ルベシベツ山道の位置の地図1
ルベシベツ山道の位置の地図2
ルベシベツ山道
るべしべつさんどう

 近藤重蔵が北方探検の帰りに嵐で現在の海岸線を辿る道(現在の黄金道路)が通れずに広尾で足止めを食らったので、私費で作ってしまった山間部を通る道。後世、「北海道道路開削の嚆矢」と絶賛された1)。近藤重蔵ばかりが偉いように言われているけれど、アイヌ語の「ルベベッ」は道があることを示しているのだからアイヌはもっと前から道として使っていたはずだ。

 林道などをつないで一見で通して歩いてみただけなので近藤重蔵の頃の路盤らしきものは一部しか分からなかったが、明治・大正頃の路盤はかなり残っていたのが分かった。ルベシベツ山道はルベシベツ〜ルベシベツ二股〜ビタタヌンケが知られているが、その一年後にはルベシベツ河口を経由しない音調津〜オチシ〜ルベシベツ二股の短縮路線も拓かれていたという。猿留山道()と一括りにされることもあったようだ。


ルベシベツ山道北側の地図
ルベシベツ山道南側の地図

★ビタタヌンケから音調津へ(一部・明治大正ルート)12/4
参考時間・・ビタタヌンケ-0:45-ルーチシ-0:25-林道分岐(終点)-1:50(迷いつつ)-オチシ-0:50-音調津

 ビタタヌンケの海岸には近藤重蔵新道開削の碑などが立っている。ここで復習してから歩行開始。道は砂利道。ゲートなし。林道の名前はピタランケ連絡林道。すぐに家の一軒ある分岐があり右方へ直進。ここまで入るだけで潮風や波の音はずいぶん弱い。道はメナシクシビタタヌンケ川沿いである。

 道沿いには何箇所かズリ山のように土砂が積み上げられている。何か採石場か鉱山でもあったのだろうか。

 沢沿いなどに昔の路盤のようなものがあるように感じるが古い林道のようにも見え、どこまで近藤重蔵以降の江戸時代の道なのか判断がつかない。

 峠の手前は大きな土砂堆積場(?)でビックリ。近藤重蔵も生きていたらビックリだろう。


海から離れる

鉱山のズリか

これは古い林道か?
ルーチシの少し下(南)

ルーチシの地形は
かなり変えられている

 鞍部には史跡であることを示す標柱が立てられていた。ここはルーチシだと広尾町の史跡を示す標柱に近藤重蔵の文章で書いてあった。水音が高い。

 峠の北側でもやはり古い路盤は有るような無いような、何とも言えない。

 傾斜が緩くなり正面に尾根が立ちはだかるように感じるとまもなく古い分岐があって、正面に続く道は倒木で覆われて車は入れない。右に折れて斜面を下る道が林道として続いている。


ルーチシ
北側から

分岐
左音調津、右ルベシベツ

 正面の倒木で覆われた道が大正時代の国道の跡で、その道から分岐する多くの作業道から考えるに国道から降格した後も林道としては拡幅・補修されて長く使われ続けたのではないかと思う。倒木だけでなく熊笹で覆われた部分もあるが膝程度の高さだ。何度か分岐を繰り返し、沢を渡る部分では完全に路盤がなくなっていたりするが平坦な谷の中なので危険はない。しかし分岐する枝道(作業道)の方がハッキリしていることが多いのには参る。

 標高90m付近で、かつては橋でも掛けられていたのではないかと思われるやや深い谷を横断して尾根に取り付く。ここから上の道はもう車の通れる幅が無い(後で峠から見下ろして案ずるに車幅の最新の道(昭和9年まで)はもう少し谷中を進み、峠の直下からジグで標高を上げたのではないかと)。谷の中に古い電信柱が転がっていた。尾根は末端では平坦であるが、その上で6回ジグを切って標高を稼ぐ。また、この6回のジグの路盤は、3回程度のジグの路盤の上に新しく作り直されているようだ。路盤と言っても土の塹壕のようなもので、チューブスライダーを思わせる。山葡萄の蔓が多い。

 標高が上がると谷の対岸の尾根や道が美しく望まれる。しかしこの辺りは斜面が立っており車道として常用とするには多少危険な道だ。古い電柱の根元が残っていたりする。途中の斜面一ヶ所と最後の沢を横断する箇所は山崩れで路盤が無くなっていたが、いずれも鹿の踏み跡が渡っており注意していれば歩く分には問題なく通過できる。

 峠への最後の登りは妙に几帳面な感じのする十分な車も走れそうな幅のある傾斜の非常に緩い直線的なジグザグであった。このジグザグの下にも、古い、ジグザグの回数の少ない路盤があるのが分かる。広い幅に昭和9年の黄金道路開通前は、馬車・荷車だけでなくここを走った自動車もあったのではないかと想像してみたが、幅はあっても几帳面な尖ったジグザグでは自動車は切り返しが出来ないので通らなかったか。


倒木はある

笹はこの程度

チューブスライダー

電信柱の跡

急斜面に道が
張り付いている

チシ
峠直下の路盤

チシの南側の
一部は多少危ない

 峠(オチシ)付近は鹿の溜まり場になっているようで鹿臭かった。骨が落ちていたり、多くの倒木に鹿の毛がこびりついたりしていた。雪の上には鹿の小便の跡や糞も多かった。

 峠に上がって音調津側の斜面が皆伐されているのには驚いた。広尾の街までここから見通せる。また、峠の北側に現在(2009年)の地形図にも載る大正時代の国道だけでなく、猿留山道と同じ規格と思われる歩道の路盤を見つけて嬉しく感じた。ここが「オチシ」だ。松浦武四郎のヲクチシ眺望図と景色が一致している。

 峠の北側は皆伐されているが主に谷の中心から西寄りで地形図に点線のある斜面の上の方国道跡の周りは樹林である。笹が茂っているが足並みの邪魔となるほどのものではない。標高80mあたりで伐採の土場からの道が合流し、70mあたりで左に分かれて再び谷の方へ下りてしまう。昔の路盤はそのまま直進するが、次第に笹の丈が高くなり歩きにくくなった。それでも最後まで地形図上の点線は辿れた。舗装道路に合流するところには古い日高山脈襟裳国定公園の看板があった。一部凍結したアスファルトの上を歩いて音調津に下山した。音調津川の異様に横に長い砂防ダムにもビックリだ。


★ルベシベツから音調津へ(一部・江戸時代ルート)12/5
参考時間・・ルベシベツ-0:50-林道分岐(終点)-0:40-オチシ-1:00-音調津


ルベシベツの集落

 ルベシベツの集落はもう夏場しか人がいないようだ。集落の最奥でルベシベツ川は函状になっており、先が見通せない。護岸を下りて沢に入るとすぐに沢が曲がり、その先に高さ1m程度の大きな釜を持つ滝があった。岩は硬そうだしホールドもあるので太腿まで水に浸かれば釜の縁をへつって通過できそうだが足回りが登山靴であり、気温も氷点下なのでまずは引き返した。滝の落ち口の右岸には岩が人工的に削られて桟になっていた。これを近藤重蔵の頃のルベシベツ山道の遺構とする見方もある3)4)ようだが、かなり大きく立派に削られているのでもっと後にルベシベツの漁民が奥地で自家用の野菜等を栽培する為の通路として原動機か発破の力で削ったような感じもした。近藤重蔵の従者・木村謙次の日記によるとルベシベツ山道開削に要した日数はわずか2日である。数十人とは言えマサカリやナタは書いてあるのにノミの所持は書かれていないし江戸時代の2日ではこれほど大きく岩は切り崩そうとせず、遠回りでも笹を刈っただけのように思う(ルベシベツで生まれ育った方の、近藤重蔵の作った道は川沿いではなくルベシベツ神社の脇の道だと伝える1998年の地方新聞記事()があった)。火を点けて笹を焼いたりしたことも木村謙次の日記に書かれている。ただ、開削自体は2日でも、翌年から何度も補修は入っているようだ。一方で川沿いの道も趣はある。釜の縁には木の桟道が掛けられていたのだろうが、もう落ちてしまったのだろう。折角の桟だがもう歩けない。


謎のコンテナ
発破用ダイナマイト
爆薬庫?

 一旦集落に戻り、右岸の段丘上に立つルベシベツ神社の裏から函を越えた。段丘は大きく平坦である。古い電線もまだ走っている。段丘から下りると平坦な沢沿いで縄張りされた平坦地や植林があり、昔は耕作が行われていたことを感じる。コンクリの箱が三つ、斜面に突き出していたが何だったのだろうか。道や踏み跡は見当たらない。水が少ないのに任せて沢を何度か登山靴のまま渡渉して進んだ。

 ルベシベツからも右岸に二重線で描かれる(車も通れるような)道がルベシベツ二股(現在の林道終点付近)まであった時期があるようだが、ルベシベツ近くの段丘上以外では車道幅の路盤跡は見えなかった。

 ピンナイへ向かう支流を南に分けるあたりで左岸の段丘上に上がる踏み跡を見つけたのでこれを登ってみると、その先には車の轍が付いていたが笹の上を無理やり自動車で走ったかのような轍だった。傾斜のかなり急な部分もあり昔の車道とは思えない。この轍には膝ほどの笹が茂っていたがやはり道と言うものは歩みが速い。正面に大正ルートの路盤が見えてくると小沢を渡り、砂利の敷かれた林道となった。坂を登って大正ルートに合流した。木村謙次(下野源助)による東蝦新道記にある「神芟留(カムカルル)」をビタタヌンケ川上流とする資料があるが、この小沢の二股ということはないのかと思った。ルベシベツからビタタヌンケに向かうルベシベツ山道上で針を南に按じる必要があるのはここだけだと思う。

 合流点から音調津の峠(オチシ)までは既出なので省略。ピンナイへ向かう支流はルベシベツ山道が拓かれる前からの浜通りのルートだと言う。


チシの北側
峠からすぐは
少し厳しい

皆伐された地に
残る人力の営為
(手前の溝)

 音調津の峠からは前日に通った明治大正ルートではなく、江戸時代のルートを辿ってみた。このルートはルベシベツ山道(ルベシベツ〜ビタタヌンケ)を近藤重蔵らが拓いた翌年(猿留山道様似山道開削の年)には既に出来上がっていたらしい。単に日高と十勝を結ぶだけならこのルートの方がルベシベツ川河口を経由するより早そうだ。

 道は鹿の踏み跡程度だ。歩いていると作りが猿留山道と似ていることを感じる。斜面のトラバースで下降を始めてすぐに小さな谷を一つ横断するが、ここだけはかなり崩れているようで路盤の存在を感じないが鹿の踏み跡があるので何とか歩ける。崩れたのではなくて現役時は桟道があったのかもしれない。水流が完全に凍結しており滑りそうで恐かった。この先、小さな尾根の鼻を周りこんで一度を描き、あとは緩やかに斜面を下っていく。

 斜面は皆伐されており笹が茂っているが、よくぞ今日まで路盤だけでも残っていてくれたものだと思う。標高80mあたり、右側の支谷が見える辺りまで下ると笹の丈が高くなり、進むのが難儀になったので谷の底の土場に下りてから明治大正ルートの路盤に登り返して合流した。歩けなくてもこの先も斜面に路盤が続いているのは見える。この道は完全復活も不可能ではないと思われる。

 地元広尾町音調津の土屋茂(1994)はルベシベツ山道について、「林道か遊歩道か自転車道にして刻々変化した時代の道を楽しく調査勉強する為に残したいと思うものである」と書いている。この北海道の和人最初の公的な道にして十分痕跡が残る現況、全く同感である。ネットが普及して自分のような素人でも長距離自然歩道である北海道自然歩道の計画を簡単に見ることが出来るので、ルベシベツ山道の辺り(ビタタヌンケ〜広尾町中心街)について見てみると、「連絡路線:歩くことは出来ますが自然歩道としては適していません」ということで、黄金道路の海岸沿いのトンネルの中を歩かせる計画になっている。確かに除雪車を走らせることも出来ないルベシベツ山道は通年で遊歩道的な利用は出来ないのかもしれないが、ビタタヌンケ側は整備された林道になっているし、昭和9年までの車道なら安全な幅もあり、数年に一度笹を刈るなどの手入れをすれば音調津側も春先から初冬まで子供でも歩けそうな道である。北海道自然歩道の計画を残念に感じるのは私だけだろうか。次に植林される時もこの古い道の跡が保全されることを願う。

 ルベシベツからピンナイに沿ってルーラノシ(坂ノ下)へのルベシベツ山道以前の道を歩き残しているのが心残りである。


ルベシベツ山道周辺アイヌ語地名考(子ページ)

参考文献
1)北海道道路史調査会,北海道道路史 路線史編,北海道道路史調査会,1990.
2)土屋茂,アイヌ語の地名から見た広尾町の歴史と風景,土屋茂,1994.
3)広尾町教育委員会,ルベシベツ遺跡,広尾町教育委員会,2002.
4)山田秀三,北海道の地名,北海道新聞社,1984.
5)木村謙次,山崎栄作,木村謙次集 上 蝦夷日記,山崎栄作,1986.
6)谷元旦,佐藤慶二,蝦夷奇勝図巻・蝦夷紀行,朝日出版,1973.
7)渋江長伯,山崎栄作,東遊奇勝 蝦夷編(渋江長伯シリーズ 中),山崎栄作,2003.
8)松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集3 辰手控,北海道出版企画センター,2001.
9)知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1992.
10)角川日本地名大辞典編纂委員会,竹内理三,角川日本地名大辞典1 北海道 上巻,1988.
11)えりも町郷土資料館,猿留山道(えりも町ふるさと再発見シリーズ3),猿留山道復元ボランティア実行委員会,2003.
12)渡辺茂,えりも町史,えりも町,1971.
13)広尾町史編纂委員会,広尾町史,広尾町,1960.
14)広尾町史編さん委員会,新広尾町史 第1巻,広尾町役場,1988.
15)今も昔も”黄金道路”(2009.12.14閲覧)<<Old Map Room
16)田中克明・服部律子,山道と黄金道路 田中五郎右ェ門の足跡,広尾町郷土研究会,1998.
17)秦檍麻呂,東蝦夷地名考,アイヌ語地名資料集成,佐々木利和,山田秀三,草風館,1988.
18)上原熊次郎,蝦夷地名考并里程記,アイヌ語地名資料集成,佐々木利和,山田秀三,草風館,1988.
19)平山裕人,アイヌ史のすすめ,北海道出版企画センター,2002.
20)和多田進,時の経過にのみ込まれていく 広尾町/ルベシベツ3,道,19,勝毎ジャーナル,1998年10月23日付 十勝毎日新聞,十勝毎日新聞社,1998.
21)和多田進,郷土史家と地元のズレ 広尾町/ルベシベツ4,道,20,勝毎ジャーナル,1998年10月26日付 十勝毎日新聞,十勝毎日新聞社,1998.
22)和多田進,足りないやつは年をとんないんですよ  広尾町/ルベシベツ6,道,22,勝毎ジャーナル,1998年10月28日付 十勝毎日新聞,十勝毎日新聞社,1998.



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(2009年12月14日上梓 2011年8月21日ピタランケビタタヌンケ追加 2013年3月3日地名考分割)