天狗棚山から北方を見る
石丸峠は下方の樹林の中
小菅大菩薩 石丸峠 その1

 大菩薩嶺で知られる大菩薩峠は明治12年開通の新しい峠の前は上峠の下峠の二筋があった。上峠は丹波山大菩薩道で親不知を越え萩原と主に丹波山を結ぶ。下峠は今の石丸峠で小菅大菩薩道で萩原と主に小菅を結ぶ。小菅村による明治12年の新峠開通で丹波山大菩薩道に近い新道が小菅大菩薩道となったが、以前の小菅大菩薩道は石丸峠を越える道であった。上日川峠から小菅の山沢まで歩いた。小菅側の末端は山沢・田元・川久保に分れるが、青梅街道の一部ということで武蔵方面から入るなら余沢から白沢、井狩と来て山沢から入るのが素直だろうと考えて山沢へ下りることにした。上日川峠から入り、石丸峠までをその1(当頁)とし、石丸峠から山沢までをその2とする。


地図1の1地図1の2

★上日川峠〜石丸峠

 小菅大菩薩道は上日川峠から一旦日川源流域に下る。上日川峠からブナの森の浅い谷地形を下る。沼ノ沢を橋で渡ると谷が広がる馬場(ばんば)で左手に大菩薩館跡の笹の平場と右手に大菩薩湖北岸への道の分かれを見る。すぐに先に橋で渡った沼ノ沢を飛び石で渡る。飛び石の先で唐松尾根の末にあたるメエ長尾(前長尾)の斜面のトラバースとなり右手は先の小川がどんどん下に深くなる。大木が多く見え美しい。暗く細い沼ノ沢の支流を一跨ぎで渡ってもう一つの唐松尾根の末にあたるムコウ長尾(向長尾)の斜面のトラバースに入ると道の左手(山側)脇に1mほどの高さの立岩が笹の中に立つ。三代目石マラだという。

 ムコウ長尾の細かい谷を二つ過ぎて谷間に下りていく。日川本流にあたるクマ沢を蛇篭の飛び石で渡る。蛇篭の飛び石のすぐ上手の浅瀬が古い道の渡渉点だったようで、蛇篭の先が新しい階段道で、浅瀬の向こうが掘り込み道で、渡ってそれぞれ少し上った所で合流する。道の合流点では右に折れて沢沿いに下っていく刈り分けもある。少し先にまた右に折れる刈り分けがある。二つ目の右に折れる刈り分けは折れてすぐ先でまた二つに分かれている。これらの刈り分けは姫の井沢の下方の車道からの園地の遊歩道のようである。折れて入ってみると東屋や人工河床がある。二つ目の刈り分けの左側はすぐ先が湧水がパイプから出て汲めるようになっている所で行き止まりである。右に折れる刈り分けに入らず緩い坂を直進すると小屋平のバス停のある車道と交差する。


橋を渡る

大菩薩館跡

沼ノ沢徒渉

メエ長尾の道

三代目石マラ

クマ沢徒渉

蛇篭の渡渉

水汲み場

小屋平バス停に上がる

 小屋平のバス停から少しで急登になる。ジグザクの坂は八十八曲りというらしいがそんなにジグの数はない。林道に上がるまでに切り替えた古い路盤が四ヵ所道の南側にあるが上峠の切り替えた道の跡と違って深い笹に覆われ入る気がしない。標高1710mを越えた所で林道に出て右折して林道を少し上がる。林道に上がって正面左方の林道の法面が崩れている上に昔の道は登り続けていたようである。林道を少し上がって尾根の鼻を回り込む手前で切り替えた石丸峠への道に入る。林道の尾根の鼻の向こうに小金沢山が見える。富士山も見える。

 尾根筋を登って1770m辺りの小さいコブを越す。僅かに下りた垰が昔の八十八曲りの詰めのようで、道を切り替えた旨の古い看板と柵がある。垰から更に尾根筋を上がって左に曲がって尾根の南斜面トラバースになると石丸峠方面が見えてくる。岩科小一郎の「大菩薩連嶺」に「八十八曲りが終って、一八〇〇米の小頭を越え、右にヒンマワシ沢を見下ろし、石丸峠方面に見通しがよくなったら左手を注意して行くと、道から三、四間上方にやや窪んだ茅の小平地があり、そこに石マラ様が鎮座していた。」とあって、この左に曲がって石丸峠方面が見えるようになった辺りの道の左手の6mほど斜面の上の浅い窪みに石丸峠の名の由来の初代石マラがあったらしいが、一帯は全て笹で覆われて斜面は一様に見え、石マラがどこにあったのか全然見当がつかない。石マラの嵌っていた親石は「一坪ぐらいの大きさで高さ二尺余」だという。田島勝太郎の「奥多摩」の地形図への書き込みでは八十八曲りから尾根に上がった所(今の地形図だと尾根筋1770m等高線上に相当の位置)に「石丸石」とある。


八十八曲り

林道に上がる

林道から
尾根に取り付く

石マラがあったと
思われる斜面の道

 笹に覆われたカラマツ林の下の斜面を緩やかに上がっていく。熊沢山の真南の辺りの少し斜面が急な辺りはカラマツが切れて広葉樹林で暗い。抜けてカラマツもない明るい笹の斜面に入る。一ヶ所ヌケを上にまわって越えて熊沢山と天狗棚山の鞍部に着く。石丸峠との標識があるがこの鞍部は山道を登り切って越える所という意味ではまだ石丸峠でない。

 道はこの鞍部の稜線上の僅かに西側に下がった所を通っているのだが、鞍部の稜線上に向けて踏み跡があり、鞍部の稜線上の笹地の中に何か小さい建造物があったような盛り上がった基壇のような石の散乱する更地がある。山梨県歴史の道調査報告書第9集の図で石丸峠と印のある所で石丸峠の説明に「かつて昭和二十五年頃まで高さ約六〇センチの男根と女陰をかたどった石造物があり、子宝の神として神仰(ママ)されたが現在は石造物はない。」とある。石造物の位置について述べられていないが、図と合わせて考えると鞍部に石造物があったとの言い伝えがあったようにも読める。田島「奥多摩」で石丸「峠の西側にあつた」「天然物」、岩科「大菩薩連嶺」では場所は先に挙げた標高1800m付近の道沿いの斜面であり石造物ではなく天然石とされ、男石が明治中頃に折られ昭和「九年秋にすべて失われたという。」と益田勝利氏の言がある。失われた時期について15年ほどの開きがある。折られた時点で初代石マラの神徳が失われたと考えれば半世紀弱の開きと考えうる。メエ長尾にある三代目石マラの前の二代目石マラはこの稜線の鞍部に人工石造物としてあったのでないかと考えてみる。


カラマツ林の道

広葉樹林の道

笹原の道

ヌケを巻く

鞍部間近

鞍部の石の散乱する高まり

 下峠の道は稜線伝いの道と合わさり天狗棚山に向けて緩く稜線の西斜面を登っていく。鞍部から石丸峠までに二ヶ所切り替えの跡を見る。下手の所は二筋ともはっきりしていて今の道である。上手の所は石丸峠の直下で西側(谷側)の掘り込みは笹に覆われているが、石丸峠直前の所は更地だったかのように笹が薄い。国土地理院の今の2.5万地形図だと建物が描かれている所で峠まであと20mほどである。荷渡し小屋の跡地かと思ったのだが、20mほど進んで石丸峠に達すると石丸峠の道の最高点の脇にも小さな平場がある。国土地理院の地形図にこの建物が描かれるのは1973年測量の最初の2.5万図からのようで今の2.5万図より石丸峠に近く描かれているように見え、どちらの更地にあった建物なのか判然とせず、明治期以来の荷渡し小屋であったとも考えにくい気がするが、道の最高点のすぐ脇は小菅側の急斜面から吹き上げてくる風当たりが強そうである。20mほど手前の笹の薄い所に荷渡し小屋があって、その後何か別の建物が建てられたのか。

 石丸峠は樹林に囲まれ展望が殆どないのだが、すぐ上の天狗棚山は展望が良い。富士山は見えないが小金沢山や小河内ダム湖が見える。北側を望むと、武田久吉(1971)が「明治の山旅」に載せ、下峠/石丸峠の説明でよく掲出されるカットと同じ風景、熊沢山と大菩薩嶺と雲取山が見える。昔は石丸峠を見通せたようなのだが木々が伸長して今は石丸峠は森の下になって見えない。


石丸峠
見晴しは無し

石丸峠20m手前の
笹の薄い所

石丸峠すぐ横の
更地

★石丸峠考

 大菩薩の「下峠へ登るを石マラへ登ると言い馴はし」たが「石マラ峠とは云はなかった」という。だが、初代石マラから下峠である石丸峠まではまだかなり距離がある。

 石丸峠下の鞍部の西側に笹原が広がる。「いしまら」はこの笹原を指した「をせ(尾背)・ま(際)・はら(原)」の転でないかと考えてみる。

参考文献
岩科小一郎,大菩薩連嶺,朋文堂,1959.
perumimi,石丸峠:そこにいたのか石魔羅様。山歩きの記録.(2025年11月9日閲覧)
田島勝太郎,奥多摩,山と渓谷社,1935.
山梨県教育委員会文化課,山梨県歴史の道調査報告書 第9集 青梅街道,山梨県教育委員会,1986.
武田久吉,明治の山旅,創文社,1971.
中田祝夫・和田利政・北原保雄,古語大辞典,小学館,1983.



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(2025年11月9日上梓)