ラサウヌプリの位置の地図

ラサウヌプリ
峯浜地区から
知床半島の地図

ラサウヌプリ(1019.6m)=サマツキヌプリ?=奥遠音別岳

 知床半島の中程に位置する地形図に名前のない山。海別岳遠音別岳に挟まれる目立たない位置で標高も一回り低いが、知床半島全体で遠望すると存在感はある。南側は大きな崖で切れ落ちている。周囲には岩塔が多くそそり立ち、山頂からの展望は神々しい。こうした有名山岳に隠れて地味だが良い山に魅かれる。


ラサウヌプリ地図 牧場前で車を後にして陸志別川の橋を渡る為に川岸に道路を下りていく。海別岳方面へ向かうスノーモービルもこの道路を利用しているので硬く締まって歩きやすい。地形図とは異なり、橋を渡ってすぐに陸嶺川の奥へ向かう分岐があり、それを右に入り陸嶺川を渡ると広大な畑を約2.5qを横切る。目指すラサウヌプリの他にも海別岳、遠音別岳、知西別岳などが朝日に輝き美しいが、あまりの長さの一直線に気が滅入る。スノーモービルもこの畑を縦断しているが、最後は左に逸れていっている。

 右後方に見える「猫山」は険しい岩山であった。名前から登りたいと感じる山だが難しそうだ。

 畑が終わると谷に入り、林道になる。陸嶺川に沿う林道を伝う。標高200m弱の地図上の林道終点から主に右岸沿いに作業道跡が続くが殆どヤブに還っている様に感じる。時折河原に下りて、スノーブリッジを3回ほど渡って240m二股で真ん中の尾根に取り付いた。登りでは上流寄りで左岸の段丘の上を歩き、平らで歩きやすかったが、最後の地図上の函マークの沢が深く、横断が面倒だ。下りでは取り付いた尾根の末端で渡渉して右岸に移って計5回の渡渉になったが、下りのコース取りの方が良かったと思う。沢沿いだが雪崩の恐そうな所はあまりなかった。尾根取り付きは、左から回り込むと取り付き易く低くなっているが、左に回り込んだ部分だけは右岸が高くなっており、やや雪崩が恐いかもしれない。


沢筋から見上げた
ラサウヌプリ

陸嶺川沿いの
地図

陸嶺川の
様子

 スノーブリッジの発達は良い川だと思う。河床は平らで大きな岩もなく、スノーブリッジが落ちていたとしても、増水してなければ靴の中に水が入るようなことなく渡れそうだ。沢沿いでは時折、ラサウヌプリの三角錐の姿が見える。

 尾根に取り付いてから標高500mの平坦地(幕営適)を経由して752mと680m標高点の間のコルを目指す。この平坦地の南東側に地形図では大きな函マークが描かれているが、覗き込んで見ても、雪で隠れているだけなことも考えられるけれど、それほどの函ではない様に思えた。

 また、この沢が狭く、沢沿いに雪崩の危険がありそうな場合の代替案として、陸嶺川の左岸の尾根上を行くことも考えていたが、この尾根の標高520m附近には岩塔があることが沢筋から見上げると分かり、全体的にもヤセ尾根で、通行には時間が掛かりそうなことが予想された。

 752m標高点に上がるとラサウヌプリが圧倒的な存在感で、怯んで帰りたくなったが、行動食を食べて20分かけて気を取り直して進む。以前に夕張山地の中岳岩子岳でも急斜面を前に怯んだが、結局登ったことを思い出して自分を奮い立たせた。後方には遠音別岳と知西別岳が広がっている。登ってみると中岳や岩子岳に比べれば傾斜は緩かった。

 752m標高点の先のコルの南側の谷は広く緩やかで、少し下がった部分は平坦な窪地で幕営適地でないかと思ったが、山頂から雪崩の危険があるかもしれない。


752m標高点よりラサウヌプリを望む

遠音別岳を望む

歩き易い登りの尾根

 最後の急登はスノーシューでは登れないのでアイゼンを履いて、ストックはピッケルに持ち替える。標高800mに小さなハイマツの岩場があるが簡単に巻ける。

 主稜線に上がるとごく短い距離だがスノーリッジになっている部分があった。今までの自分にとって最も細かった尾根だったので緊張した。風が強かったらそこで引き返したと思う。

 最後の登りは緩やかで楽だ。ラサウヌプリの周りは怪峰とも言うべき岩塔が沢山あって迫力があった。北に続く尾根上に頭を出しているのが見えているのが「ラサの岩塔」であろうか。南西には「海」の字が似合う伸びた感じもするが雄大な海別岳、北東には鋭い遠音別岳と知西別岳が広がり、その後方に羅臼岳が小さく顔を出している。

 南方の国後島の羅臼山のプリンを盛ったケーキのような姿も目の前だ。爺々岳も遥かに霞んで見える。国後島の北岸には白い帯が横たわっているのが見えたが流氷だっただろうか。オホーツク海に流氷はなかったが、国後島北岸には留まっていたのだろうか。それとも単に雪原が見えていただけか。

ラサウヌプリ稜線の地図ラサウヌプリ稜線の地図2

南西方
海別岳

北方
ラサの岩塔

752m標高点を
振り返る

西方の856m標高点
名前はないけれど
きれいな山だ

やせた稜線

最後の登り

 登りに思いのほか時間がかかり、正午も過ぎていたので15分ほど休んでそそくさと下山。下りでは752m標高点の登り返しが面倒に見えるが見た目より楽に越えられる。

 もう一時間ぐらいは早く下山すべきだったと反省。事前検討でこのコースは雪崩が恐い箇所があって山頂まで行けないかもしれない・・・とも考えていたが、実際行ってみると悪くないルートだった。山頂稜線から752m標高点のコルと、752mから尾根取り付きの区間は良いスキー斜面だと思う。


752m標高点から
見て

猫山
(中央の峰)
ラサウヌプリから

★山名考

 ラサウヌプリの山名は1916(大正5)年の、門倉三能の地質学の論文に記されている(補記参照)。アイヌ語のras aw un(/o) nupuri[木片(割木)・の隣・にある・山]ということでは無いかと思う。斜里側から見て非常に目立つ支峰「ラサの岩塔」があり、その隣の山と言う意である。ただ、アイヌ語rasが「木」の一部を指す意味しか辞典で見られず、「割り木や木っ端のような形態の岩」まで指しうるのかどうかに疑問が残る。

 アイヌ語千歳方言辞典に「ラサウネ ニrasawne niskur」の項があり、意味は「雷雲」となっている。「ラサウのような雲」が雷雲ということだと思われるが、ラサウ単独の項はない。雷を指す日本語に一つに稲妻がある。アイヌ語で「割り木の隣」と言う表現で「雷」の意味ならば、日本語で「稲のツマ(横)」で「雷」との類似が気にかかるが、この場合のラサウはras-aw[割り木・つの]と解すべきか。ブドウヅルを裂いたものもラと言い、稲妻はブドウヅルを裂いた姿とよく似ている。

 サマツキヌプリと言う呼んだ例があるようだ。アイヌ語の意味は「横たわっている山」であろう。しかし、この名は明治28年の北海道実測切図(通称「道庁20万図」)では、もっと知床半島の先端部の現在の知床岳にその名が振られており、ラサウヌプリに相当するところには山名が記されていない。松浦武四郎の安政3年の記録ではシヤマツケノホリが遠音別岳の山容と位置で描かれている。サマツキヌプリは昭和30年代出版の本の誤認が始まりかと思われる(補記参照)。

 奥遠音別岳という名も見かける。山頂に置かれた三角点の名称が「奥遠音別」であることによると思われる。しかし、三角点の名の「奥遠音別」の「奥」はオンネベツ川左岸尾根上の三角点「下遠音別(410.6m)」、「中遠音別(627.8m)」に対する「奥」であり、「遠音別岳の奥の岳」のような印象を与える「奥遠音別岳」と言う呼称は山名とするに適当とは思えない。


陸志別川とオンネベツ川の源頭と
ルウチシとラサウヌプリの地図

 松浦武四郎の安政5年の日誌でルクシベツ(陸志別川)からの稜線越えのルウチシの「左りはエキシヤランノホリ」とあるのは、ラサウヌプリのことのように思われる。同日誌植別からの眺望挿画で「エキシヤラン岳」とされる山容はラサウヌプリの形とよく似ている。安政3年の日誌のシヘツ(標津)番屋からの眺望挿画で「イシキノホリ」とあるのも、その位置や描かれる山容からラサウヌプリのことのように思われる。ノホリはnupuri[山]である。

 何らかの川の水源の岳と言うことで名づけられた山名かと考えてみる。標津側から見てラサウヌプリを水源に持つ川は、陸志別川本流と右岸支流の陸嶺川と、植別川の左岸支流である。斜里側はオンネベツ川本流と金山川本流である。松浦武四郎の記録や北海道実測切図には「エキシャラン」や「イシキ」と言った言葉を含む川の名は出てこないようである。エキシャランとイシキは、はじめの三音節の子音が順序は異なるが同じなので同じ言葉を含んでいたのではないかと考えてみる。

 松浦武四郎の安政5年の日誌ではウエンベツ(植別川)の水源近くが「氷雪の時二日にてシヤリのヲン子ヘツえ越るよし聞り」とあるが、その直前に「其辺シヤリのウエンヘツノホリのうしろより来たり」とあるので、植別川の始まる海別岳の別名がウエンヘツノホリで、ヲン子ヘツはオンネベツ川ではなくウナベツ(海別川)の聞き誤りか近い意味の別名のように思われる。植別川河口からオンネベツ川に行くには、植別川をそのまま遡るより陸志別川へ海岸を移動した方が山越えが一つ少なく、距離も短く鞍部の標高も低くなるので早いように思われる。植別の南方のムイ(崎無異川)の源として出てくるウエンヘツホリもノが落ちたもので、ウエンヘツノホリで海別岳のことと思われる。陸嶺川(シユンクウシベツ)と金山川(ヲクルニウシ)に関しては山越え情報は出てこないようである。

 よく歩かれる山越えルートの途上で分岐してラサウヌプリに上がる陸志別川本流とオンネベツ川本流と植別川左岸支流を、よく注意される流れと考えて見てみる。語頭がエとイに記録されているのは上流側のあり方を言ったe-[その頭]と考える。オンネベツ川のルウチシから下がってすぐの二股(標高410m付近)は120度で開いていて、ルウチシから下ってくるとオンネベツ川下流とオンネベツ川本流の上流の両方がオホーツク海方面に向かっている。この二股の右股のラサウヌプリに突き上げる流れが、e- pis or un (ONNEPET)[その頭・浜・の所・にある・(オンネベツ川)]でe- pis or unがエキシャランと訛り、略してe- pisとも言ったのが訛ったイキの音韻転倒したのがイシで、イシキと書き取られたと考える。その水源の岳の意が「エキシャランヌプリ」、「イシヌプリ」であったと考える。破裂音同士のp のk への転訛はある。

 陸志別川のルウチシへの分岐の二股(標高330m付近)を改めて見ると、ラサウヌプリへ向かう左股が、出合の向きではそうでもないが、300mほど入ると浜(根室海峡)の方に寄っている。出合での向きがそうでもないのと、ラサウヌプリまでの全体を見ると陸志別川330m二股左股の浜側に寄っている部分の割合が小さいことから、オンネベツ川のラサウヌプリへ上がる沢がe- pis or unか、e- pisと考えておくが、もしかしたら陸志別川の方も両方ともそういう名前であったかも知れないとも考えてみる。


補記2006/1/6(山名の出典)
 「知床半島の山と沢」(共同文化社)著者の伊藤正博さんから、ラサウヌプリの名の出る資料についてご教授いただいた。

  1. 1916年(大正5年)門倉三能,知床半島の地形及地質,pp801-818,28,地学雑誌,東京地学協会,1916.
  2. 1954年(昭和29年)鈴木醇・石川俊夫,知床半島の地形及び地質,網走道立公園 知床半島 学術調査報告,網走道立公園審議会,1954.
  3. 1956年(昭和31年)石川俊夫,北方文化写真シリーズV 北の火山,楡書房
  4. 1961年(昭和36年)戸川幸夫,野性への旅T知床半島,新潮社
  5. 1970年(昭和45年)羅臼町史,羅臼町
  6. 1972年(昭和47年)瓜生卓造,知床の旅,山と渓谷社
  7. 1976年(昭和51年)網走山岳会,「網走山岳会15周年記念会報」の1974年の記録
  8. 1982年(昭和57年)北海道大学山岳部,北大山岳部部報12
  9. 1995年(平成7年)三和裕佶,とっておき北海道の山,東京新聞出版局

    が、あるそうだ。その後更に2)の参考文献から、

  10. 1918年(大正7年)徳田貞一,オコツク海岸より,pp559-569,24,地質学雑誌,東京地質学会,1918.
  11. 1937年(昭和12年)渡辺武男・下斗米俊夫,北見国知床硫黄山、特に昭和11年の活動について,pp213-262,3,火山,日本火山学会,1937.
  12. 1937年(昭和12年)渡辺武男・下斗米俊夫,北見国知床硫黄山昭和11年の活動,9,北海道地質調査会報告,北海道地質調査会,1937.

が、あることがわかった。


1)地学雑誌の
付録の地図より

 これらの中で4)は図中ではラサウヌプリがサマツキヌプリ、知西別岳が三峰と記されるなど、山に関する知識が著者のものになっていない印象を受けた。6)は登山に関する一章が設けられている。3)の著者・石川俊夫氏は11)、12)の共著者・下斗米俊夫氏と同一人物で「下斗米」は旧姓である。1)、10)には参考文献の記載がなく、出典をたどるのは難しい。10)が1)を参照したのかどうかもわからない。11)、12)は同じ内容で冒頭で知床半島の紹介で一度ラサウヌプリの名が出てくるのみで、ラサウヌプリという名が記されているという以上の情報はない。

 明治時代の二大北海道地図である「道庁20万図」、「輯製20万図」にもラサウヌプリの名はなく、これらの作成され始めた明治23年頃から門倉(1916)の大正5年にかけて新たに知られた山名かとも思われる。

 「サマツキヌプリ」の名であるが、道庁20万図ではこの名は現在の知床岳に振られている。また、1)、2)、3)でも同様に現在の知床岳の名としている。サマツキヌプリをラサウヌプリとするのは4)の図と、他に渡部由輝著「北帰行」(1974年,山と渓谷社)のみであり、両者とも比較的新しいので、4)の著者である戸川幸夫の誤認が始まりであると考えておく。松浦武四郎の知床日誌の野付半島付近から見た知床半島の絵図で羅臼岳の西側にシャマツケイワと書かれてはいるが、野付半島から見た場合、ラサウヌプリよりは標高が高く山塊として大きい知西別岳・遠音別岳の塊りが意識されるはずなので、ラサウヌプリを指したものではないように思われる。知床日誌の元になった竹四郎廻浦日記の絵図では遠音別岳の山容の姿と位で、シヤマツケノホリと標津側から見た姿として描かれ、戊午東西蝦夷山川地理取調日誌では斜里側からはオン子ベツ岳として描かれていた。

 1)では現在の知床岳が本文中ではサマツキヌプリであるが図中では「サマッケヌプリ」となっている。2)、3)も1)からラサウヌプリの名を引いてきただけかもしれないとも思われるが、石川俊夫は知床以外の山域で他に見られないアイヌ語に基づく山名を記しているのを見かけたので、アイヌ語山名に関して独自のチャンネルを持っていたのかもしれないとも考えてみる。

参考文献
門倉三能,知床半島の地形及地質,pp801-818,28,地学雑誌,東京地学協会,1916.
中川裕,アイヌ語千歳方言辞典,草風館,1995.
戸川幸夫,野性への旅T知床半島,新潮社,1961.
北海道庁地理課,北海道実測切図「知床」図幅,北海道庁,1895.
北海道庁地理課,北海道実測切図「屈斜路」図幅,北海道庁,1895.
松浦武四郎,高倉新一郎,竹四郎廻浦日記 下,北海道出版企画センター,1978.
松浦武四郎,秋葉實,戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌 中,北海道出版企画センター,1985.
松浦武四郎,秋葉實,戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌 上,北海道出版企画センター,1985.
知里真志保,アイヌ語入門,北海道出版企画センター,2004.
山田秀三,北海道の地名,北海道新聞社,1984.



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(2005年4月4日上梓 2006年1月6日補記 2011年4月3日山名考を章立て 2017年10月6日改訂)