世界自然遺産に登録される、自然豊かな知床の山の中でも唯一、日本国内でも五ヶ所しか指定されていない本物の原生林のお墨付き「原生自然環境保全地域」に山頂を含み、「手付かずの自然」が残っている山とされる。原生自然環境保全地域は日本国内では他に、十勝川源流部、南硫黄島、大井川源流部、屋久島(花山歩道南側)があるが、山頂が境界線上ではなく指定地域内部にあるのは南硫黄島と遠音別岳原生自然環境保全地域だけである(南硫黄島最高点に山名はない)。道もなく、奥深く、遠い山。しかし南硫黄島のように厳しい立入規制があったり、一般人には近付く手段がない程は遠くない。知床峠から縦走し、遠音別岳から斜里町側の海岸へ下山した。
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参考時間・・・知床峠-2:00-天頂山-2:25-知西別岳-1:00-ペレケ山-1:15-1113mコブ-1:50-遠音別岳
2005年5月は知床峠までの道路が10時にならないと開かなかったので、夜行列車で網走まで行って釧網線とバスを乗り継いで9時に知床自然センターに着き、1時間仮眠を取ってヒッチハイクで知床峠へ。
峠から直接稜線へは雪が切れて、ハイマツが露出しているので宇登呂側1つ下のカーブから入山。天頂山までは二重山稜状の北側の尾根を行ったが、そこは全部爆裂火口の縁で、雪庇にひびの入った急斜面で崩壊が恐いのでハイマツを触りながら歩いた。2つの火口の底は氷が割れて水が溜まっているのが見えた。
天頂山から知西別岳へ |
夜行列車の寝不足が祟って、知床峠から天頂山まで2時間もかかってしまった。山頂に着くと、天頂山を北側から回り込んで登ってきた足跡があった。自分が辿った爆裂火口の縁歩きより、この北側を回りこむルートの方が楽そうだ。知西別岳だけが目的なら天頂山は北側からパスしてしまった方が楽なのかもしれない。入山した時にはガスが掛かっていた羅臼岳は、ガスが取れて霧氷で真っ白になった山頂を見せてくれた。国後島の爺々岳までくっきりとよく見えた。
知西別岳へは稜線上の雪が所々切れているのが見えたので、雪原の続いていた羅臼湖の源流を横断する直線コースをとることにした。
羅臼湖の源流では雪が開いて水の汲める場所があった。若干、鉄分の赤色が水際に見られたが、融雪水で増水しているせいか飲んでみる分に問題なかった。羅臼湖も天頂山から見るに、半分溶けかかっていたが、岸まで安全に寄って水を汲めるかどうかは不明である。雪がズボズボだったのでスノーシューを使用。
この雪原に小鳥(キクイタダキ)が一羽死んでいた。もう眼球も落ちて死んでしばらく経つ感じなのに羽はまだすごくきれいだった。この春の嵐で風雪に巻き込まれて稜線上に運ばれてこと果てたのかもしれない。
1200mの知西別岳北尾根上に突き上げる沢から上がって知西別岳へ。北尾根上に上がり切ると、ハイマツの中に踏み跡があるのに驚かされた。夏でも通る人がいるのだろうか。
知西別岳山頂附近から 羅臼岳を望む |
知西別岳から午後の 遠音別岳を望む |
ペレケ山への稜線 |
知西別岳から1267m通称ペレケ山への前半はヤセ尾根で西側のハイマツの中をトラバースしながら通る。一応踏み跡があったけれどかなりのハイマツ漕ぎである。後半は雪堤が発達しているが東側が急斜面で崩壊が恐いのでやはりハイマツを触りながら行き、ズボズボはまるので1qほどに1時間掛かった。
予想よりは大部遅れてペレケ山の陰の幕営予定地に17時に着いた。1267mのペレケ山とその南の1275mピークに挟まれた窪地が、コブに挟まれているので風も弱いだろうと踏んで幕営地に予定していたが、風が吹き抜けて全く風が弱くなく、窪地の中の更に窪地のハイマツの陰にツェルトを張ったが夜分にツェルトを破られそうな感じがしてポールを抜いた。
北風だったので、もう少し頑張って次の1184mのコブの南斜面の窪地で張れば良かったと翌朝後悔するが、寝不足が祟って時期はずれのハイマツ漕ぎに両足が攣ったりして、ペレケ山比高約60mすら登れなかったので仕方なかった。
2日目はまずはペレケ山に登って、知床の黒き怪鳥・遠音別岳を仰ぐ。初日は午後からだったので東斜面が日陰になって見栄えが悪かったので、朝に期待していた。素晴らしい。気温が高く、朝になっても雪が全く締まっていなかった。
1113mピークまでは広い雪堤を利用。時々雪も切れているが切れている部分はザレ場やお花畑のことが多く歩きやすい。ハイマツも低く、ハイマツ樹林下に硬い雪が残っており歩きやすい。地すべりの跡と思われる斜面西側の地形はモコモコしていて非常に変わっている。
険しい稜線 |
次の1170mの登りからヤセ尾根になる。雪庇崩壊が恐いので雪堤上を避けて、ハイマツの中を歩き、ハイマツの中も腐れ雪で歩きにくく、約1km標高差200mに2時間かけてやっと遠音別岳に到着。
時折小雨もぱらついたりしていたが、山頂では快晴。1時間の大休止。斜里岳までよく見えた。
参考時間・・・遠音別岳-0:50-640m沼-1:20-400mコブ-1:25-送電線-0:35-オンネベツ川河口
下山は西尾根を予定していたが、殆ど雪がないようなので北西の雪渓の中を下りることにした。グリセードしたい角度だが雪が腐っていて全くグリセードできなかった。雪渓の下の方では、ダケカンバ林が二列、並木のように連なってスキー場の整備されたコースのようだった。
話の種に近年話題の交点プロジェクト北緯44度ジャスト、東経145度ジャストの交点も踏んできた。既に誰かが踏んで、公式サイトにも報告している。周辺に池もあり、遠音別岳の山頂を見上げることの出来る疎林の中で、意外にも雰囲気の良い所だった。「人為的にたまたま十進法で決められた経線緯線の交点なんか興味がない」などと人には話していたが、たまにはこういう登山も面白いかも・・・。
しかし、どこでも歩ける残雪上では、地形を見るよりGPSの画面だけを見て交点を目指す歩行となり、振り返って味気ない気持ちもあった。一応、GPSの画面も撮影してきた。正式には東西南北の景色と乾杯の記念写真が必要らしい。GPSの画面と遠音別岳山頂の写る東側の風景しか撮ってこなかった。
誤差があるので ピッタリには ならない |
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北緯44度、東経145度の 交点から東側を望む |
(訂正2005/5/28)
上の地図で私の到達した「交点」が交点プロジェクトスタンダードの世界測地系 WGS84 ではなく、日本国内オンリーのTokyo測地系のものではないか?というご指摘をたかやなぎ@東京さんからいただいた(彼の交点プロジェクト到達記)。英語が苦手なので交点プロジェクトのHPをまともに読んでいなかった。Tokyo測地系と WGS84 の交点とでは450mほど離れており、WGS84 の交点は遠音別岳西尾根北側の急斜面に位置している。
640mの池の南側を通り、後は北緯44度線の南側に沿った西尾根を下山。標高500mまでは原生自然環境保全地域と言うことで、大きな木が多く、森の中が非常にきれいである。500mより下は一度伐採されていて、細い木ばかりで樺の密林なども現れる。標高400mのシャリキ川源流の小沢で水が汲めた。エゾシカの毛と骨が散らばっている箇所があった。ヒグマに襲われた跡だったのだろうか。
640mの池 |
事前にこの尾根か、オンネベツ川支流「呂の沢」(「ロの沢」か?)の標高370mあたりまで作業道があると聞いていたが、全くわからず。残雪は350-300mにかけて消える。あたりはトドマツの若い木が並ぶ植林帯だが、残雪が消えても林床のネマガリタケは薄く、歩行に困難はなかった。
オンネベツ川かシャリキ川に下りてしまうことも考えたが、雪解けで増水していたら渡渉もままならないので両川にはさまれた細い尾根を海岸まで辿ることにした。この尾根は歩きやすかった。
標高320mのコブの東側で若干ヤブが濃いものの、その他の部分は平坦で鹿道になっているのか、残雪がなくてもヤブも倒木もなく、ネマガリタケもなく非常に歩きやすかった。所々目印テープもあったが、必要ない気がした。
途中にシャリキ川方面に下りている残雪上の足跡があったので、もしかしたらシャリキ川沿いに林道があったのかもしれない。オンネベツ川沿い右岸にも林道があったことが下山後に分かったが、入口はかなり崩壊して荒れていた。
地図上の送電線の所で一旦開ける。ダニが多い。更に尾根上を進み、海岸が近付くと、森が開けて尾根の幅が広がり台地のようになって、オホーツク海に飛び込むように尾根が終わる。木々が少なくなって少しだけネマガリタケが現れるが、増え過ぎていると聞く鹿に葉が食われるのか、元気がなく、疎らである。この台地上は鹿の頭骨が沢山落ちていて、ちょっと気味が悪かった。
河口の崖 左の稜線を下りる |
海岸に下りる部分にも少し不安があったが、オンネベツ川の河口に向かっている崖の縁の北側に壊れたフェンスと鹿道があり、安全に下りることが出来た。今回の下山ルートは登りのルートとしてもとれると思う。しかし時期的には、平年ではGW後半までだろう。2005年は春が遅く、例年より3週間は雪解けが遅いと言われていた。
明確なヒグマの足跡と交差したのは2日間を通じて二ヶ所のみだった。意外に少ない印象だ。
松浦武四郎の安政3年の日誌のシヘツ(標津)番屋からの眺望の挿画でシヤマツケノホリとある山の姿と位置が遠音別岳のようである。ラウス(羅臼)小休所からの眺望でサマツケノホリとあるのも遠音別岳の辺りのようだが、描かれる山容がはっきりしない。samatki nupuri[横たわっている・山]か。知床半島の主稜線上から見るとそれなりに尖って聳えているように見えるが、東寄りの海上から見ると北東側の稜線の高度の下がり方が緩やかなのが、横になっていると見られることもあったのか。遠音別岳本体の高まりが南方の標津の辺りから見ると、横を向いて寝ている人の最も高まる腰の辺りを足の方から見ていると見えなくもないが、普通に間延びして見える国後島方面からの姿を言ったものと考える方が自然な気がする。
松浦武四郎の安政5年のフィールドノートである手控には、チニシヘツ川源がシヤマツケノホリとされている。翻刻の頭注では知西別岳とされている。知西別川の源頭は遠音別岳にあたっていない。標高では遠音別岳の方が高いが、近接してそれほど標高の違わない知西別岳が samatki nupuri の本体で、標津側から見る場合は前方に位置する遠音別岳が samatki nupuri の一部として捉えられていたと言うことか。知西別岳は南北1.8kmほどに標高1300m前後の稜線が連なっており、横たわっているように見えそうである。
同手控の、ニナルウサン(斜里町美咲)より眺望のスケッチでは、ウナヘツノホリ(海別岳)とチャチャノホリ(羅臼岳)のほぼ中間に両山と同じ程度の高さの山が描かれ、「ヲン子ノホリ」とされている。遠音別川の源頭の山(nupuri)ということと思われる。美咲から見ると、やや標高の低いラサウヌプリは海別岳の蔭になり、知西別岳は遠音別岳の蔭になるので、遠音別岳のことと思われる。描かれる山容も遠音別岳のようである。ところが、同手控のヲン子ヘツ(遠音別川)の川筋の聞き書きでは、「此川脈の東北ヘケレノホリ、西南ヲン子ノホリと云なり」とされ、日誌でも同様に書かれている。忠実に読むとヘケレノホリはペレケ川の源頭の山ということで(ペケレとペレケは恐らく音韻転倒)、知西別岳とその南方一帯と思われるが、ヲン子ノホリはラサウヌプリ(1019.4m)となりそうである。
松浦武四郎の安政5年の日誌の知床半島東側の陸志別川筋の聞き書きでは、ヲン子ヘツに越えるルウチシの「右はチヤチヤノホリ左りはエキシヤランノホリのよし」とされ、羅臼岳までの間にある遠音別岳や知西別岳が無視されているようである。川筋の聞き書きの内容がどうも理解しにくいが、スケッチに書かれた高い山の「ヲン子ノホリ(オンネヌプリ)」は遠音別岳のアイヌ語の名であったと考える。但し、近くの斜里岳もヲン子ノホリなどとされたようである。
松浦武四郎が安政5年の手控に写した、安政3年の道沢重兵衛の「シレトコ記行」に描かれる知床半島の「シヤリキウス岳」は、描かれる位置関係と山容から遠音別岳のことのようである。シャリキ川の源頭の岳の意かと思われる。
オンネベツとはアイヌ語の ru or ne pet[道・の所・である・川]の転訛ではないかと考える。
羅臼側の陸志別川が ru kus pet[道・通る・川]で、源頭から山越えすると遠音別川に出る。山越えの所がルウチシ(rucis)で、アイヌの人達は雪道の山越えで使っていたようである。海まで出ると知床半島を横断することになる。斜里側では道の有る所の川だと云うことを違う形で言い表していたのだと思う。
道沢重兵衛がサリキウスと記したシャリキ川は松浦武四郎は安政5年にサルクシと記録し、「本名シヤリクシと云よし。此川上に小沼有。其の沼の辺葦荻多きによつて号るとかや。シヤリは葦荻の儀、クシは在ると云訳なり。」としているが、源頭に沼があるのは北隣のヲヘケプと書かれたオペケプ川である。冬にルウチシからオホーツク海岸へ下りるのに、谷が深く狭く急な所のあるオンネベツ川の谷筋を避けて、オンネベツ川とシャリキ川の間の尾根筋を通り、オンネベツ川とは別の時期に名づけられた斜里側からのルウチシへの入口の所にある川と言う事の、car -ke us -i[口・の所・にある・もの(川)]の転訛ではなかったかと考えてみる。
斜里岳を指すヲン子ノホリ(オンネヌプリ)も ru or ne nupuri[道・の所・である・山]ではないかと思う。斜里川に沿って斜里山道のような根室・釧路方面と結ぶ道があり、斜里から見てその道が斜里岳の裾を回り込んでいるので、道の方向が斜里岳の方向とほぼ一致する。
参考文献
松浦武四郎,高倉新一郎,竹四郎廻浦日記 下,北海道出版企画センター,1978.
知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1992.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集5 午手控1,北海道出版企画センター,2007.
知里真志保,アイヌ語入門,北海道出版企画センター,2004.
山田秀三,北海道の地名,北海道新聞社,1984.
松浦武四郎,秋葉實,戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌 中,北海道出版企画センター,1985.
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