ポンネアンチシ山 余別岳付近から |
山名考
ポンネアンチシ山
積丹町史(1985)ではポンネが「楢」、アンチシが「峠」で、「楢の木の繁茂している峠」であるとしている。しかし、ポンネでは楢の木の意味もなさそうだし、アンチシで峠の意味も取れない。〔pon ni〕 e- an cis[小さい・木・そこに・ある・中窪み]で、風衝で矮性化したミヤマハンノキやダケカンバを pon ni として楢で代表させ、cis が窪みであるから峠としたものであろうか。しかし峠を指すアイヌ語は ru-cis[路の・中央のくぼみ]や、ok-cis[うなじ・中くぼみ]とされ、cis だけで峠を指しうるのか疑問が残る。また、上に挙げた樹種は、この辺りの山ならどこにでも見られるので、この名前が地形の識別の役に立つとは思えない。アイヌ語の植物関係の辞典を引いてもトンニなら楢系の樹木の名前とあるが、pon ni では楢も載っていないし、項目もない。
榊原正文(1997)は pon ne anci us i[小さい・ような・黒曜石・群在する・もの(川)]としてポネアン川(=我呂の沢)の名とする。流域の岩石は地質図では輝石安山岩となっていて黒曜石が含まれることは考えられないわけではない。下流部ゴルジュの岩は黒っぽくツルツルで斑晶もなく輝石安山岩ではなくドロドロと流れた溶岩そのものでないかという気がしたが、中上流域の岩は大きな白い斑晶を含み、黒曜石は歩いた限りでは見つからなかったが、地質に素人ながら安山岩ではないかという印象は受けた。火山灰が積もって粘土になった部分もあり、大きく火山の影響を受けているのは確かである。
しかし、文法的に動詞である pon[小さくある]と ne[である]が並ぶのか疑問である。自動詞 pon の名詞的用法で、pon ne anci(/anci us -i)「小さいことである黒曜石(/黒曜石がついているもの)」は文法的に成り立ちそうだが意味がよく分からない。なぜ ne が挟まっているのかを置くとしても、「小さい黒曜石」では石器に加工出来ないだろう。「小さい、黒曜石産出地」ではすぐに資源が尽きてしまう。また、地質に詳しくないとはいえ、道内の黒曜石の産地と言われる他の場所(白滝・十勝三股)では簡単に黒曜石を見つけることの出来た自分が「産地」であり、深い山奥で狩猟時代以降それほど人が入っていない我呂の沢中上流域で黒曜石や、それに類する鏃などの原料になりそうな石を一つも目にしなかったと言うのは、個人的な体験とはいえ釈然としないものが残る。名前をつけて識別するほど産出するなら音更川(十勝三股の下流)のように中下流部でも川に幾らか流れてきているのではないかと思う。
美国川本流を榊原正文(1997)は松浦武四郎の安政3(1856)年の蝦夷地調査の復命書「竹四郎廻浦日記」に聞き書きで美国川上流の地名として登場するホロナイ、東西蝦夷山川地理取調図の草稿とされる川筋取調図にあるポロナイ poro nay[大きな・川]としている。フィールドノートである辰手控では「ホロナイ 左り小川」と書かれている。川筋取調図ではポロナイは美国川の最上流の右岸支流として描かれているが、その本流にはシユンクウシビクニの名が付されている。榊原正文(1997)はこのシユンクウシビクニを、西蝦夷日誌に「・・・右シユンクシベツ(源シヤコタン岳に至る)」とあることから我呂の沢として、sunku us 〔美国川〕[エゾマツ・群在する・美国川]もしくは sum kus 〔美国川〕[西・を通る・美国川]ではないかとしている。特に我呂ノ沢中上流域にエゾマツが多かったと言う印象はなかった。近代以降の林業が大規模になされたような雰囲気もなかった。2008年に我呂の沢下流部を歩いた限りでもエゾマツが多い印象は受けなかった。後者が妥当ではないかと言う気がする。ただ、脚色が入るとされる西蝦夷日誌を論拠としてどこまで信用してよいのかについては疑問が残る。西蝦夷日誌の元になっている竹四郎廻浦日記ではシユンクシベツ・シユンクウシビクニに相当する地名としてシユムシリハンヒクニが聞き書きの中に挙げられているが、この川だけについての水源は語られず、「其水は即フルウ岳より多く落来るよし」と、美国川上流一帯の川が積丹半島の西側の古宇の名を受けた山から来ているように書かれている。川筋取調図でも山名は記されていない。しかし sum kus 〔美国川〕なら美国川最大の支流で、本流の西側を流れる大支流の我呂の沢がシュンクシベッやシュンクシビクニの名を持っていたと考えられそうに思う。竹四郎廻浦日記の「フルウ岳より」とは我呂の沢だけでなく、美国川上流の川の多くがフルウ岳付近から来ていると言いたかったのではなかったか。辰手控では積丹岳やフルウ岳といった記述は見られず、「カヤノ澗カチへ行によろしかるべし」とあった。
辰手控で、ホロナイが「左り小川」と書かれていることから、美国川本流をポロナイとみなすには疑問も残るが、美国川上流に「ポロナイ」があったことは確かであろう。「ポンネアンチシ」の初見かと思われる明治23(1890)年の北海道実測切図「積丹」図幅では現在の我呂の沢(ポネアン川)に「ポン子アンチシ川」と、現在のポンネアンチシ山を指して「ポン子アンチシ山」と振られている。美国川の最も大きな支流である我呂の沢は、そうした文献は見ていないが、ポロナイと対になるポンナィ pon nay[小さな・川]であり、ポンネアンチシとは沢や山を指しているのではなく、〔pon nay〕 e- an cis[ポンナィ・そこに・ある・くぼみ]で我呂の沢源頭の地すべりによる、積丹岳・余別岳・ポンネアンチシ山に囲まれたくぼみ/大カール状地形を指していたのではないかと考えてみた。地形図でもある程度は分かるが、実際に山上で見るととても分かりやすい窪みの地形である。谷としてのポンナイの名が水流としてのシユンクシベツ/シユンクウシビクニの別名と考えた。我路の沢は美国川の大支流で水量は本流と同程度あるが、美国川本流の谷をポロナイ(大きな谷)と見るならば、吐合はかなり狭い小さな谷筋である。
鞍部の凹みを上下二次元の cis として見る気がするが、千歳川筋のウコツシネ(ウコッチシネヒ/ウコチシネヘ)は横に凹んだもの同士が向き合っている。札幌の石山陸橋の所はヲコツシ子イの記録があり、アイヌの人によって「両方より川が来り、今少しよらば切合ニよって号る也」と説明された同様の地形である。ポンネアンチシの大カール状地形もウコツシネやヲコツシ子イと同じタイプの横に凹んでいるものとしてポンネアンチシ山から積丹岳の稜線に着目したと考える。cis はくびれであって、下にくびれることもあれば上にくびれることもあり、上にくびれると「立岩」の意となるともどこかで聞いた。大カール状地形をcisと捉えて良いように思われる。
ポンネアンチシの主に後半の音と実際の地形から考えてみたが、吐合が小さめとはいえ集水域の広い大支流である我呂の沢をポンナィ pon nay[小さい・沢]と呼ぶのはおかしな気もする。胆振の穂別の語源の説の一つとしてあったように、そこそこ大きな谷でも右股と左股で小さい方を pon nay(/pet)、大きい方を poro nay(/pet) のように呼ぶ事があったと考えて良いのか。pon nay の存在を直接示す資料も見ていない。まだ考える必要がある。
竹四郎廻浦日記には積丹半島西側ののサン子ナイ/サ子ナイ(珊内)について、「此辺よりシヤコタン川すじえこゆるによろしと。夷人等は毎年冬道を一日にこへ来ると。」とある。積丹川すじから珊内に冬に山越えで来るには、積丹岳から珊内岳まで稜線を辿るしかない。積丹岳の冬期ルートとしては伊佐内川の東の東尾根と、西の北尾根が知られている。積丹岳からポンネアンチシ山に掛けての稜線の東側に広がる大カール状地形の縁が珊内への入口である、パンネアンチシ par ne an cis[口・として・ある・くぼみ]の転訛が、ポンネアンチシではなかったかと考えてみる。ポンナイェアンチシより音が近い気がする。シンプルに par ne cis とならない訳は分からない。口にしては積丹岳まで登って、ある程度入り込んだ場所のような気もする。
この底が平らなくぼみの縁は片側が崩れた火山の火口を思わせる。アイヌ語では時制による変化はないので、par ne an cis[口(火口)・として・あった・くぼみ]かと考えてもみる。だが、渡島駒ヶ岳のアイヌ語の名のエパロヌプリの解釈や、火口に特徴のある国後島の爺々岳の名が par/car[口]を含んでいそうなことを思い出してみるが、「火口だったのだろう」といった推測が地名となるのか、難しいような気がする。
・美国
美国川は榊原正文(1997)によって pikew un i[小粒の石・ある・もの]として最下流部の水量が小石に隠れて伏流気味に少なくなっていることをあげて説明されている。国道の橋から見て最下流部は中上流域より水が少なくなっているように見える川であるとは感じた。河口付近の河床は確かに小石ばかりであった。また、我呂の沢の我呂(ガロ)とは日本語でゴルジュ地形のことを指してのガロウということで、我呂の沢の下流部ゴルジュを指しているのだろう。
・フルウ岳
竹四郎廻浦日記で出てきたフルウ岳は、古宇川源頭の最高地点であるポンネアンチシ山とみなすのが妥当ではないかと考える。
二ノ俣沢から下流の自分が通った我呂の沢の一本北側の小沢は「無沢」と北海道河川一覧に書いてあった。当初は「名無沢」の誤植かと考えていたが、渡島の七飯の国道5号線の大沼峠の旧道が古くより無沢峠と呼ばれていたことを知り、考え直している。標津や釧路の武佐と同じか。山田秀三(1984)は武佐をアイヌの語のモサ/モセ/ムセ、「いらくさ」の意だったのかもしれないとしているが、植物の名であるイラクサが、そのままそれだけで地名になるとは考えにくい。が、対案は思いつかない。
参考文献
積丹町史編さん委員会,積丹町史,積丹町,1985.
知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1992.
川村正一,アイヌ語の動植物探集,文泉堂,2005.
榊原正文,データベースアイヌ語地名1 後志,北海道出版企画センター,1997.
20万分1地質図「岩内」図幅,地質調査所,1991.
松浦武四郎,高倉新一郎,竹四郎廻浦日記 上,北海道出版企画センター,1978.
松浦武四郎,秋葉實,武四郎蝦夷地紀行,北海道出版企画センター,1988.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集3 辰手控,北海道出版企画センター,2001.
北海道庁地理課,北海道実測切図「積丹」図幅,北海道庁,1890.
5万分1地質図「余別および積丹岬」図幅,北海道立地下資源調査所,1979.
松浦武四郎,秋葉實,丁巳 東西蝦夷山川地理取調日誌 下,北海道出版企画センター,1982.
長見義三,ちとせ地名散歩,北海道新聞社,1976.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集5 午手控1,北海道出版企画センター,2007.
北海道の山と谷再刊委員会,北海道の山と谷 上,北海道撮影社,1998.
田村すず子,アイヌ語沙流方言辞典,草風館,1996.
北海道土木協会,北海道河川一覧 河川図編,北海道土木部河川課,北海道土木協会,1984.
山田秀三,北海道の地名,北海道新聞社,1984.
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