木曽の桟 上の山道 資料について
老の木曽越・東国陣道記・前田慶次道中日記・木曽記・木曽路名所図会

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 「老の木曽越」は細川幽斎晩年の木曽路の紀行とされるが、どうも疑わしい。細川幽斎かどうかを措くとしても、昔の文化人の振りをして書かれた偽書の類でないかと思う。

 まず、古今伝授を受けた一流の文化人の作にしては歴史的仮名遣いの誤用が多い。伝本の一つである彰考館本には朱校が施されており、書き間違いを添削された作文のようである。

 上松南方の小野ノ滝が立派なのになぜ歌枕から漏れているのかという老の木曽越の疑問は、古代の東山道/木曽路が神坂峠を越えて伊那谷に入り、神坂峠の道沿いに園原のような歌枕があることを知っていれば、出てこない疑問のように思われる。中山道以前と言われる、木曽川に沿った園原旧富が寛政頃にまとめたと見られる木曽古道記で推定する木曽古道も上松付近は駒ヶ岳山麓の山間に入って木曽川縁から離れるので小野ノ滝の前を通らない。木曽古道記は「木曽義在天文年間福島へ館を徒されけるの節より、今道開け古道筋ならねは誰も知らざるならん」と、老の木曽越の小野ノ滝などが名所でないことの疑問がおかしいことを指摘している。但し、天文年間(1532-55)の木曽義在の新道開削の記録は見ていない。木曽古道記の新道の推定は木曽氏と武田信玄の攻防で木曽氏の居城が須原から福島に移ったことによる。木曽福島城を築いたら波計桟道も連絡に必須である。それまで福島と上松の間に道が皆無であったと言うことは無いはずだが、軍事上の理由から天文の頃までに勾配が小さく距離も短い波計桟道の整備が進んだというのはあながち誤りでも無いように思われる。西筑摩郡誌は木曽義在の人物誌で義在の七世祖の木曽家親とその子親豊が「須原福島間の道路を通じ波計桟道を架す」としているが、そんな園原旧富も知らなかった古い記録があるのか、根拠が分からない。

 老の木曽越の成立年代に複数の見方があり、細川家記の綿考輯録を記した小野景湛は細川幽斎が豊臣秀吉の天正18(1590)年の北条征伐小田原の陣以外に関東に出向いた記録がないので、小田原の陣の帰路か、記録にないが強いて考えれば徳川家康か徳川秀忠の将軍宣下の時(慶長8(1603)年、慶長10(1605)年)かと推測している。小田原の陣からの帰りの細川幽斎の記録とされる「東国陣道記」があるが、老の木曽越と東国陣道記は木曽に入るまでのルートと行程の月日が異なるので、東国陣道記が正確ならば老の木曽越が小田原の陣の帰路の紀行と言うことはありえない。老の木曽越と東国陣道記を通読すればルートと月日が異なるのはすぐに分かるので、綿考輯録で様々な記録に対して考察し、東国陣道記を引用している小野景湛は綿考輯録執筆時には貝原益軒の木曽路記に出てくる老の木曽越のごく一部の引用で老の木曽越を知っただけで、老の木曽越全体は見ていなかったようである。

 中津川市史(1988)は、老の木曽越を幽斎が法印となった天正13(1585)年から九州遠征の前の天正14(1586)年の紀行ではないかとしている。だが、天正18(1590)年の小田原の陣の紀行の東国陣道記で初めて富士山を見たと記されていたり、耳底記に「関東御陣の時、富士にて歌をよまんと思」って準備したとあったり、古歌を実際の富士山の姿と合わせて考察したりしているのに、老の木曽越でも諏訪湖で富士山を見ていることが記されているのは天正13-14年と考えると矛盾する。また、綿考輯録は紀行名を「老」の木曽越としているのは東国陣道記を前の木曽越として、それより歳を取った後だからでないかと推測している。老の木曽越を通読すると、亡くなった友人を数えるとか、近年は少し世の中が良くなったとか、相当な老境や江戸時代の安定期に入りつつあることを思わせる記述がある。老の木曽越が東国陣道記の小田原の陣の天正18年より前と言うことは考えにくいのでないか。

桟から北の木曽川
桟から木曽川の
川上方を見る
桟から南の木曽川
桟から木曽川の
川下方を見る
高い西日なら川下に映る

 東国陣道記にも怪しい所がある。都の方に帰りつつあるのに福島に日の高い内に着いて興禅寺の僧と話した「明けがたに、木曽のかけはしを渡」ったのは落丁があったのかもしれないが、木曽のかけはしを「渡りてのぼりけるに、月の河上にうつりて」いるのを見るのは「かけはし」が急斜面に渡した桟道ではなく、川面の上を濡れずに越える左右の岸の間を渡す太鼓型の橋と捉えていたとしか考えにくい。桟道の一部としての太鼓型の橋だったとしても、桟の直下の木曽川はトロ場になっているので水面に何かが映ることは考えられるが、桟付近で北から南へ流れている狭い山間の木曽川に「月の河上にうつりてすさまじき」と北の空に月が浮かぶということになるのは、どうも実際に歩いて記したとは思えない所である。

 老の木曽越の題の下に「細川玄旨法印著、見貝原篤信木曽路記」と割書があり、貝原益軒の貞享2(1685)年の記録で木曽路記の原稿となる東路記に「細川玄旨の老の木曽越といふ紀行に、『木曽路、小野の滝と云は、布引、箕の面などにもおさおさおとりやはする。是ほどの物の此国の歌枕には、いかにもらしたるにや』とかけり。」と、老の木曽越を引用しており、貝原益軒は老の木曽越を細川幽斎の作と見ていたようである。だが、貝原益軒が説得力のある根拠で細川幽斎の作と見たのかを示していない以上、東路記にあるというだけで老の木曽越を細川幽斎の作と、15年求め続けてやっと見つけた大田南畝(杏花園)のように受け入れることは出来ない。慶長5年の関ヶ原の戦いに宇都宮から向かうのに福島で泊まった徳川秀忠が、或いは小牧長久手の戦いでの徳川勢の移動との混同か、伊那郡を通り清内路峠から妻籠に入ったという誰かに聞いたらしい話や、神坂峠が木曽の御坂であることを知らなかったと思わせる馬籠峠の坂を「此間の坂、木曾の御坂なり」とするのは、50代の老境に入りつつある学者として知られる人でも専門外のことでは誤認をそのまま記すことがあるという例でないかと思う。合渡(神戸)は「御たけ川と本谷の川と行合所なれば、合渡と名づく」とあるのも地名を字音字義解釈したもので安直な誤解だろう。尤も、秀忠の件は東路記から刊本の木曽路記にされる時に削除されたようである。

 慶長6(1601)年の紀行とされる前田慶次道中日記に、前に見た時は丸木などを渡してあって毎年大水で流れたりして梅雨時には通れなくなったりしていたのが豊臣秀吉の馬宿改めで桟が立派に広く通りやすくなったとあるが、これも怪しい。桟は秀吉の死んだ慶長3年に不通となっていたが、慶長4年夏から工事を始めて慶長5年夏に復旧したと当代記にある。両岸切り立った谷底に流れるとはいえ大河の木曽川に幅十間(約18m)で川の面を筋交いに渡し、長さ百八十間(約327m)などというのも想像逞し過ぎるように思われる。信府統記では波計の桟は長さ十間で前後に六十四五間程欄干を付けてあり慶安元(1648)年に石垣を築いて長さを十間に縮め幅二間二尺(約4.3m)とすると山村氏(木曽福島の代官家)の証文にあるとし、その前は長さ五十六間で幅三間四尺(約6.7m)の岨橋とある。欄干の要らない所まで桟敷を広げる必要は無いだろう。幕末近い安政頃の作成の中山道宿村大概帳にある木曽の桟の幅は1丈2尺(約3.6m)で、近くの中山道の橋の幅も2〜3mである。東国へ北に向かっているのに神戸御嶽鳥居、桟、寝覚の床と北の方から見所が登場するのも怪しい。木曽路を訪れたことのない人が作ったのでないか。

 木曽路中の名所の登場順序がおかしい本は他にもあって、元和(1615-23)頃の成立かとされる竹中重門が作者とされたことのある木曽記も江戸から美濃に向かっているのに「ね覚の床」が先に出て、後に「かけはし」を渡っている。木曽記も関ヶ原の戦いに参加した美濃の出で安土桃山時代を生きた武将の竹中重門が書いたと見るには、徳川将軍家から木曽の木材を頼まれたとされる時期が用材奉行を命ぜられた年と一致せず、徳川家康と石田三成が長良川を挟んで戦ったことになっていたり、犬山と向かい合う要衝で城のあった美濃の鵜沼をよく知らないように書いていたり、世代の重なる武田勝頼が説話の悪役のような一面的な扱いで大掛かりな城跡に気付いても地元の人に聞くまでそれが新府城と気付かなかったりと怪しげである。明確には言えないのだが木曽記は、土佐日記のような平安風の体の様式美を追求して個性をどこかに置き忘れて軽くなってしまった紀行文のように感じられ、老の木曽越や前田慶次道中日記も似た雰囲気なのが気になる。

 耳底記に記される細川幽斎の歌道への思いの発言は現代の求道者の発言と何ら変わるものが無い。綿考輯録の老の木曽越の考察で収められる細川幽斎の書状の文の多少の遊び心は人間的である。耳底記や綿考輯録を見ると、本心が抜かれているかのような読後感の老の木曽越を細川幽斎が書いただろうかとの疑念が湧く。古歌の一音節もおろそかにしない耳底記の細川幽斎が自歌の歴史的仮名遣いまでも誤っていることになる老の木曽越を記しただろうかと思う。

 桟の景観の感動を筆が滑っていると言われても仕方のないほどに饒舌に記す藤波の記や、古風を継ぎながらも見慣れぬ鄙を好意的に観察する烏丸光栄の東紀行を読むと、情報としてならより古いとされる紀行に注目したくなるけれど、読みたかったのは本心が顕れている紀行だったと思う。

 文化2(1805)年の木曽路名所図会の「むかしは上の山に街道ありて桟道には鎖にてつなぎわたせし也」の中に、老の木曽越の推測にない「鎖」が加わっているのは、寛政(1789-1801)頃の木曽古道記にある上松の南の荻原の桟沢の十町余り奥に「是木曽開通始の桟なり。寛文年中まで、谷の西岸に鎖掛りて縄の如くに見えたるとぞ」とあるのを上松の北の波斗/波計(はばかり)の桟に援用して創作された記述のように思われる。

 実踏していると思えない木曽路の文章を書いた意図は何なのか。土佐日記などに倣った文芸作品としての戯作だったのが流出して、戯作であったことが不明となっていたのでないのか。

小野の滝
小野ノ滝
箕面の滝
箕面大滝
布引の滝
布引雄滝
老の木曽越にある
小野の滝と云は、布引、箕の面などにもおさおさおとりやはする。
も、実際に見比べると小野ノ滝が一回り小ぶりなのは否めない。
尤も、上流で取水され、頭上に中央線の鉄橋がある今の姿での
比較はフェアでないかもしれない。一回り小ぶりなのに
おさおさおとりやはする」とあるのは小野ノ滝を実際に
見ていないからだなどというつもりはないが、
誰かの気持ちの発露とは素直に読めない。

参考文献
玄旨法印道之記,新編 信濃史料叢書 第10巻,信濃史料刊行会,信濃史料刊行会,1974.
前田慶次道中日記,新編 信濃史料叢書 第10巻,信濃史料刊行会,信濃史料刊行会,1974.
史籍雑纂 當代記 駿府記,続群書類従完成会,1995.
北村詳子,翻刻「老の木曽越」,pp67-85,24,相模女子大学紀要,相模女子大学,1966.
薗原旧富,木曽古道記,大日本地誌大系 第14冊 諸国叢書 木曽之2,日本歴史地理学会,大日本地誌大系刊行会,1917.
長野県西筑摩郡,西筑摩郡誌,長野県西筑摩郡,1915.
鈴木重武・三井弘篤,信府統記 上,新編 信濃史料叢書 第5巻,信濃史料叢書刊行会,1973.
小野景湛,石田晴男・今谷明・土田将雄,綿考輯録 第1巻(出水叢書1),出水神社,1988.
塙保己一,東国陣道記,新校 群書類従 第15巻 紀行部2,名著普及会,1977.
貝原益軒,木曽路之記,益軒全集 巻之七,益軒会,国書刊行会,1973.
中津川市,中津川市史 中巻2,中津川市,1988.
耳底記,日本歌学大系 第6巻,佐佐木信綱,風間書房,1979.
板坂耀子・宗政五十緒,東路記 己巳紀行 西遊記(新日本古典文学大系98),岩波書店,1991.
信濃史料刊行会,信濃史料 第18巻,信濃史料刊行会,1970.
児玉幸多,近世交通史料集5 中山道宿村大概帳,吉川弘文館,1971.
岐阜県古文書研究会,美濃国岩手竹中丹州旅行記,岐阜県古文書研究会,1995.
上野洋三,紀行『藤波の記』翻刻(上),pp19-60,59(2),日本文芸研究,関西学院大学日本文学会,2007.
烏丸光栄,東紀行,道の記集 巻1,磯野於菟介,中村積徳堂,1898.
秋里籬島,木曽路名所図会,大日本地誌大系 第12冊 諸国叢書 木曽之1,日本歴史地理学会,大日本地誌大系刊行会,1916.



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(2021年5月23日上梓 2023年1月22日URL変更)