河内飯盛山(314m) 大東市の谷田川筋とそれより南から

 道は2017年と2018年に確認したもので、ひどく荒れていたものや細かいものは省いた。山頂付近の細かい地図は飯盛山メインページの地図参照。

  • 歩行日・・・2017年、2018年
  • 五万図・・・「大阪東北部」

地図1
地図2
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 野崎駅から飯盛山に登るには野崎観音(慈眼寺)を経るのが早道である。

 中尾根コース登山口までは野崎駅から野崎観音の裏手を登って観音峠に上がり谷田川の谷に出る。観音峠から尾根に取り付くと南尾根コースである。中尾根コース登山口から更に谷田川沿いの舗装路を奥に進むと妙成寺前を経て竹林コースと絵日傘(七曲)コースの登山口である。いずれのコースも登山口付近に駐車スペースは殆ど無い。臍の王神社、宝塔神社、寺川新池の登山口も駐車スペースは殆ど無い。

 野崎観音から観音峠までは、出尾根のコブの野崎城址を経て観音峠に至る尾根線に忠実な道と、九重層塔・慈母観音の辺りから吊り橋で斜面を渡って観音峠に出る道と、野崎観音の墓地を通って吊り橋の先に出る道がある。野崎城址までの尾根道は所々にベンチや展望台がある。吊り橋から先の観音峠までの道は暗いがちょっとした岩場が続いて歩いて面白い。


吊り橋

観音峠を下って
谷田川を渡る

九重層塔

★中尾根コース

 急峻な尾根を登るルートであり、ロープが連続する。登りでの利用が良いのではないかと思う。下りならロープを掴むことを前提に軍手の持参を勧めたい。竹林コースと合わさる辺りが北条東古墳群らしいが、どこに古墳があるのかサッパリ分からない。北条東古墳群とされる辺りは、古墳と言うよりは土塁や土橋の城郭を思わせる地形の中の道である。竹林コースを合わせて更に登り、尾根に上がった「杉むら峠」の上(南)のコブがヨボシト砦のようである。樹林に覆われて展望は無いが、小さな削平地らしき頂となっている。

 コースの下半で膝より低い切石が道標のように幾つか立っているが、文字はない。飯盛山山中の道にはこうした道ばたに立てられた小さな切石が多く見られる。

 中尾根コースの名は現地の道標による。小字図によると、このコースのある尾根は「焼尾」のようである。コース名の「中尾根」は南尾根コースとの比較でのものか。


切石が立つ

ロープ道

竹林コースと
絵日傘(七曲)コース
拡大図

★竹林コース

 階段の多い絵日傘コースと急峻な中尾根コースの間にあって、入口には「荒れている」などと書かれているが、荒れているというのは絵日傘コースのように舗装されていないとか中尾根コースのようにロープが掛けられていないと言うことであって、ほど良い傾斜で歩きやすい山道である。谷筋に沿った道で、途中に水場が幾つかある。

 小字図によると、この谷筋の名は「深谷」のようである。

 後半に竹林があり、竹林を過ぎて中尾根コースに合流する。


竹林絵日傘分岐

一番下の水場

下の竹林水

上の竹林水

竹林

竹林

★絵日傘(七曲)コース

 四条畷駅や野崎駅辺りの看板にある「絵日傘コース」はこのルートのこと。絵日傘の名は野崎参りで使われた絵日傘に因んで大東市が付けたのだという。簡易舗装などでよく整備されているが、階段が多い。飯盛山南方稜線に乗る所が「絵日傘峠」。山道に入ってすぐの七曲の所と、絵日傘峠の直下が階段区間である。

 舗装道路の最奥の妙成寺は表札を見なければ寺と思えない風の建物の、巫俗と仏教の混淆する所謂朝鮮寺/韓寺だが久しく人の手が入っていない雰囲気で、敷地の中の谷田川本流に三光滝という滝があるらしく、滝の水の落ちる音が聞こえるが、滝の姿は建物に遮られて見えない。

 舗装道路が終わるとすぐに竹林コースを左に分けて七曲に掛かる。七曲の下の方で分岐して沢沿いを進んだ奥にある灌頂の滝は見栄えのする自然滝だが、銚子口の所で水流が整えられている。妙成寺の行場だったようである。七曲を大凡登り切った所にベンチがあって道の左側に御嶽教の霊神碑が二つあるが、倒れている。同じ位の大きさの少し上にある稲荷と御劔の碑が倒れていないのに御嶽教のものが倒れているのは、1995年の阪神淡路大震災で揺れの向きが合ってしまったのでないかと思う。御嶽霊神碑は南向きで稲荷碑と御劔碑は西向きである。登り切った尾根の鼻先に御劔と稲荷の碑がある。ここからしばらくは緩やかで、先に何も書かれていない石祠がある。ツルツルの石の祠は新しそうだが、基壇の石積みは古そうである。

 辻の新池を詰めると絵日傘峠への階段登りである。絵日傘峠のすぐ下と絵日傘峠で南尾根や龍間方面からの道と合流して、ヨボシト砦の東脇を通って緩やかな尾根道を虎口へ向かう。辻の新池の「辻」は山麓の北条村の南の一部である旧辻集落(北条7丁目辺り)のこと。


灌頂の滝

御嶽の碑

稲荷・御劔の碑

石祠

辻の新池

絵日傘峠への階段

★南尾根コース・黒廻池/くろまの池

 野崎城址の東の鞍部である観音峠から尾根通しの道。多少アップダウンがあるが、距離が長いので勾配は緩い。尾根の末端付近は城郭の削平地を思わせる。黒廻の池は水面の殆ど無い湿地と言った感じの池で、道は北回りと南回りがある。北回りは送電線巡視路として作られたようで、黒いプラスチックの階段が多い。

 南回りの295m標高点のコブは飯盛山城の砦の跡で頂に削平地がある。コブの北側の地形も手が入っているのが分かる。黒廻の池の南側の石切場跡に京極家の刻印(丹後守なので四角い枠の中に「丹」の文字らしい)が打たれて残されている切石があると2016年度の大東市と四條畷市による登山コースガイドマップにあるが、その石を見つけられない。飯盛山一帯に同様の石切場跡は幾つもある。北回りの黒廻池の北側にも大きな石があるが、南側の石切場跡にあるような石切りの為の矢穴のある石は見かけなかった。

 一旦南池の端に下りて絵日傘峠に登る。南池の東岸には水面に接した屋根付きのデッキがある。南池の東岸から南下する道はデッキの先で行き止まりである。南池の北側の尻池の端には東屋がある。

 黒廻池の南側は細長く低い直線的な小尾根である。「くろま」は「くろ(畔)・ま(際)」で、細長い高地(畔)の脇と言う事で、そこの池が「くろまの池」でなかったかと考えてみる。小字図を見ると、この尾根と黒廻池の小字名は「ゼゼウラ」で、池の奥が源頭の295m標高点を含めて「黒廻り」である。畔際の谷間ということ「くろ(畔)・ま(際)・ほら(洞)」の転訛が「くろまわり」で「黒廻り」と宛て字されたか。黒廻池と書かれているのは「くろまわりいけ」と読むのか。池の南の小尾根を含むゼゼウラの原義については分からない。ゼゼウラの地割りの半分以上は自然地形に沿っておらず人工的で、辻の新池の辺から南側に細長く延びており、命名点が小尾根とは別の処で黒廻りを割ったことも考えられるかと思う。


道沿いに
矢穴の残る石

矢穴の残る石
正面からアップ

黒廻池

(参考)専応寺太子堂前
石垣の丹の字の刻印
四角枠は一辺約20cm

野崎観音付近
拡大図

★臍の王神社

 深い竹林や切り通し状の所があり、全体的に暗い雰囲気である。臍の王神社は、臍の緒は生命の連鎖のシンボルで、生命は地上のいかなる王よりも尊いものだという意味を掛けて臍の王として昭和38(1963)年の創立だという。

 切り通し状の所と幅広の路盤は、この道に産業の用途があったことを思わせる。深さは最大で3m強ある。大阪城築城の際に京極高知が石材調達の陣屋を設けた(専応寺の手水鉢の看板による)とされる専応寺は臍の王神社も北側に分岐する道の出口も近い。黒廻池の辺りの石切場から石材を下ろすなら、登り返しのある南尾根コースを避けて切り通しも掘るかと考えるも、大阪城築城の頃に小規模な黒廻池周辺の石切場の為に切り通しまで作って石材を下ろしたのか分からない。四百年も前の腐れた柔らかい岩の切り通しが今も法面を保てるのかも分からない。距離は伸びるが野崎不動尊に石材を下ろすなら切り通しは無い。石材は下ろされたかも知れないが、切り通し状になっているのは単に長い間歩かれ続けて洗掘が進んだだけなのかも知れない。

 清凉寺寄りの北側の枝道は竹林の下限で、下側が伐り開かれているので明るい。末端は更に北へトラバースする清凉寺のアプローチ道へと、専応寺の真東辺りの住宅街の上を区切る道へに分かれる。住宅街の上の所は地形図では車道が南北に通じているように見えるが、登山口のすぐ南が幅広の階段になっていて自動車は通り抜け出来ない。


深い竹林

切り通し状

北側の枝道
住宅街のすぐ上の登山口

北側の枝道
下は明るく上は竹林

★宝塔神社・城ノ越

 以前あった南尾根コース上の道標に「宝塔神社へ」とあったので表題としたが、登り口は宝塔神社というよりその下の野崎不動尊と言った方が適切のように思われる。ここも宝塔があるのではなく尾根の名が「ほうと尾」とか「ふと尾」と言うことだったのではないかと思う。昭和の初め頃に開かれたという不動尊も「ふと尾」だったから不動尊が祀られたのではないか。下手の新しい滝不動(瀧ふ動)は戦後のようである。不動尊の辺りが「ホトガタニ」といわれていたという。野崎中川の谷が山に入り込んで窪んだ「ふ(節)・と(処)」の転が「ホト」で、その奥の山と言うことの「ふと・を(峰)」なのではないか。小字図を見ると野崎中川の野崎新池より上の野崎不動尊の上の最終堰堤辺りまでの左岸の山地が小字「ホウトウ」のようである。

 谷間の道で少々暗い。あまり使われていないようで荒れている。谷の途中から南尾根に上がるが、分岐して谷の本流を更に詰める道もあり、奥に何かあったと思われる場所があるが笹が繁茂している。ここから南側の尾根(南尾根コースではない)に上がって寺川(廿田川)からの道と合流して黒廻池の南に向かう。南側の尾根に上がってから僅かに登った所に地元のボーイスカウトによるらしいキャンプ場を示す看板があるが、テントを張れるような平地のない所である。少し下った笹藪茂る谷の奥がそのキャンプ場だったのではないかと考えてみる。

 大東市史(1973)に野崎観音(慈眼寺)から登る道について「展望台付近はかつての野崎城の跡で、この登り口付近を『城の腰』と呼ぶのは、明らかに城門があったことを示している。」と書かれたが、北・中河内における中世城館の調査(2017)の野崎城の項で「小字に『城ノ越』があるが、曲輪が確認されている野崎観音の北西ではなく、それより南にある野崎新池の北斜面に該当する。」と指摘された「城ノ越(しろのこし)」は、「しり(領)・ゐ(堰)・の(助詞)・かし(河岸)」の転で、飯盛城や野崎城とは無関係の地名と考える。或いは「かし」ではなく「きし(岸)」か。何らかの腰部と考えるには、山の上側の小字が「上ノ山」で「しろ」に繋がらない。下側は野崎新池(のざきしんいけ)だが、「野崎古池」は見当たらない。近隣には同様に集落名を被せた辻の新池や寺川新池がある。「新池」が重箱読みなのは「新」は新しいと言うことでは無かったのではないかと言うことを思わせる。小字「城ノ越」は東西両側の小字が「ハカノ木」で、「ハカノ木」を割って新しく生まれた小字のように思われる。各集落ごとに専用に使い手当てする用水池(堰)があり、「集落名+しり(「領る」の連用形)+堰/池」だったのが、村の領分がはっきりするようになってから野崎地区の中なのだから「野崎」が無くても良いような気がして、「しりゐのかし」或いは「しりゐのきし」という新たな小字が生まれ、「しろのこし」に訛ったのではないだろうか。各集落の「しんいけ」は「しり(領)・いけ(池)」或いは「しり(領)・ゐ(堰)・いけ(池)」の転ではないだろうか。また、「かし」は「きし」の交替形ではないのかと考えてみる。

★寺川新池

 寺川新池の堰堤下まで自動車で入れるが、龍間の方から下りてくることになる。野崎駅から登る場合は老人ホーム和光苑の前か野崎新池から堂山古墳群入口を経るか、野崎不動尊から歩道に入る。堂山古墳群入口の先の尾根の上から寺川新池まで車道歩きとなるが配水場しかない行き止まりの車道なので殆ど自動車は通らず、展望が良い。寺川墓地入口や寺川本流沿いからも歩道でこの車道へ登れる。寺川本流沿いは夏は涼しい。寺川新池の奥で寺川の水は二分されており、その片方の寺川新池の脇を通って野崎新池へ導く水路沿いとその水路から寺川に水を戻す谷沿いの道は、戻す谷沿いの部分が荒れている。分水のもう片方は寺川新池に入る。

 寺川新池の奥側は寺川の谷が二股になっており、どちらの谷にも道があるが、どちらの道も二股の間の尾根に上がって黒廻池の南で南尾根コースに合流する。左股の道は尾根に着くのが早く、尾根に上がってからやや急な階段登りとなる。左股には左股の本流沿いの道と左手の山に上がる送電線巡視路の階段道がある。右股は寺川の本流で、野崎新池への分水を経て道は途中の枝谷から尾根に上がる。昔は枝谷に入らず龍間の盆地まで上がる本流沿いの道もあったのかもしれないが、枝谷の入口から先は笹藪が繁茂していて痕跡も薄そうだということで入っていない。

 右股の枝谷の中には、山上への進入を阻む為に築かれたかのような人工的な感じのする更地と急斜面の繰り返しが何段かある。


寺川新池

キャンプ場の看板

参考文献
大東市教育委員会,大東市埋蔵文化財分布図,大東市教育委員会,2002.
大東市教育委員会,大東市史,大東市教育委員会,1973.
北・中河内における中世城館の調査,大阪府教育委員会,2017.
柴田昭彦,飯盛山,pp70-73,43,新ハイキング 関西の山,新ハイキング社,1998.
宗教社会学の会,生駒の神々 ―現代都市の民俗宗教―,創元社,1985.
飯田剛史,在日コリアンの宗教と祭り ―民族と宗教の社会学―,世界思想社,2002.
中井均,飯盛山城,日本城郭大系 12 大阪・兵庫,平井聖 et al.,新人物往来社,1981.
河内飯盛山 登山コースガイドマップ,大東市政策推進部都市魅力観光課・四條畷市市民生活部産業観光課,2017.
松田太郎,北河内五市の史跡を探る,旭書房,1979.
中田祝夫・和田利政・北原保雄,古語大辞典,小学館,1983.
楠原佑介・溝手理太郎,地名用語語源辞典,東京堂出版,1983.



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(2018年12月19日上梓)