河内飯盛山(314m) 四条畷市市街から

 道は2017年と2018年に確認したもので、ひどく荒れていたものや細かいものは省いた。山頂付近の細かい地図は飯盛山メインページの地図参照。

  • 歩行日・・・2017年、2018年
  • 五万図・・・「大阪東北部」

西側地図1
西側地図2
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 四条畷駅から登るには四條畷神社を経るのが早道である。

★新道(四條畷神社〜北尾根直登)・御体塚

 昭和54年(53年?)に四條畷市と大東市で共同で造った道だという。四條畷神社からの現在の飯盛山の表登山道と言える存在だが、段差の大きな階段の多いルートで登っていて疲れる。高く出っ張った擬木の階段は転倒時を思うと恐ろしい。だが、一部の階段区間には巻き道がある。北と西の展望の良い「史蹟碑郭」から上は階段は減って比較的歩きやすい。御体塚(ごたいづか)郭の手前には大きな堀切がある。ゴロ石が積み上がったような所の上に大正頃の地元の校長先生の300回登山記念碑の石柱の立つ御体塚(ごたいづか)は「ゴツ(岩石の累積している所)・ヲ(峰)・ズッコ(山頂)」の転訛だと思う。ツは今の tsu でなく、鎌倉時代以前の tu と考えると ta からそれほど離れていない。御体塚郭のピークは巻き道があって幾つか削平地を見る。巻き道の終端の南側鞍部東斜面には大きな石垣が見える。

 御体塚は三好長慶の死後、「その死がふされ、城内に仮埋葬した」所と伝わると四條畷市史5巻(2016)にあるが、1972年の四条畷市史1巻では「仮埋葬地が当地だというのである」、1973年の大東市史では「御躰塚は長慶を葬った塚のことでないかという」と、多少の疑念か驚きをもって記されている。四条畷市史1巻の該当箇所と同じ著者の1968年の「四條畷町の歴史」では「長慶を葬った箇所が『御体塚』と呼ばれる」とある。真説なら興味を惹く話だが1931(昭和6)年の「北河内史蹟史話」の「ゴタイ塚」の説明は出丸の一つであって山上平地に自然石の山骨が残ったものとあるだけである。御体塚の塚は石を積み上げたように見えるが、山骨が浸食されずに露出したもので何かを埋めた上に後から積み上げたものでは無い。仮埋葬したにしても仮埋葬の内から御体塚と呼んでいては、伏せて仮埋葬した意味が無い。約2年後の葬式が別の所で行われた後に、肉体がしばらくあった所だから御体塚と呼びましょうとなるのかも、肉体は既にそこから移されて無いのだから疑問である。御体塚に三好長慶が埋葬/仮埋葬されたと言う説は1930年代以降1960年代頃までに、四条畷市史1巻に挙げられる大東市北条の某氏所蔵の江戸期の飯盛山地図に四ヶ所だけあるという地名の一つの「御体塚」の漢字表記が知られるようになって、それを元に新しく練られた伝承なのだと思う。


階段道
標高170m付近

御体塚
300回登山碑

石垣
(東の丸南面)

★中道(四條畷神社〜西斜面〜北尾根)・猫ヶ原

 四條畷神社から新道に入って神社梅園の脇を過ぎて、住吉平田神社の上の辺りの北尾根に乗る手前で右折して斜面に入り、斜面を何度もジグを切りながらウネウネと登る道。階段が無いので表登山道とも言うべき新道より歩きやすい。幾つか枝道があるが、標高220m辺りまでに何カ所かで北尾根上の新道に合流する。その上の史蹟碑郭に西から回り込んで上がる巻き道も使えば、あらかた新道に沿ってきつい階段道を通らずに済む。北寄りの枝道でも新道の階段の最もきつい部分は通らなくて済む。北寄りの枝道が新道に登り着く辺りを「猫ヶ原」と呼んだようである。

 小字図を見ると神社谷の旧名が「猫ヶ谷」のようである。飯盛山の北の尾根の神社谷源頭などの端が「ねこ」ということと思われるが、「ねこ」がどういうことを言っていたのかは分からない。猫ヶ原の東側の小字名が「坂ヶ谷」なので、或いは北条など史蹟碑郭より南西方の飯盛山の麓から東に向かうのに権現川筋をショートカットする為に神社谷を詰めて猫ヶ原を越えて坂(ヶ谷)を下りて蟹ヶ坂など更に東方へ向かう、「ね(嶺)・こえ(越)」の縮が「ねこ」かと考えてみるが、それほど広くない権現川流域の中で急峻な源頭の谷を標高にして100mも余計に登るのか分からない。


史蹟碑

堀切

★旧道(四條畷神社〜三本松郭)・石木戸

 昭和7,8年頃に大阪府によって造成されたという。昭和7,8年より前は四條畷市と大東市の境界線に沿った尾根を史蹟碑前まで通して登っていたようで、四條畷神社松並木参道の字名「石木戸」に因んで石木戸コースと言われるが、標高190mから260mの史蹟碑郭直下までは上下の分岐から十数mの道型は確認したが笹藪が繁茂していたのでトレースしていない。「旧道」は四條畷神社南側から山腹を巻いて山頂の一角の三本松郭に上がる。四條畷市街地からは山頂への最短ルートである。2018年現在、国土地理院の地形図では市境は史蹟碑までの尾根線に乗っているが、実際の市境は標高200m辺りから西斜面に入り、旧道の上方を御体塚の南の鞍部に向かい、史蹟碑や御体塚は四條畷市内ということになるようである。

 下半分は神社谷左岸を巻き登るルートと、少し大東市側に入ってから尾根を忠実に上がるルートがあり、標高180m辺りで合流するが、尾根に忠実な踏み跡は笹薮に覆われつつある。神社谷左岸の道は昭和6〜8年に掛けて造成された道のようで、昭和47年の暴風雨で荒れて廃道になったと言うが、荒れていると言う感じはしない。中ほどは西斜面のトラバース道となり、大阪平野の展望が良い。滑らかな道程で気持ちの良い道である。

 三本松郭に上がって僅かに下がると、新道と楠公寺からの東斜面の道と落ち合い、穴口郭を経て山頂へ向かう。この落ち合う地点は十字路のように見えるが、実は五叉路で西斜面を南方の曲輪群A〜三好道に向かうトラバース道の分岐でもある。また、三本松郭上を旧道に向かわず北上して尾根線に忠実に御体塚との鞍部へ下がる踏み跡もある。三本松の名は明治の初め頃、この地に一本の松の木で途中から三つに分かれる珍しい松があったのだという。

 「石木戸」は四條畷神社参道の坂の下手すぐの平地の四條畷市と大東市に跨がる小字で、四条畷市史1巻(1972)は石木戸コースが三好長慶などの永禄期の古道で、「その入口たる四條畷神社下に『石の木戸』を設けて、検番の侍が立哨していたのであろう。」とし、大東市史(1973)は「神社(四條畷神社)の参道付近は『石の木戸』と呼ぶから、ここに石の堅固な城門があったことが分る。」としているが、360度開ききった緩斜面の下に堅固な城門を設けると城門の横に柵なり土塁なりの長い防衛線が必要となるのは城の防備としてどうなのか。石木戸は石の城門とは違う何かの転訛と考えた方が自然ではないかと言う気がする。

 神社谷や墓谷の扇状地の扇端の先で湿った転石の多かった所があり、「いし(石)・くで(湫)」/「いし・の(助詞)・くで」と呼ばれたのが、「いしきど」/「いしのきど」に転じたのではないだろうか。


展望台

山頂の楠木正行像

展望台から見た
大阪の都心部

明石海峡大橋が
見えることもある

★住吉平田神社

 住吉平田神社の社殿に上がる車道の、社殿の手前から植林地に入る。あまりはっきりしない踏み跡が次第に細い溝のような道となり、何か建物があったような平場に出る。平場を横断すると御机神社から西斜面をトラバースしてきた道と合流する。窪地の縁を回り込むように登って新道に合流する。合流した新道のすぐ上に中道の分岐がある。

 四條畷神社の裏口の辺りから山に入る道もあり、山に入ると稲荷社があって道は左右に分かれ、左に進むと住吉平田神社、右に進むと四條畷神社梅園に上がる。

東側地図1
東側地図2
東側地図3

★御机神社

 御机神社からは、裏手の尾根に乗って新道に合流するルートと、奥手の西斜面を水平移動して住吉平田神社の上で新道に合流するルートがある。神社社殿の横から尾根に乗り新道に繋がるルートは取り付きがかなり急で歩きにくい。この尾根の国土地理院の地形図での等高線の描写が実際より西に寄って誤っており(2018年現在)、地形図上の道を示す点線の辺りに尾根線があって、尾根線上に道がある。

 西斜面のトラバース道は荒れて雑然としているが緩やかで歩きやすい。西斜面の道の新道との合流点は十字路になっていて左右が新道だが、新道を横断して直進すると中道である。

★滝谷〜楠水〜楠公寺・親子谷

 楠水から山の斜面に取り付いて楠公寺を経て登る道が一般的である。飯盛山城の大手道ではないかと推定されている。馬場と呼ばれた場所にある楠公寺の直下は千畳敷南端の虎口と同じ守備し易い構造になっている。

 平尾兵吾(1931)に、城門の址が親子谷(東ノ丸(=曲輪群C)の北側の谷)の本丸に近い所に残されているとあり、親子谷沿いに古い道があって権現川(滝谷)を出合まで遡ることなく飯盛山北東面を御体塚の南に上がれるが、かなり荒れている。城門の址とされたのは東ノ丸のすぐ北の源頭にある谷の中の堰のような二段の石垣のことと思われる。親子谷の標高220mより上の源頭域の古い道ははっきりしないが、今の踏み跡は親子谷の本谷から離れて北側の浅い標高220mで落ち合う左岸支谷から御体塚の南に上がっている。東ノ丸から見る親子谷源頭は切り立った急斜面に薮が深く生い茂って入れる気がしない。親子谷は側壁の立った瓶底のような谷筋に細い道が付いており、下の方の左岸の斜面にも下から三段・二段と縦に連なる石垣が二箇所見える。各石垣の上の平面が小さいので見張りの足場跡かと考えてみるが、今の親子谷沿いの道のこの辺りの路盤は右岸の谷底から数m高い所にあって左岸の石垣の下段の上と同じ高さなので、侵入者に対して下向きに射掛けるのは難しそうだ。昔の道が谷底だったのなら、親子谷は狭い谷の下の方の石垣と、源頭の石垣と急斜面の二段構えのように見える。


親子谷左岸の
三段の石垣

親子谷源頭の
谷中の石垣(下段)

親子谷源頭の
谷中の石垣(上段)

 なわて更正園の上手の権現川の左岸には細く石垣で高くされた所が見える。石垣は飯盛山山上の大きな石垣の野面積みより新しいタイプの打ち込み接ぎのようなので三好長慶の頃のものでは無いようだ。高さと大きさはお寺の小さめの鐘楼の土台のような印象で、当初は古い寺院の鐘楼跡かと思っていたが、上の方を見ると山地からほぼ水平に突き出して樋の跡が上面の真ん中を走っており、権現川で動力として用いられた水車への導水路の跡のようである。

 四條畷市史4巻の御机神社の項で、御机神社の旧社地とされる宮谷について「ここで旧宮谷を地図に探って見よう。現御机神社から・・・室池への道を辿ると、飯盛山裏道への分岐点に逢着する。この間の距離は約1000メートル、分岐点から手前300メートル程に城門跡と思われる石垣がある。当地付近が宮谷であって、永禄期には長慶の飯盛山鎮護の神として尊崇を受けたのは事実であろう。」とある城門跡と思われる石垣というのはこの石垣のことであろう。しかし、樋の存在と打ち込み接ぎであることと、小字図によると御机神社前から約1000mの出合の約280m下手にあるこの石垣のすぐ下手の谷は親子谷で宮谷はもう一本下手の谷であることから、この石垣が三好長慶の頃の城門跡とは言えないと思われる。

 車道のゲートの所の右岸に石仏の祀られた小滝がある。水量は少ないが石仏は手が入っているようなので、この小滝にも名前があるのではないかと思う。山頂展望台の掲示物では「不動の滝」としていたが、石仏が不動明王に見えないので裏付けが欲しい。ゲート前はたまに自動車が停めてあるが広くはない。

 下手の権現滝のある沢との「出合」の所(ペルトン水車跡の標識あり)のすぐ上から東斜面に入って楠水の上で合流するのが旧道が谷底の車道幅の道から分かれて山肌に取り付いている。車道幅の谷底道は湧き水が汲めるようになっている楠水の手前で歩道幅となり、楠水を過ぎて谷を詰めると歩きやすい谷道のまま桜池に出る。楠水で山肌に上がって馬場を経て飯盛山山頂に向かう。権現川の谷(滝谷)は出合の所で二股になっており、左股の水量が多く権現滝という大滝があり、右股は桜池谷とされるが(大谷とも)、桜池谷にある楠水の「滝谷楠水の場」などとの表記も見られる。

 旧道は山の斜面につけられており、楠水のすぐ上で楠水から上がる道と合流する。合流する辺りは坂元直哉(1968)が「城門」、山口博(1968)が「門跡」とする所で、U字の道の内側(下から来ると山手側)に二枚の削平地があって高さは上手側のすぐ下で、下手の道に横矢を効かせている。旧道の取り付きは車道の延長で付け替えたもので、元の斜面への取り付きは出合下手の明け谷を渡って右岸すぐだったようで、古い道型が削られた法面の上にある。古い道型の部分から明谷の方へ上がっていく分岐があるが、荒れておりどこに繋がっているのかは確認していない。


権現川の向こうに
石垣(導水路跡)

ゲートの所の
小滝

出合
左は権現滝へ

楠水

大手道の風情

楠公寺の直下

●金明水(金水)

 四条畷市史1巻で「高櫓山頂より東方50米の籔中に、三米大の深井戸が存在する。金明水と語り伝える古老もある」と、日本城郭大系で「高櫓郭東五十mの山中に金明水と呼ばれる井戸跡があ」るというが、高櫓の東50mは楠公寺から電波送信所への車道のカーブの所で水気のない笹の急斜面である。山頂(高櫓郭)や穴口郭から滝谷側に標高250m辺りまで下がると谷底は湿っており、水が見られることもある。曲輪群Cの東の丸のすぐ南側から小字図に「明谷」とある谷間に下りる古い道があり、途上に茶碗の欠片などが点在していて谷底まで下りると3メートル四方の四角く浅い窪みがあり、窪みの外縁に15cmほどの深さの石組みがある。窪地の上手側からは水が出ていることがあるが涸れている時もある。下手側は堰堤状に土を盛って石組みの広がりと内側の深さを確保している。大東市史は「馬場の北を道からやや下った処に『金明水』がある」とする(馬場は楠公寺の所)。山口博(1968)は「東の丸横谷あいの中ほど、本丸より四十米位下に、約三米四方の井戸らしい石組が見られる。これが俗称『金明水』の名で呼ばれる井戸と判断する。」とし(東の丸は曲輪群Cのこと、本丸は穴口郭から高櫓のこと)、飯盛城址曲輪概略図では東ノ丸のすぐ南脇に「井戸」が描かれている。坂元直哉(1968)は「金水」を「東の丸の南側の谷あい数十米下ると金水と呼ばれる、およそ三米四方の石組みで囲まれた貯水池がある。」とし、河内飯盛山城曲輪図では東の丸の南側を谷筋に少しジグザグに下りた先に「金水」の四角が描かれる(この記事は「城」47号のあとがきによると城郭構造については昭和39(1964)年の調査をまとめた稿で、日本城郭近畿学生研究会機関誌「城春」8号の再録で図と稿の一部が割愛されているというが城春8号は見ていない。四条畷市史1巻に挙げられる畷高地歴クラブ機関誌「古流」1号も1964年頃で同じ記事があると思われるが見ていない)。浅い窪みは穴口郭の北端から水平距離で約100m東の所にあり、標高差では約40m下である。高櫓から水平距離で50mではなく高櫓を含む「本丸」の北半の穴口郭の北端付近から標高差で40〜50mで、曲輪群Cの一番上(東の丸)のすぐ南の谷底のものが山口博(1968)の言う金明水井戸跡であり、坂元直哉(1968)のいう「金水」であり、3mの深井戸ではなく3m四方のすぐ上の涸れることもある谷間から出る水を溜めていた場所なのだと思う。2018年、下側の盛り土の一部の底が抜けて、3メートル四方の浅い窪地は崩壊し始めている。本当に中世の城の籠城用の水場の施設の跡なら急いで保全した方が良いように思われる。


推定
金明水

推定金明水
平場の角に石組みが見える

推定金明水の
滝谷側の盛土

参考文献
大東市教育委員会,大東市史,大東市教育委員会,1973.
橋本進吉,古代国語の音韻に就いて 他二篇(岩波文庫青151-1),岩波書店,2007.
四条畷市史編纂室,四条畷市史 第1巻,四条畷市役所,1972.
四条畷市教育委員会,四条畷市史 第4巻 史跡総覧,四条畷市役所,1990.
楠原佑介・溝手理太郎,地名用語語源辞典,東京堂出版,1983.
四條畷市史編さん委員会,四條畷市史 第5巻 考古編,四條畷市,2016.
山口博,四條畷町の歴史,山口博,1968.
平尾兵吾,北河内史蹟史話,平尾學・中島敏子,1973.
大東市 そのむかしをたずねて、大東市教育委員会,1971.
坂元直哉,河内飯盛城,pp1-15,47,城,関西城郭研究会,1968.
大東市北条部落史研究会,被差別部落 北条の歴史 大東市史追録,大東市教育委員会,1975.
小学館国語辞典編集部,日本国語大辞典 第4巻 きかく-けんう,小学館,2001.
中井均,飯盛山城,日本城郭大系 12 大阪・兵庫,平井聖 et al.,新人物往来社,1981.
中井均,飯盛山城の構造と歴史的位置,pp34-37,149,大阪春秋,新風書房,2013.
あとがき,47,城,関西城郭研究会,1968.



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(2018年12月19日上梓 2021年3月1日改訂)