札幌岳
狭薄山付近から

山名考

札幌岳 その1

★札幌岳・札幌

 サッポロとは今の豊平川の古名である。

 新日本山岳誌(2005)は札幌岳が昔、札幌川と呼ばれた豊平川本流の直接の水源でない事を不審としているが、山の名が水源と目されての命名は無いことではない。大雪山が昔、「石狩山」「石狩岳」と呼ばれたのも石狩川の水源と目されての事であった。札幌岳は豊平川本流の水源ではないが、蝦蟇沢・冷水沢・滝ノ沢といった大きな豊平川の支流の水源ではある。札幌の平野部から見れば札幌岳の辺りから豊平川が流れてきているように見える。豊平川本流の水源となる小漁山から札幌岳に至る山並みはほぼ同じ高さの山が並ぶ一つの山塊であり、その最前列で最も目立つ三角形の山が札幌岳の名を受けても何の不思議も無い。松浦武四郎の記録に現在の札幌岳の山容での「サッホロノホリ」などのスケッチが見られる。

 札幌の街の名は豊平川を指した sat-poro-pet が語源と言われる。松浦武四郎が安政4年に「干潟多き処と云儀也。サツは干る、ホロは多し」と書き、明治2年には「サツテクホロの儀。サツテクは乾キタル事。ホロは多く、大キク等也。乾キ上ガリタル所多キ義也。此川急流にして洪水の節も早く乾く故に号しと。訳に大乾たる儀」とし、永田方正が明治24年に「サッポロ(Sat poro)乾燥広大ノ意 大陸ト訳ス 河海ノ跡乾燥シテ広大ノ陸地トナリタルヲ云フナリ」とし、山田秀三(1984)が「サッ・ポロ・ペッ(sat-poro-pet 乾く・大きい・川)くらいに解するの自然なような気がする。札幌川(豊平川が峡谷を出て札幌扇状地(今の市街地)で急に広がり乱流し、乾季には乾いた広い砂利河原ができる姿を呼んだのではあるまいか」としているが、自動詞の名詞的用法と考えるとして poro で終わっている川の例を他に見ない。poro[大きいこと]と言う川だとしても、それが sat[乾いている]で修飾されていると言うことは無印や別の修飾を受ける poro という川がありそうだが、そういう川の名も豊平川周辺で見ない。乾いている扇状地上の部分と水が多くなって大きくなっている部分があるという解釈もどこかで読んだが、夏場の豊平川の扇状地上でもそれなりに水量はあるように見える。

 サッポロとはアイヌ語の〔sat tu〕oro[乾いた・峰・の所]のように聞こえる。川の名には目印として合流点付近の特徴を言ったものがあるということは、さっぽろ文庫の札幌地名考(1977)でも指摘され、そうした観点からのサッポロの語源として、川(pet)の湿地(sari)が大きい(poro)事を指すサリポロペッ説が挙げられているが、サリポロに繋がる音の記録が古くに見られないとしている。また、サッポロは豊平川を指したようなのに川を指すアイヌ語である petnay が付かない記録ばかりであるとも指摘しているが、サッポロが地域の名で無く元は川の名で〔sat tu〕oro[乾いた・峰・の所]と考えれば、サッポロの音から離れない。山田秀三(1984)は「サッポロ・ブト(札幌川の・河口)」というアイヌ語の地名を茨戸の古老らは知っていたと伝える。東海参譚の文化3(1806)年の「サツポロベツ」といった旧記もないわけではないのだが、サッポロはそれだけで川の名だったのだろう。

 昔のサッポロブト=札幌川の河口は現在の篠路川の石狩川の旧河道である茨戸川への落ち口であった。篠路川は伏籠川の旧河道でフシコはアイヌ語の husko[古い]で、古い豊平川であることを言ったものである。江戸時代の氾濫で下流の河道が変わり、伏籠川は豊平川の本流ではなくなった。更に伏籠川は河川改修されて旧石狩川でなく発寒川に落ちるようになり、古い伏籠川は篠路川となった。安政4年に石狩川を遡行した松浦武四郎はハツシヤブフトとサツホロブトを「並びて」と言う言葉で結んでいて今の発寒川河口と篠路川河口の約600mの近接した距離を思わせるが、文化4年の山崎半蔵の日誌ではサッホロ川とハッサフ川の間が「一里許」(約4km)となっている。発寒川河口から約3km上流のペケレット湖がサッポロの河道だった事も考えられるのか。ペケレット湖の対岸には紅葉山砂丘の延長の生振の丘があり、現在の石狩川新河道の右岸まで点々と僅かに標高の高い砂丘の跡が続いている。この砂丘列の先端の所で石狩川に合流する川であることを言った sapa oro[先端・の所]ではなかったかとも考えてみたが、何の先端かと言うことが不明瞭で、撥音の「ッ」が入る「サッポロ」や、古いツが撥音ではなさそうな「沙津保呂」とある記録を説明できない。

文献名 西暦 表記
津軽一統志 1670 さつほろ
元禄松前島郷帳 1700 しやつほろ
石狩山伐木図 1751-63 さつほろ
天保松前島郷帳 1834 サツホロ
天保松前島絵図 1834 サツポロ
山田秀三(1965)に挙げられた
古い札幌の表記(抜粋)

文献名 西暦 表記
支配所持名前 1700 沙津保呂
支配所持名前 1727 しゃっほろ
遠山村垣西蝦夷日記
国会図書館本
1806 サッホロ
山崎半蔵日誌 1807 サッホロ
西蝦夷地日記 1807 さっほろ/サッポロ
札幌地名考(さっぽろ文庫)に
挙げられた古い札幌の表記(抜粋)

文献名 西暦 表記
蝦夷草紙別録 1786 サツポロ
寛文拾年狄蜂起集書
松前より上狄地迄所付
1789 さつぽろ
遠山村垣西蝦夷日記
犀川会資料本
1806 サッポロ
半濁点のある記録の早い例

札幌川と発寒川の流路

 旧石狩川は河口から、手稲の山地から当別の山地へ一筋に結ぶ古石狩湾の浜堤の中で最も顕著な紅葉山砂丘の峰を発寒河口の手前で破り、旧発寒河口からペケレット湖に掛けて紅葉山砂丘の裏側に平行し、生振の丘の辺りから再び石狩平野の奥に向きを変えて進む。札幌川が旧石狩川に注ぐのが篠路川河口ででもペケレット湖ででも、紅葉山砂丘を sat tu と呼ぶならば、札幌川を〔sat tu〕oro とは呼べると思う。だが、砂丘はアイヌ語では hunki などとされる。tu と呼ぶには紅葉山砂丘の峰は低い感じがする。手稲側は「砂山」と呼ばれ、縦横に歩くわけにはいかない沼沢地の中に連なる、通路として歩きやすく生活もしやすい細長い乾いた砂丘ではあったが、木々がそれなりに繁茂して砂漠のように「乾いた」と言う雰囲気でも無い。tu の「峰」としての意味は知里真志保の地名アイヌ語小辞典に「岬」の意味と共にあるが、20世紀末に発行された新しいアイヌ語辞典には無い。アイヌ語沙流方言辞典に名詞語根として「(糸の)一本」と言う訳があるが、一本連なる「峰」の意味に関係があるのかどうか分からない。

 サッポロは江戸時代は単に音だけからの付会で「干潟が大きい」などと言われていたが、明治になって地理学の概念が普及して「扇状地」というものが知られるようになり、札幌の新しい市街地がその扇状地の上であり、扇状地の扇央では水量が減ることが多いらしいということをアイヌ語の sat[乾く]に付会して、更に豊平川扇状地の扇央がほどほどに広かったのをアイヌ語の poro[大きい]に付会したのではなかったか。古い記録には見られないが昭和5年以降にアイヌの人たちが語ったことがはっきりしていると言う古記に見られないサリポロ説は、sat-poro-pet 説の命名点がサッポロの名を受けて市街地の広がり始めていた豊平川の中流域の扇状地の扇央を思わせるのに対して、それが和人側から言われる中でサッポロ発祥の地は、広大には乾くはずの無い旧豊平川下流域の湿原地帯にあったという、アイヌの人たちの意識による揺り戻しではなかったか。石狩川を河口から遡って、紅葉山砂丘の所を過ぎれば、札幌川の落ち口があり、広大な石狩平野の湿地が広がっていた。札幌地名考(1977)は津軽一統志の記述から「さつほろ」とはその川が石狩川に注ぐ所と、山田秀三(1984)も昔サツホロとかシヤツホロと書かれたのは旧札幌川(篠路川)の河口であろうと指摘している。川の名は落ち口付近の特徴が識別の対象として名付けられる事が多いのは札幌地名考の指摘の通りである。

 〔sat tu〕oro がサッポロとなった理由が「訛りか」としか自分には付けられない。紅葉山砂丘を sat tu とする記録や離水浜堤の砂丘を sat tu とする類例も挙げられない。同種子音が続くとその一つが追い出されることがあるとは知里真志保の「アイヌ語入門」にある。半濁点の普及と同時代的で、また、日本語に訛りの理由を求めていると言う点、ある程度文字的に意識されての変化を考えている点、比較する文献の数が少ない点で説得力を欠くが、半濁点の無い「さつほろ」「しやつほろ」という表記が「さつぽろ」に100年ほど先行しているのは、sattuoro(サットゥオロ)或いはその約まった satuoro(サトゥオロ)/satworo(サッヲロ)を半濁点の無い satforo/syatforo のつもりで書かれたものではなかったかと考えてみる(当時は日本語のホが fo から ho に遷り始めている頃)。

 場所請負・伐木などで石狩川下流域に入った和人の口で、sattuoro/satuoro なら日本語の母音の連続を嫌う傾向で uo の音を、satworo なら江戸時代にオ・ヲが wo から o となることで日本語の音韻から消えていた wo の音を、近い音のホ(fo 或いは ho)で捉えたサツホロ satforo/sathoro(サッホロ)となり、日本語で漢語由来の「出シュツ」と「発ハツ」で「出発シュッパツ」のように、入声の語尾 t +ハ行音で、促音+パ行音となる要領で更に sapporo(サッポロ)となり、古い地名なので原義を意識しなくなっており、場所請負人によって他の地方から集められた新しい住人もいたアイヌ語の側でも語呂の良さゆえに p の音を取り込んだかと考えてみた。

 山田秀三(1965)は札幌の発音を「稀にサチポロの音も聞かれる。以前はサトホロ或はサトポロと呼ぶ人が多かった。」としている。アイヌ語沙流方言での地名「札幌」の発音は satporo である。アイヌ語の音節末のt が日本語に入って「チ」となるのは matne sir のマチネシリのような例がある。日本語では開音節が基本だが、tsu になることで室町時代末までに日本語から消えていた「tu トゥ」の音を含み、その後ろに u の音に近い o が続く satuoro を日本語の感覚で発音すると、sa-tu-o-ro ではなく sat-uo-ro、sat-wo-ro となってしまう感じが自分はするが、どうだろうか。更に tu の音を仮名で「ツ゜」より「トゥ」と表記したいような感覚が先に立つと、「サ・トゥ・オ・ロ」が「サ・ト・ゥオ(フォ)・ロ」となってしまう感じもするが、どうだろうか。h に近い音で p の音にならなかったサトホロという札幌の「ポ」も残っていたのではなかったかと考えてみた。

 地形から〔sat tu〕oro かとは考えてみたものの、紅葉山砂丘は周囲の湿地に比べれば乾燥しているのだが植生に覆われて河原のようにひどく乾燥しているようには見えない。紅葉山砂丘を単に地形として一筋の尾根と見なして、ウッであったがワッツになったとされる輪厚のように、situ oro[尾根・の所]の訛音としてのシャトゥオロであったかと考えてみた。だが、アイヌ語の側で和人の発音を取り入れたという想定は苦しいと思う。

 紅葉山砂丘の一筋の尾根は旧石狩川左岸側ははっきりしているが、右岸側はあまりはっきりしていない。situ は左岸側の砂丘の筋だけを指し、砂丘の筋の少しだけ上流側の札幌川河口の辺りを situ pe[尾根・の上手]と呼び、そこに注いでいる川筋と言うことを〔situ pe〕oro[尾根・の上手・の所(川)]と言ったと考えると、母音の連続で一つが落ちることで e-o が o となり、他に i が a に訛り、アクセントのない tu が t に約まるとすると、satporo の音に situ oro 〔sat tu〕oro より近い気がする。situ なら植生に覆われて一見乾いているように見えない尾根の筋でも地形は表現しうる。山田秀三(1965)の挙げた三つの音は、サチポロとサトポロがアイヌ語由来で、サトホロは札幌の文字から入った和人由来の音かと考えてみる。

 後半を長形の oro としたのは、松浦武四郎の山の名の記録で「サッホンノホリ」となっていないからである。

その2に続く)

参考文献
滝本幸夫,札幌岳,新日本山岳誌,日本山岳会,ナカニシヤ出版,2005.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集3 辰手控,北海道出版企画センター,2001.
山田秀三,北海道の地名,北海道新聞社,1984.
松浦武四郎,秋葉實,丁巳 東西蝦夷山川地理取調日誌 上,北海道出版企画センター,1982.
松浦武四郎,蝦夷地道名国名郡名之儀申上候書付,アイヌ語地名資料集成,佐々木利和,山田秀三,草風館,1988.
永田方正,初版 北海道蝦夷語地名解,草風館,1984.
田村すず子,アイヌ語沙流方言辞典,草風館,1996.
札幌市教育委員会文化資料室,札幌地名考(さっぽろ文庫1),更科源蔵,北海道新聞社,1977.
東寗元稹,東海参譚,日本庶民生活史料集成4 探検・紀行・地誌(北辺篇),高倉新一郎,三一書房,1969.
山崎半蔵,吉原裕,宗谷詰合山崎半蔵日誌,吉原裕,2009.
知里真志保,アイヌ語入門,北海道出版企画センター,2004.
知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1992.
山田秀三,札幌のアイヌ地名を尋ねて,アイヌ語地名の研究(山田秀三著作集) 第4巻,山田秀三,草風館,1983.
橋本進吉,古代国語の音韻に就いて 他二篇(岩波文庫33-151-1),岩波書店,1980.
松浦武四郎,高倉新一郎,竹四郎廻浦日記 下,北海道出版企画センター,1978.
最上徳内,須藤十郎,蝦夷草紙,MBC21,1994.
則田安右衛門,寛文拾年狄蜂起集書,日本庶民生活史料集成4 探検・紀行・地誌(北辺篇),高倉新一郎,三一書房,1969.
遠山景晋・村垣定行,遠山村垣西蝦夷日誌,犀川会資料,高倉新一郎,北海道出版企画センター,1982.



トップページへ

 資料室へ 

 山名考へ 
(2013年3月31日上梓 2016年10月3日その1とその2に分割 2017年7月27日改訂 10月5日改訂 2022年9月27日改訂)