安瀬山・濃昼山道周辺アイヌ語地名考 その2
(安瀬・濃昼・チカセトゥシナィ流域等)




大沢(チカセトゥシナィ)周辺の地図

チカセトゥナィ流域(ペタヌ・ルペペッ)

 大沢の川筋について、松浦武四郎の安政4年の記録である「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌」(以下、丁巳日誌)巻10では濃昼山道で下り付く所から「凡七八丁」上って「ヘタヌ 此処右の方本川」としている。pet-aw[川の・股]と思われる。濃昼山道の下りてきた所から、最初の二股までが約650mで、次の二股までが約1500mなので、「凡七八丁」だと下の二股が相当しそうな気もする。上の二股だとあまり差はないが流域面積は左の方が広い。源頭の標高は右の方が少しだけ高い。

 ヘタヌの左股が「ルヘシベツ」だという。ru pes pet[道・それに沿って下る・川]と思われる。この川に沿って旧濃昼山道は峠に向かって登っていったという。アイヌの人々は濃昼山道が出来る前からこの沢筋をルートとして使っていたのだろう。太島内川が「穴の所に行ってしまう」と思われるのは、間違えて下ると崖に阻まれて、海岸伝いや多少の山越えでは北にも南にも行けない太島内地区に下りてしまうことを言ったものと考えてみる。

 明治29(1896)年の北海道仮製五万分一図を見ると、濃昼山道は殆ど本流に沿って最後に尾根をとり、平らな稜線を移動することはなく直に峠へ上がっている。この地図に依ると、上の二股の左股が ru pes petと言うことになりそうだが、この辺りは地形描写が現在の地形図に比べると極めて粗く、下の二股が全く描かれていない。滝沢(滝ノ沢)が挟まって大沢と幌内川が接していないなど、かなり不正確でもある。

 丁巳日誌巻10では、ルヘシベツに入って「七八丁も行と平盤岩の上を清水流れ落る也。・・・此処をわけ上るに五六丁にて山に上り、新切の処四丁計にて、ルヘシベ峠」であるという。下の二股でも上の二股でも、そこから「コキヒル岬(濃昼の南側の岬)の上の頂と、コキヒル沢の上の山の山合」のルヘシベ峠まで、ある程度沢筋に沿うのに1.2km以上はあるので、「五六丁」は短すぎる。下の二股から上がったとして、「新切」の稜線を歩くとしたら約1kmで、「四丁計」はやはり短すぎる。上の二股から標高360m辺りまで沢筋で登って、その後360m二股の中の尾根を登った里程が省かれていて(約500m)、稜線を約900m新切で移動したのか。ヘタヌからルヘシベ峠までの松浦武四郎の里程はルートをどう推定しても短すぎる。ルヘシベ峠からゴキビルまでの里程も実際より短い印象である。だが、新道の入口の急坂を登ってから大沢に下りる所までの里程は長すぎるようである。どうもよく分からない。

 安政頃の西蝦夷地アツタ場所略図は海上から鳥瞰の構図で、チカフチャラツナ井の奥に描かれる二股(一つしか描かれていない)から左股に入り、最高点とほぼ同じ標高の平らな稜線に上がって、海岸線に平行に北に進むように描いている。この図の描き方が正しければ、下の二股から稜線に上がっていたように思われる。

 だが、下の二股から稜線に上がった地点はその差25m程とは言え、上の二股から稜線に上がる地点より標高が高い。下の二股から上がった地点と、ルヘシベ峠は800m程離れているが、この程度の距離ならば差が25m程度でもどちらが高く「峠」の名に相応しいかはすぐ分かるように思われる。

 ヘタヌとルヘシベツの位置がどうもはっきりしないが、北海道仮製五万図より、上の二股(標高190m)を pet-aw、その左股を ru pes petと考えておく(右の地図の1の推定路)。他に当時の道程を詳しく書いた資料があるのなら読みたい。浜益等の西蝦夷地に入った荘内藩や久保田藩の資料などに書かれていないだろうか。下の二股と上の二股のそれぞれの左股に入ってみれば、松浦武四郎の記した「清水流れ落ちる平盤岩」がどちらかに確認できるだろうか。


ルクペッ?

 永田地名解に「Ru kus pet ル クシュ ペッ 路アル川」とある。ru kus pet[道・通る・川]と思われる。永田地名解でプヨシュマ(アモイの洞門)とフレシュマ(赤岩)の間に記載されていることから海岸沿いの赤岩の南の沢筋かと考えてみたが、道があるように思えない。濃昼山道の濃昼側の末端の沿う沢筋のことかと考え直してみた。

 松浦武四郎の東西蝦夷山川地理取調図には、フィールドノートである手控や報文である日誌に(見落としはあるかもしれないが)見られない「ルクシヘツ」が、大沢と思しきチヤラセナイの右岸支流として描かれている。永田方正は、この取調図でルクペッを最初に知ったのかも知れない。濃昼山道の濃昼側に同図で沢筋は描かれておらず、地名も書かれていないので、山道濃昼側末端の沢筋の名でもなかったようだ。

 松浦武四郎が何を参考にしてルクシヘツを取調図に記したのかは分からないが、チカセトゥシナィ右岸支流のルペペッをルクペッと呼んでいたアイヌの人も居て、それをルクシヘツと書いた資料があったのか。或いは癖字だったらしい松浦武四郎のクとヘを、取調図の版を彫った画工が読み違えたものか。


ルベシベ峠

 丁巳日誌巻10に「ルヘシベ峠」とある。旧濃昼山道の峠である。チカプセトゥシナィの左股のルヘシベツが ru pes pe[道・それに沿って下る・もの]とも呼ばれており、それに由来すると考える。

 東西蝦夷山川地理取調図には道の通っている所の最高点と思しき所に「エナヲタケ」とあるが、この地名をルクシヘツと同じく手控と日誌に見つけられない。峠で inaw[木幣]を捧げるアイヌの人も居て、一帯を「イナウ岳」のように呼んでいた和人も居たのか、また、そう書いた資料があったのか。ルクシヘツはルヘシヘツと一文字しか違わず、下に開いている形がクとへで似ているので画工の誤りかも知れないと考えたが、ルベシベ峠とエナヲタケは音も字も全く違う。「取調図」と題しているので創作したとは考えにくい。何らかの別の資料があったのか。




濃昼山道海岸線の地図

濃昼(ごきびる)

 濃昼(ごきびる)のアイヌ語解釈の旧説等はどうも腑に落ちない。渦説は見てすぐに分からない渦であるし、漁村なのに渦がある処であったら船を出すのも大変だろう。「蔭の蔭」というのも要領を得ない。「データベースアイヌ語地名2 石狩T」(以下、DBアイヌ語地名)にある ho- kipir と考えるのは、ポキンピルなどの「ン」が入っている音を説明しにくいように思われる。また、ho- はそのまま付くか位置名詞を挟んで動詞に付く接頭辞で、名詞の kipir に付いてそれで終わるのか疑問である。

 「ポキンピル」の記録があるように破裂音のk(/g) とp(/b) は相通が考えられる。キンが pir かと考えてみたが、ポが分からない。

 濃昼の南側の赤岩トンネルのある崖を出崎突端の崖としてそれを迂回して大沢や安瀬方面へ向かう pake un par[岬頭・の・口]或いは pake rupar[岬頭の・道の入口]、また pake par[岬頭の・口]の転訛と考えると、ポキンピルの音も、ンの入らないゴキビルの音も説明できるような気がするが、どうもこの場所ならではという感じが少ない気がする。更に考えたい。


赤岩

 松浦武四郎が濃昼の北側の岬を「赤岩岬」としているのが気になる。永田地名解は濃昼の南側を「フレ シュマ 赤岩」、北側を「フーレ シュマ エンル 赤岩岬」としているが、濃昼の南北両側とも赤岩と言うことはあり得ないように思われる。よく分からない。


アモイの洞門

 アモイの洞門の「アモイ」は何だろうか。DBアイヌ語地名では太島内の説明でアモイの洞門が出てくるが、アイヌ語地名としての「アモイ」の項は立てられていない。いつ頃からある名前なのだろうか。

 永田地名解に「Pui-o shuma プヨ シュマ 洞岩 海中ニ洞岩アリ以テ舟ヲ通スベシ」とあるが、濃昼山道を歩き(丁巳日誌巻10)、濃昼から安瀬まで舟でも行った(丁巳日誌巻14)、松浦武四郎が穴のある岩そのもののアイヌ語の名を記していないのと、太島内の元になったアイヌ語地名が puy o suma を含んでいないようにその1で考えたので、本当にプヨシュマと呼ばれたのかどうか、疑わしい気がしている。


マッカ岬

 明治の五万図は太島内の北側の、濃昼峠の直下の岬を「マッカ岬」と記している。マッカはアイヌ語の makke[その奥]か。安瀬からも濃昼からも一番奥のように思われる。日本語の南部方言で、「まっか」で「坂や崖のけわしい所」などを言うという。険しい所でもある。江戸時代に蝦夷地に移り住んだ和人や、この辺りの明治時代の雇われ和人漁民は南部を含む北東北から来ていたようである。「マッカ」がアイヌ語なのか日本語なのか分からない。


トゥカリ

 永田地名解に、ヤソシュケとチカセト゜シュナイの間に、「Pesh tukari ペシュ ト゜カリ 崖の此方 増毛山道ノ上リ口」とある。増毛山道は濃昼山道の誤りであろう。pes tukari[水際の崖・の手前]で、濃昼山道の安瀬側の上り口の辺りを言ったものと思われる。


安瀬(やそすけ)

 ヤソスケを丁巳日誌巻10は、「崖の下少しの浜、小石原・・・地名の訳は昔小き網を以て鮭を引し由也」としている。DBアイヌ語地名にある、「(高く)上げられた・剥げた崖」 yan-soske は、松浦武四郎のヤソスケがリイヒラと別の場所とされている点において合わないように思われる。同じ場所に複数の地名が付く事は考えられるが、そうした場合は他の場所での例から松浦武四郎なら「リイヒラ またヤソスケとも云由」のように書くように思われる。

 丁巳日誌巻10で浜辺の地名とされていることと、昔小さい網を引いたという等と書かれていることから、安瀬(やそすけ)は yas uske[流し網をする・する処]でなかったかと、とりあえず考えておく。安瀬で、昔の安瀬について伺った老漁師にもう少し話を伺いに行きたい。特に、安瀬周辺でどのあたりが、古来アイヌの人々が行っていたような流し網の漁で魚が獲れるような所なのかを伺ってみたい。

 だが、yas uske ではランドマークに基づかない地名ということになる。他の似た音の地名の場所を地形図等で見てもランドマークとしての共通点を見つけられない。後考を俟つ。


その1(太島内・チャララセナィ・ルエラン・チカプセトゥシナィ・滝ノ沢)

参考文献
松浦武四郎,秋葉實,丁巳 東西蝦夷山川地理取調日誌 上,北海道出版企画センター,1982.
知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1992.
陸地測量部,北海道仮製五万分一図「厚田」図幅,陸地測量部,1896.
西蝦夷地アツタ場所略図,西蝦夷地御場所絵図,江差町史 第1巻 資料1,江差町史編集室,江差町,1977.
永田方正,初版 北海道蝦夷語地名解,草風館,1984.
松浦武四郎,東西蝦夷山川地理取調図,アイヌ語地名資料集成,佐々木利和,山田秀三,草風館,1988.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集4 巳手控,北海道出版企画センター,2004.
山田秀三,北海道の地名,北海道新聞社,1984.
榊原正文,データベースアイヌ語地名2 石狩T,北海道出版企画センター,2002.
知里真志保,アイヌ語入門,北海道出版企画センター,2004.
松浦武四郎,秋葉實,丁巳 東西蝦夷山川地理取調日誌 下,北海道出版企画センター,1982.
田村すず子,アイヌ語沙流方言辞典,草風館,1996.
楠原佑介・溝手理太郎,地名用語語源辞典,東京堂出版,1983.
厚田村,厚田村史,厚田村,1969.



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