濃昼山道の位置の地図
濃昼山道の地図1
濃昼山道の地図2
濃昼山道
ごきびるさんどう

 6月に安瀬山に行った時に気になった石狩市厚田区の濃昼山道(ゴキビルサンドウ)を歩いてきた。江戸時代の終わり頃、蝦夷地後幕領時代の1857(安政4)年に厚田の場所請負人・濱屋與三右衛門によって開かれた。国道231号線滝の沢トンネル・ルーラントンネル・太島内トンネル・赤岩トンネルが開通してから廃道になっていたものが平成17年に再整備された。地形図上では山中に点々とある水準点にその痕跡を残している。

 安瀬から濃昼へ歩いた。


 前日の最終バスで安瀬まで行き、国道を2km歩いて山道入口(滝の沢トンネル南詰)の空き地でツェルトで前夜泊。カエルが5分おきに大合唱を始めるのでなかなか寝付けなかった(3分演奏)。付近には「まむし異常発生・野営危険」の看板があったが、あれだけカエルがいるならマムシも満腹だろう。


空き地の入口

空き地の入口

道の入口は少々不明瞭

小さな看板

 登り始めは九折でまず海岸段丘の上に上がる。上がると比較的なだらかな道になる。上がりきった部分の安瀬(南)側にも道の痕跡が残っているが、そちらは藪が払われておらず少し先でちょっと危ない沢を渡り、沢の向こうの国道法面工事に消えていた。

 段丘の上に広がるとカラマツ林や古い簡素な石垣が山側に見られる。屋敷にしては広過ぎるので、ニシン漁華やかなりし頃の畑の跡だろうか。カラマツは北海道に自生する木ではないので耕作されなくなってから植林されたものだろう。安瀬側登り口の辺りから南の海岸の斜面には現在の安瀬集落にかけて、ヤブの中に家の土台や畑の跡がここと同じように沢山隠れている。石炭の夕張で昔、山肌一面に炭住がひしめきあっていた様に、鰊の安瀬もまた二八小屋などと呼ばれた漁業者の簡素な家が山肌一面に連なっていたのではないかと想像してみたりする。松浦武四郎はこの道の拓かれた1857(安政4)年旧暦6月2日の日誌に、この辺りにジャガ芋がよく育っていることを記している1)。この時の松浦武四郎は、箱館奉行・堀利煕の蝦夷地巡検に同行している。

 緩やかな道を歩いて最初に渡るのは滝の沢。水を飲んで沢を越えると沢の名を示す看板があって、「滝の沢(馬鹿臭い沢)」と書いてある。馬鹿臭い水を飲んでしまったわけだ。細い谷で対岸に手が届きそうなのに深くて跳び越えることが出来ず渡渉点まで1km近く遠回りを強いられることがバカくさいということらしい2)3)が、訛りを考慮してアイヌ語で解釈するとそれなりの意味になるので、馬鹿くさいのは疑わしい気がしている。松浦武四郎の号の一つに「馬角斎」というのがあるのを思い出して、少し楽しく感じる。


石垣とカラマツ林

馬鹿臭い沢の看板

道の様子

 この先、空が開けて日当たりがよく、ちょっとオオバコとイタドリが茂っているところがあるが、全体を通しても藪っぽいのはそこだけで、全体的に草もよく刈られ、よく整備されている。

 森の中になる部分はきれいな森で歩いて気持ちが良い。コクワの花が沢山落ちていた。

 途中に「どすこい山登山入口」と言う立て札が立っていて下手にロープが下がっていたので行ってみたが、ロープの下に踏み跡は見つけられず、どこが「どすこい山」かは分からなかった。

 一旦、下って次の沢を渡る。大沢川で、6月にはこの沢を遡って安瀬山に登った。沢を渡ると再び山の斜面を登るが、開削当時の濃昼山道は沢沿いを進んだそうだ。明治中頃に現在の濃昼山道に付け替えられたそうだ。大沢渡渉点間近では大沢の左岸に石垣の縄張りのような跡が見える。かつてニシン漁盛んなりし頃には、この大沢沿いの平地の無いに等しい地にも集落があった。どれが家の跡で、どれが畑かは分からない。濃昼山道のすぐ脇は日当たりが悪いので家跡ではないかと思うが、よく分からない。大沢の右岸下流側の少し開けた箇所には段々畑のような石垣の広がりが見える。

 堀利煕の蝦夷地巡検に随行していた玉蟲左太夫は旧濃昼山道について「馬行キハ迚(とて)モ叶ハズ雨天ノ節ハ人行クモ亦(また)叶ヒ難カラン。・・・未ダ通行モナラザルニ鎮台(堀利煕)ヲ案内シテ一見サセシハ如何ナル厚顔ニヤ。」と道の状況を評し、地方の役人や道作りを引き受けた場所請負人について嘆いている。

 前幕領時代に江戸幕府によって開かれた東蝦夷地の猿留山道様似山道などと異なり、西蝦夷地は難所が多いことや箱館台場の普請など他の急を要する大事業があったので、新道は場所請負人に命じて持ち場所内の道路を開かせる方法が採られたという4)。この頃の西蝦夷地は豊漁で請負人に資力があり、ニシン漁の出稼ぎ人が本州から来ており労力も十分であったという4)が、玉蟲左太夫をして「厚顔」と言わしめた道の状態には、場所請負人としてはそれまで道を作らずともやっていけていたのに国防と言う政治の問題を商人に押し付けられたと言う気持ちもあったのではないかと思う。幕府直轄で作られた前幕領時代の東蝦夷地の山道でも資金面で悶着があったのに、場所請負人に任せた西蝦夷地で「上ヨリノ下知ナラバ人ノ通行スル様開クハ当然」と書けた玉蟲の認識の若気、松浦武四郎も記しているこの辺りでも聞かれた場所請負人のアイヌに対する非道、それぞれの立場で皆懸命に生きてはいたのだろうけれど、夏目漱石の草枕の冒頭の一節を思い出す。


道の脇に
鹿のヌタ場があった

旧濃昼山道は
ヤブの中

送電線に沿った
道の様子

 この斜面を登りきると、送電線下の関係で眺めのよい場所がある。札幌方面の山々と海がよく見える。この後も時々送電線と交差して眺めの良い箇所が現れる。


山並みが見える

道の脇に大岩があった

 次の沢(空沢)は、その名の通り水の少ない沢だ。この先の登りきったところに三叉路があり、道標はないが海岸側に下りていくと太島内の旧ルーラントンネル南側に下りられる。きれいに刈り分けられている。旧ルーラントンネル南側の下りきった場所は国道の切り替えで全く車が通らなくなったので野鳥の楽園状態であった。濃昼山道は太島内地区の住民の便宜を図るために当初の高所を通る道から付け替えられたそうだ。これはその太島内への道だろうか。


旧ルーラントンネル横の
濃昼山道支線下り口

昭和4年の
電信柱

 大沢川、空沢、太島内川は橋脚の跡の石積みだけが残っている。

 濃昼山道は三叉路から山側に続く。太島内川を二股のすぐ上で二回に分けて渡り、最高点「濃昼峠」への登りにかかる。このあたりは再整備事業でも道の痕跡がきっちりと見つからなかったのか、新しく登山道的に整備された部分が多い。それまでは馬も行き来したと言う太い道幅があり、階段は全くなかったが、この部分だけ道幅は人幅、細い木で作られた新しい簡素な階段が現れたりする。まだ十分搗かれていない感じがする。


海も見える

道の様子

新造のような道

 最後に次第に風が強いのか樹高が下がり、笹原が増え、視界が開けてきて濃昼峠357.3mだ。峠は樹林の中だが、すぐ上に送電線が走っていて、そこまで上がると視界が開ける。初めて北側の展望も開ける。赤岩トンネルのある「赤岩」の大岩壁がよく見下ろせる。


峠の標識

赤岩の展望

 濃昼峠からはしっとりした道を下っていく。途中の鞍部で旧濃昼山道と再び合流し、緩やかな道で濃昼のバス停のすぐ横に出てくる。国道脇では小さな看板が濃昼山道入口を示している。

(補記2009年4月)赤岩トンネル付け替えで濃昼バス停の位置が変更になった。登山口横の旧国道沿いの北海道中央バスのバス停小屋は閉鎖され、バス停は濃昼川を渡った濃昼の市街地の中心に移設された。また、通年運行されていた急行バス日本海るもい号は夏ダイヤの土日祝日・夏休み期間のみの運行となり、夏休み以外の平日に安瀬〜濃昼を結ぶバスは一日一便となった。しかし、沿岸バスのバス停が濃昼の新国道と旧国道の分岐に新設され一日一往復停車する。濃昼市街には入らないことと、安瀬には停車しないことに利用に注意を要する。

 濃昼山道のパンフレットは石狩市の役場でもらえる。このパンフレットの地図では太島内へ下りる道については書かれていない。パンフレットでの所要時間は5時間半となっている。歩行距離は11kmとのこと。問題は向こう側(安瀬でも濃昼でも)の入口に下りても交通機関となるバスが一日2便、早朝と夕方しかないことだ。国道を歩いて戻ると5.2km、1時間強だが、そのうち4kmはトンネルの中となる。トンネル内に十分な歩道は確保されている。


濃昼側の入口

旧濃昼バス停とバス停小屋

大沢河口付近の石垣

林間の道

水準点には標識が有る

どすこい山は、これか?

★再訪濃昼山道(2009年11月)

 「どすこい山」を探しに三たび濃昼山道に行ってみた。濃昼山道本道から少し降りて送電線の向こう北側に大沢の河口に下りるジグの道があった。このジグの正面からは大沢河口右岸の下膨れな岩塔がずっと見えている。この岩頭が「どすこい山」ではないかと考えた。形状が相撲取りに似ている。

 大沢河口間近まで下り、滝の沢トンネルの上に立つ。踏み跡がトンネルの上から大沢左岸をトラバースして濃昼山道の大沢渡渉点に続いているが、トンネルのすぐ先の山の斜面の急な部分で足場がなくなっていて通るのは難しい。立ち木でロープ工作出来る人がいれば何とか行けるかもしれない。そちらに進まずトンネルの上から右岸に渡り、F2(安瀬山のページの地図参照)の少し上流に水が少なければ靴を濡らさないで渡渉できそうなところがあるので、そこで左岸に渡りなおすと大沢左岸の濃昼山道本道に合流できる。

 太島内支線は休憩所から下り始めはしばらく太い刈分けだが、途中に海側の土の崖の縁を通る部分があり、崖がハングしていて危ない。海が近くなると左手に折れて山の斜面を九十九折で下る。急傾斜である。その後、林縁の荒れた雰囲気となるとまもなく国道跡に下り立つ。


安瀬山・濃昼山道付近地名考 その1(安瀬山の頁の子頁)
安瀬山・濃昼山道付近地名考 その2(安瀬山の頁の子頁)

参考文献
1)松浦武四郎,秋葉實,丁巳 東西蝦夷山川地理取調日誌 上,北海道出版企画センター,1982.
2)厚田村,厚田村史,厚田村,1969.
3)三浦宏,北海道の峠物語,(社)北海道開発技術センター,1992.
4)松浦武四郎,吉田常吉,新版 蝦夷日誌 下 西蝦夷日誌,時事通信社,1984.
5)玉蟲左太夫,稲葉一郎,入北記,北海道出版企画センター,1992.



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(2006年7月16日上梓 2009年11月18日加筆 2017年6月14日URL変更)