明ヶ田尾山の地図
明ヶ田尾山 梅ヶ谷から
みょうがたおやま

 箕面川は上流の高山では高山川という名だが、どこで名前が変わるのかよく分からなかったので、梅ヶ谷は高山の属する豊能町ではなく箕面市内ということで、箕面川の支流の梅ヶ谷としておく。一級河川としての箕面川は梅ヶ谷より少し下流の自然研究路6号線(四反田谷の歩道)の入口の辺りがスタートのようである。梅ヶ谷は箕面市内になる前は止々呂美村内・上止々呂美村内であった。

  • 歩行日・・・2012年10月
  • 五万図・・・広根
  • 参考時間・・・45分

★箕面川 梅ヶ谷から

 南側の箕面川(高山川)からのルート。車を停められるところが無い。バスは北摂霊園に行くバスの霊園事務所前バス停が最寄となるが1kmほど車道を歩くことになる。

 水の殆ど無い梅ヶ谷に沿って登る。右岸の鉢伏山側は礫の斜面で、この礫で水無く谷が「埋め」られていることか「埋もれ」ていることが梅ヶ谷の「うめ」の音の由来でないかと考えてみる。道は殆ど左岸に付いている。道の右側に幾つか炭釜の跡を見て進み、標高400mの辺りの左(谷の右岸)に建物の土台の跡の様な石垣や更地が何段かあるのが見える。川浦鉱山の建物の跡である。川浦鉱山跡を見送ると沢に細々と水が流れるようになるが、道は沢を離れて左岸の高いところを登る。川浦鉱山の坑道は二段目の更地の上手での梅ヶ谷の2m程の小滝の左岸の脇に1.5m程の高さで口を開けている。登山道はこの坑口のすぐ上を通っており、地図平面上に落とせば坑道と登山道が坑口からすぐのところで交差していることになるが、登山道を歩いていても坑口は全く見えない。箕面市史史料編4所収の上止々呂美共有文書の「山論一件諸書物写帳」の天保7年の記事には銀山が「川浦山ニハ往古より之銀山古敷三ケ所」と書かれているが、私はこの坑口一つしか見ていない。上止々呂美村には鉱床群「高山親鉉」が広がり、江戸時代末には村内だけで川浦銅山含めて十数箇所の間歩があったようである。

 川浦鉱山の「川浦」とは川浦鉱山のあった場所の字名である。「ゴロゴロ」「ゴーロ」などに通ずる梅ヶ谷下流域鉢伏山側の礫だらけの様子を指した「ごうら」のことかと思われる。

 登山道は川浦鉱山跡より先で、このコースで最も傾斜が急になる。それでも標高差では50m程度で、標高450mに達する辺りでまた広く緩やかな谷底を歩くことになるが、もう水は無い。鉢伏山からの旧豊能自然歩道の分岐跡を分けると更に谷が広く緩やかになってくる。植林を抜けてポッカリ明るくなると鉢伏山からの縦走路と合流する。

 縦走路は北へ浅い谷間に入っていく。また植林となる。傾斜を緩めるべくジグザグが切られているが、それほどきつい斜面ではないので直登している新しい踏み跡も見られる。最後は少し西側に回り込んで尾根に上がる。そのまま尾根を乗り越して僅かに尾根の西側をトラバースすると広い尾根上の道となり、浅く幅広に掘られた路盤が続いている。僅かに下って高山から登って来る道と合流する。その先は高山からのコースを参照のこと。


梅ヶ谷

右岸は礫斜面でゴラっぽい

川浦鉱山跡

川浦鉱山跡の
坑口

鉱山跡付近
模式図

谷底から離れる

谷底に戻る
水はもう無い

鞍部間近

南向きの
浅い谷に入る

一旦尾根の
西側に出る

掘り込まれた
稜線の道

 箕面側からは梅ヶ谷の他に、鉢伏山から縦走でも明ヶ田尾山に登れる。地形図(2012年現在)にある鉢伏山から東斜面を下りる送電線下から入る古い豊能自然歩道(おおさか環状自然歩道)は廃道となっており、足場は細く落石の危険が高い。鉢伏山から稜線を北へ進み、下止々呂美の前田への分岐を西に分けて、七曲と呼ばれる鉢伏山北斜面の掘り込まれた細かいカーブの連続を下りて梅ヶ谷からのコースに合流する。掘り込まれた七曲は高山からの池田道であった。

参考文献
箕面市史編集委員会,箕面市史 史料編4,箕面市役所,1970.
猪名川町史編集専門委員会,猪名川町史5 多田銀銅山史料編,猪名川町,1991.
楠原佑介・溝手理太郎,地名用語語源辞典,東京堂出版,1983.
柴田昭彦,明ヶ田尾山(北摂),pp68-70,47,新ハイキング 関西の山,新ハイキング社,1999.
西川隆夫,豊能ふるさと談義,北摂振興,1995.



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(2013年1月14日上梓)