洞爺湖温泉街から
トーノケヌプリ (454.8m)
to noske nupuri
[湖・の真ん中・山]
洞爺湖中島
大島の最高峰

 洞爺湖中島の島々、中でも一番大きな大島はトウノシケモシリとか、ポロシリと江戸時代の資料で呼ばれ、その最高点にはトノシケノポリなどと明治時代の地図に山としての名前が振られていた。大島には西山、東山、北山の3ピークがあるが、最も高い西山が、鋭く尖り山らしく、トーノケヌプリである。


★桟橋から山頂まで

 洞爺湖汽船で中島に渡り、売店で入山届けを出す。桟橋から森林博物館・売店などの一般観光客向けエリアは芝生が敷かれ、鹿が入ってこないように頑丈そうな柵で囲われている。柵の外に集まって座り込むなどしている鹿は既に「島の規則」が効いているのか全体的に小型に見える。集まっているのは売店にあった大袋のビスケットが目当てのようである。売店で柵の鍵の番号を聞いて、売店左手の扉を開けて柵の内側に入る。

 柵の内側に入るとウッドチップの敷かれた散策路が島の中央部に向かって続いている。周辺はカラマツ林だが、あまり元気がないように見える。林床にはフッキソウとハンゴンソウばかりが目立つ。いずれも鹿の食べない草(木)だ。山際に着くと右に垂直に曲がり、カラマツ林と広葉樹林の境界を歩くようになる。根元には金網が掛けてある木が目立つ。鹿の食害を防ぐためのものだ。木々には名を示す案内板が付けられている。


中島の地図

山頂付近拡大図

売店横のゲート

カラマツ林の道

鹿食害除け金網

 途中で時間のない人向けの桟橋に戻る短い周回路を分けて、更に丁寧にジグの切られたウッドチップの道を、大島の西山と東山の鞍部まで登ると、鞍部の「カツラの巨木」の横(南側)から登山道が山頂まであるが、はじめはフッキソウが茂り、踏み跡程度である。この「カツラの巨木」を含め、このウッドチップの道沿いの生きている「巨木」と看板の付く木は、大きいことは大きいが、「巨木」と言うほどは大きくない気がする。


ウッドチップの道

桂の巨木?

登山道 下の方

登山道 中間付近

 フッキソウの茂る先は、はじめは朽ち掛けた階段登りだが、すぐに林間の道となり、必要以上なジグを切っている気もするが、歩きやすい傾斜の緩いきれいな登山道となる。上部では北面に絡み一箇所ハンゴンソウのヤブの茂る部分があるが、所詮、草のヤブなので大して問題はなく、足元はハッキリしている。このハンゴンソウのヤブの入口には座りやすい寝木があって、羊蹄山と湖面をきれいに見て休むことが出来た。最後にワラビの繁茂するヤブとなるがごく短く、北面から西まで回りこんで山頂に着く。林床はハンゴンソウやワラビ(シダ植物の同定はよく分からないのでワラビではないかもしれないけれど)以外の部分はきれいだ。ネマガリタケが分布していない。4つの中島のうち、弁天島がトモシ top mosir[笹・島]と呼ばれているのは、中島でも弁天島だけに笹が分布していたと言うことなのだろうか。上陸して確認したわけではないが、春先の木々に葉のない弁天島を遊覧船から見ても笹は殆ど生えていないようであった。


林床の様子
すっきりし過ぎている気はする

ワラビの茂る道

ハンゴンソウ
菊の仲間だから苦い
ワラビのアクも強い

 山頂は完全にワラビ原であった。尖った山頂だが南方と東方はやや樹林があり、昆布岳や有珠山は少し木陰がかぶるが、ほどほど見える。北側の羊蹄山とニセコ連山はすっきりと見えて素晴らしい。すっかり丈の高いワラビが茂る山頂やハンゴンソウの茂る登山道なので、ワラビやハンゴンソウの茂らない晩秋や春の方が快適に登山を楽しめるのかもしれないが、遊覧船の運航との兼ね合いもある。山頂の西の端には石碑があって「天神天満宮之碑」と彫られていた。字は昔の室蘭市長の手によるものの様だが、裏書は摩耗して読めない。ここに天満宮が奉られたのは文字のないアイヌの人たちへの文筆の神の加護を願ってとのことのようだ。意図は良くても方法が良くなかった気がする。


羊蹄山

有珠山

山頂の様子

 ミンミンゼミ の鳴き声に暑さを増強させられた気がした。短い登山であったが暑さに疲れた。


★鞍部から島の中央部を横断し東の岸を経て桟橋へ

 下山は鞍部から島を北側に横断して東の岸を廻った。

 鞍部から北に下りていくと島の中央に「大平原」と呼ばれる荒地がある。これは1950-60年代の植林の失敗によるものだそうだ。大島の西ピーク(トーノケヌプリ)と北ピークの境の谷間で、谷間の向こうに丁度羊蹄山が顔を出すロケーションだが、ここも自然林・原生林が伐採されず、植林がされていなければ、羊蹄山は見通せなくても数々の大木が繁茂していただろうにと考えると、「原始林で覆われた洞爺湖中島」、「北海道洞爺湖サミットを自然豊かな北海道で催す」というようなキャッチフレーズはどうも虚構であるような気がした。サミットを東京からはずした意義は認めたいが、この位の自然の豊かさの森なら本州でも結構見かける気がする。アイヌの人が船材を伐り出していたとの江戸時代の記録もある。

 大平原ではアメリカオニアザミが増え始めている。外来種で大きな鋭い棘を沢山持ち、下手に触ると怪我をする。日本在来のアザミ類は山菜として若芽は食べられる事が多いが、若いアメリカオニアザミもかなりの棘があって、ちょっと山菜として食べられそうなものではない。牧草地では牛もこの棘で食べる事が出来ず、牧草より背が高いので広がると牧草の生育を阻害するという。鹿もこの棘で食べられないようだ。


大平原
遠くに羊蹄山

大平原越しの
北ピーク

アメリカオニアザミの
若芽

アメリカオニ
アザミの花

 他にも台風で木々が倒れてそのまま荒地になっていることを説明する看板などもあったが、それらは全て植林地で、このまま看板だけ立てて放置し続けるのか不思議に感じた。登山者が歩くことによる土壌の硬化と流出を防ぐ為に敷かれたと説明されていたウッドチップの道も立派ではあるのだが、ウッドチップを敷いて人を招くより前に植生復元の為に本来生えていた樹種を植えるべきなのではないかという気もした。

 牧草地や道路脇のような開けた所を好むアメリカオニアザミも大平原を樹林が覆っていれば日照不足で繁殖出来ない。大草原を荒地のまま放置しているから殖えている。ボランティア団体が中島のアメリカオニアザミの抜き取りをしたら土壌流出の恐れがあるから慎重にと言う意見が出たという。しかし大平原の土壌は既に伐採後に荒地になって長年経過している上に、大平原一帯ならアメリカオニアザミを抜くことで流出する土壌は流出口のない平坦な窪地である大平原に留まる。第一、中島でアメリカオニアザミが生えているのは植林の失敗で樹冠がなく日照が直接地面に届く大平原で殆ど全てである。自然環境で観光を産業とするなら、こういうことは善意のボランティアに任せて後から文句をつけるような事ではなかったのではないかと思う。利用者がさほどいないのに立派なウッドチップ歩道と言い、何か順序が違う気がする。歩道でも利用者が少なければ土壌流出より植生に覆われてしまうことの方が多いのは、トーノシケヌプリ登山道が示している。ウッドチップも敷かれず、傾斜もウッドチップ歩道より急だが土壌流出は見られなかった。植生に侵食されて本当に必要な幅だけになっている。中島大島の遊歩道に、ここまで広い幅とウッドチップまでの整備が本当に必要なのか疑問を感じてしまう。個人的にはウッドチップ歩道は腱の弾性が削がれる感じがして普通の道より疲れるような気がする。


道の様子(春)

 「大平原」の先には「中島の大アカエゾマツ」が生えていたが、平成14年の台風で倒れたと言う。今も倒れた姿がそのままであり、周辺に金網で鹿から守られたクローン樹が植えてある。ウッドチップはここで終わり。

 この辺りから顕著な下りとなり湖面に降りていく。ウッドチップのこれまで歩いてきた道も含め、これらの道はどうも昔の営林車道の跡のようだ。下りだすとハンゴンソウの茂る中の踏み跡である。北海道のマイナーピークを歩く時はよくあるロケーションであるが、どうも荒地の雰囲気がある。


砂漠のような林床

 昭和30年代に桟橋前の森林博物館によって観光用に人為的に持ち込まれ、逃げ出して増え過ぎていると聞く鹿の食害がすさまじい。林床は鹿に食われて踏み荒らされて砂漠のようになっている所がある。湖岸沿いには一部で小さく柵で囲って完全に鹿をシャットアウトしているブロックもあったが、その柵の両側の落差は大きかった。遊覧船で来た観光客の方々は「鹿に会えて良かった」と口々に言っていた。しかし島の東側の普通の観光客のあまり行かない所にある、柵で守られた自然植生(それでもかなりの影響の後だが)と食害植生の落差も見てもらう必要があるように感じる。これらの鹿は自然にはいなかったし、残された自然も変えている。土壌の流出を心配するならアメリカオニアザミの抜き取りに意見するより前に鹿の増殖で草が生えずに踏み荒らされていることを何とかすべきだったのではなかったか。

 植林倒木地が放置されていることで日照が林床に届き、新しく餌になる草本が繁茂しやすくなって鹿が殖えることを助けている面もあるだろう。峠付近の倒木地ではその鹿への影響と観光客が踏み入ることで倒木で怪我しないようにとの配慮の為と思われる柵も張り巡らされていたが、餌になる草の種子はいくらでも柵の中の樹冠のない荒地から再生産されて、まわりにバラ撒かれ続けるだろう。

 中島の桟橋に船が着けば、まず見えるのは本来北海道には自生しないカラマツの植林と、中島には生息しなかったはずのエゾシカ、島の中の自然遊歩道を歩けばカラマツ一色の森や植林の失敗による荒地とそこで増える北海道の主要産業である畜産の強害雑草である帰化植物の繁茂とエゾシカの食害。森林と青い湖水と穏やかな大型草食動物と、美しく心休まる景色であることは確かだが、「原生林」や「大自然」という言葉を使うのはどうも違う気がする。


鹿の食害の
あり・なし

エゾシカ
(桟橋売店の裏)

倒れた
アカエゾマツ巨木

 島の北東の通称「北東岬」にはモーターボート用の桟橋があって、その周囲の湖岸遊歩道には沢山のティッシュペーパーの小山が散乱していた。この桟橋は遊覧船として営業しているモーターボート業者でなく、一部の個人のモーターボート愛好者や水上バイク愛好者が設置して、トイレスペースとして野糞していると聞いた。湖全体には小さな影響でも、これほど湖岸近く(3m程度か)でトイレとすれば自らの糞便と湖水の関係を意識せざるを得なくなって、とても水上バイクや水上スキーで水に浸かろうと言う気分になれなくなると思うのだが・・・。トイレットペーパーは分解されにくいのでいつまでも残って白く目立ち、感じの悪いものである。


私設(?)桟橋

ヤマシャクヤクの種

湖岸の道

 北東岬の南側の通称「大湾」は美しいところだ。樹林の映る水面の蒼が輝いている。湖に飛び込む簡素なブランコがあった。


大湾
北から

大湾とブランコ

湖岸段丘の段丘面上に
道がある

 伝説では洞爺湖の大島には湧き水があるとのことだが、歩いた限りのトーノケヌプリ周辺には水はなかった。また、島の南東の饅頭沢には地形図では水線が描かれているが、水は全く流れておらず、近年に流れた形跡もなかった。地元の人に聞いてみると、島に水があるとは聞いたことがないという人と、どこかに水があるらしいと信じている風に話してくれる人がいた。尤も後者は一見の観光客に過ぎない自分がからかわれたのかもしれない。桟橋近くの施設群で用いられている水は、湖水を浄化して利用しているとのこと。

 桟橋売店裏のゲートの前の地図によると、中島大島の西側の岸にもグルッと道があるようだ。いずれ歩いてみたい。


★山名考


松浦武四郎/戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上
(北海道出版企画センター)45ページより

洞爺湖町月浦付近からの洞爺湖中島鳥瞰図シミュレーション
(カシミール3Dにて描画)

 to noske nupuri[湖・の真ん中・山]と思われる。地形の通りである。

 松浦武四郎は丁巳の翌年の戊午日誌で島で一番高い山を「トウノシケモシリ岳」とし、スケッチで西山に「トウノシケモシリ」と振っている。また、「トウノシケモシリノホリ」とも記している。

 松浦武四郎の戊午日誌の絵図は洞爺湖町青淵(旭浦南方)付近から船上からのものであり、絵図は現在のこの付近からの景色が上手く描かれている。トウノシケモシリノホリヌプリともトウノシケモシリ岳ともされたが、シンプルに丁巳のトウノシケノホリに従って、現代アイヌ語の表記に合わせて西山の名とこの頁のタイトルをトーノシケヌプリとしておく。アイヌ語では音の長短に対立はないので、書く場合は「トノシケヌプリ」の方が良いかとも思われるが(シは閉音節末なので小文字の方が望ましいか)、語頭にアクセントがある場合、アクセントの音が伸びることがあるので、松浦武四郎が聞いたアイヌの人の発音に近くなるように当頁では「トーノシケヌプリ」としておく。

 丁巳日誌ではトウノシケノホリの一つの大岩、戊午日誌ではトウノシケモシリ岳の頂上から水が湧き出ているとされ、森美典(1981)の引用する「白井メモ」の昭和24年頃の古老の話の「大きな島の右の方の円い山に水神さんが祀ってあった」や「大きい島の壮瞥寄りの方の山の中で・・・水が湧いてきて・・・」と、水の出ていたとされる場所に違いがある。松浦武四郎はその水について、丁巳日誌で「実にあまり怪しきに過る」としているが、同行のアイヌの人々が見たことがあると語っていたことも記している。

 その他の中島のアイヌ語地名は子頁参照。


大平原のクサギの若木
手前の枝先だけが
鹿に食われている
冬の間に齧られて、奥は
鹿が入れなかったのだろう

鹿の骨も至る所で見かける

(2008年3月5日補記)
 中島のエゾシカは対応が苦慮されている。関係団体の動きとして、一部の研究者グループは限られて閉じられた環境であることから貴重な侵入生物による撹乱と安定までの過程を観察できるケースとして、駆除に反対してきた。一部の自然保護団体は鹿と森林の戦いもまた自然の姿であるとして駆除に反対していた。観光業者は増え過ぎた状態でひとたび大雪となり、冬の大量餓死が発生すれば観光地としてのイメージダウンにつながるとして牧草の運び込みまでした業者もあったという。また、ここで繁殖して過密になったことで新天地を求めて島外に泳いで脱出し、洞爺湖沿岸の果樹園に食害をもたらしているという噂もあるという。

 かつて大規模な間引きは一度行われ、その時は駆除されたエゾシカは昭和新山のエゾシカ牧場に移され、天寿を全うしたという。しかし、狭い島で鹿の繁殖力を以って生息数はすぐに元に戻ったという。今後の方針も定期的な間引きが有力であるという。自分としては間引きの形で問題を先延ばしにするよりは、洞爺湖温泉街で期間限定の野生肉として食用に供しながら最終的に完全に駆除するべきではないかと思う。

 誤解が多いようだが中島のエゾシカが増え過ぎるのは天敵が居ないことは大きな要因ではない。植物に覆われやすく鹿の生息に適していて、単に狭いから増えると目立つのである。ヒグマは殆ど植物食で、たまに小動物や水棲動物や死体を肉として食べる程度でエゾシカのような大型で足の速い動物を単独で襲う成功率の低い狩りは好んで行わない(知床のようにエゾシカの密度が非常に高いと狩りが成功するようだが)。キタキツネも体格が違いすぎて襲えない。ヒトがエゾオオカミを絶滅させてしまった時点でエゾシカに野生の天敵は居なくなっている。


マムシグサも通常は
鹿は食べないが
大島では仏炎苞だけが
食べられている
仏炎苞は毒成分が
少ないのだろうか

(2008年6月4日補記)
 2008年5月のNHKの番組で、大平原はかつて笹原で覆われていたが鹿の食害によって禿地となった報道された。植林の失敗で笹地になった後、鹿の食害で禿地となったと言うことだろうか。ということは土壌流出の原因を作っているのはアメリカオニアザミの駆除行為以前にエゾシカの増殖だろう。笹や樹林に覆われていればアメリカオニアザミは繁殖できない。

 また、近年はこれまで毒草として食べてこなかったフッキソウの根には毒の成分が少ないことを鹿が見つけ、掘り返されて食べられている姿も放送され、こうした「文化」が今後広がっていくだろうとの予測が語られた。2004年には通常は鹿が食用としないハイイヌガヤが鹿の食害で島内から絶滅したことが確認されている。フッキソウを食べ尽くした後、エゾシカはまた次の何とか食べられる草や木を探し、その体に合わない成分に苦しみながら中島に生える植物を次々に絶滅させていくのだろう。広い水面に囲われた隔離に近い貴重な生態系の撹乱の研究対象となりうる環境ではあるが、こうして人為的に持ち込まれたとはいえ野生動物を一方で観光客にビスケットを与えさせるなど見世物にしながら、次々苦しませながら元々あった環境の破壊をさせるということがどうなのか、うまく言えないが倫理的な疑問を感じる。

参考文献
虻田町史編集委員会,物語虻田町史 第5巻 洞爺湖温泉発展史,虻田町,1983.
虻田町史編集委員会,物語虻田町史 第1巻 行政編・資料編,虻田町,2004.
重松熊五郎,宇壽場所様子大概書,東蝦夷地各場所様子大概書,新北海道史 第7巻 史料1,北海道,北海道,1969.
松浦武四郎,秋葉實,丁巳 東西蝦夷山川地理取調日誌 上,北海道出版企画センター,1982.
幕末・明治日本国勢地図 輯製二十万分一図集成,柏書房,1983.
森美典,西胆振のアイヌ語地名考 上,森美典,1981.
知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1992.
松浦武四郎,秋葉實,戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌 上,北海道出版企画センター,1985.
知里真志保,アイヌ語入門,北海道出版企画センター,2004.



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(2007年9月4日上梓 17日地図挿入 11月11日戊午日誌分追加 2008年3月5日エゾシカ補記 5月2日再訪加筆 6月4日加筆 2017年5月22日中島地名考を分割