洞爺湖中島の地図

洞爺湖中島のアイヌ語地名考

 中島について、松浦武四郎の安政4年と5年の記録に以下のようにある。


松浦武四郎
戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上
(北海道出版企画センター)45ページより

洞爺湖町月浦付近からの
洞爺湖中島鳥瞰図シミュレーション
(カシミール3Dにて描画)

 大島のアイヌ語の名はトーノシケモシリ to noske mosir[湖・の真ん中・島]と、ポロシリ poro sir[大きい・島]の二つがあるようだ。周辺の小島の名を考えると、ポロシリではなくポロモシリと言った方が揃うような気もするが、寛政3年の菅江真澄もポロシリと記している。

 大島の西山であるトーノシケヌプリについてはトーノシケヌプリ山名考参照。

 トーノシケヌプリの他に、大島のアイヌ語地名としてノシケタノボリ、エチンゲシュマ、ポロトマリが松浦武四郎の安政5年の記録に聞き書きとしてある。

 ノシケタノポリは noske ta nupuri[真ん中・(の)・山]かと思われる。ta は格助詞の連体的な使われ方と考える。試みに十八角形に近似して洞爺湖の重心を計算してみると、トーノシケヌプリでなくノシケタヌプリの中腹にあり、山田秀三の「北海道の地名」の帯の名言「アイヌ語地名に偽はない」が思い出される。

 イチンケシユマ、ポロトマリについて、榊原正文(2007)はポロトマリを大島南側の現在の遊覧船の「博物館桟橋」のある湾とし、イチンケシユマをそのポロトマリのそばにある「亀の形象(ママ)によく似た岩をこう呼んだものと推定される」としている。博物館桟橋の周りを歩き回ってみたが、亀に似た湖上から目印になりそうな1丈3丈(1丈は約3m)の岩は見つけられなかった。

 遊覧船や森林管理署の職員に伺ってみると、大島では北東岬の南側にある「大湾」のみを名前をつけて呼び、それ以外の湾を名前で呼ぶ習慣はないという。大湾もまた船を着けるには良さそうな場所で、モーターボートが停泊しているのは見かけた。大湾周辺にも亀に似た岩はなかった。

 戊午の日誌の元になったフィールドノートである手控では、中島のスケッチで榊原(2007)のイチンケシュマに推測する位置(博物館桟橋の西の出崎)に「カメ岩」/「カメ石」と振られている。カメ石の背後には「ムイ」と振られている。「ムイ」はアイヌ語の moy[湾]で、博物館桟橋のある湾のことかと思われる。カメ石の文字の横には「犬山にも有る也」とある。犬山の木曽川の日本ラインにあるらしい亀岩のことだろうかと考えてみたが、松浦武四郎の時代に木曽川下り遊覧は舟を戻すのが大変なので行われていなかったのではという気もする。手控の「犬山」がどこなのか更に考えたい。

 「ムイ」と「カメ岩」、「カメ石」はあったが、アイヌ語としての poro tomari[大きい・停泊地]と、ecinke suma[亀・岩]に直接つながるカタカナ表記は、見落としはあるかもしれないが手控には見られないようである。


春先の弁天島
笹があるようには
見えない

 中島の大島以外の名は、観音島がカムィチセモシ kamuy cise mosir[神の・家の・島]、饅頭島がポンモシpon mosir[小さい・島]であるのは松浦武四郎の記録等を受けた森美典(2008)に従いたい。戊午日誌については検討されていないようだが、戊午日誌の、現在の洞爺湖温泉付近と月浦付近からの2枚のスケッチに振られた島の名にも合っている。カムィチセモシリのカムィチセとは観音の円空仏のお堂の事らしいと言う。

 竹島(弁天島)はトモシリ top mosir[竹・島]とされるが、笹があるように見えなかったのと、この島に笹があったのなら他の島でも笹はあったのではないかという気がするので多少疑問である。観音島と砂州で繋がっているので、元は観音島と合わせて tup mosir[二つ・島]だったのが、観音島がカムィチセモシリと呼ばれるようになったので、二つで tup mosir であったことが忘れられ、音も訛って top mosir と言う事になったのではないかと考えてみる。

 饅頭島は虻田町史と壮瞥町史でトッコニモシリともされ、「蝮島」と訳されている。森美典(2008)は近世記録でトコカムイ(凡蛇)/トツコカムイ(蝮蛇)が居るとはされているが、島の名としてアイヌ語でトッコニモシリなどとはされていないことを指摘している。戊午日誌でも「夏秋は蝮蛇多しと聞り」とあるがトッコニモシリとはされていない。アイヌ語で tokkoni は「へび(総称)」などとされるが、近世記録で蛇として最後にニが付いていないのが気になるが、安政3年道沢重兵衛シレトコ記行でも蝮蛇がトッコカムイとされている。昔はニが付かなかったのか。トッコニとは蛇の事ではなく、洞爺湖に長流川から昭和新山隆起前の壮瞥温泉や壮瞥滝の辺りで入ってきて中島を見て、大島の手前にある島という事で、その手前を意味する tukari の転訛ではなかったかと考えてみたが、アクセントの位置がトッコニとトゥカリでは違う。また、近世記録でニが無いことを説明できない。地形としてあまり目立つ感じがしなかったのと、北東岬の辺りも同じように言えそうなので蓋然性が低い気もするが、大島の饅頭沢の右岸尾根の末端の高まりが「小山」で、tok -ke un -i[小山・の所・にある・もの(島)]の訛ったのがトッコゥニであって、トッコニとは何ぞやと言うことで「蛇」となり、uni に「〜の家」の意味があるので「トッコカムィの住まい」というような説明がされたのではなかったかと考えてみる。

参考文献
松浦武四郎,秋葉實,丁巳 東西蝦夷山川地理取調日誌 上,北海道出版企画センター,1982.
松浦武四郎,秋葉實,戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌 上,北海道出版企画センター,1985.
菅江真澄,内田武志・宮本常一,菅江真澄全集 第2巻,未来社,1971.
知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1992.
田村すず子,アイヌ語沙流方言辞典,草風館,1996.
知里真志保,アイヌ語入門,北海道出版企画センター,2004.
山田秀三,北海道の地名,北海道新聞社,1984.
榊原正文,洞爺湖周辺のアイヌ語地名,pp47-66,10,アイヌ語地名研究,アイヌ語地名研究会・北海道出版企画センター,2007.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集6 午手控2,北海道出版企画センター,2008.
森美典,豊浦町・洞爺湖町・伊達市・壮瞥町のアイヌ語地名考,森美典,2008.
那須嘉一,虻田町史,虻田町役場,1962.
壮瞥町史編さん委員会,壮瞥町史,壮瞥町,1979.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集5 午手控1,北海道出版企画センター,2007.



トップページへ

 資料室へ 

トーノシケヌプリへ
(2017年5月22日トーノシケヌプリの頁より分割・改訂)