沢渡峠 (御嶽街道) その2
さわどとうげ
三訪・四訪

 福島宿から王滝を経て御嶽山へ巡礼する道。小説「夜明け前」の舞台。「大峠」とも呼んだという。合戸峠と共に御嶽正面見である。初回は橋渡の常盤橋から崩越へ歩いてみたが、沢渡側の詰めと崩越側の登り口付近を間違えて地形図にある道を完全にはトレース出来なかった。二回目は崩越から常盤橋へ歩いた。三回目は張山(春山)から歩いて一回目にトレースできなかった地形図に道の描かれる沢渡側の谷筋を辿ってから登り返して二子持へ下りた。四回目は二子持から登って沢渡側の谷筋をもう一度見直して崩越寄りの交差点から二子持に戻った。


★三訪

沢渡峠地図1沢渡峠地図2

 地形図に歩道の点線があるが、その中を見ていなかった沢渡林道1030mから地形図に無い上の林道1100mまでの谷筋を歩いてみた。

 沢渡林道1030mから60mほどは左岸に歩道の路盤があるが、その先は無く、谷底は水が流れる沢床が殆ど全てで両脇の山の斜面は立ち上がり、沢の中を歩くしかない。 更に60mほど進むと砂防ダムがあるが巻き道は無いようで、ダムの脇の土付きの急斜面を何とか登れなくは無さそうだが、一旦林道に引き返して上から入り直すことにする。

 地形図に無い林道1100mから地形図上の点線のある谷筋を下る。谷筋に水は無いが、狭い両脇の立った谷筋で、雨が降ればすぐに水が流れて道を作ったとしてもすぐに流れて跡形もなくなりそうな谷筋である。1060m二股のすぐ上で水が湧いている。更に水流沿いに砂防ダムまで下ったが谷の中は同じような状態で道があったような雰囲気はなかった。林道に引き返すのに、1060m二股の左股の、沢渡峠遥拝所に直接上がる谷筋を登ってみたが、こちらも1060m二股のすぐ上で水が切れ、右股同様に道のあった雰囲気を感じない狭い谷筋であった。沢渡林道1030mから左股も沢渡林道に再びあたる 1070mまで登ってみたが、道のあったような雰囲気はなかった。だが、1070mより上の谷筋にはすぐに途切れていたが古い路盤があった。下側も道のあった雰囲気は無かったが緩やかで水は無く多少広い。或いは、標高1000m辺りから左股か沢渡林道がジグザグになっている部分の斜面を登り左股を詰めるか、曲がって勾配の緩い中尾根を上がって遥拝所の東へ登り、160mほど西へトラバースして遥拝所に出ていたのでないかと考えてみる。

 歴史の道調査報告書の書く「小峠」の西側はかなりしっかりした道型が二子持へ続いている。この道型で二子持に下山した。少し下りた所に沢渡峠遥拝所の方へ向かう分岐があったが、今回は二子持までそのまま下りた。ミズナラの林が美しい。

 崩越で王滝村の御嶽街道紹介のページにある崩越観音堂を見た。崩越集落の中心部から軒先の車の通らない細い道を西に進んだ先にある。崩越の中心部と反対側の西を向いて建てられているのがちょっと不思議な感じである。細い道はその先で林道に合わさり、そのすぐ先で村道に出る。崩越観音堂は棒葺きだが、崩越の古い建物には昔ながらの石置屋根のものが見られる。


点線の描かれる谷筋の
1060m辺りの谷底
「街道」はありえない

二子持へ下る
はっきりした道
「小峠」の少し下

崩越観音堂
野道沿い

崩越の
石置屋根の建物

★四訪

 歴史の道調査報告書の「小峠」の東側が気になって、四度沢渡峠に登った。合わせて崩越側の交差点の所から二子持への道も歩いてみた。

 今回は二子持から歴史の道調査報告書の「小峠」への道を登る。登山口は二子持の上水施設の直下で、木曽森林鉄道の二子持駅の跡である。三回目の2020年の春には見なかった沢渡峠入り口の標識がある。上水施設の上には二宮の祠があるが荒れている。上水施設の左側の、二子持駅の下り方の留置線の跡かと思われる殆ど傾斜の無い芝生状になった林道跡の路盤に入る。先でUターンして上水施設の上を通る。前回気が付かなかった霊神場を標高930mの尾根上に見る。御嶽大神と水神の2つの碑石がある所で、二子持の遥拝所なのでないかと思う。

 標高1110m辺りに大きな倒木があって、そのすぐ上で道が折れて「小峠」に登っていくが、折れずに直進する路盤を前回見たので今回は直進する。立木に小さな標識が付いているが、標識の字は読み取れない。直進してすぐに尾根の鼻を越えて、一旦水平となりまた斜面を登っていくと沢渡峠遥拝所と「小峠」の間の三つのコブの南端で稜線に出る。稜線のすぐ東側に三つのコブを東側に巻く地形図の道があるが、二子持から登ってきた路盤は少し広い稜線の西端を辿って遥拝所まで続いているようである。多分、地形図にある道は切り替えられた新しい路盤である。稜線に出るまでの途中にジグザグで三つの内の一番南のコブの北側に登る古い路盤の枝道がある。

 2020年の晩秋に地元の方が遥拝所を整えたとの話で、遥拝所から御嶽山が以前よりすっきり見られるようになっていた。


二子持の入口

遥拝所?

道の様子

大きな倒木

稜線に近づく

大峠 遥拝所

 歴史の道調査報告書の「小峠」に移動。三訪時、「小峠」の東側の地形図に無い林道より下の谷筋が道を作れるとは考えられないほど狭かったのと、地形図に無い林道から「小峠」への斜面の登りが随分整ったジグザグであったのを見て、道の作りとしては新しいのでないかという気がして、斜面を登り切った「小峠」とほぼ同じ標高の斜面をトラバースの旧道があったのでないかと考えて、ジグザグの下り口から更に東へ進んでみたが、獣道程度のかすれた踏み跡はあるのだが、路盤の跡とは言いにくいもので、薮も多いので100mほどで引き返した。

 歴史の道調査報告書の「小峠」で、前に気が付かなかった東側の谷筋に忠実な古い路盤を見たので下ってみた。谷筋に忠実だが、谷線の直上ではなく、谷の右岸についている。間伐材が詰まっていて歩きにくいが幅広の掘り込み道である。地形図に無い林道に出る直前で今の新しい路盤に合流し、左岸に移って地形図に無い林道に出た(1100m)。


「小峠」から直に
東側へ下りる路盤

間伐材が
詰まる

 この間伐材の詰まった古い路盤がしっかりしていたので、林道より下にも左岸に古い路盤が、三訪の時に気が付かなかったがあったのでないかと思い直して、林道の下の谷の左岸を注意して下りてみると、靴幅程度の路盤と言うか、踏み跡があった。辿って下っていくと、次第に谷底から離れて路盤が広がってきた。1100mの林道直下で谷底から1mほど上にあり、砂防ダムの上で堰堤から4mほど上にあって人幅となった。下でまた沢渡林道に出る所で沢渡林道の10mほど上で人幅ほどの路盤が沢渡林道の法面で切れていた。沢渡林道まで10mほどの高さがあるが、登降出来ないほどの急斜面ではなく、容易に下りられた(1030m)。

 同様に、三訪時に谷底が狭く道はあり得ないと思った1060m二股の左股にも、地形図に無い林道(1080m)より上が広く勾配の少ない歩きやすい谷筋で路盤があったことを思い出して、地形図に無い林道に出る所で路盤が左岸にあることから、左岸の谷線から数m上がった所に路盤があったのでないかと考え直して、左岸の谷線より少し上に注意して入ってみると、靴幅以下の踏み跡のようなものが谷線の1mほど上で断続しているのが分かった。この踏み跡のようなものは1060m二股の上を回り込んで右股の水源(1070m)の上で右股を渡り、谷の下方に斜めに斜面を上って右股左岸沿いの路盤に合流していた。


右股1100mすぐ下左岸
段切りのよう

路盤は
細くなっている

沢渡林道法面で
切れる

左股1080mすぐ下左岸

回り込んで右股を渡る

斜面を登る

 1080mより上側も遥拝所まで登り直すと、谷の左岸側に斜面につけられた切り替えられた古い路盤が幾つもあることが分かった。掘り込みのある部分は「小峠」の東側同様に間伐材が詰まっているところが多い。

沢渡峠地図4沢渡峠地図5

 1080mより下は狭い谷筋に沿って急斜面に刻み付けたような道で消えかかっているが、明治44年測図の最初の近代測量に基づく地形図に記された、島崎藤村も取材で歩いた道であるのは間違いないと思う。三訪後、地形図にある標高1030〜1100mの歩道は別の谷筋か、八幡滝より上で尾根筋に上がっていたのを下の方の谷筋沿いの延長で不正確な位置に記していたのでないかと疑っていたが、間違っていなかった。天保9(1838)年の木曽巡行記では現在の沢渡峠と思しき遥拝所から三尾側に「夫より下り坂けはし」とあるので、近世後期には遥拝所から直に下りる谷筋(1080m二股の左股)を今ある路盤と同様に下っていたと考えられそうである。

 これらの道の位置でも木曽採薬記の王滝村の地図に描かれる、二子持と崩越へ別の所で尾根を越える道のあり方とは合致する。木曽採薬記で写す時に落丁があったのか見られない三尾村の地図を見たい。近世初期の木曽惣図なら三尾村の中の道筋も分かるように描かれているのか、見たい。昭和6年修正測量の地形図では1030m二股の左股の谷筋から直に沢渡峠遥拝所に上がるように道が描かれ、右股に道がなく遥拝所から直に二子持へ下りる道が描かれている。天保の頃から昭和初期は1080m二股の左股の谷筋の道が沢渡峠への登路だったのだろうが、明治頃の測量では左股の道が見落とされ、昭和初期の修正測量では御嶽街道の枝道扱いで右股の道を抜いて二子持側の下る位置を誤って記したのか。

 三訪時、1030m二股の左股に水がなく、谷沿いの沢渡林道付近に路盤らしきものがあるのを見たことから、1030m二股の左股にも念の為入ってみた。

 すぐに路盤らしきものはなくなる。しばらく広く緩い谷筋が続くが1130m辺りから傾斜が強まり、1160mで右手に上がっていく古い斜面の路盤にあたる。この路盤を左手に下がってみると、すぐ下でジグを切ってこの谷の1130m辺りに下りていた。また戻って右手に上がってみると、一旦尾根筋に上がり、また1030m左股の谷に戻って上がって、谷の右岸側斜面を上る路盤が続いているのを見たが、沢渡峠の遥拝所から離れるので引き返した。尾根筋に上がった所から斜面を西に水平移動すれば遥拝所に出るので路盤がないか注意しながら遥拝所まで斜面を移動したが、路盤は見当たらなかった。

 遥拝所の御嶽山の反対側に「ブナの大樹」と書かれた去年まで見なかった標識があったので反対側の斜面を上ってみた。ブナの大樹は三角点「池沢」(1293.8m)のすぐ西の辺りにあったのに途中で諦めて結局見なかったのだが、路盤が王滝村と木曽町の境の尾根筋に沿って続いていた。斜面の急な所はうねうねと曲がる古い掘り込み道であった。標高1270mの等高線で囲まれた三角点の手前のコブの辺りで引き返した。1030m二股の左股の道もこの稜線の道に続いていたのでないかと思う。

 大峠の遥拝所に戻り、推定小峠、交差点を経て二子持に戻ることにする。推定小峠のすぐ西で先の三回で気が付かなかった交差点があるのに気づく。だが、交差点の右も左も路盤は崩越への直進に比べると細い。まず右に入ってみると1140m辺りの推定小峠の下の尾根筋に出たが、そこから先の路盤が見当たらなかった。引き返して左に入ってみると1170m強の稜線の尾羽林へ下る入川の源頭の谷筋が迫っている所に出た。この稜線に出た所も交差点のようになっていて各方への古い路盤らしきものや目印テープがあるのだが、どれも細かったりはっきりしなかったりである。引き返して崩越方面へ更に下った。張山(春山)・二子持の交差点のすぐ上でも細い路盤が交差しているのに気が付いたが、こちらは入らず。多分、左は先の1170m強の稜線に繋がっていて、急峻な北面で残雪が多い時期のある遥拝所から推定小峠を避ける稜線伝いの、或いはより古い道が下りて来ていたのでないかと思う。

沢渡峠地図3沢渡峠地図4

 張山・二子持の交差点にも今まで見なかった標識を見る。二子持への道はアカマツの木が多くて小峠や「小峠」辺りのブナやミズナラの多い道と雰囲気が違う。1060mで牧尾ダムに向かう推定小峠の下の尾根の鼻に出ると、尾根に沿って上側に掘り込み道があった。上がってみると1080m辺りから右の斜面に入っていた。張山・二子持の交差点のすぐ上で交差した細い路盤の右から続いている旧道だったのでないかと思う。

 1060mの尾根の鼻からジグザグに下りて1030m辺りから地形図にある点線とほぼ揃う。標高940m辺りで山手側にトタンで目張りされた小屋を見る。後ろ側のトタンが剥がれていたので覗いてみると、中には何もなかった。


アカマツの多い道

鼻をまわって更に下りる

小屋

参考文献
王滝村,村誌王滝 上,王滝村,1961.
鈴木昭一,島崎藤村ノート(三) ―『夜明け前』の王滝・沢渡峠・大平街道を行く―,pp1-16,14,青須我波良,帝塚山短期大学日本文藝研究室,1977.
水谷豊文,木曽採藥記 2巻,国立国会図書館蔵写本(特7-89)デジタル資料.
陸地測量部,明治大正日本五万分の一地図集成3,古地図研究会・学生社(発売),1983.
長野県教育委員会,御嶽街道(歴史の道調査報告書39),長野県教育委員会,1994.
木曽福島町教育委員会,木曽福島町史 第3巻(現代編2),木曽福島町,1983.
岡田善九郎,脇田雅彦,木曽巡行記(一宮史談会叢書14),一宮史談会,1973.
float cloud,池沢山 1294M 3等 上松(王滝) 山系・井出小路山>西股山 2010.2.14.藪山独自ルートfloat cloudのブログ.(2021年5月2日閲覧)



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(2021年5月2日上梓 2023年1月22日URL変更)