山名考

札幌岳 その2

(承前)

★発寒・厚沢部

 旧伏籠川(篠路川)落ち口の僅かに下流で旧石狩川(茨戸川)に合流している旧発寒川、合流していた昔の発寒川も紅葉山砂丘に対しての命名の条件はサッポロと同じである。古く「はっしゃふ」と書かれた発寒と音の近い厚沢部(あっさぶ)の厚沢部川が桧山にある。

 桜鳥(hacam ハチャ、ヒワに似た小鳥/ムクドリ/三光鳥/エゾライチョウ(沙流)、諸説有)に因むなどと言われる発寒・厚沢部だが、桜鳥が居たとしても鳥の名がそのままそれだけで地名になるとは考えにくい。

 発寒川と厚沢部川の地形の類似点を見てみる。


厚沢部川河口付近の地図

 発寒川は石狩川から分かれた上で、ずっと紅葉山砂丘のすぐ脇を流れている。厚沢部川は北側に広い平野が広がっているが、南側は目名川まで柳崎の砂丘に沿って流れており、周辺の他の川の河口は谷の狭い山川か、両岸に後背湿地の広がる平野の川である。今井八九郎の地図や安政3年の松浦武四郎の南方の笹山からのスケッチから、水田の広がる厚沢部川の平野で厚沢部川の流路は昔から変わっていないことが分かる。この、砂丘に沿って流れている川であることを言う、hur sam[山の斜面・の傍]が音素交替で HUSSAM となったのが発寒・厚沢部の元になったアイヌ語と考える。

 「はっしゃふ」や厚沢部(あっさぶ)では最後が「ぶ」だが、各地のアイヌの長に尋ねたという文政7(1824)年頃の成立とみられる上原熊次郎のアイヌ語地名解に「厚澤部 夷語ハチヤムなり。則、紅粉ひわといふ小鳥に似たる鳥の事にて、此沢内に夥敷ある故、此名ありといふ」とあり、発寒も松浦武四郎の安政4(1857)年の手控に誰から聞いたものかは分からぬが「ハチヤヌ またハチヤムとも云り。桜鳥に似たる小鳥なり(ハチヤヌのヌはフか)、「ハチヤフ 本名ハチヤム 桜鳥に似たる鳥が多ゐと云事也。うそより又小さし」とあり、後方羊蹄日誌などに同様の事が記されていて、元のアイヌ語の音では最後は閉音節のm であったと考えられる。閉音節末のm の無い日本語に取り込まれて開音節末のmuとなり、更に日本語には「寒い(さむい)」を「さぶい」、「樒(しきみ)」を「しきび」とも言うように、マ行音とバ行音には相通があるので訛ったのが最後の「ぶ」ではなかったか。

 豊平川を「サツホロ川」、発寒川を「ハツサフ川」と書いた山崎半蔵は石狩北方の、語源が「アイラ」「アーラ」などと言われる厚田(あつた)を「ハラタ」と記した。地名アイヌ語小辞典を見ると最初の音がア行とハ行で異なるが続きが同じ単語で同じ意味とされている単語がある。永田方正(1891)は厚田郡の名の説明の中でアイヌ語での「淵」や「食料」を例に挙げてアイヌ語でのアとハは通音であるとするが、アイヌ語にアとハの対立はあるので、通音になることあるということだろう。発寒と厚沢部が同じアイヌ語が元になっていることは考えられる。

 永田地名解にもう一つある「桜鳥川」の夕張郡の葉散別川は永田方正が旧説を援用したものか、その辺りでは桜鳥を「ヌコヤ」と呼ぶと但書が付く。松浦武四郎は葉散別川をアチヤンベと記しているので、葉散別川をそのまま発寒や厚沢部と同列に考えることは出来ないような気がするが、少ない桜鳥説の例ではある。だが、葉散別川は hur sam のようには見えない。

 hur をアイヌ語千歳方言辞典等に従って「山の斜面」としてきたが、地名アイヌ語小辞典では hur が「砂丘」とある。砂丘の斜面のような山の斜面が hur ということか。萱野茂のアイヌ語辞典では「坂」とある。アイヌ語沙流方言辞典では「山の急坂」とあるが、紅葉山砂丘の斜面も柳崎砂丘の斜面も六線川の小山の斜面も「急坂」ではない。どうもよく分からない。

 松浦武四郎は安政4年のフィールドノートである手控では現在の士別市市街付近のコタンを「ウツ」と記しているが自伝では「ウワツ」となっている。ウツのコタンの名にウワッのような音とも聞こえた記憶があったのではなかったか。北広島の今の輪厚(わっつ)も松浦武四郎の安政5年の日誌に「ウウツ 本名ウツのよし也」とある。hur sam がハッサムやアッサムのように、u の音がアイヌ語で a に訛ることはあったのではないか。

★和寒

 紅葉山砂丘や柳崎のような緩斜面を hur[山の斜面]と呼んだのか。文化6年の国文学研究資料館蔵の近藤重蔵の「蝦夷地図」に塩狩越の天塩側の登り口附近として「ハツシヤム」と記されると言う、和寒(わっさむ)も発寒の類例かと考えてみた。永田方正の明治時代の解釈そのままに at sam で「楡樹ノ傍」と和訳される和寒だがアイヌ語の at はオヒョウニレの木ではなく、繊維を採る「オヒョウニレの木の皮」を指すので「楡の木の傍」と言うなら atni sam でワッサムの音からは離れる。「オヒョウニレの木の皮の傍」では地名として通じない。


名寄盆地北部の地図
緑色点線()は緩斜面の下限
黄土色点線()は斜面の下限

 山田秀三(1984)が明治時代の地形図から剣淵川の支流の六線川下流右岸付近を和寒の名の発祥の地かとしている。1897(明治30)年の北海道実測切図には六線川が「ワッサ」とある。間宮林蔵の調査による地図に「ハツシヤムヲマナイ」とケヌプチの右岸支流としてあるのも六線川のことか。

 六線川の落ち口のすぐ南東に157.7mの三角点のある小山がある。この小山の斜面のすぐ傍ということの hur sam かと考えてみたが、六線川落ち口のすぐ南の辺乙部川落ち口のすぐ南にも標高150mほどの小山がある。更に192.0mの三角点の丘や三笠山公園の丘が剣淵川の上手にある。六線川落ち口の小山は奥のより高い山地に繋がっているが辺乙部川落ち口の小山は孤立丘なのが「斜面」と見なさなかったのかと考えてみたが、紅葉山砂丘も長いとはいえ奥山に繋がっていない。どうもよく分からない。

 山田秀三(1984)はまた、松浦武四郎の東西蝦夷山川地理取調図(以下、山川図)から今の和寒市街を流れる和寒川(今(2018年現在)の地形図の剣淵川と思われる)をシイワツシヤム(和寒本流)であろうとしている。

 だが、現在の塩狩峠方面を指すのであろうラムル(蘭留)の文字が、シイワツシヤムも支流の一つとする剣淵川本流の水源に記される、山川図と違って地名や川筋が限られたスペースに押し込まれていない松浦武四郎の山川図の原図の一部とされる川々取調帳での剣淵川上流域の川筋の描かれ方を見ると、刈分川のもう一本北側の彌栄川がワツシヤム、刈分川がホンワツシヤム(pon WASSAM)、六線川がシイワツシヤム(si- WASSAM)、六線川の上流右岸支流がルウクシワツシヤム(ru kus WASSAM[道・通る・和寒川])で、ルウクシとは現在の上士別峠付近或いはそのやや北方を指していたのではないかと言う気もするが、無印ワツシヤムとポンとシイのワツシヤムの言葉の上での関係の怪しさと、松浦武四郎が実踏して或いは近傍を通過して聞き取った地名では無い点において、無印ワツシヤムは本当に六線川の名だったのだろうかという疑いは残る。

 川々取調帳でシイワツシヤムより上流でパンケペオッペ川河口か辺乙部川河口に相当しそうなシイワツシヤムより剣淵川上流左岸支流が何れも小流で交通路として名づけられたと思われるのは右岸のシヤムクシケヌプシヤsakru kus KENUPUCI であろう)のみで、現在の美羽烏(刈分川付近)に相当するピバカルシも更に上流左岸にあるのもよく分からない。彌栄川・刈分川は北海道実測切図でポンシルト゜マ、オンネシルト゜ルマとあり、これらの川が剣淵川流域の平野と天塩川上流流域の平野の間にあるという特徴をアイヌ語でよく表しているように思われる。山川図の元になった川々取調帳の地名はあったのだろうが、位置がどうも怪しい。

 辺乙部川と剣淵川を辺乙部川落ち口より上手で比べると、辺乙部川の方が奥が深い。今、パンケペオッペ川・ペンケペオッペ川と別に辺乙部川があるのは、3つの内の一部が偽物のペオッペと言うことでは無いかと思われる。

 以下は松浦武四郎の安政4年の日誌の記述に重きを置いて考えてみる。但し、左右については重きを抜く。

 犬牛別川であるウブヌシヘの落合から上は「大略聞取」である。左(剣淵川本流)が「ワツシヤム ホンワツシヤム シイワツシヤム」だが、支流なのか、支流にしても左右どちらの岸なのかは書かれていない。「此方また二股に成るよし。」と続くので剣淵川支流のワツシヤムがホンワツシヤムとシイワツシヤムに分かれているようである。続けて「是より右の方の沢えさし入るや沢また二ツに分れ、サツクルーケ子フチ右 マタルウクシケ子フチ左 共に石狩上川アイヘツえ山越のよし也」だという。ワツシヤムを六線川と考えて、次の二股で右に入るのは辺乙部川で、辺乙部川はアイヘツ(愛別)からは遠ざかってしまう。また、ワツシヤムを六線川と考えると、その下流で六線川より大きな剣淵川の支流であるパンケペオッペ・ペンケペオッペ川を無視してしまったことになる。

 辺乙部川らしき地名はウブヌシヘ(犬牛別川)の最上流の地名として「ヘヲツ ホンヘヲツ シノヘヲツ等有。其源は石狩川筋ウリウ源え山越するよし」とある。松浦武四郎に教えたアイヌの人が、剣淵川筋で先に愛別方面への道を説明することでヘヲツ筋を出しそびれて、ウブヌシヘの説明の最後にウブヌシヘと並び雨竜方面へ向かうヘヲツ筋を加えたのではないかと考えてみる。現在の地図で辺乙部川の源頭は雨竜川筋にあたっているが、パンケペオッペ川・ペンケペオッペ川の源頭は雨竜川筋にあたっていない。北海道実測切図ではパンケペオッペ川が「パンケペオッペ」、ペンケペオッペ川が無名、辺乙部川が「ペンケペオッペ」とあるが、パンケペオッペが支流も含めて雨竜川筋に接していないのは現在の地形図と同様である。

 今(2018年現在)の地形図にワッカウエンナイ川が和寒市街の南に隣接して剣淵川支流としてある。北海道実測切図では同じ位置でワカウェンナイとある。松浦武四郎の記録に出てこない地名である。アイヌ語の wakka wen nay[その水・悪い・河谷]かと考えたくなるが、水の悪い谷のすぐそばに、将来市街地が広がる事を見越して和寒の街が起こされただろうかという気もする。


パンケ/ペンケペオッペ川落ち口付近の地図

 ワッカウエンナイを mak ko- aun nay[後ろ・に向かって・入り込む・河谷]の転訛と考えると、北に流れ落ちる剣淵川に対して北東から合流する六線川の谷の特徴に合致する。パンケペオッペ川も水流は剣淵川に対して後ろ向きに流れているが、名寄盆地の平野の中で河谷は剣淵川と共有ということで、剣淵川から分かれる所で認知出来るような後ろに入り込んでいる河谷ではない。今のワッカウエンナイ川は剣淵川本流をショートカットして塩狩峠・愛別方面へ向かう。但し水流は繋がっていないので平坦な雪原を利用出来る冬限定である。ワッカウエンナイ川が冬道の通るということのマタルウクシケ子フチ(mataru kus KENEPUCI[冬道・通る・剣淵川])で、現在のマタルクシュケネブチ川の二十一線より下流が夏道の通ると言うことのサツクルーケ子フチ(sakru KENEPUCI[夏道の・剣淵川])/サクルークシュケネプチ(sakru kus KENEPUCI)と考える。剣淵川本流は西に回り込んでいて夏道となると考えるには遠回りである。ヘヲツ/辺乙部川が雨竜川方面への和寒峠(或いは維文峠もか)という par -ot (pe)[口・についている(・もの)]の転訛と考えると、パンケペオッペ川・ペンケペオッペ川の流れが剣淵川の大きな支流として名の分からないものとなる。


志文内川付近の地図

マオウェンナイと天幕峠の地図

 当頁ではケ子フチのアイヌ語表記を KENEPUCI としておくが私自身が実際の発音を聞いてのものでない松浦武四郎の江戸時代の表記に従った当座のものである。知里真志保の地名アイヌ語小辞典は石狩の嶮淵川を Kenupchi(ケぬチ)としている。

 パンケペオッペ川・ペンケペオッペ川は剣淵川から分かれてすぐに南北に分かれ、その両股の間に犬牛別峠からの山地の広い緩斜面が剣淵川側に突き出している。突き出した緩斜面を囲むようにパンケペオッペ川とペンケペオッペ川がある。より大きなパンケペオッペ川がシイワツシヤムで、その支流のようなペンケペオッペ川がホンワツシヤム、ワツシヤムは犬牛別峠東側の緩斜面の傍と言うことをの hur sam[山の斜面・の傍]ではなかったか。

 川々取調帳の天塩川筋では支流の安平志内川には下手の左岸支流マウシナイと上手の右岸支流ワツカウエンアベシナイの間に右岸支流ウツシヤムクシベツが描かれる。松浦武四郎の安政4年の日誌では聞き書きで最上流のワツカウエンアベシナイの下手にウツシヤムクシベツが出てくる。1897(明治30)年の北海道実測切図ではワカウェンペッが現在のワッカウエンベツ川に振られる。ワッカウエンベツ川は水流も河谷も本流の安平志内川から見て後ろ向きになっており、mak ko- aun pet/APESNAY[後ろ・に向かって・入り込んでいる・川/安平志内川]であることが考えられる(或いは aun ではなく awen<aw-e-n[内・(挿入音)・の方向に移動する]を想定する)。北海道実測切図のアペシュナイ(安平志内川)筋にはマウシナイとウツシヤムクシベツに繋がりそうな川の名が見当たらない。

 北海道実測切図にはマオウェンナイという名が天幕峠のすぐ南の川にある。安平志内川の川端を離れて通る天幕峠に先行するアイヌの人々の道があり、その道の付け根にある河谷ということの ru ous nay[道・その後につく・河谷]の転訛がマウシナイ、ru o- un nay[道・の尻・にある・河谷]の転訛がマオウェンナイで、マウシナイとマオウェンナイはほぼ同義の別名と考える。

 天幕峠より上手でワッカウエンベツ川より下手の安平志内川右岸支流に志文内川がある。安平志内川への落ち口から志文内川を500mほど遡ると、その先700mほど左岸に緩斜面を見る。志文内川の本名或いは別名が、発寒・厚沢部・和寒の類例となる hur sam kus pet[坂・の傍・を通る・川]の転訛したウッシャペッだったのではないかと考えてみる。

参考文献
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(2013年3月31日上梓 2016年10月3日その1とその2に分割 2018年6月10日改訂)