六個山 東畑・西畑から

 畑からは石澄川から登るのが近い。

  • 歩行日・・・2022-23年
  • 五万図・・・「広根」



石澄川筋地図

★東畑・石澄川から

 東畑の交差点から山の方へ入って続く住宅街の、森が近くなった谷筋の突き当りのような道の折れ目の所に車止めがあり直進して谷筋に入る。左手に鉱染のある露頭を見てすぐにアスファルト舗装が終わり地道となる。常緑樹の大木が茂る暗い道である。石澄川の谷筋は大きな砂防ダムが連続していて川面からかなり高い所に道があるが、地道になってから緩やかに下って白龍社跡の二俣で道の路盤と川床の高さの差は2mほどとなり、白龍社跡前でネブリ谷を渡る橋が落ちているので一旦河原に下りて石澄川の本谷に続く道に上がる。

 白龍社跡は石仏の収まる祠と昔の石澄滝の開山だという平田龍昇なる人物の碑石とコンクリの平場と、平場の奥に白龍社の社の跡の廃材と石造物をまとめて納めた祠がある。松尾源一郎・藤原卓(1978)の第2図にある車止め入口の地蔵を見ないのは、この祠に集められているのかもしれない。


車止め入口

左露頭の地道入口

森の中の道

白龍社跡

・ネブリ谷・カスミ滝・秦野鉱山跡

 ネブリ谷(眠谷とも)の左岸にも古い路盤があり、奥にカスミ滝と秦野鉱山の跡がある。左岸の路盤を進むとすぐに高い砂防ダムが谷にかかる。砂防ダムの右脇にも左脇にも踏み跡があるがどちらも急傾斜で渋い。砂防ダムの上は傾斜は緩いが窄んだ谷筋となっており、窄みのはじめのうちはどちらの岸に道があったのか分からない。窄んだ中ほどから左岸に古い路盤がある。谷が広がると右手に曲がって右岸にゴミの山のようなものと石垣があり、カスミ滝の籠り堂の跡のようである。正面に高3mほどのカスミ滝があるが水は少ない。滝壺右岸側に石仏やコンクリの足場の残骸がある。道はカスミ滝の上も左岸に続く。

 谷筋は今度は左に曲がり、左岸に鉱山の積み出し用らしき石垣がある。右岸の斜面の中腹に幾つかの間歩跡とコンクリの遺物がある。右岸斜面上方に平場の石垣が見える。谷筋が右に回り始めると滝場となっており、道は滝場を避けて左岸を高巻いて続いていたようなのだが路盤が流れてしまったようで分からない。滝場の脇に崩れた石垣が僅かに残るので昔の歩道は滝場のすぐ横を登っていたのかもしれない。滝場の中ほどの左岸少し上に大きめの横穴の間歩がある。この間歩は中が通じているようで風の流れがある。滝場の上は先に右岸斜面上方に見えた石垣の平場と同じ高さで、平場の上はかなり広いが何もない。左岸側にヤケの見える露岩があり、大きな竪穴が開いている。竪穴の底が滝場の中ほどの左岸の少し上に見えた横穴の間歩とつながっているようである。ネブリ谷池に石澄川筋から行くには白龍社跡からネブリ谷に入ってすぐの辺りから尾根に取り付いて中尾根を登るようで、ところどころ尾根筋上に明瞭な路盤がある。中尾根末端は路盤が見当たらず、どこに道があったのかよくわからない。或いは堰堤の辺りから取り付いたのかもしれない。秦野鉱山横穴の辺りから尾根に上がる目印テープもある。

 秦野鉱山の沿革はよく分かっていないようである。昭和の初め頃から次第に盛大となったが、昭和10年を過ぎる頃には鉱石が枯渇し、また下流で鉱害の発生もあって休山して放棄されたという。


砂防ダム 右岸にも踏み跡

狭まった谷を進み

石垣が残る

カスミ滝

カスミ滝横の不動明王像

右岸の小さい間歩

右岸のコンクリ遺物

滝場にかかる

上の平場

滝場左岸の間歩

上の横穴間歩

上の竪穴間歩

・石澄川本谷・行者の滝・石澄滝

 白龍社跡前から右股沿いの右岸の道を進むと道が谷に下りる分岐がある。下りていくと滝があるが水は少ない滝の脇に不動明王の石仏や碑石がある。新修池田市史第5巻民俗編の東畑の聞き書きに「村の北方の山を善海山という。山には戦前まで鉱山があり、村外の鉱夫が働いていた。山には石澄滝、霞ヶ滝、行者の滝があり、霞ヶ滝では小さな水晶が採れた。」とあり、霞ヶ滝はカスミ滝で石澄滝は奥にあるのでこの滝が行者の滝と推定する。滝の向かって右手の何も書かれていない基壇の上にある大石は山神でないかと思う。この滝は斜めの岩盤の滝で水行向きの自然地形の滝でなかったからか、滝のすぐ横の何も書かれていない基壇の上の大石の後ろに石積みの塀があり、その後ろに人工滝の跡がある。人工滝跡の落ち口の向かって右横に北斗星君の碑がある。

 戻って谷奥へ道の道を進むと山側に秦野鉱山の別の間歩が路盤と同じくらいの高さにある。秦野鉱山は善海山(ぜんかいやま)に含まれるようである。間歩の先に廃墟のような堂と簡素な建物があり、一心寺の名での駒板があって、建物の形態やハングル書きの経文らしき紙があったことから生駒山地や宝塚市内最明寺川筋などに分布する朝鮮寺/韓寺の一つでないかという

 一心寺のお堂の先の谷が右に曲がる所の右岸にヌケがあったようで樹冠が切れて少し明るく、車幅の路盤がなくなり一旦河原と同じ高さに下る。路盤に戻ると道の山側にコンクリの擁壁がある。松尾源一郎・藤原卓(1978)の秦野鉱山の記事に言及も図示もないが、ズリか間歩か何かの鉱山の遺構があって崩れないようにコンクリで固めてあるのか。その先の谷側に野外バーベキュー場の跡のような炉が数基がある。路盤は広がって行き止まりの広場になっており、道の山側に大明神碑がある。ただ「大明神」とだけ彫られた石で、何の大明神なのか分からない。広場の石澄川の対岸に大きな間歩がある。間歩の前の岩がヤケている。


推定行者の滝

道端の間歩

一心寺

お堂の後ろで一旦河原に

コンクリ擁壁

道端にBBQ用風の炉

 道はこの広場から大明神碑前で折れて炉の間から河原に下りて対岸間歩の下手で石澄川を渡り、小尾根を越えて大日寺別院跡に出る。小尾根を越えずに石澄川の左岸沿いに大日寺別院跡前に出る目印テープもある。小尾根を越えると石澄川の向こうに石積山大日寺別院跡がある。一心寺は新しさのお堂と簡素さの巫祭所(?)らしき宗教施設だったが、大日寺別院跡の建物は和風建築で一心寺より少し古そうな作りである。こちらもお堂と庫裏らしき建物の二棟だが、ほぼ全壊状態である。

 大日寺別院跡から直進すると石澄滝下の広い河原に出る。左に折れて石澄川上流側に高い石澄滝があるが水は少ない。石澄滝の脇にも不動明王像がある。以前は荒れて足を濡らさずに滝壺まで近寄るのが大変だったが、近年地元のグループが整備されているようで楽に滝壺まで行けるようになった。小尾根を越える石段やこの先のオルタナの森からの道に上がる斜面の石段を整え、ネブリ谷出合と大日寺別院前と石澄滝下の水の少ない石澄川の河原敷に品よく敷石を並べて歩きやすい道にしているのも同じグループのようである。六個山へは河原を直進して横断して枝谷の道を辿る。

 木藤精一郎(1937)の「六甲北摂ハイカーの径」には、石澄滝の「上流を溯行するには、滝下から向って右手の茂った岩山を攀ぢて落下口へ行くのが容易である。上流中には往年の修験者の庵の跡あり、大天井、小天井と称する行場ださうである。」とあって、滝壺辺りの左岸から石澄滝を巻き上がるルートと上流中の名所があったようである。池田CCの脇から石澄川を渡って六個山に取り付く所から石澄川を下降すると70mほどで滝の頭に出て容易には下りられそうにない。白龍社跡の平田龍昇氏の碑石の建立の年記は昭和16(1941)年とあって、1937年の六甲北摂ハイカーの径に、最近石澄滝下に修験者が庵を造って滝風景が云々とある修験者とは或いは平田龍昇氏なのでないかという気がするが、享保頃の五畿内志に「瀑ノ傍ニ石積寺ノ故址有」とあるから江戸時代にも村人も修験者の類も石澄滝に来ていて開かれていたのでないかと思う。大日寺別院の建物の後ろが石積みの擁壁でまとまった敷地になっており、五畿内志にある「石積寺ノ故址」というのは大日寺別院跡の所のことでないかと思う。

 登る枝谷の下半は水気のない植林の谷で暗い。右岸斜面は急な岩海で登って向こうに越えてみたくなるような緩い斜面ではない。標高250mほどでオルタナの森の施設群の中核付近に上がる枝道を右に分けると植林が切れて低木の間を登る。次第に傾斜がきつくなり石段道になって標高290mの西尾根コースの、浅い谷の中で海は見えるのだが丘らしくない「海の見える丘」のずれた十字路に出る。左折して更に枝谷の中を登る。標高300mを越えた所で左の尾根に上がり、標高370mでまっすぐ山頂に上がる道と、西側の石澄川谷渡りの道の方への道と分岐する。山頂はどちらでももうすぐである。


大明神碑

川向こうに大きな間歩

大きな間歩アップ

間歩の右から
大日寺別院前に上がる

大日寺別院前を過ぎて
河原に出る

河原の奥に
石澄滝

石澄滝

石澄滝

海の見える丘直下の石段道


傘松尾根筋地図

★西畑〜傘松〜善海山〜石澄川谷渡り

 池田CCから石澄川の源流を渡って六個山の西尾根に取り付く道は、車道から六個山山頂に至る歩道としては最も短いが、池田CC脇の登山口近傍に駐車スペースや交通機関が無い。

 西畑の交差点から傘松天満宮の下を過ぎて、住宅地の最奥から地道となる。深く掘り込まれたようになった路盤の暗い道が続くが幅は広く歩きやすい。この道は古い地形図だと池田や上渋谷から五月山に上がって衣懸松の北で合流する道より太く描かれているので池田や大阪方面から高山方面への街道だったようである。はじめのうちは畑地の跡や竹林を道脇に見るが、すぐに樹林の中の道となる。標高220mで尾根線上に出る所は傘松(二代目)分岐で、尾根線を南に100mほど下ると傘松(一本松とも/二代目)があるがまだ細い松の木で、周りは刈り払われているが傾斜地で展望が良いということもなく寛げるような所ではない。

 傘松分岐から緩やかな尾根線上を登っていくと標高240mの所で路盤が西斜面から大きく崩れているので東側の細い踏み跡で過ぎる。ここの東斜面に節句山の方から上がってくる古い道があったようなのだがはっきりしない。ここから道は右手に曲がって山の斜面を登っていく。標高270m辺りでまた尾根線に乗るが掘り込まれたような溝の中の尾根線の道である。登り切った処に四角く柵で囲われた防災無線塔の鉄塔があり、その脇を直進して池田CCの脇を緩く下っていくと車道に出る。車道に出る所の桜の木に「衣懸松」の掲示があったが昔の衣懸松ではなく衣懸松への入口を示すものである。登り切った防災無線塔の脇で左折して左手のコブに上がる踏み跡があり、そのコブの上に衣懸松(六本松とも)跡の駒板がある。六本の大きな目印になるような老松だったという。今の駒板の辺りには桜の大木が数本ある。


入口

掘りこまれた道

傘松(二代目)

西側崩壊地

防災無線塔脇

衣懸松跡駒板

 この場所の衣懸松はなくなったわけだが、五月山の市民の森の駐車場の東側の五月山ドライブウェイ南沿いに市民の森に合わせて復活として植えられた衣懸松の記念の標があるが、この市民の森の衣懸松もマツクイムシで枯れたという。だが、標近くの五月山ドライブウェイ沿いに大きな松の木が二本ある。駒板の所の衣懸松はその周りの南西側か南東側の急斜面を言った「かね(矩)・がけ(崖)」の転が「きぬがけ」でないかと思う。松も六本松という六本の松が生えていたことはあるのだろうけれど、切り立った崖を指す「まち(区)」の転が「まつ」でないかと思う。だが、今は衣懸松の山の南半は樹冠の下の道を歩けば地面のあちこちに急斜面の所がありそうなのは見えるが、殆ど全て森で覆われて離れた所から見えそうな崖の露出などはなく、どの急斜面がそんな急斜面かと一つに特定できそうにない。傘松も一本松という一本の松はあったのだろうが、西畑の集落のすぐ上の「かさ(上)・まち(区)」、或いは方言で「けし」とか「げし」で段々畑の間の段差の斜面や崖をいうので、「きし(岸)・まち(区)」で二代目傘松分岐の尾根上平坦面の下の急斜面のことだったのではないかと疑う。

 車道に出て堂九本川の源頭を渡って霊園脇を素通りしてまた未舗装の自動車の入れなさそうな道となり、池田CCのフェンスが左手に続く。ネブリ池を過ぎて更に池田CCの脇をに沿って登っていくと道の右側に二つ石塚があり、二つの石塚の間が六個山登山口である。

 二つの石塚の北方約40mのヴィラベルテニスクラブの前までは北側から舗装路で車が入る。

 砂利道脇にケルンのある所から入る。南向き斜面をトラバースで緩やかに幾つかの分岐跡を経て下り、石澄川の谷間に下りる。左手すぐ上に尻池の堰堤が見える。渡る石澄川の流れは穏やかですぐ下の右岸に道の跡らしき平場が続くが70mほどで切り立った崖に囲まれた高いナメ滝の上に出てしまう。

 箕面GCの尻池の堰堤を見上げて石澄川を渡るとすぐ尾根道となり、歩きやすい緩い尾根道を登っていくと西尾根コースと合流してすぐに松林の山頂である。五月山からも来れるが車道歩きが長くなるので省く。


ネブリ谷池

二つの石塚

石澄川源流徒渉

五月山ドライブウェイ沿いに
二本の松の大木

市民の森の
衣懸松の標石

市民の森の衣懸松の
標石の位置図

参考文献
木藤精一郎,六甲北摂ハイカーの径,阪急ワンダーホーゲルの会,1937.
松尾源一郎・藤原卓,大阪府池田市畑 秦野鉱山,pp2-8,31,京都地学会会誌,1978.
白神正夫,多田鉱山,pp50-55,創立30周年記念特別,京都地学会会誌,1978.
池田市史編纂委員会,新修 池田市史 第5巻 民俗編,池田市,1998.
坂津,再訪「石澄滝」 ――新たな知見と共にたぶん大丈夫なブログ.(2023年6月18日閲覧)
宗教社会学の会,生駒の神々 ―現代都市の民俗宗教―,創元社,1985.
飯田剛史,在日コリアンの宗教と祭り ―民族と宗教の社会学―,世界思想社,2002.
蘆田伊人,五畿内志・泉州志 第1巻(大日本地誌大系34),雄山閣,1977.
小学館国語辞典編集部,日本国語大辞典 第3巻 おもふ-きかき,小学館,2001.
中岡嘉弘,改訂版 池田歴史探訪,中岡嘉弘,2009,
楠原佑介・溝手理太郎,地名用語語源辞典,東京堂出版,1983.



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(2023年6月18日上梓)