銘にある古い鰐口を有したと書く。また、蔵光山の条では「蔵光死して後其霊を桐原村の産土神の境内に若宮と称して祀るといふ」と書いている。若宮と言う称は祟りやすい神に奉られるともいう。下桐原村は延宝5(1677)年に桐原村が上下に分離したと言う。

 紀伊続風土記は蔵光山の南側の浅里村の条では、子ノ泊山の山頂近い焼倉について、山中仏の尾に「曹洪房という山伏の墓といい伝へて古き石塚あり」と書いている。墓については子の泊山山頂から町境の尾根に沿って塚(ケルン20))が幾つも見られる。中でも蔵光塚は1m以上の高さを持つ大きなものである。また、山頂と浅里辻の間にある七十五人塚も大きなものである。それらと関連付けられての伝説であろうか。仏の尾は大里村の名所古跡調べで登場した仏尾と同じだろう。山伏の名が「曹洪房」と、最初の音が清音だが同じく名所古跡調べで登場した「ぞうこう坊」のことだろう。

 大正2(1913)年、陸地測量部によるこの辺りの最初の地形図である初版の五万分一地形図「新宮」図幅が発行される。この地形図には「子ノ泊山」と言う山名が載る。

 大正14(1925)年の紀伊南牟婁郡誌には「寝泊り岩」の伝説が登場する。「ねのとまり岩」とも言ったというこの岩は蔵光山中の奥にあり、茶碗の欠片などがあると言う。蔵光は寝泊り岩から出て屋敷を作り隠れ住んでいたが老婆の言で衆人の知るところとなり敵の襲撃を受けて殺され、そこが蔵光屋敷であると書く。また、蔵光屋敷の東の森に蔵光氏の埋蔵金があると書くが、その言い伝えは日本の埋蔵金伝説に普遍的な「朝日さす夕日さす・・・」から始まる。老婆の言による露見・殺害と言う事情は蔵光山に程近い新宮に育った新宮十郎行家の平家物語21)に描かれる最期に重なる。蔵光屋敷・屋敷跡は相野谷川支流フルベ谷の畔の子ノ泊山山頂の東約1650mの辺りだという22)。この埋蔵金伝説を「紀宝町の文化財」は蔵光(光るもの―黄金―埋めている)という表記から想像されたものと思われるとしているが、紀伊続風土記での人名としての蔵光が紀伊南牟婁郡誌での埋蔵金伝説より一世紀近く先であることを考えると、どうだろうか。

 平成16(2004)年の紀宝町誌9)では、子の泊山の北に寄った峰が岩屋になっていて、その岩蔵(いわくら)が光ることから「蔵光(くらみつ)」と呼んでいたとするが、クラミツとゾウコウは異なる音である。その岩屋で子供の泣く声がしたり寝泊りしたと言う。熊野近隣の国土地理院の地形図に載る地名だけでも新宮市内の神倉や大台ヶ原の大蛇ー、尾鷲の天狗倉山のように岩場のことをクラ/グラ(ー)と呼ぶ例は見られるが、この説は字音を字義で解釈したもので先行する他の表記を説明できず受け入れにくい。


一間ごとに山地境界標として
置かれたと思われる
子ノ泊山新荷手野峠コースの
小塚の一つ

 蔵光塚に連続する小さな塚と同様のものは林道桐原浅里線沿いの尾根の鼻を回りこむような地点でも見られる。二の塚は新荷手野峠コースと、広尾井方面からの杣道が合流する地点にある。蔵光塚は尾根の分岐点に位置する。尾根線は谷筋と共に山間の道の常である。七十五人塚は比較的等高線の間隔が広く等間隔で谷も広い地蔵谷の左股から主稜線に上がった地点である。蔵光塚の下側に連続する小さな塚の辺りは古い道と市町境が一致していないが、小さな塚の連なりと市町境は一致している。元々は大きな塚は道標で、小さな塚は領有権の主張などをする境界標だったのではないかと思う。紀宝町誌の名所古跡の、浅里村の在所真中より一里(約4km)子ノ方(北)にあるという寺ノ尾山の条に「間毎ニ石ずへ御座候」とあるのも、境界標としての小さな石塚の性格を示しているのではなかったか。江戸時代前期に知られていた素朴な山地の境界標が、今も多く連なって残されているというのは貴重な事だと思う。

 蔵光氏の由来は「仏尾」が仏様の尾根と意識され仏様を表す「仏」の字で書かれてしまい、本来の意味が分からなくなってから生まれたものではないかと思う。また、ゾウコウと言う音は濁音から始まるので、蔵光を音読みするような漢語由来だけでなく、古くからの日本語ではない擬音語・擬態語が混ざっていることも考えてみても良いのではないかと思う。南紀方言語彙に「ぞくる」と言う言葉があり、「落ちる」「崩れる」と言う意味である23)が、活用は連用形が「ぞけ」となるなど変則的である。「ぞける」などとの関連も考えられるが、意味はよりプリミティヴである。仏尾の「ほとけ」とは「解け(ほどけ/ほとけ)」であって崩壊地形を指し24)、「解け(の)尾」で崩壊地形の峰(尾)を指し、その崩壊地形とはここの場合、相野谷の平野部の最奥である桐原から相野谷川を遡って最初の滝場であり、岩が大きく露出する一の滝から四の滝のある蔵光地区周辺のことではなかったかと考える。角川日本地名大辞典の小字一覧に記載されなかった仏尾/仏の尾は崩壊の様子が擬態で、或いは滝の音などが擬音で表された「ゾーッこ峰(を)」と同じ地域を指し、下流の桐原では時に祟りの出水と考えられたか、或いは山崩れがあったか、蔵光宮が若宮として祀られた。「こ」は「ぺちゃんこ」などの言葉に例を見る擬声・擬態語などの副詞に付いてそのような状態であることを示す接尾語である。「解け尾」が「仏尾」と意識されるようになって、日本には安曇野の常念坊に代表される山名語尾としての「ぼう」と言う言葉があった24)ので、山名・山地名としての「ぞーっこをぼう」が、ヲの音が中世までにオの音と同化した26)ことも関係するだろうか、江戸時代前期までに「ぞうこう坊」という僧侶の名となり蔵光氏が誕生した(或いは使われなくなったwoの音が地名と言う固有名詞の中に残ったのが山名語尾表記「ボウ」の語源で「ぞーっこを」のみで「ゾウコウボウ」の字で表記されたかとも考えてみる)。江戸時代後半に入ると紀州新宮領分見聞記に古城跡の説明に続けて、ぞうこう坊の名を落として雑古の塚が書かれたように蔵光氏は僧侶ではなく武士だったのではないか、山中で目的が分からなくなっていた数々の塚と関連付けられて死因も戦死では無いかと言う説が生まれた。更に紀伊続風土記の中で地元に伝わる武人である赤井(赤木)三兄弟の弟が蔵光山を領していたという記述に続けて「蔵光が住んでいたから」という山名譚が続けて書かれることで蔵光氏は赤井家の一員の武士となり、大正になり地形図で子ノ泊山と言う呼称が知られるようになると、住んでいただけではなく寝泊りをしたことになり、平氏か源氏か南北朝時代の人かと詮索され、その死は埋蔵金まで付いて家臣ともども討ち死となったものではないかと思われる。

 崩壊地形を指す「ほとけ」と「ぞーっこ」は滝を意味するのか土砂崩れを指すのか、ここの場合は滝のことであると思う。相野谷川上流域は滝が多い。仏岩と呼ばれる露岩は各地で見かけるので、滝のように岩が大きく露出している場も「解け」と表現出来る気がする。蔵光宮の「蔵光」は蔵光山の「ぞーっこ峰(を)」ではなく、「雑古」とも書かれたように「ぞーっこ」のみで滝そのものを指し、或いは蔵光が大里村持ちに定められた時か、滝のある山の中腹の蔵光屋敷の人知れず樒を差し置く場は桐原村民によって桐原の里に下ろされて桐原の産土神の若宮となり、元々は山の解けた場所である滝の多い山の、大雨や洪水をもたらすと考えられた荒ぶる神霊を祀っていたのが人名とも取れる発音や表記だったが故に武士蔵光の霊となって伝わり、紀伊続風土記にも書かれたのではなかったか。子ノ泊山の近隣に似た音である「ぞく」を持つ一族山があり、一族山にも布引の滝という有名で大きな滝があるが、一族山の山名表記の変遷は蔵光山ほど明らかではない。方言を調べてみても「ぞーっこ」と言う言葉が滝(或いは土砂崩れ)を意味すると言う情報が見つけられない。

 七十五人塚と言う名は大峰奥駈道に模した修験道の行場に模されたというようなものではなかったのだろうか。隣の一族山には別名の大峰山に対して修験道の隠された行場があったからこの名であると言う話が伝わる20)。この話の出典が辿れていないが、七十五人塚の七十五と言う数は大峰七十五靡と同じ数である。大峯七十五靡は大峰山脈七十五里に由来し、霊地としての大峰七十五靡観の成立は近世末だ27)というが、四方四隅の八方位に九星を掛けて七十二に天地人の三を加えて七十五となす28)など、後付かとも思われるが修験道の本質に七十五を求めようとする解釈もあった。山中にシキミを差し置いていたことは江戸時代前期の名所古跡調べまで辿れるが、七十五人塚と言う名は管見では江戸時代後期の紀伊続風土記までしか辿れていない。七十五と言う数字自体が行場の数として意味を持ち始めていたのではないだろうか。七十五人塚が本当に中世の作や弔いの塚だとするには、塚の形状や埋蔵物の有無などから時代や起源を推定する必要があると思う。蔵光屋敷も、○○屋敷と言う地名は紀伊半島の山間部でよく見かける。木地師の住居跡などが考えられるようだ。単に「ゾーッこ峰の(木地師などの)屋敷(跡)」ということではなかっただろうか。七人塚は南紀に幾つかあることを南方熊楠が書いている。いずれも由来の漠たる伝承が付いている。

 現在の蔵光屋敷には林道桐原浅里線から作業道の枝道が通じ、紀伊続風土記には「屋敷跡に碑石あり」と書かれたが小祠のみがある。小祠の場所はGPSで計測してみると子ノ泊山山頂の東(方位角88度)約1800mであった。フルベ谷左岸の標高350m付近である。人知れず樒を差し置いたと言われる状況から、そこに木地師などの屋敷があり、そこで亡くなった木地師が居たかとも考えてみるが、小祠は地蔵谷の露岩の鼻を回り込んだ窪地にあったことから或いは「蔵光の岩シキ」で蔵光にある岩の城、岩の処など「ヤシキ」は訛音であり、屋敷由来ではない意味であったかとも考えてみる。

 紀宝町老人クラブ連合会による「ふるさとのむかしばなし」では子ノ泊山山頂一帯のことを「東明」とも書いているが読み方が分からない。「とうみょう」なら蔵光山地最高地点としての「遠見峰(とおみを)」のことかと考えてみるも、まずは地元の方に「東明」の読み方を伺ってみたい。

 南西の843m峰は飯盛山6)で、この山の名も紀伊続風土記に登場する。名所古跡調べでは飯森山と書かれている。飯盛山は熊野川からよく見える、盛った御飯のような山である。焼けーの名もまた焼倉山と名所古跡調べ・紀伊続風土記に登場している。


参考文献
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29)南方熊楠,南方閑話・南方随筆 他(南方熊楠全集2),平凡社,1971.



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大手のエステ
(2002年12月9日上梓 2003年1月22日写真挿入 2010年2月3日山名考追加 2011年9月23日山名考改訂 2012年4月1日コース毎子ページに分割)