上止々呂美
小字
向所から

箕面森町北
青貝山南尾根から

高山
小字一本木から

青貝山分岐の
南方約400mから
明ヶ田尾山 (619.5m)
みょうがたおやま

 北摂の山。高山右近の里である高山の西の山。箕面西部連山とも言われた五月山連峰の北端の山。近世文書に山中に三ヶ所銀山があるとあった。山頂に置かれる明治36年選点の三等三角点の名は「一本松」である。現在の山頂一帯は樹林に覆われているが、昭和43年のガイドブックでは「身の丈をこえるササヤブ」とされていた。明治42年測図の地形図では山頂一帯には荒地マークが付されていた。山頂の様子などは意外と短期間で変わってしまうようである。

  • 歩行日・・・2012年10-12月
  • 五万図・・・「広根」

★山名考

 「明ヶ田尾」を「あけがたお」、「あけだお」と読まれたこともあったが、古い記録に拠れば「みょうがたお」である。

 西の上止々呂美の上止々呂美共有文書の、延宝六年上止々呂美村小物成所検地帳に「みやうかた尾山」とある。天明4年の草山請証文に「ミやうが太尾山」とある。山論一件諸書物写帳の天保7年の記事に「ミやうがたを山」、「ミやうかた尾山」とある。天保8年の山論済口取替証文では「みやふがた越山」とある。弘化4年の草山請証文では「みやうかたを山」とある。

 東の高山の上野家文書の天保5年の「栃山争論につき高山村訴状」に「見やうがたヲ山」とある。天保8年の「栃山争論和談済口取替せ一札」に「みおふがたを山」、「みおふかたを山」とある。以上の旧記での表記は翻刻に従ったが、一文字目の「ミ」も「見」も理由あってカタカナや漢字にしたわけではない「み」の音の変体仮名であろう。「太」と「越」も、「た」と「を」の音の変体仮名ではないか。

 これらの文書に「あけだお」「あけがたお」を思わせる山の名や「明ヶ田尾」・「明田尾」といった漢字表記は登場しない。明ヶ田尾山山頂の三角点の名である一本松も「みおふがたを山之内一本松」等、天保8年の文書などに登場している。「明ヶ田尾山」の漢字での記載は明治42年測図、大正元年発行の正式二万分一地形図「妙見山」図幅に見られるが、止々呂美村誌(1931)で山名としての明ヶ田尾山の他に耕地や雑地の小字名で「明ヶ田尾」・「明ケ田尾」が挙げられていることから、地形図のように一般に頒布される形ではなくても土地台帳制度の整った明治二十年代前半までには「明ヶ田尾」の表記もあり、土地台帳は確認していないが止々呂美の耕地や雑地の地籍地名としての明ヶ田尾・明ケ田尾は上止々呂美から中谷川の左岸の尾根を経て以下の推定ミョウガタオに至る山道の途上の畑地や延宝6年の検地帳の「みやうかた尾山」にある「柴山」などであったかと思われる。

 柴田昭彦(1999)は「あけがたお」として、「あけだお」を別名/愛称としている。その根拠は昭和22年以降の資料での読み方である。また、「みょうがたお」とする資料や地元で呼ぶ例を挙げながら「みょうがたお」を斥ける理由は判然としない。昭和22年の資料として挙げられている「ハイカーの径」では、箕面連山と箕面西部連山の概説では「明ヶ田尾山」に「あけがたおやま」とフリガナがあるが、箕面西部連山縦走路についてではフリガナではなく傍点がある。昭和12年の同じ著者の「六甲北摂ハイカーの径」の初版でも同様に「あけがたをやま」と傍点がある。この傍点について、「ハイカーの径」と「六甲北摂ハイカーの径」の著者木藤精一郎は後に明ヶ田尾の読み方が「判らないから傍点を付けた」と言ったという。「あけがたをやま」のフリガナは「六甲北摂ハイカーの径」の編集担当によるのではないか。ガイドブックを書くからにはそれなりに調べたと思われるが、それでも判らなかったということは昭和12年頃までに地元の広い範囲で呼び方が失われていたと言うことではないのか。

 柴田昭彦(1999)で示された「あけがたおやま」の古い資料は昭和22年の「ハイカーの径」を除くと、昭和36年より遡らないようである。或いは更に最大で17年ほど下るか。5万図と、「基本測量・修正測量のたびに作成され」るという地名調書と電話調査等による「コンサイス日本山名辞典」は昭和53年の発行で、直近の5万図「広根」図幅の修正測量は昭和48年で発行が昭和51年であった。箕面市と豊能町の「地名調書」は何年のものかが書かれていないが、箕面市の市制施行が昭和31年で豊能町の町制施行が昭和52年であるから、それら以降のものであろう。箕面市市制施行後最初の修正測量は2.5万図「広根」図幅の昭和36年である。但し、新たな修正測量等で古くなった地名調書で何年のものから「あけがたおやま」のフリガナがあるのかは調べていない

 昭和11(1936)年の増補改訂の「近畿の山と谷」の索引では明ヶ田尾山が「あ之部」で挙げられている。「ハイカーの径」より前にも、地形図から入って明ヶ田尾を「あけがたお」などと読んでいた人は居たのだろう。但し、索引にフリガナはない。目次と本文でも止々呂美には「トヾロミ」などとフリガナがあるのに、明ヶ田尾にはフリガナがないので、この本で「あけがたお」だったのか「あけだお」だったのか、索引「あ之部」に他に「あけ」で始まる項がないこともあって分からない。或いは読み方は筆者も不明で本文にフリガナを付けなかったが、索引を付けるにあたって推定で「あ」で始まると読んだのではないかと疑ってみる。

 後半の「たお」について「鞍部(峠)」ではないだろうかと柴田昭彦(1999)は指摘している。「たお」は「垰」である。慶佐次盛一(2001)は山頂の南南東約310mの高山から稜線に登りきった地点が昔の峠ではないかとしている。垰と関係しない「ミョウガタ」の「オ(峰)」、ミョウ(名)ガタ(方)ヲ(峰)、名(名田)の方にある峰、とは高山や上止々呂美の水田の分布から説明が付かない。


明ヶ田尾山と
南の鞍部の地図

 実際に歩いてみると、この高山から稜線に登りきった地点は確かに鞍部であり、道の登りきった地点と言う意味でほぼ「峠」でもあり、稜線の西側への古い路盤の跡のようなものも見られたが、鞍部としてはごく浅い鞍部である。300mをこえる波長に対して波高は20mにも満たない。稜線が撓(たわ)んでいる事に由来するとも言われる垰(たお)にしては撓み具合が小さ過ぎるのではないかと言う気がする。また、数ある高山から明ヶ田尾山を経て鉢伏山・池田方面へ向かう道の中には、現在の登山道のある谷の右岸の尾根を辿ってこの鞍部を通らないものもある。

 明ヶ田尾山と、南の鉢伏山の間の鞍部がこの辺りの鞍部としては最も顕著である。明治時代測量の地図には上止々呂美からこの鞍部へ上がる道があり、現在でもその道は明瞭に残っている。この鞍部を挟んで東の箕面川へも梅ヶ谷に沿って道がある。西側に流れ山のような高まりを従えた広い平坦地の広がる峠で、北西と西南西と東南東の三方にほぼ均等な口を開いているが、西南西の口に道の跡などは見つけることは出来なかった。この鞍部は主稜線の約230mの波長に対して50m程の波高がある。上止々呂美から見ればこの鞍部の奥の山が明ヶ田尾山となる。高山からはまず明ヶ田尾山を越えて、この鞍部も越えて鉢伏山も越えて後は起伏の少ない稜線を五月山まで歩くのが北摂の商都池田への最短ルートであった。「垰」とは、この明ヶ田尾山と鉢伏山の間の鞍部ではなかったか。


明ヶ田尾山の
北西約2.2kmの
青貝山南尾根上から
見た明ヶ田尾山と
推定ミョウガタオ

 次に前半の「みょうが」について考えてみる。

 「ミョウ」のところ「の(ガ)」「タオ」か、「ミョウガ」の「タオ」のどちらかと思われる。

 紀州の果無山脈東部に「ミヨウガタワ(茗荷タワ)」という峠がある。この峠のすぐ北側には直径200m程のほぼ円形の平坦地「ブナの平」が広がる。急峻な紀伊山地には点々と斜面崩壊による小さな平坦地が見られるが、登りついた峠そのものの場所が斜面崩壊らしき平坦地と言うことは紀伊山地でもあまり無いかもしれない。ミヨウガタワの平坦地も小規模な斜面(山体)崩壊とみなされての「メゲ・タワ(壊・垰)」だったか。「メゲ」と考えると「ミヨウガ」と音が伸びている点と、「ゲ」と「ガ」の違いに釈然としないものが残るが、各地の山間部の「茗荷」のついた地の地形を見ると地すべりや斜面崩壊の跡のような平坦地の例はある。地すべりなどの細長く弧を描く先端隆起なら、それを指しての「メゲア/メガ(壊げ畦)」や「メゲハ(壊げ端)」などもあるかと考えるが、この「ミヨウガタワ」には先端隆起が残っていないようなので、或いは平坦地の端に登りつく峠としての「メゲハタワ(壊げ端・垰)」か。山本宏(1957)は茗荷タワを「殿井への分岐」としている。ミヨウガタワから北北西方の殿井への地形図に描かれる道を辿ってみると、上湯川に下り立つ手前にきれいな馬蹄形の地すべりの跡がある。ミヨウガタワはタワの平坦地「ブナの平」に基づく名ではなく、登り口の地すべり跡に基づく名だったのかもしれない。明ヶ田尾山周辺に、こうした地すべり跡の地形は見られない。新しい資料で殿井と、その西の小壁の間の果無山脈から下る谷を「ミョウガ沢」とし、その源頭の鞍部を「ミョウガのタワ」としているのも見かける。その位置の「ミョウガ沢」は仲西政一郎(1970)に見られるが山本宏(1957)はこれを「小松タワ」として、沢の名を記していない。

 中国山地の備中新見と伯耆日野の境には「茗荷峠(みょうがだわ)」がある。備中側からの道の沿ってきた沢の本流の源流は更に東側へ延びて三日月山に向かって標高を上げるのに対して、茗荷峠へは途中から右岸に僅かに入って最低鞍部を越える。古く「御尾(みを)」と言う言葉に「坂や山などの裾の長く延びた所」と言う意味があった。茗荷峠は備中側の高梁川の源流の沢の本流から見て山から延びた山裾の末端を越える「御尾(ミヲ)ヶ(ガ:の)垰(タワ)」であろう。明ヶ田尾山周辺に、こうした道と地形は無い。


主稜線鞍部から
西に張り出した
小山を見る
左右両側が明るい

 野菜のミョウガ(茗荷)は大陸からの移入種と考えられており、普通は畑や庭の隅で栽培するもので、果無山脈主稜線や明ヶ田尾山から鉢伏山の稜線や、備中と伯耆の国境のような深い山間まで採取の為に足を運んだとは考えられない。急な山の斜面の中腹にある殿井や小壁から川向こうで栽培するとも川向こうの上の果無山脈まで採取に行くとも考えられない。

 明ヶ田尾山と鉢伏山の鞍部の西側にある小さなコブを指して「御尾」と呼び、その傍の「御尾(みを)が(の)垰」かと考えてみたが、箕面西部連山全体も「御尾」と呼べそうである。しかしこのコブの、主稜線の鞍部で直交する支稜の、鞍部のすぐそばの小山というのは顕著なランドマークではある。地名用語語源辞典の「みょうが」の項の三番目の意味に「ミヨ(ミヲ)・ガ(処))か。→みよ。みお。」とある。「みお」の項に移って見ると、最後の四番目の意味で「ミ(御)・ホ(秀)で『水平に突出した岬』などか。」とある。だが、ホ(秀)は古語辞典で用例を見ると、単独で何かを指すのではなく、「何か(の)秀」と使われる例が多いようである。火の秀で「ほのお」のような例がある。稲の穂の「いなほ」の穂も秀と同じようである。「他のものより目立っているもの。表面に現れているもの。」などを指すという。

 旧記で「みやう」・「みやふ」・「みおふ」と、明治以来の今の字音で「みょう」となっていることから、このコブを山並みである「御尾」の突き出たもの、他より目立っているものである「みをほ」(御尾秀)と呼び、その御尾秀の所にある鞍部ということを「みをほがたを」(御尾秀が(の)垰)と呼んだのが「明ヶ田尾」であったと考える。

 但し、「を」は「峰」だが、「み」が古語辞典では「美称」や「語調を整える」接頭語とされているが、その意味が未だよく分かっていないらしいことは留意したい。

 「三尾」と書かれるような地名は各地にあり、三つ目の西に張り出した尾根は他の二つ(明ヶ田尾山・鉢伏山)に比べるとかなり小さいのだが、実際に三つの尾根の中心の窪地に立ってみると三つの尾根の存在感はほぼ同格に感じるので、尾根が三方向に出ている「みを(三尾)・が・たを(垰)」か、三つの尾根に取り囲まれた凹みの垰ということの「みを(三尾)・ふ(節)・が・たを(垰)」とも考えたくなるが、日本語で助数詞のつかない尾根の数の形容は考えにくい。三つの尾根なら「三つ峰」と言いそうである。

 明ヶ田尾とは主稜線から横に張り出して目立つ「御尾秀」の所にある「垰」、「御尾秀が垰」ではなかったかと考えておく。


ヘライの辻地図附 ヘライの辻

 キリスト教徒が説法したと言われ、「ヘライ」は「ヘブライ」に由来するとも言われる「ヘライの辻」だが、キリスト教徒が説法したとしても「ヘブライの辻」とは言わない気がする。キリスト教徒や説法をする人を指す言葉はヘブライではなくイルマン、パードレと他にあり、中世に来日した外国人宣教師はヘブライ人ではなくヨーロッパ人であり、ヘブライ語で説法されても布教対象のキリスト教を知らなかった日本人にも新しい在家信者の日本人にも分からない。明治21年の高山村の土地台帳で周辺の小字名は、辻の西と南の一帯が「ヒラ井」とされ「へらい」と振り仮名がある。「ヒラ井」の「ヒラ」がカタカナで表記されながら「へら」と振り仮名があるのは、「ヘライ」と発音されながら地元で土地台帳以前に「ヒラ井」の表記があったか、はじめの二音節が本来は「ヒラ」だった意識があったのではないかと思われる。ヘライの辻は八幡神社などの殿所と呼ばれる高山の中心部から登りきった、明ヶ田尾山と向山の間の鞍部への緩い坂の頂点にある三叉路である。その鞍部である小字ヒラ井の一帯は平坦で、畑と人家がある。ヘライ/ヒラヰは「ヒラ(坂)のウヘ(上)」、ヒラウヘ/ヒラヘが訛ったものではなかったかと思う。辻は十字路とも言われるが、四つ辻と言う言葉があるように十字路の意味は追分(分岐点)のような意味が先にあった後世の意味とも言われる。

参考文献
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山本宏,果無山脈,近畿の山 ―登山地図帳―,泉州山岳会,山と渓谷社,1957.
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中田祝夫・和田利政・北原保雄,古語大辞典,小学館,1983.
松尾俊郎,日本の地名,新人物往来社,1976.



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(2013年1月14日上梓 2017年7月14日山名考改訂)