ルベシベツ山道の位置の地図1
ルベシベツ山道の位置の地図2

ルベシベツ山道周辺アイヌ語地名考

 この辺りの地名考は土屋茂(1994)の「アイヌ語の地名から見た広尾町の歴史と風景」が最も詳しいと思う。そこから更に考えてみる。

ルベシベツ山道北側の地図
ルベシベツ山道南側の地図

★ルベシベツ

 アイヌ語のルペペッ ru pes pet[道が・下る・川]とされる。秦檍麻呂の東蝦夷地名考にある古名ルベツルベツは、下って出ていく ru-put or o pet[道の出口・の所・にある・川]の転ではないかと考える。南側からの呼称であったか。


★ルーチシとオチシ

 土屋茂(1994)は木村謙次の寛政10(1798)年の日記(蝦夷日記)と、安政3(1856)年の寺地強平の紀行文(蝦夷紀行)とからオチシを音調津を詰めた峠としている。松浦武四郎の絵図・文章の記録を合わせても、ビタタヌンケの奥がルーチシ、音調津の奥がオチシと分かる。峠らしさや険しさではオチシの方が厳しい。ルーチシは峠としては緩いもので印象に残りにくいと思う。オクチシは書いてもルーチシは書いていない寺地強平の印象に残らなかったのだとしても仕方なかったように思われる。ルーチシもオチシも意味はいずれもアイヌ語の「峠」である。どのように言葉が使い分けられているかは分からない。ルーチシ ru-cis は ru(路) cis(中凹み)と分解される。オチシ ok-cis は ok(うなじ) cis(中凹み)と分解される。もう少し後の時代の資料で南側の峠をオチシと書いているものも見かけた気がするが、古い資料に従いたい。


★カムィカル(神芟留)

木村謙次(東蝦新道記1798)自留辺志別遡水至神芟留按針南沿流而下出鐚田貫月・・・;(蝦夷日記1798)ルーチシ江木表ヲ立、神次刈留宇ト書ク
谷元旦(蝦夷蓋開日記1799)ビタヽヌケの川を渡る。カモイカルウの橋あり。山中、夷人の樵路有。・・・近藤十蔵、榜を立て記す。予、景色を貪、道を山中に取んとするに、行李ども皆、浜辺を先へ行きたり。・・・
渋江長伯(東遊奇勝1799)ルタタヌンケッフの川を渡る、山手カモイカルルウの榜あり、山中夷人の樵路あり、近藤重蔵榜を立て記す、余山路を行んと欲、行李皆浜道先江・・・
磯谷則吉(蝦夷道中記1801)カムイカルーと云所より浜に出、・・・(えりも町史より)

 土屋茂(1994)はその地点を不明としている。北海道道路史によると昭和9年の広尾村史でビタタヌンケ川上流としているようだが未見につき不明。

 最も早い東蝦新道記の記述から考えれば、「留辺志別(ルベシベツ)より水を遡って針(コンパス)を按じ」るのは道の分岐や分かりにくい場所であるから、見通しの良い峠であるルーチシや水流に沿って下るだけのビタタヌンケ川上流域の地点ではない印象を受ける。残るのは谷中で進行方向に水流が2つに分かれているルベシベツ川の二股しかない気がするが、木村謙次は峠であるルーチシにこの名で道標を立てたとしている。磯谷則吉の記述を読むと、ビタタヌンケ川上流であるようにも読めるが判然としない。ルベシベツ二股もルベシベツから山中に入ってからならば、水の流れる向きはまだ逆でも結局は浜へ出る途中の一地点ではある。広尾村史は東蝦新道記中の「溯水至神芟留按針南」に続く「沿流而下」から、神芟留(カムカルル)がビタタヌンケ川上流としたのではないかと思うが、他に論拠が無かったか昭和9年の広尾村史を見てみなければならないと思っている。神芟留を一地点と想定すると東蝦新道記の記述にはどうしても矛盾が含まれる。

 土屋茂(1994)の記すカタカナのカムカルルではアイヌ語の辞典を見てもアイヌ語が何だったのかよく分からないが、木村謙次・渋江長伯の記述から kamuy kar ru[カムイ・作る・道]を考える(谷元旦も別本ではルが二つ分書かれているものがあるようである)。しかしカムィが作ると言うほど超人的なイメージの区間は、道が切り開かれていなかったとしてもルベシベツ川流域及びメナシクシ(コイカタ)ビタタヌンケ川流域に現在は見当たらないとは言える。超人的なのは、むしろ海岸沿いの車道開通前も含めた黄金道路である。土屋茂(1994)はカムカルルの音に沿って「かぶさって・からまる・道」ではないかとしつつ地点の特定は出来ないとしている。ルベシベツ川もメナシクシビタタヌンケ川も地形的にそれほどアイヌにとって歩きにくい道ではなかった。足が水に浸かることさえ厭わなければ海岸通しより多少時間は掛かるが非常に歩きやすいルートであった。厳しい地形のことだとしたら kamuy kar ru がルベシベツ二股ということは無いだろう。

 渋江長伯の東遊奇勝と谷元旦の蝦夷紀行の文章は殆ど同じだが、これらの文からはビタタヌンケの川を渡った先に近藤重蔵の名で山側に「こちら kamuy kar ru」と言うような立て札が立っていたのかと想像してしまう。近藤重蔵が、自分が主導して作った道にカムイカルルと名をつけたように読める。二年後の磯谷則吉はこの立て札(榜)を見て「カムイカルー(ゝ?)で浜に出た」と誤解して道中記に記したのではないだろうか。

(補記2010/4/10)
留井さんから掲示板を通して kamuy kar ru についてご意見をいただきました。

 地名において kamuy という言葉は kamuy-nupuri や kamuy-sirar のように名詞の前に直接付くことが多いようです。あまいものこさんの解釈 kamuy-kar-ru と考えた場合、他の名詞と同じように動詞の前に kamuy が付いていることになります。そこでこの地名における kamuy は、他の地名とは異なった意味で使われているのではないかと考えました。

 古い記録である『快風丸記事』(1689頃)には「平侍ノ類」である nispa(「ニシツハ」)より上の位の身分を kamuy(「カモイ」)と呼ぶと書かれています。また千歳方言辞典にも kamuy の意味として「人間であっても非常に立派な人」が載っています。これらのことから以下の解釈を考えました。

kamuy-kar-ru 「高い身分の者が作った道」

 近藤重蔵が作った道であるということを記念してkamuy-kar-ruという地名を作ったと考えれば、あえて立札にこの地名を書き残した意義もはっきりすると思います。

 一方で、和人と関係するとするアイヌ語地名は不自然ではないかという疑問もあります。永田地名解には和人に関係するとされるアイヌ語地名がいくつも見られるのですが、それらの多くは疑わしい解釈のように思えます。しかし永田地名解には下記の地名も載っていました。

「Penjay ratki ushi ペンザイラッキウシ 弁才船ノ掛リ澗」

 これは根室市花咲港の北東にある入り江のアイヌ語名らしく、「松浦地図」には載っていないことから永田氏独自の調査により記載した地名のようです。この地名に限っては、以下のように解釈すれば自然なアイヌ語地名になるのではないかと思います。

pencay-e-ratki-usi 「弁財船をいつも掛ける所」

 このような地名もあることから考えて、和人の交通に関係するアイヌ語地名も存在するとの考えに至りました。(参考文献: 平山裕人『アイヌ史のすすめ』北海道出版企画センター 2002年)

 なるほど、kamuy が人を指すこともあったのですね。そして新しく作られたルベシベツ山道そのものを指す言葉がアイヌ語のカムカルルであると考えられるのですね。ありがとうございました。


★ピナイとピンナイとルーラノシ

 ピンナイは東蝦新道記で「黽内」と書かれ、トモチクシ(鞆筑子)と共にビタタヌンケ〜音調津の最大の難所の一つとされていた。土屋茂(1994)の「アイヌ語の地名から見た広尾町の歴史と風景」では「ほとんど隧道の中なので・・・・今では場所の確認は出来ない」としてルーランシとピンナイを100mほど離れた別の沢としているが、同著でルーランシとする沢の別名がピンナイではないかと思う。北海道仮製五万分一図には「ルーラノシ」がルペシュペ右岸と海岸線の間の山並みの一ヶ所しかない鞍部から500mほど南の海岸線に地名として振られているが、今の地形図では鞍部は二ヶ所あり、南側の鞍部が土屋茂の言う坂ノ下の坂の上端で、ルーラノシの文字と坂ノ下の今の地形図上での開きは200m弱ということになる。20万分の1の北海道実測切図では北からチカウシ、ルーラノシ、ヨコマと海岸線に並ぶが、どこを指してのルーラノシなのか分かりにくい。ルーランシはルーラノシの誤読ではないだろうか。同著でピンナイとする水流なら、難所であったとしても水流に関しては小さな流れを横断するだけである。一方、「坂の下」の坂については水流があることは日誌等に書かれておらず私も確認していないが、nay[河谷]であることは地形図を見れば明らかである。100mという浜通りでは異例の標高差を登る急斜面の道が第二次大戦中の食料難の頃に上に畑を作って使われたと同著は伝える。木村謙次は蝦夷日記でピンナイで上(前)を歩く人の不注意からか石を落とされたことを記している。アイヌ語のピンナイについて知里真志保(1956)は地名アイヌ語小辞典で pin-nay を「溝川;細く深い谷川;細く深い沢」と訳し、pir(傷) nay(川)と解する。pir-nay が音韻法則でピンナィと発音される。崖の続くビタタヌンケ〜ルベシベツにあって傷のように切り込んだ谷であり、人が通行した重要な谷である。ピンナイの一帯がルーラノシ ru e- ran usi[道・に関して・下る・いつもする所]と思われる。

 ピンナイは海岸からルベシベツ川南支流に抜ける「口」である。やや具体性を欠く感じもする「傷川」ではなく、パンナィ par-nay[口の・河谷]或いはパンネイ par ne -i[口・である・所]の転訛ではなかっただろうかと考えてみる。

 ピナイはビタタヌンケ川の支流でルーチシへ上がる沢を分ける谷(左股)の名でアイヌ語の pi-nay[小石の・川]と思われる。この左股は伏流して水流が見られなかった。安政3(1856)年にルベシベツ山道を歩いた寺地強平は東行時にビナイを海岸から「拾餘丁(1km強)」入った地点で里標があったと書く。丁度、谷が二股になっている箇所だが、西行時はオクチシから渓間に下り「又漸次ニ一山ヲ上リ又下阪ニ趣ク所『ヒナヰ』ノ堠木アリ」とあってルーチシの所にピナイの標柱があったようである。安政3(1856)年に歩いた松浦武四郎はヲクチシ峠(オクチシ)とヒタタヌンケの間に「ヒナイ」を記録し、ピタタヌンケ川北側上流二股に「ピイナイ」と地名を振った17)。知里真志保の地名アイヌ語小辞典によると pi-nay には pin nay と同じ意味の場合もあり、同アイヌ語入門によると同種の子音が並ぶと一つが追い出されて発音される事もあり、紀行文によってはピナイとピンナイの区別がつきにくい書かれ方のこともあるが、ルベシベツ山道ではピンナイとピナイは別の谷を指していた。


ピタランケとビタタヌンケ

 山田秀三(1984)の「北海道の地名」に、それまでのビタタヌンケを解く諸説(秦檍麻呂・上原熊次郎・松浦武四郎・永田方正)がまとめられているが「例を見ない地名で見当をつけれないので、参考として昔からの説を羅列して置くに止めたい」としている。その後に、土屋茂によると土地の人は「ビタランケ」と呼んでいると言うとされ、ピタ・ランケ(小石川原・を下す)とピッ・ランケ(小石・を下す)を解釈として示すが、ビタランケがビタタヌンケと言う音とどう関わるかについては言及を避けている。十勝と日高の境であり、バス停の名は「境浜」である。現行地形図では二本の川が浜に注ぎ、日高(南)側の川にピタタヌンケ川と名が振られているが、松浦武四郎の川筋取調図では十勝(北)側のピナイ下流(コエカタピタヽヌンケ/コイカクシビタタヌンケ)と合流し一本の川として海に注ぐ様子が描かれ、土屋茂(1994)によると一本の川になっているのを見たと言う古老も居たという。谷元旦・渋江長伯の寛政11年の記録では二回ビタタヌンケで川を渡っているので分かれていたようである。

 ビタランケは林道の名でもピタランケとしてある。山田秀三(1984)の pitar ranke[小石川原・を下す]は、小石を下すならともかく「河原を下す」と言う表現が認められるのか疑問が残る。小石が多いのは確かである。ピナイが水が見えないほどに小石の多い沢であり、十勝側の河口でも砂の中に小石が多く見られた。十勝側の河口の川縁が pitar[小石川原]であり pitar ranke で小石河原の下されたピナイの川や河口一帯を漠然と指していたということか。まだ考える必要がある。


ヌイネウンキ推定地図

 十勝の現在の帯広市の愛国附近は昔は鵺抜(ぬえぬんけ)と呼ばれていたが、安政5年に札内川沿いを下った松浦武四郎は鵺抜村の前身のアイヌコタンについて戊午東西蝦夷山川地理取調日誌で「ヌイ子ウンケ 右のかた小川有。今詰てムイ子ヒと云り」と書いた。現地ノートである同年の手控では「ヌイ子ウンキ」とある。ヌイネウンキ/ヌイネウンケが本来のものとされながらムイネヒと発音されていたことが分かる(日誌の「ヌイ子ウンケ」は安政4年作のトカチ人別帳に拠るか)。同日誌・手控では札内川左岸とされているが、明治頃の地形図を見ると右岸の愛国の下手の辺りのようである。松浦武四郎のヌイネウンキなどの手控・日誌の記録は札内川上流の今の西札内のサツナイコタンでの聞き書きで、その後の実踏では札内川左岸の内陸を通って札内川への支流の落ち口を見ておらず、日誌では理解しやすいようにと札内川を遡るように書かれており、支流の右岸左岸等の扱いに手控と日誌の食い違いがあるなどどうも怪しい所がある。永田地名解は「ムイ子 ウン ケ 湾」としており、古い地形図でムイ子ウンケピラとある、今の地形図での愛国一号・二号・三号道路が札内川に当たる間の辺りの一号分ほど手前(東)の、湾曲したムイネウンケピラと札内川の水流の間の土地が川岸より一段高く平らになっている hunki であり、湾曲した pira で湾(moy)のようになっている moy ne hunki[山谷の中で平地が湾のように入りこんでいる所・である・浜から上がって一段高くなってハマナスなどが生えている地帯]の転訛がヌイネウンキと考える。詰てムイネヒというのは同じ所を moy ne hi[山谷の中で平地が湾のように入りこんでいる所・である・ところ]と言ったものと思われる。永田地名解の「湾」の一文字の訳は、湾と訳される事がある moy が含まれている、と言うことでは無かったか。

 土屋茂(1994)によると、ビタタヌンケの広尾寄りには「今では往年の姿を全くとどめない程砂が無くなって」いるが「砂山」と呼んでいる所があると言う。オタオッチシ(砂・の峠)という地名も明治29年の北海道仮製五万分一図に、ビタタヌンケの浜の北部に記されていた。私が見た時は砂山と言えるようなものは無かったが、昔は「砂が逆巻くと道路にたまり、自動車の前のガラスにキズが付くといわれる程大変なところで、バスは常時スコップを携持していた」という。これらの少し昔の情景から、ビタタヌンケはアイヌ語の pitar ta an hunki[小石川原・に・ある・砂丘]ではないかと考える。アイヌ語で t の前の r の音はひかれて t になる15)。また、アイヌ語では同じ母音がつながって現れると一つにされることがあり、子音と母音の板ばさみになった h 音はよく姿を消す15)pitar ta an hunki の発音をカタカナで書けばピタッタヌンキとなる。鵺抜の例から十勝地方において hunki の最後の音節が和人の耳に「ケ」とも聞こえた可能性は考えられないとも言い切れないのではないか、同様に pitar ta an hunki がビタタヌンケ/鐚多貫と書き取られることも考えられるのではないかと思う。ピタランケは pitar hunki[小石川原・の砂丘]ではなかったか。カタカナで書けばピタルンキとなり、まだ少し音が違うがビタタヌンケとピタランケが殆ど同義となる。

 松浦武四郎はホロイズミのアイヌの人にビタタヌンケの地名の訳について、「砂がより上る処を盛りしをヌンケと云よし」と聞いて安政5年の手控に記している。鵜呑みに出来ないと思ったのか「トカチ乙名の申口とは異なりたり」と続け、東蝦夷日誌では少し形を変えたようなことを二番目の説として記している。また、そのトカチ乙名の言ったのは「石多く有りしが、此処をわりてゆら(る)く切開けしによって号20)と記し、東蝦夷日誌では三番目の説として少し形を変えたようなことを記している。東蝦夷日誌に書かれた説は読んでも要領を得ないが、手控の原文を読むと安政5年の時点でもビタタヌンケの前半が pitar(小石川原)を含み、後半が hunki(砂丘)を含んでいたと考えていたアイヌの人が居たと言うことのように思われる。

 境浜の北寄りのオタオッチシ ota ok-cisi[砂浜・の峠]については、木村謙次が蝦夷日記で、松浦武四郎は蝦夷日記を読んだか蝦夷日誌で書いている、ビタタヌンケフの「瓠形(ひさごがた)」と言う解釈は ota[砂浜]の hunki[砂丘]が山地から離れて高まっており、山地との間に滑らかなヒョウタンのくびれのような鞍部を形成して、その鞍部にトモチクシ方面への道が通っているということでビタタヌンケ一帯のランドマークを説明されたものということではなかったか。オタオッチシは概念形がそのまま並ぶ ota ok-cis[砂浜・峠]かもしれないが、判断できない。

 松浦武四郎はビタタヌンケを川の名として記録している。東蝦新道記の鐚田貫月の最後が「月(ゲツ)」であり、木村謙次のビタタヌンケツフ、渋江長伯のヒタタヌンケツプなどの記録から、ビタタヌンケの後ろに更に何か続くアイヌ語がピタッタヌンキという砂丘に関わる別の地名ではなかったかと考える。蝦夷日記に「ヒタタヌンケツフ 崎川」と、東遊奇勝に「谷川あり、川に附きて下る、ヒタゝヌンケップと云」とあるので〔pitar ta an hunki〕o p[ピタッタヌンキ・にある・もの(川)]で、砂丘の名とは別にその砂丘にある川(ビタタヌンケ川)と言う事を言ったものか。永田地名解などにある鵺抜のムイネウンケも明治の地図には凹んだ所を流れる小川が描かれているのでその小川を指した〔moy ne hunki〕o p[ムイネウンケ・にある・もの(川)]と考える。

参考文献
1)土屋茂,アイヌ語の地名から見た広尾町の歴史と風景,土屋茂,1994.
2)山田秀三,北海道の地名,北海道新聞社,1984.
3)木村謙次,山崎栄作,木村謙次集 上 蝦夷日記,山崎栄作,1986.
4)松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集3 辰手控,北海道出版企画センター,2001.
5)知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1992.
6)北海道道路史調査会,北海道道路史 路線史編,北海道道路史調査会,1990.
7)谷元旦,板坂耀子,蝦夷蓋開日記,近世紀行文集成 第1巻 蝦夷篇,板坂耀子,葦書房,2002.
8)渋江長伯,山崎栄作,東遊奇勝 蝦夷編(渋江長伯シリーズ 中),山崎栄作,2003.
9)渡辺茂,えりも町史,えりも町,1971.
10)北海道郷土資料研究会,北海道郷土資料研究 第5 快風丸記事,北海道郷土資料研究会,1959.
11)永田方正,初版 北海道蝦夷語地名解,草風館,1984.
12)平山裕人,アイヌ史のすすめ,北海道出版企画センター,2002.
13)陸地測量部,北海道仮製五万分一図「廣尾」図幅,陸地測量部,1896.
14)北海道庁地理課,北海道実測切図「襟裳」図幅,北海道庁,1893.
15)知里真志保,アイヌ語入門,北海道出版企画センター,2004.
16)寺地強平,東京阿部家資料 文書編10 蝦夷紀行,福山市教育委員会,2020.
17)松浦武四郎,秋葉實,武四郎蝦夷地紀行,北海道出版企画センター,1988.
18)秦檍麻呂,東蝦夷地名考,アイヌ語地名資料集成,佐々木利和,山田秀三,草風館,1988.
19)上原熊次郎,蝦夷地名考并里程記,アイヌ語地名資料集成,佐々木利和,山田秀三,草風館,1988.
20)松浦武四郎,秋葉實,戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌 下,北海道出版企画センター,1985.
21)松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集6 午手控2,北海道出版企画センター,2008.
22)北海道庁地理課,北海道実測切図「十勝」図幅,北海道庁,1894.
23)参謀本部,五万分一地形図「帯廣」図幅,参謀本部,1932.
24)松浦武四郎,吉田常吉,新版 蝦夷日誌 上 東蝦夷日誌,時事通信社,1984.
25)松浦武四郎,吉田武三,三航蝦夷日誌 上,吉川弘文館,1970.
26)渋江長伯,山崎栄作,東遊奇勝 帰路編(渋江長伯シリーズ 下),山崎栄作,2006.



トップページへ

 資料室へ 
ルベシベツ山道アイコン
ルベシベツ山道へ
(2013年3月3日ルベシベツ山道の頁から分割 2017年6月14日URL変更 11月18日改訂 2024年6月18日改訂)