木曽の桟 上の山道 実踏
(推定中山道正保四年暫定山越え道)

 木曽の桟(波計桟道)は上松町の万路(まんじ)と沓掛の集落の間にある。何度かに分けて入山して歩いたので、最終的に推定した正保4年の暫定山越えルートと、検討した周辺の道について記す。

別ページ等 ページ内ジャンプ(周辺の道)

地図1
地図2

・推定正保4年暫定道

 万路側から記す。木曽川縁の国道から車道を万路の集落の下を過ぎてJR中央本線の線路をくぐり登ると、車道は南の新茶屋の方へ延びている。車道が万路沢から離れる所で万路沢沿いの送電線保守路に入る。下流部だけ木曽の山間の小沢にしては広い谷筋の万路沢沿いに万路の昔の田畑の跡の植林地が広がっている。昔の道をそのまま使った送電線保守路が多数分岐していて踏み跡ははっきりしているものが多い。万路沢を丸木橋で渡って右岸に沿って太い路盤がある。南方への左岸に渡る送電線巡視路の橋を見るとその先で右岸沿いの道は路盤が万路沢の水流で流失しているが、越えるとまたはっきり残っている。更に右岸沿いを進むと田畑の跡の最奥(標高780m)の手前から、万路沢の左岸に渡って更に沢沿いに登る道と最奥の水田跡の山手側の畦道に上がる道が分岐している。

 最奥の水田跡の山手側の畦道は最奥の田一枚の西端から太いしっかりした道となり、先に見た南方への送電線巡視路の橋のすぐ上に繋がっているが、川岸に下りつくまでの2mほどの段差をつなぐ路盤が、流れてしまったのか見当たらない。また、畦道から太い道になる辺りのすぐ山手側に掘り込み道が下りてきているが、水田を広げて畦道を整えた時に末端を切ったようで、滑らかに路盤として繋がっていない。

 太い道から畦道になる所から山手側の掘り込み道に入る。すぐに後に造成されたのであろう古い林道のような路盤と交差する。これから上がる右岸の小尾根は尾根線上に送電線保守路があって、この掘り込み道は小尾根に上がるまでが使われていないので、林道のような路盤と交差してから藪が多く間伐材が詰まっている部分がある。

 小尾根に上がり、右折して尾根線上を登る。すぐに急勾配となる。掘り込みを左右に振って勾配を緩くしようとしているのが見えるが、送電線保守路の踏み跡は尾根線に忠実に急勾配をそのまま登っており、左右に振られた掘り込みは荒れている。標高880mを超えると左の斜面にトラバースで登っていく。感じの良い森の斜面である。920mで現存する木曽の桟の石積みの直上の尾根に出る。


万路沢渡渉

小尾根に上がる掘り込み道

小尾根に上がる所
間伐材が詰まっている

小尾根の上
右が古い道型

南斜面を
トラバース

後ろに中アルが見える
左から麦草、宝剣、三沢

 送電線保守路はここから尾根線に忠実に北上するが、急勾配で昔の道が通っていたとは考えにくい。尾根の西側にユリ道が北へ続いている。ユリ道は板敷野の上まで続いているのだが、桟城の980m標高点のコブの周りが送電線保守路から外れていて長らく手も足も入っていない雰囲気で、路盤が流れてかなり細くなっている。このユリ道に入って100mほどの谷間の道の横に炭釜の跡がある。谷間には細く水が流れており、深い落ち葉の下に柔らかい土の地面があり、谷間の上方は緩く開けている。この谷間に道があったが流れて失われたと考える。

 炭釜より先のユリ道沿いに古い標石が続いているので、ユリ道は昔の送電線保守路なのかもしれない。路盤が流れて細くなっている部分は足を滑らせたら木曽川まで転落しそうな急斜面につけられていて、980m標高点から西に延びる尾根を周る所は岩場で岩を削って路盤が作られており、7日で作られた江戸時代の大名行列が通るほどの道であったとは考えにくい。


ユリ道(北側から見る)

炭窯跡

ユリ道西端は
岩場

ユリ道西端から
かけはし大橋辺りを見下ろす

 炭釜から谷間を上ると小さな水源があり、水源より上では多少地面が固い。更に上るとすぐに稜線に出る。稜線には送電線保守路があり、明瞭な踏み跡となっている。980mの標高点に上がる尾根線上に道型は無く、北西側の稜線上にある送電線鉄塔に向かって道型があるが、鉄塔までの半分ほどの所で不明瞭となる。先の水源の谷の谷頭から980m標高点までの北半分の稜線の僅かに東側に道型があり、半分の所で尾根線に出てそこから南側に道型が見当たらない。鉄塔までの半分の所から斜面で尾根線の半分の所に繋がっていたが路盤は流れたと考える。

 980m標高点のコブは桟城の跡で上は凡そ平坦だが削平地といえそうな所は見られない。北東側80mの鞍部が堀切となっており、土橋で道が渡っている。踏み跡は土橋の先に尾根線上を北上しているが、掘り込みがその先160mに渡って見られない。土橋の南側の袂から堀切に下りて西側に下る道の跡と北側の袂から東側に下る道がある。東側は杣道のようで路盤は細く、万路沢の右岸支流の上流側に続いている。西側は長く歩かれていないようだが幅が広く傾斜を緩めるべくうねうねと曲がった掘り込み道で桟城西面のユリ道に下りている。この土橋西側の掘り込み道が正保4年に徳川義直が通った道と考える。

 土橋の北側の支尾根の標高930m辺りでユリ道に下りる。ユリ道は980m標高点の真西辺りから階段で斜面を登って尾根上の鉄塔に至る送電線保守路となっているので踏み跡は明瞭である。ユリ道は北側に二つ谷を横断して緩やかに斜面を下り、標高895mほどの所で尾根を下ってきた道と合流する。


水場

桟城跡 削平地無

土橋

堀切西側へ下りる

ユリ道に合流

尾根道と合流

 尾根を少し下った先から急峻な斜面に彫り付けられたつづら折りの道となって100mほどの標高差を一気に下る。なかなか圧巻の坂道である。下りついた谷には谷筋に一直線に上の方に猪垣のように見える石積みが延びている。つづら折りの下から4番目のカーブに、この猪垣のような石積み沿いから上がってくる古い路盤があるが、板敷野・沓掛側から登ってくると石積み沿いには進まずにつづら折りに入ると思う。猪垣のような石積みは積み方が荒いのに崩れている所があまり見られない。この石積みは少し先で北にほぼ直角に曲がり、更にもう一度ほぼ直角に曲がって、つづら折りの下りついた所のすぐ上に戻ってくる。谷筋と右岸の高台の農地を囲む本当の猪垣だったのだと思うが、今は囲われた所は植林地である。つづら折りの下りついた所から巨岩を積み上げた昔の水田の石垣に挟まれた谷間の道を下る。車道が近くなると道沿いにワサビ田がある。


急斜面のジグザグ

下りてきて振り返る

猪垣

谷底に下りつく

石垣の間を下りる

車道に出る

 以上のように上の山道を推定したが、桟城西面のユリ道や、以下の万路沢本流から石仏の峠を経て板敷野・沓掛に下るルートの可能性も皆無とは思っていない。城跡の堀切に尾張藩の殿様の行列を通すだろうかという疑問がある。桟城の機能を狼煙台だけと見るには堀切と土橋はずいぶん本格的に作られているように見える。桟城は石仏の峠の尾根の下側に位置するので石仏の峠の道の押さえにはならないが、昔の送電線巡視路かと見た桟城西面を廻るユリ道が戦国時代以前からあって、ユリ道の押さえとして上に桟城が築かれたとすれば、ユリ道も古いもので岩場の所も殿様が通れる程度の幅は昔からあったということも考えられそうな気がする。

 空仁法師の「おそろしや木曽のかけ路の丸木橋踏み見るたびに落ちぬべきかな」の歌は桟城土橋経由や神坂峠の道や棧沢の桟からは出てこないのでないかと思う。源頼貞の「雲も猶下に立ちける桟の遥かに高き木曽の山道」の歌も桟城土橋経由では出てこないのでないかと思う。このユリ道なら高さの恐怖と雲より上を歩く感がありうる。だが、標高差にしてあと40m程度を緩やかに登れば安全な広尾根上を行きこの危険個所は回避できるのに、回避せずに道として使われていたのなら回避しなかった理由が分からない。或いは道が付いた当初は今より地形が厳しくなく、崩落で厳しくなってもそのままの位置が踏襲されていたということはあるか。


上の山の道広域図

・万路沢本流から石仏の峠を経て板敷野・沓掛

 板敷野・沓掛からは宮坂武男(2002)に「古くは大事な道であったようである」とある道で、最高点に石仏があり、最高点の西側直下に祠の跡らしき石組がある。全て幅の広い路盤だが、万路沢沿いは木馬道として広げられたということもあるかもしれないと考えてみる。斜面の道では木馬が曲がれないような屈曲が幅広である。上松町誌で、昔は沓掛から上松町の高山に抜けていたのが万路に抜けるのに短縮し後に桟を通るようになったとされ、板敷野側から万路沢に下りてから万路沢の上流方向にも幅広の路盤が続いており、先で尾根を越えてドドメキ沢を渡り、ドドメキ沢左岸の1093m標高点の南東方の緩斜面から高山に下りていたのが波計桟道が安定しなかった頃までの木曽古道の一つなのかもしれない。

 万路沢最奥の水田跡手前から万路沢の左岸に渡り、標高870m辺りまで左岸の水線より少し高い所を登る。820m辺りで万路沢右岸支流の谷に入る枝道が分岐する。850mから870mは左岸が広い岩海で石を除けて路盤を作っているのが分かる。870m辺りの徒渉点の右岸側には橋台の跡の石組みがある。


最奥の水田跡手前から
万路沢渡渉

820m付近
谷の曲目は岩の下

左岸の道
少し笹が茂る所も

840m付近
枝谷の手前

最初の
岩海

橋台の跡
(万路沢右岸)

万路沢沿いから石仏の峠の地図 870mからしばらく狭い谷筋で水流に流されて路盤が狭くなっている。900m辺りから谷が広がり、岩海で石を除けているのが明瞭である。910mの右岸の支谷の所はS字で登っていてSの字の起点(上側)の所の谷を渡る所には洗い越しの石組みが見られる。S字にならない新しく岩を崩して作ったと思われる水線近くを通る路盤もあって、先で合流している。940m辺りからこれから折り返して登る左手上の斜面の道が見え始める。

 その左手上の斜面の道と高さが揃うのは965m辺りなのだが、明瞭に折り返していると分かる所が見当たらない。万路沢右岸の奥には更に幅広の路盤が続いているのだが970m辺りで引き返す。940m辺りで左手上に見えた道は、見えた所より上手(西側)は明瞭な幅広の路盤だが、それより下手は断続的に点状に路盤の跡らしき所が見られるだけで連続して道だったのかどうもはっきりしないが、上手側からの延長で高山方面に街道として繋がっていたと考えると965m辺りまで斜面のトラバース道だったのが、万路沢沿いを上下する山仕事の道に主客転倒されて枝谷を二つ横断するので荒れやすく、万路沢に下りる辺りがショートカットされるなどして末端が使われなくなったのでないかと思う。


右岸の道
路盤が流れて細い所

二度目の
岩海横断

岩場下 先は新道
旧道は折り返して上を越える

旧道
枝谷を洗い越しで越える
石組みが残る

洗い越しの先 岩場の上を
越えて下の新道に合流
旧道は流れている

965m辺り 上は二次林から
植林になる. 左手斜面へ
折り返す路盤を見ず

 940m辺りの左手上のすぐの970m辺りは急斜面で道の路盤は半ば流れている。尾根の鼻を一つ周ると広くなる。谷を一つ横断して次の尾根の鼻の所にZ字のジグザグがある。その次の尾根の鼻は広く、そこから一旦下って万路沢右岸支流の谷を渡り、また登って最高点の石仏の峠に出る。

 石仏の峠は石を組んで屋根とした祠に入った石仏と大きなアカマツの木がある。アカマツの木の後ろから板敷野の下る広い路盤と、右折して北側の斜面に登っていく広い路盤の分岐となっている。また、板敷野方面への古い細い路盤が二本アカマツの木の前から広い路盤の道が折り返してきた先に下りている。北側の斜面への幅広の道はうねうねとした掘り込み道で古そうだが1274.4mの三角点「万路沢」の南約340mの山の斜面が急になる所で行き止まりで、昔の草刈り道の跡のようである。途中に斜面を東へ下りていく分岐があり、高山方面に向かう道だったのかもしれないがどこに続いているのか確認していない。


桂の大木の上から路盤が
はっきりする

桂の大木を見下ろして
後に

路盤は流れて
斜めになっている

上がるにつれて
路盤は太くなる

洗越の枝谷に入ると緩く
路盤も広く残る

石仏の峠へ
最後の登り

石仏の峠

石仏アップ

 アカマツの大木の後ろを下るとすぐに肘があって向きを変える。この肘の所から桟城方面への掘り込み道が分岐しているが、掘り込みは最初の20mほどしかない。肘からアカマツの大木の前から降りてくる古い路盤を合わせて、除けられた岩の畝に沿って斜面を下り、谷に下りつくと丁度下りついた所で水が湧いているが小石の間からにじみ出る水で汲みにくい。この谷を渡ってすぐの右手(山の上側)に祠の跡らしき石組がある。しばらくほぼ水平の歩きやすい広い路盤の道が一直線に続く。

 尾根の鼻を周ると掘り込み道でうねうねと曲がりながら尾根上を下る。895m辺りで桟城の西面のユリ道に合流する。


アカマツの後ろに下って
すぐに切り返す

岩海横断
後ろは峠の稜線

谷に下りて
振り返る

祠跡と思われる石組み

水平道

ぐねりながら下る

 石仏と祠の跡と思しき石組の存在と幅広で揃っていることから、当初は正保4年の徳川義直の通った上の山道は万路沢を遡ったこのルートでないかと考えたが、正保4年より前からあったとしても7日で殿様が通っても差し支えない水準まで整備するには長すぎると思う。上の推定ルートに比べて約1.1q長い。上の推定ルート上にない長いゴロ石の川沿いと四ヵ所の岩海横断と二ヵ所の橋で岩の除去と拡幅をしたとすれば延長の差以上に時間が掛かると思う。万路側から入って石仏の峠の所で初めて桟の上に出てくるのは、桟の上の山にある道というには短い気もする。


・桟城土橋から石仏の峠・石仏の峠から三角点万路沢方面

 土橋の北詰から北側の尾根に上がる所は道を掘り下げて勾配を均してあるが、尾根に上がってから石仏の峠の手前までの約160mの尾根筋に掘り込みが見られなかった。石仏の峠寄りに20mほどの延長で掘り込みがあるが、掘り込みの無い区間の緩傾斜地での草刈りの為の道だったのでないかと思う。

 石仏の峠から北西に広い路盤の道が三角点万路沢(1274.4m)の南の標高1150m辺りまである。尾根線上では掘り込み道で、岩海横断箇所の岩は除けてある。標高1150mより上は斜面が急峻になるので、斜面の緩い中腹での草刈り道だったのだと思う。途中の尾根に上がった所(1070m)で東側への同じくらいの広さの道が分岐していたが先は確認していない。或いはこの枝道は万路沢の源頭の標高1050m辺りをトラバースして回り込んでドドメキ沢や高山方面につながる道かも知れないと考えてみる。1150mの広い路盤の急斜面に突き当たる行き止まりより上にも、行き止まり前から一旦斜面の少し緩い東側に寄って三角点「万路沢」直下まで尾根伝いに細い踏み跡があるがかなり荒れている。


三角点」万路沢」方面
岩海横断

三角点「万路沢」方面
掘り込み道

三角点「万路沢」方面
1150m行き止まり

・万路沢右岸支流沿いから桟城土橋・石仏の峠への道

 桟城の土橋の北詰から東側の斜面へ下りていく道はそのまま右岸支流の落ち口へと向かうのかと思いきや反比例曲線を描くように右岸支流の上流向きに登り始めて右岸支流の沢縁につく。ついた沢縁から石仏の峠の道が右岸支流を渡る所まで谷筋は広く緩やかだが道の路盤らしきものは2021年には見つけられなかった。

 万路沢沿いの道の標高820m辺りに万路沢右岸支流沿いに入る道の分岐があるが、万路沢本流沿いに比べると路盤は細い。2022年に下から辿ってみた。万路沢左岸沿いの道から分岐して右岸に渡る。右岸を少し登って右岸支流の左岸に渡るとしばらく道の上にまで間伐材がそのまま散らばって歩きにくい。標高850m辺りは中尾根の鼻の大岩の脇を通って狭い谷筋を渡渉を繰り返して登る。狭い谷筋で脇の斜面は立っており、水流のすぐ脇の道なので殿様が通るような道であったとは考えにくい。標高870m辺りから谷筋が広がり伏流気味の沢の右岸を登る。右岸沿いを登ってくると桟城土橋から道が沢に下りてくる手前で左岸に渡っていたような地形が見える。左岸沿いをよくよく見ると石仏の峠から下りてくる道に突き当たるまで道があったのがかすかに分かるが、掘り込みというレベルの痕跡は見られなかった。


万路沢右岸へ
橋の残骸

道の上まで
間伐材がそのまま

標高900m辺り
右岸沿い

標高960m辺り
左岸沿い

参考文献
国見正武,木曽旧記録,新編 信濃史料叢書 第1巻,信濃史料刊行会,信濃史料刊行会,1970.
深井雅海・川島孝一・藤田英昭,源敬様御代御記録 第4(史料纂集 古記録編),徳川林政史研究所,八木書店 古書出版部,2019.
史籍雑纂 當代記 駿府記,続群書類従完成会,1995.
宮坂武男,図解山城探訪 第2集 改訂 木曽資料篇,長野日報社,2002.
上松町誌編纂委員会,上松町誌 第2巻 民俗編,上松町,2000.



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(2021年5月23日上梓 2022年3月19日改訂 2023年1月22日URL変更)