子ノ泊山
上桐原から

子ノ泊山/蔵光山(906.7m)
桐原(地蔵尾根)コース

 東側の桐原から登るコース。登山口より下にも見所は多い。桐原から入った奥の登山口なので桐原コースと呼ばれているようで、当頁でも従ったが、登山口と登山道の地籍は桐原ではなく大里である。

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★桐原〜登山口

 上桐原のバス停から林道桐原浅里線を登山口に至るまでに幾つか滝がある。バスの終点の上桐原に着く直前に相野谷川越しに子ノ泊山と関わりのある蔵光殿が第二殿として祀られる桐原神社が見える。上桐原のバス停から桐原神社へは徒歩1分程度である。幾つかのお地蔵様を見ながら瑞雲山松源寺を過ぎて林道桐原浅里線に登り、上桐原の奥の地区から棚田の出崎越しに子ノ泊山が望まれる。

 最初は子親の滝コヤの滝/コヤタキと書いている資料もある。高さは10mほどかと思う。子ノ泊山に向かう沢ではなく杉山地・荷手野峠へ向かう古田川本流に掛かる滝で、古田川の子親の滝橋を渡っては行き過ぎである。その手前の林道から覗き込む形で見る。滝の下から仰ぐには少し戻って切通しの下手から下流側に向かう小尾根に踏み跡があり、この小尾根を中程まで下りると右折して斜面を更に下り、古田川に着くのでそこから少しだけ沢を遡る。子と親の悲しい伝承のある滝であるが「コヤの滝」の文字を見ると単に小屋があっただけなのではと言う気もする。子親の滝橋の銘版の振り仮名も「こやのたきはし」となっている(但し「こ」は変体仮名)。或いは桐原から少し山間に入った所なので、この滝の手前の辺りが開墾を進めるために租税を免除された土地であるということで、コウヤ(荒野)と呼ばれたことがあったのかとも考えてみる。


上桐原行きのバス
@新宮駅前
子親の滝の地図
子親の滝

 標高230m付近の尾根の鼻で猪垣を横断する。山側には完全に草に覆われた作業道と巴川製紙蔵光山社有林の標柱がある。谷側には伐植記念碑への古い道が分かれていてこちらは歩ける状態である。猪垣より山手は鎌作(かまつくり)の新田跡で、新田跡に植林されている。伐植記念碑の奥に一の滝から四の滝がある。谷側の道は歩けるとはいえやや荒れていて、もう少し先に整備された現在でも使われている一〜四の滝入口へ道がある。そこまでの間に蔵光山社有林への作業道を山手側に分ける。谷側の古い道はすっかり植林された広い棚田の中程を横断する。幾つか民家の跡と思われる石組みの土台もある。猪渡谷出合で整備された道と合流する所が伐植記念碑の前である。

 伐植記念碑の前から植林された河原を進むとすぐに社殿の土台のような石組みがある。河原地の真ん中なので民家の跡ではない。棚田の中や猪渡谷の脇の石組みとは様相が明らかに異なる。変わった配置で方形の石組みに鉤型の細い枝が付いている。紀宝町誌に書かれる大里の人による大正時代の水力利用の製材所跡である。鉤の石垣で作られた細い隙間に水車が回っていたかと考えてみる。この石組みのすぐ奥に大きな堰堤があり、これを越えると一の滝がある。古い資料では10mと書かれていたが、下に堰堤ができて埋もれて2m程度となっている。それでも瀟洒で小ぎれいな滝である。

 一の滝を左から登って越えると、その奥に高さ10m弱の二の滝がある。一の滝と二の滝の間は岩盤に水路が掘られたように水が流れていて、二の滝の上に上がる為に渡渉すると飛鳥の酒船石の上を小人になって歩いているような気分である。すぐに二の滝があり、奥まった感じのするふくよかな斜めのナメ滝で、深い釜を持っている。二の滝の右側の岩盤から水が湧き出ている。この岩盤に足場が彫られていたり、金棒が埋め込まれたりしている所を登るが危うい。これを登ると二の滝の上に出る。二の滝銚子口から中ノ谷(右)と地蔵谷(左)の二股までは短いが幅広のしっかりした道である。昔は猪渡谷を渡った所から尾根に上がって一の滝上左岸の岩壁にツジカケしてトラバースで二の滝上に出ていたのでないかと思う。地蔵谷出合には壊れた吊り橋が架かっている。昔の子ノ泊山登山道はこの吊り橋を渡り、地蔵谷に沿って登っていたらしい。吊り橋の袂から中ノ谷に下り、谷底を数分遡ると6mの三の滝がある。水量は靴を濡らさない程度である。二の滝に荒々しさを加えて、更に奥まった感じのする滝であるが、滝の後ろは開けていて明るい。近寄ると右後方の四の滝が三の滝の上に見えてくる。四の滝へは三の滝の左側の岩の壁に足場が彫られ、金棒も埋め込まれているが、ごく小さく少ないもので多少クライミングの素養が問われる。昔は一の滝から四の滝、更にその上の牛の背までハイキングコース扱いだったようで、その頃に整備されたものと思われるが、ハイキングコースと言うには手掛かり足掛かりがあるとはいえかなり危ない。ロープが何本も下がっていたが、支点の立ち木は枯れかかってているか衰弱しており頼りにしてはなるまい。細い岩場の上で10mの四の滝に御対面である。四つの滝の中では最もスッキリしており、深い釜を持っている。昔のハイキングコースは更に右岸を登って牛の背に通じていたようだが、四の滝の下からどこを登っていたのかが分からなかったので林道へは往路を戻った。猪渡谷を渡る所から作業道を西に尾根を登ると、途中から斜面のトラバース道となって猪渡谷橋の少し上に出る。

蔵光の地図1蔵光の地図2


棚田の中の
竹薮と石段

一の滝

二の滝

二の滝の
上から一の滝

吊橋跡

三の滝

三の滝と四の滝

四の滝

伐植記念碑(右)と、
左の大きいのは読めない・・・

水力式製材所跡

 林道に戻り、更に登り猪渡谷橋を渡った先に「紅葉の滝徒歩30分」の標識がある。猪渡(いのわ)谷の右岸に細道があるのでこれを辿ると紅葉の滝に達する。15分ほど進んだ所で左岸に渡ると炭釜跡がある。山抜けを一つ横断し、小沢を一つ渡って少しばかり沢から離れた所を進むと猪渡谷標高320mの二股で道が途切れている。二股の左は高いがごく細い滝、右は1m程度の滝となっている。右の1m滝を左から越えて沢中を進むとすぐに紅葉の滝が見えてくる。左岸に道があるようだが一部は無くなっており、沢の中を進んでも大差ない。紅葉の滝に滝壺は無く、高さは13m程度で無いかと思う。平凡ながら王道的美しさのある滝である。

紅葉の滝の地図
紅葉の滝

 猪渡谷橋に戻り、更に林道を進む。「牛の背徒歩5分」の標識があり、小道が左に分かれている。この小道を進むと牛の背の岩場の上に出る。人幅しかない高い岩の上を歩けるようになっている。ロープが一本張られている。岩の下には蜜箱が幾つも設置されている。更に進むと小道は中ノ谷の川床に下りる。平凡な河原である。四の滝の銚子口まで下りてみたが、四の滝の下へ降りる「ハイキングコース」は見つけられなかった。

 牛の背分岐のすぐ先に中ノ谷橋がある。橋に銘版は無かった。中ノ谷橋から中ノ谷を少し遡ると地形図上の落打滝へは数分である。橋の右岸側に梯子があるが、梯子の段の下の方の間隔が広いので、橋の左岸側から下りた方が安全でないかと思う。靴を濡らさないでも行ける水量であった。この落打滝は20mほどの高さの末広がり型で、周囲の高い絶壁と相俟って豪壮な雰囲気を持つ。地形図に落打滝の名が記された頃の地元の新宮山の会の記録を読むと、落打滝の名は更に上流の滝を指し、この滝には特に名が無かったような印象だが、名が無かったと言うことは無いと思う。

 中ノ谷橋に戻り、更に林道を進む。中ノ谷橋のすぐ先に山手に入る石段があるが、これは廃道扱いの旧桐原(落打滝/中ノ谷橋)登山口である。牛の背を見下ろして進み、林道の勾配が次第にきつくなる。林道沿いには猪渡谷橋の辺りから何箇所か地蔵谷の名と関わるのだろうか、お地蔵様が祀られている。大地山・女郎ヶ峰が海側に形良く見える。林道が西に回りこんで地蔵谷源頭の急峻な姿が見えるようになると間もなく桐原登山口である。登山口は地蔵谷の一本手前の小さな谷にある。


牛の背

地形図上の落打滝

林道から見た
女郎ヶ峰

★登山口〜山頂

桐原コースの地図

 登山口には数台分の駐車スペースがある。桐原側から来て林道の少し先の地蔵谷の源流で水が汲める。登山口のある小さな谷は平成23年9月の豪雨で山崩れを起こしたようでずいぶん荒れている。

 しばし谷の左側(右岸)から取り付き、右側(左岸)に沿って細い道が付いている。かなりの急傾斜である。晴れていれば崩れた谷筋からの照り返しが眩しい。一登りで炭釜の跡があり、谷から離れて右の小さな尾根に回りこむ。その尾根線を少し登り、次第に右に反れてゆるゆると登っていく。標高570mで大きな尾根に乗る。ここから上は殆ど尾根線通りであるが、何度も尾根を乗り換える。


登山口の沢

炭釜跡

 標高650mで旧桐原(中ノ谷橋/落打滝)コースとの合流点だが分岐していることは分かりにくい。下山時でも普通に歩いていれば旧コースに入ってしまうことは無さそうだ。このすぐ上で右から谷地形が近づくが水は無い。この辺りから植林から天然林に変わる。少し急なところを登って少し平坦になるとまた右から谷地形が近づくがここも水は無い。階段を交えてまた急斜面となり、標高780mで大きな尾根に乗って左折する。

 この大尾根は広く緩やかで、尾根上には大きな松の木が目立つようになる。僅かに下って標高770mの最終水場の沢を渡る。標高の高い貴重な水場である。水は渡ったすぐ下で高いナメ滝となって深い谷へ落ちている。地形図の道は2011年現在、この水場を通っておらず誤っている。

 この辺りからシャクナゲの木が目立つようになる。子ノ泊山の北方の稜線が眺められるようになり、高山の雰囲気が高まる。標高830mを越えて左側の谷が登山口の説明板にある「さかさま川」であろうか。登山口の看板や紀宝町誌を読むと「七合目位に『さかさま川』(この辺の山では珍しく北向きに流れる谷)があり」とあり、「さかさま川」は先ほどの770mの水場の沢の名前のような印象だが・・・水場の沢は北向きではあるが地形図を見る限り本流である中ノ谷に対して流れる向きが逆さというほどではなく、どうもよく分からない。それほどの急登無く天然林の中を山頂に達する。


上部は
松の木が多い

標高770mの
水場

上部は
石楠花も多い

附 中の谷橋(落打滝)コース

 このコースは元々桐原から鎌作りを経て二の滝の上で地蔵谷に入り、途中から地蔵谷を離れて現在の林道桐原浅里線と交差して現在の桐原コースへと続いていた旧来の登山道が、桐原から伸びてきた林道の工事に伴って出た土砂が地蔵谷に流れ込むことで通行不能となり、その代替コースとして新しく作られたもので、林道が旧来のコースと交差して現在の桐原コースの登山口が成立した時点で地元としては廃道扱いとしたようだが、2011年現在ではまだ国土地理院の地形図に記載されている。一方で現在の桐原コースが描かれていない。

 中ノ谷橋には橋の名を示す銘版が付けられておらず、地形図では中の谷の橋のすぐ上流の標高350m付近の滝に「落打滝」の名が付されていることから、このコースが「落打滝コース」と呼ばれることもあるようだが地元の新宮山の会の、地形図に落打滝と名が振られ始めた頃の古い記録を読むと、この滝は無名扱いで落打滝は更に上流の標高500m付近にある滝の名であった。これは新宮山の会の会誌に載せられた川島(1976)に拠る。落打滝の名が国土地理院の地形図に記されるようになったのは二万五千分の一地形図では昭和43(1968)年発行から、五万分の一地形図では昭和45(1970)年発行からだが、二万五千分の一地形図が発行されるようになってまだ間もないこの頃は山行には五万分の一地形図の携帯が一般的であり、山間部の修正は稀で余程の汚損でもしなければ地形図は10年程度は優に使われるものである。買い切りで返本制度のなかった地形図の販売で、新宮の書店で長く古い地形図が在庫であったと言うこともあったのではあるまいか。1976年の新宮山の会で落打滝の記載された新しい地形図が広まっていなかったとしてもおかしいとは思われない。

 地形図上の落打滝は落打滝として、標高500m付近の滝は牛鬼滝と呼んでいるホームページや、相野谷川上流の牛鬼の滝は中ノ谷ではなく地蔵谷の林道桐原浅里線の奥の標高600m付近の滝記号の滝であり中ノ谷標高500mの滝は不動滝(幻の滝)としているホームページもある。山の反対側の立間戸谷にも牛鬼滝があるので紛らわしい感じもする。新宮山の会の古い記録と同じく標高500mの中ノ谷の滝を落打滝としているホームページもある。新宮山の会でも新しい記録では地形図に合わせている。しかし、国土地理院の地形図の滝の位置と名前については一部に本来のものと異なる不正確なものが含まれている。地形図記載の地名は地名調書による地元役所からの上申だというが、地名調書作成の担当者が専門知識の持主とは限らず、誤っていても国が作っている地図だからと利用者の方が遠慮して地名の指す場所が変わってしまうことがある。地形図上の落打滝も美しい滝だが、上流(標高500m付近)の滝は更に美しいとの話もある。より美しい滝の名がまず記されるような気もする。

 江戸時代の紀伊続風土記は大里村蔵光山の条で、「五六間より十二三間許(ばかり)」の一ノ滝から四ノ滝に続けて「又落人滝といふ高き滝あり又不動ノ滝といふあり長さ二十尋許あり」としている。落打滝は「おちうどだき」と言う音だったようである。20尋は約36mである。文中での登場順序からは下流側の落人滝が地形図上の落打滝で、上流の滝が不動ノ滝のようにも思われるが、どうか。紀伊続風土記に先行する紀宝町誌所収の紀州藩の名所古跡調べの大里村の項にこれらの滝についての記述はなく、元々無かったのか失われていたのか、奥で隣接する上下桐原(切原)村の分が無いのも残念である。紀伊続風土記の登場順序とは合わないが、地形図上の落打滝が「不動ノ滝」で「ふ(節)・ど(処)・の滝」、奥の標高500m付近の滝が本来の落打滝で紀伊続風土記の「落人滝」で、「をち(遠)・ふ(節)・ど(処)・滝」であり、中ノ谷の谷筋が凹んで奥まっている所という所在地の地形が共通する二つの大きな滝の名を距離感で対比して名づけたのではなかったかと考えてみる。地形図上の落打滝は一〜四の滝を現在の林道のように巻けば見られるが、崖に囲まれて川伝いに巻き上がるのが難しい地形図上の落打滝より奥の標高500m付近の滝は紀伊続風土記の頃でも見た人が少なく、高さを数値で紀伊続風土記に記すことが出来なかったのではないかと考えてみる。

 コースの位置は地形図(2011年現在)の記載は標高500〜550mで違う。中の谷橋を渡ってすぐに石段があり、これを登る。すぐに中の谷の標高350mの滝を巻くかと思われる木馬道を右に分け、更に浅い窪地となったガラガラした斜面に詰まれた古い、か細い石組みの階段を登り、小さな尾根の鼻に取り付く。この鼻を僅かに登ると左側の谷筋が少し平坦に広くなっており、炭釜跡がある。炭釜の先で伏流した沢を渡り、右岸に付けられた急な細い道を登る。すぐ先の尾根まで上がりたくなるが尾根上は岩尾根で歩きにくい。沢は炭釜より下では急なナメラになっていて登降は難しそうだ。標高500m付近で右岸の尾根に取り付く。すぐ尾根上となるが、尾根線の上はT字になっていて、地形図の通りに歩こうとすると右折して急峻な尾根線を辿ることになり、目印テープがたくさん打ってあるが、登ってみると道の路盤などは無く、どうもこの尾根に道があった感じがしない。目印テープはこの尾根の上側の分岐でも沢山打たれているが、地形図の誤った歩道描写に基づくもので、元々この尾根(500-550m)に道は無かったのではないかと思う。T字路を直進して尾根を乗り越すとトラバースする道となり、一つ浅い谷地形を横断してから地形図に歩道の点線のある尾根の一本東側の尾根に取り付く。この尾根は傾斜が緩く道幅もあり歩きやすい。地形図に道の描かれる尾根はこの尾根の支稜にあたる。尾根線上は植林と天然林の境界になっている。標高580m付近は少しシダが茂っている。標高600mを越えた後は坦々とした道で、標高650mで桐原コースに合流する。


炭釜跡

標高580m付近
コシダが茂る

坦々とした道

参考文献
紀宝町老人クラブ連合会,ふるさとのむかしばなし,紀宝町老人クラブ連合会,1983.
楠原佑介・溝手理太郎,地名用語語源辞典,東京堂出版,1983.
紀宝町誌編纂委員会,紀宝町誌,紀宝町,2004.
川島功,相野谷川支流 地蔵谷 中の谷,pp9-11,91,会報烏帽子,新宮山の会,1976.
芝崎晴一,忘年山行 子ノ泊山,pp9-10,95,会報烏帽子,新宮山の会,1977.
紀宝町教育委員会,文化財を訪ねて,紀宝町役場,1990.
五百沢智也,新版 登山者のための地形図読本,山と渓谷社,1976.
仁井田好古,和歌山県神職取締所,紀伊続風土記 第3輯 牟婁 物産 古文書 神社考定,帝国地方行政学会出版部,1910.



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(2012年4月1日上梓)