天神山 | (170m) |
てんじんやま |
現行の地形図では知利別川の右岸、八丁平の一角に天神山の名が振られているが、地元では水元町と天神町の境の、知利別川左岸のコンモリした山を天神山と呼んでもいるようだ。山麓にある清瀧不動尊(清瀧寺)の山号も天神山である。当頁の天神山は清瀧不動尊の上の天神山である。八丁平の天神山の山頂直下にあるのは金刀比羅神社であり、天神様ではない。北海道の地名の大家、知里真志保と山田秀三は、この水元町と天神町の境の天神山を楽山=ピスンモイワと対になるキムンモイワと考えられる地点の候補の一つとしている1)が、そうした証拠となる古文献は見当たらないと言う。
昭和3年の海図では楽山が午房山、天神山は市九郎山と振られていた。周辺の同程度の標高の山に山名は振られておらず、対になって振られているのは或いはこれらの山がアイヌの時代から対として捉えられていたことを和人が引き継いだのではないかと言う気もする。市九郎は人名のように見えるが、地元にそのような名の人がいたのだろうか。
天神山 高砂町から |
★登山記(2009年8月)
はじめは南側から登ってみようと考えていたが、南側は登山口がハッキリしなかったので北側から入山した。
水元町から天神山と室蘭岳の鞍部へ車道を上がる。舗装道路の突き当たりは天理教の教会があって、さらに地形図上の北への点線に沿って林道が延びている。わずかに戻ったところから南側へも林道があり、ここが入山点となった。
ずっと平坦な尾根の上の林道であるが、やや草がかぶっている。左手に携帯電話のアンテナを見ると林道は笹に覆われて自動車は疵覚悟でも通行は難しそうな雰囲気となる。次第に笹は濃くなり、手も使う必要がある。一旦鞍部で下がり、わずかに登って天神山山頂だが展望はない。平坦な笹と樹林が一面広がっている。
天神山山頂で林道幅の路盤は終わっており、ここからも笹ヤブであるが路盤は人幅・鹿幅となる。メインの尾根から左に逸れるようになると少し鹿道がハッキリしている。更に下ると尾根から左に外れトラバース様となり、このトラバースは配水池に突き当たる。配水池のフェンスを左から回り込むように踏み跡が続くが、もう笹薮はない。
オオバコを踏んで傾斜の緩んだ路盤を進むとまもなく人家の屋根が横に見え、T字路になっている。右に入ると送電線下ですぐに車道に出る。左に入ると植林下で地形図上の旧登山道である。最後の少し壊れかけた階段のある急斜面を下りて車道に下りる。ブロックによる車道と登山道の段差が70cmほどある。
天神山の尾根の末端南側には清瀧不動尊の名水がある。末端北側にも妙倉結社の湧水と池がある。室蘭岳の伏流水がここで湧き出ているのが水元町の由来なのだろうか。
この山の外見は山田秀三の少し古いモイワの定義に合致している。コンモリしていて札幌の円山ともよく似た印象だ。だが、山田秀三の頃から数十年経っているがキムンモイワの証拠も新説も見ていない。
市九郎山の名は昭和3年より前にも辿れるのだろうか。知利別川と鷲別川の間に突き出た 〔etu ikkew〕 or(o)[鼻の・せすじ・の所]がイチクロウで、突き出した鼻先の上の天神山を指していたのではないかという気もするが・・・。
参考文献
1)知里真志保・山田秀三,室蘭・登別のアイヌ語地名,知里真志保を語る会・噴火湾社,2004.
2)海軍水路部,海図「内浦湾一名胆振湾」図幅,海軍水路部,1928.
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