トムラウシ山 旭岳付近から |
山名考
トムラウシ山 その2
(承前)
美生川支流ニタナイ川はそれほど長い川ではない。
美生川ニタナイ川付近の地図 茶色点線は冬道想定路 |
美生川上流全体と旧記をもう一度見てみる。美生川上流には二股があり、右股を越えるとパンケヌーシ川で沙流川上流域に出る。松浦武四郎の安政5年の記録に二股の右股で「ルウトラシベツ」とある川と思われ、ru turasi pet[道・を遡っていく・川]で、十勝から右左府(旧日高町)に山越えするルートであったと思われる。右左府から更に山越えをして西の夕張方面へ向かったと考える。美生川左股は地形図に「ピパイロ川」とある川で、こちらも沙流川上流域の千呂露川に出る。松浦武四郎の記録でトンラウシであったニタナイ川は伏美岳に上がって、同じ十勝側の戸蔦別川に出る。ピパイロ川は北大山の会の「日高山脈」や、近年のWeb上の溯行記録を見てもそれほど困難な沢に思われないが、松浦武四郎の記録には「川すじニセイケ(nisey -ke[崖・の所])多くして、上るに甚難所なりと」、案内したアイヌの人の意見が書かれている。
トンラウシについては「此辺大笹欝叢として丈よりも高し」と通行する所ではないようなことが書かれているが、「此トンラウシより上る時は、凡川口従十丁も上りて、ホロナイ、是左りの方に有と。」とある。ニタナイ川の一番下の相応の右岸支流は落ち口から約2km遡った所なので、十丁(約1.1km)で poro nay[大きい・河谷]かと思われる名が出てくるのは不審である。「十丁」という里程を軽んじてしまう事になるが、約3kmの大きな右岸支流であるトヤマ川がホロナイで、しかし、大きいというわけでない par o nay[口・ある・河谷]の転訛で、トヤマ川落ち口から左岸の傾斜の緩い妙敷山に上がる尾根が par[口]で、笹が雪に覆われる冬の道ではなかったかと考える。
ニタナイ川の中程までは雪崩や雪解け増水の危険と歩き易い傾斜を考慮して源頭の谷筋が狭まり急傾斜のピパイロ川を避けて妙敷山で稜線に上がり、幌尻岳まで南下して、沙流川下流域や新冠川筋に出る冬道のルートではなかったかと考える。
美生川支流のニタナイ川を指したトンラウシは tom ru ous -i[その中ほど・道・の後につく・もの(川)]の転訛であったと考える。「道の後」とは、道の向かう方向の反対側の末端ということである。道の向かう方向が沙流川筋や新冠川筋であり、その道の付け根であるニタナイ川本流とトヤマ川の分岐の尾根がニタナイ川の中ほどにあるということを言ったものと考える。
妙敷山(おしきやま)の名と、妙敷山の漢字の普通の読み方の「みょうしき」は主稜線に上がってからの冬道縦走路の始まる場所である、ロウシケ ru ouske[道・の根元の所]の転訛か聞き誤りでなかったかと考える。ous、ouske の u は声門破裂音等で、はっきりとした声立てとなる。
以前、十勝川上流の現行のトムラウシ川と美生川支流のニタナイ川を確定的なトンラウシとみなして、この二つの川を地形図上で眺めて、いずれも周囲の山地が本流の上流の周囲より高く、源頭は本流よりかなり高い山地であり、その高い山地へ真っ直ぐ向かっている川であることから、アイヌ語の tom ra us -i[面の中ほど、ぶつかったりたたいたりめがけて向かって行ったりする対象の位置(側面)・の下の方・につく・する所]ではないかと考えた。この場合の tom とは十勝川支流トムラウシ川の場合、大雪山系のトムラウシ山から石狩岳へ連なる急峻で標高差の大きい屏風のような南斜面を指し、美生川支流ニタナイ川の場合はやはり急峻で標高差の大きい伏美岳北東斜面を指すと考えた。tom は位置名詞とされるが、トムラウシ山〜石狩岳南面に似た屏風のような地形の雄冬海岸にタンパケ/タムパケがあるのを、mak のように独立的に用いられる場合のある位置名詞と考え、試みに tom pake[側面・の頭]と解釈して普通名詞のよう(先行詞なしでも短形)に扱われた事もあったのではないかと考えた。
トムラウシ川周辺の地図 茶色点線は冬道想定路 |
だが、tom ra us -i と言う並びは意味の分からない「その側面が・低い所・につく・もの」や「その側面に・低い所・がつく・もの」と捉えられそうに思われた。「側面」である山の大斜面に向かっているなら tom を普通名詞並みとするにしても、側面は急に立ち上がっているから側面であるわけで、その低い所に付くのは向かっているなら当たり前であり、tom us -i で済むように思われた。トムラウシ山へ向かうトムラウシ川は十勝川本流に比べて「側面」に真っ直ぐ向かっている事が顕著だが、ニタナイ川は本流に比べてその差は小さいように思われた。
また、ru-tom で「道の途中」を意味するという。
十勝川支流トムラウシ川には、中程でユウトムラウシ川とヌプントムラウシ川が支流として流れ込んでいる。ユウトムラウシは山田秀三(1984)が「温泉の・トムラウシ」としているが、トムラウシ川本流筋には地獄谷や新岳温泉や西沢温泉があり、ヌプントムラウシ川にはヌプントムラウシ(沼ノ原)温泉があり、近隣で「ユウ」の付くユウ十勝川やユウニペソツ川に温泉が知られていないので、疑っても良いように思われる。ヌプントムラウシは音をそのまま解釈すると nup un トムラウシ[野・にある・トムラウシ川]となりそうで、新得町史(1990)は「野原のトムラウシ」としているが、nup や「野」と言えそうな顕著な場所が流域に見られないので疑っても良いように思われる。音更川に近い所とニペソツ山の北西斜面に nup と言えそうな場所があるが、支流の源頭のごく一部であり、同じかそれ以上の規模の nup と言えそうな地形は他のトムラウシ川支流にもあり、それが名前の由来になるとは思えない。
十勝川上流域の支流のユウ十勝川とユウニペソツ川は流域の温泉が知られていないことに加えて空知川や然別川へ山越えに使い易そうな沢筋である。ユウトムラウシがトムラウシ温泉のあるトムラウシということの yu-トムラウシではなく ru-トムラウシ[道の・トムラウシ川]の転訛であったと考えてみる。ユウトムラウシ川を越えると辺別川や美瑛川の流域へ抜けられる(或いは忠別川もか)。ヌプントムラウシは〔ru-par〕-トムラウシ[道の・口の・トムラウシ川]の転訛ではなかったかと考えてみる。ヌプントムラウシ川を越えると石狩川本流の上流域へ抜けられる。石狩川上流域は深い山間だが、川筋は緩やかで広く、その先には無加川流域や湧別川流域のオホーツク海沿岸部がある。
トムラウシは中ほどで上川盆地方面と石狩川上流域方面への道が分岐している、tom ru-aw us -i[その中ほど・道の・股・ある・もの]であったと考えてみる。トノカリウシュベツ川もユウトムラウシ川と近い所で美瑛川へ抜けられて、上川盆地方面への交通路である事が意識されているような名だが、トムラウシやユウトムラウシとは別の時期に名づけられたと考える。ユウトムラウシもヌプントムラウシも、トムラウシの意味が忘れられてからそれぞれ別の時期に名づけられた名と考える。
ru-aw のようにアイヌ語で母音が連続すると、母音の連続を嫌ってその一つが追い出される事があるという。ru-aw はラゥになることが考えられる。ru-aw に us、us に -i が続いて、連声でラウシとなる。カタカナ表記のトムラウシのウは u ではなく wu と言う事になり、母音は連続していないということでラウシの部分がラシやルシにはならない。
だが、道の股というのは道そのものよりランドマークとしての存在感が弱いと思う。ユウトムラウシ川の下流部は峡谷が深く水量も多いので沢通しで通行しやすいとは言えないと思う。ユウトムラウシ川落ち口からヌプントムラウシ川落ち口までのトムラウシ川本流もまた然りである。美生川支流ニタナイ川のように冬道の取り付きなら、トムラウシ川の中ほどというには下流に寄っているが、ポントムラウシ川とトムラウシ川本流の間の尾根を上がってヌプン峠付近からヌプントムラウシ川に標高差150mほどを緩い斜面で下り、ヌプントムラウシ川沿いをヌプントムラウシ温泉近くまで遡り、右岸の尾根に上がって沼ノ原山を越えて石狩川流域へ下りるルートでないかと思う。
沼の原から五色岳の方へ上がるには段があり、五色岳まで上がって化雲岳に移動したとしても滑らかで広大な溶岩流地形が広がり茫洋として目標に乏しく斜面の末端崖は高く切り立って続いており忠別川筋へ下りるのは難しい。沼の原の北西方に石狩川本流方面へ下りていくと妙敷山と音の似たニシキ沢がある。ヌプントムラウシは ru-par ではなく、ru pe -n トムラウシ[道・の上(かみ)・の方へ移動する・トムラウシ]で、ニシキ沢の名も ru ouske で石狩側からの道の付け根であることを指し、大雪のトムラウシ川もニタナイ川と同じく tom ru ous -i[その中ほど・道・の後についている・もの(川)]で、今の大雪湖の底で石狩川筋から無加川筋と十勝三股盆地へ抜けるルートと交差してオホーツク海沿岸方面へ行く道の取り付きが川の中ほどにあるということでないかと思う。新得付近から無加川筋へは中央高地の南の山裾を経由するのも考えられ、石狩の上川盆地方面へは遠回りとなるので、主に十勝西部から武利川筋での湧別方面への道でなかったかと思う。湧別〜武利岳南〜石狩、常呂〜石狩は松浦武四郎の記録に通ったアイヌの人の話がある。
新得町の町歌では「トムラウシベ」とされる。tom ru-aw us pe[その中ほど・道の・股・ある・もの]或いは tom ru ous pe[その中ほど・道・の後についている・もの]とも言われたか。
tom ru-aw us -i[その中ほど・道の・股・ある・もの]、或いは tom ru ous -i[その中ほど・道・の後につく・もの(川)]のアイヌ語の解釈で、改めて札内川上流のトムラウシを探してみる。サツナイコタン推定地(ヌプカクシュナイ川・西札内防災ダムへの農道付近)から札内川ダムの辺りまでで15〜16kmなので、堅雪の日帰りならユクルベシベが札内川ダムの辺りか。その下手の左岸支流とするとカルペシナベ川がやや大きな支流として考えられるが、山を越えても南岩内川しかない。それより下流の左岸支流も全て岩内川に出るだけで、川の中程に道の分岐があったとは考えにくい。日帰りではなく片道と考えて更に15km遡ると八の沢出合の辺りで、左岸支流では六の沢が岩内川にも戸蔦別川にも出られることになるが、同じ札内川の支流であり手前の低い山からも越えられるので深い山間の高山まで遠回りするのは意味がないように思われる。
札内川上流の地図 茶色点線は冬道想定路 |
更に上流の左岸支流から札内岳に上がる本流を回って、右岸支流を先にユワウトロと考えた札内川が山間に入って向きが変わる辺りの右岸まで見ながら下っても、中ほどに道の分岐があり得る支流は札内川には無いように思われる。
中ほどに道の付け根のありそうな支流は札内川にある。コイカクシュサツナイ川である。コイカクシュサツナイ川の上二股より上流の溯行は難しいと聞いており、上二股で尾根に取り付いてコイカクシュサツナイ岳に上がる夏道のついた夏尾根と、上二股の左股のすぐ上で取り付いて積雪期にコイカクシュサツナイ岳への登路となる冬尾根がある。コイカクシュサツナイ岳からヤオロマップ岳〜1839峰〜シビチャリ山と尾根を辿れば静内川筋のサッシビチャリ川落ち口付近に着く。
だが、午手控ではトンラウシは「右小川」とされ、右岸支流であるコイカクシュサツナイ川と合致しない。現行のトムラウシ川でもサツナイコタンからかなりの距離があり、遠方での聞き書きなので左右を誤ることがあったかとも考えてみるが、挙げられた地名がわずか四ヶ所で誤ることがあるだろうかという気もする。
村上啓司(1979)は、トムラウシと言う名の三本の川が全て小支流であれば何か共通点が見つかるのではないかと考えたようだが、tom ru-aw us -i だとすると、逆にある程度大きな川でないと名の意味が出ない気がする。「右小川」の札内川筋のトンラウシが tom ru-aw us -i ということは無いのでないかと思う。
トンラウシとユクルベシベが美生川筋にも札内川筋にもあるのは興味深い。tom ru ous -i の途中にあるのは道の尻だから、この道は登り道である。ユクルベシベのユクはアイヌ語での鹿(yuk)を思わせるが、必ず居るとも限らない鹿の峠道と呼ぶのはおかしい気がしている。rik-ru pes pe[高い所の・道・それに沿って下る・もの]の転訛がユクルベシベであり、道が下るのだから下り道である。ユクルベシベは美生川筋でもトンラウシのすぐ上で左岸支流として戊午日誌等に挙げられ、曲げずに素直に読んで美生川支流二ノ沢の事と読める。千呂露川落ち口付近から尾根に上がりチロロ岳やルベシベ山を経て、ルウトラシベツの美生川本流に下らず、更に尾根伝いで芽室岳〜久山岳を経て美生川に下る冬道のある川が rik-ru pes pe と考える。千呂露川方面に上る道がルウトラシベツ(ru turasi pet[道・それに沿ってのぼる・川])の美生川本流と考える。
以下は松浦武四郎の記録を曲げての見方、明治期の地図でも誤認があったが松浦武四郎の記録よりは真相に近づいていたと考えての見方である。
松浦武四郎の記録では案内のアイヌの人の説明上の嗜好であったか(或いは聞き手の左右に合わせていたのか)、上流から見ての左右で支流を説明しているものを松浦武四郎は下流から見ての左右だと思って記している所がある。明治期の地図で、松浦武四郎が聞いた札内川上流の地名四ヶ所が全て左右が逆になっていることから、松浦武四郎の記録は左右が逆で札内川支流の左岸か右岸かについては明治期の地図が正しいと考えてみる。
ユウナイの戊午日誌のユワウトロの更に一里(4km)ほど上流で「其名義は此川上に一ツの水溜り有りて、其処より水わき出すよつて号る。」とあるのを、アイヌ語で pet etok ta sine to e- an wa toan uske wano wakka purpurke と言えば、「川の水源に一つの水たまりがあって、そこから水が湧き出る」ということになりそうだが、pet etok ta sine ru e- an wa toan uske wano makke wa a= arpa orke と言えば「川の水源に一本の道があって、そこから後ろに行くことの所」ということになりそうである。ヌーナイ川の源頭は低い鞍部で茂吉の沢筋の岩内川流域に繋がっており、サツナイコタンから岩内川筋に入るには遠回りだが、タイキなどより南の方からなら岩内川筋や更に北の戸蔦別川左岸の十勝平野西部に抜ける早道となる。まずはヌーナイ川がユウナイ(ru o nay[道・ある・河谷])であったと考える。
ユワウトロはその下手の札内川左岸の530m標高点の山と406m標高点の山の間から出る川であったと考える。十勝川への落ち口から札内川を遡って最初と次に左岸に見える比高100m以上の急斜面の山で、その目に付きやすい山ではあるがあまり高いわけでもない小山二つの間から出た川が、iwa uturu/〔pon iwa 〕uturu という川の名であったと考える。或いはこの川の左股が iwa uturu[霊山・の間]、右股が pon〔iwa uturu〕かとも考えてみる。
トンラウシはコイカクシュサツナイ川の中ほどの上二俣の左股のすぐ上の所で冬尾根に取り付く tom ru ous -i[その中ほど・道・の後につく・もの(川)]であったと考える。コイカクシュサツナイ岳から1839峰まで日高山脈稜線を辿り、静内方面へ向かう道の取り付きが中ほどにある川ということであったと考える。
ユクルヘシヘも明治期の地図に従ってカルペシナペ川でないかと考える。日高方面から来て日高山脈主稜線を越えて札内岳、十勝幌尻岳、岩内岳と稜線を辿り、カルペシナペ川下流の右岸のどこかに下りてくる山越えの道であったと考える。稜線道で札内川右岸に下りてくるとしたらここが最も使いやすいと思う。
午手控で「ユクルベシベ 左小川」に続けて「是より上未だ川大きけれども名なし」とあり、明治期の地図とユクルベシベとトンラウシの上下が逆なのは、サツナイコタンの地元のアイヌの人のお宅に泊っての聞き取りで複数のアイヌの人が同席していて、トンラウシより上流だけでなくサツナイコタンからかなり上流となるユクルベシベについても季節移動の風習が廃れてきて知らない地元のアイヌの人もいたということでないかと思う。
美生川と札内川のトンラウシが tom ru ous -i とすると、大雪に向かうトムラウシも tom ru-aw us -i ではなく tom ru ous -i だったのではないかという気がする。
参考文献
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田村すず子,アイヌ語沙流方言辞典,草風館,1996.
松浦武四郎,秋葉實,丁巳 東西蝦夷山川地理取調日誌 上,北海道出版企画センター,1982.
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山田秀三,北海道の地名,北海道新聞社,1984.
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知里真志保,アイヌ語入門,北海道出版企画センター,2004.
新中札内村史編纂委員会,新中札内村史,中札内村,1998.
松浦武四郎,秋葉實,戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌 下,北海道出版企画センター,1985.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集6 午手控2,北海道出版企画センター,2008.
村上啓司,北海道の山名10,pp82-85,36,北の山脈,北海道撮影社,1979.
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