小幌駅周辺アイヌ語地名考 その3(ポロナィからヌプキオチ)

小幌海岸の地図3小幌海岸の地図4

ポロナィ

阿武多場所様子大概書付:ホロナイ
今井八九郎(北海道測量原図):ホロナヱ(文太郎浜に振られる)
松浦武四郎(蝦夷日誌):ホロナイ 此処少しの沢目有。滝あるよし也。・・・ホロナイ峠より又ここに下るニもよろしと。・・・其外海海鼠并雑魚多しとかや。
市川十郎(野作東部日記):保呂内(ホロナイ)
松浦武四郎(廻浦日記):ホロナイ
松浦武四郎(巳手控):ホロナイ
永田方正:ポロ ナイ 大沢
大正頃の五万図:幌内
私見:poro nay[大きい・河谷]?

 小幌駅のある谷がポロナイである。海岸からすぐは特に大きくはないが、小幌駅の辺りからは山側に大きく広がる谷が見渡せる。地形図で見てもこの辺りで最も広い谷である。

 対になりそうな pon nay といった地名が近所に見られないのと、この辺りでは最も大きいとはいえそれほど大きくなく、特に海上から見える文太郎浜への落ち口が小さいこと、蝦夷日誌に書いてあるように源頭まで登ると来馬川流域へ行ける(礼文華川支流峠川へも行けるが小鉾岸ならともかく礼文華までは遠回りになるので横に置いておく)ことから、その2のピリカ浜の所で考えたように入口であり、ピリカ浜の上の谷であるパラキオナィとは別の時期に付けられた、paro ne -i[その口・である・もの(谷)]か、par o nay[口・ある・河谷]などの転訛では無かったかという気もする(par o nay poro nayとはアクセントが異なりそうである)。

 ホロナイ、ポロナイと言った地名は北海道内に多くあり、「大きい谷」とされることが多いようだ。山田秀三(1984)の「北海道の地名」の中にも七つの「ポロ・ナイ」があげられ、その内の四つは「大きい沢」のように解説されているが、残りの三つには疑義があったようである。釧路海岸の幌内は「ポロシナイ」や「ホロヲンナイ」「ホールンナイ」といった記録があることを指摘され、「元来はポル・ウン・ナイ(poru-un-nay 洞穴・ある・川)のような名であったらしくも見える」とされている。共和町の幌似はポロナイ説があったが、幌似の中心部の御手作場の辺りに「ホロイザンニ」「ホロイサンニ」と呼ばれたことがあったことが知らされたとし、「ポロ・イチャニ(大きい・鮭鱒産卵場)の意」とされている。積丹町の幌内府は「ポロ・ナイ(大きい・沢)だったのだろうが、それにどうしてプ(府)がついたのか分からない」としている。

 釧路海岸の幌内は小幌海岸のように断崖が続く中にあり、その中で特別大きい谷というわけでない。西隣の伏古との間の海岸の崖が短いので、或いは昆布森方面から海岸伝いに歩けて東の尾幌の方に行く口で近道となったかと考えてみるが、どうもはっきりと分からない。

 共和町の幌似・御手作場周辺に、口になりそうな地形は見つけられない。

 積丹町の幌内府川は西隣の余別川に比べると遡行が容易で稜線までのヤブ漕ぎも少ないようである。美国に向かうか、冬道なら神恵内へ抜けるにも早いかと考えたが、1200mを超える稜線に上がるので海岸伝いに比べて短縮になるのかどうかちょっと見当が付かない。幌内府川は河口の両脇に岩岬があるので、東側の転多の方のどこかから小さい山越えで幌内府川に入り、また山越えで余別川の方へ行く〔par o nay〕pa[口・ある・河谷・の上手]の転がポロナイプでないかという気がするが更に考えたい。

 他のポロナイを「北海道の地名」から見てみたが、par o nay の転訛と強く考えられそうな処がなかったので、ここのポロナイもとりあえず poro nay と考えておく。


カマナタモィ

今井八九郎(北海道測量原図):カマナタモヱヘ(岩屋観音と思われる「イワヤ」の湾の東側の、上掲地図の「推定ケゥポロイ」の「推」の字の辺りに振られる)
松浦武四郎(蝦夷日誌):カマナタモヱ・・・緑樹陰森として風景よろし。此処ニ岩窟有而是ニ拝殿を立、傍観音の像を安置す
永田方正:カマ ナタ モイ 扁盤ノ鉈(ナタ)ニ似タル湾
私見:kama oro ta moy[扁盤・の所・の・湾]?、〔kom -natara〕moy(/moyehe)[折れ曲がった状態(を表す語根)・が続いている(ことを表す自動詞をつくる)こと・(の)入江]?

 今井八九郎の記す位置は、モヱヘを湾と考えると湾にしては入り込みが浅すぎる場所でありイワヤと別の場所とされ、どうも怪しい。周辺の他の地名より大きな文字で描かれているので、或いは大字のような扱いであったかとも考えてみる。

 永田解のナタは日本語由来のような気がする。アイヌ語日本語共通の言葉もあるが、鉈もそれに該当するのかどうか分からない。鉈はアイヌ語でも nata のようだが、鉈に似た扁盤の湾なら、kama nata ne moy[その扁盤・鉈・のようである・湾]か、nata-kama o moy[鉈の・扁盤・ある・湾]などと言いそうな気がする。

 「扁盤」は国語辞典等に見ないが、永田地名解の他に地名アイヌ語小辞典に見る。地名アイヌ語小辞典では kama の項で「平岩」と並べられており、文字通りの「平たい(扁)・台のような岩(盤)」ということであろうが、或いは永田方正の造語で地名アイヌ語小辞典は、永田地名解からそのまま引用しただけなのかも知れないと疑ってみる。

 カマナタネモィがカマナタンモィになり、更にカマナタモィに約まったかと考えてみるも、「鉈のような扁盤」という表現は伝えたい相手に伝わらないのではないか。扁盤が平らなのが鉈の平のようだと言ったのかと考えてもみるが、扁盤は平らだから扁盤なのであってそれを鉈の平のようだという必要は無い。


北側

南側
カマナタモィの扁盤

 この湾(小幌湾ともいう)は西向きに開口しており、湾の北側には干潮時には幅5-10mほどの広く長い kama[扁盤]の磯(波食棚)が湾口の外側まで現れる。この kama は途中で深く切れていて、文太郎浜方面には大潮でも通過できない。湾の南側にも扁盤が北側に比べると少し小さいがやはり湾の外側まである。比較的広く活動しやすいポロナイ文太郎浜やピリカ浜から見て、kama の方にある湾として kama -na ta an moy[偏盤・の方・に・ある・湾]と表現したのでは無かったかと考えてみた。

 だが、-na は位置名詞やその他の位置関係を表す語に接尾するとされる。kama は位置名詞ではない。位置関係を表す語とも思えない。松浦武四郎の蝦夷日誌より、場所はこの湾より他に考えにくいが、-na の扱いで文法上に問題がある。

 地形図や航空写真(国土地理院)・衛星写真(GoogleEarth)で見ると、切り込んだような湾なので、湾の入口を為す陸地は両側ともそれなりの角をもって海に突き出している。特に南側は鋭角で細長く海に突き出している。この湾の南側の突き出した陸地が not[顎]で、それが kama[扁盤]で成っているので、kama-not[扁盤・顎]と呼び、そこにある湾ということで、カマノトモィ kama-not o moy[扁盤・顎(岬)・にある・湾]と言ったものが転訛したのがカマナタモィではなかったかと考えてみた。或いは扁盤の規模が大きい湾の北側の方を kama-not と言ったかとも考えるが、より突き出しているのは南側である。どうもよく分からない。両方かとも考えてみるが、両方だったら kama-not utur oma moy などと言いそうだ。

 日本語では位置の近似からn とr の相通が知られている。静岡県方言では「調べる」を「しなべる」と言ったりしたという。アイヌ語でも同様なことが起こっているようである。扁盤が広がっている所にある湾であることをいう、カマロタモィ kama oro ta moy[扁盤・の所・の・湾]の転訛ではなかったかと考える。これなら kama が湾の両側にあっても、鉈に似ていなくてもその場所と示すことができそうである。ta は場所に付くようだが、kama が場所名詞でなかったとしても、位置名詞の oro が付いて kama oro なら場所として扱われる。ここでの格助詞 ta は連体的用法と考える。

 今井八九郎の地図で最後に「ヘ」が付いているのは moy[入江]が所属形の moyehe[の入江]で、前半の「カマナタ」の部分だけで完結し、そこに所属する入江ということのように思われる。ほどほどに先にある海岸を見通せる小幌海岸で、くびれたように食い込む小幌湾の所を kom -natara[折れ曲がった状態(を表す語根)・がそのまま続いている(ことを表す自動詞をつくる接尾辞)こと(自動詞の名詞的用法)]と呼んだのが訛ったのに、後ろにそこに所属する入江を指す moy/moyehe が続くことで最後の流音のラが聞き取られず、カナタモィ/カナタモイェヘだったのかも知れないとも考えてみる。


ケゥポルとケゥポルオイ

菅江真澄(蝦夷廼天布利):ケボロオヰ
阿武多場所様子大概書付:ケボロイ
松浦武四郎(巳手控):ケウホルイ 大岩 かんおん(観音)
森春成 他(罕有日記):ケイホロイ此岩窟に木石二体の観音・・・
松浦武四郎(午手控):イワヤ 本名ホロと云也
永田方正:ケウ ポール 屍洞 大洞アリ僧円空鉈作リノ観音一体ヲ安置ス○古ヘ死人屍洞中ニ在リ故ニ名クト云フ今「ケポロイ」ニ訛ル
私見:kew-poru[骨の・洞窟]?と、kew-poru o -i[骨の・洞窟・ある・所]?

 kew は「骨」ともされ、小幌洞窟遺跡に一部攪乱の跡があったという人骨が出土していることと符合する。ケゥポルオイ kew-poru o -i[骨・洞窟・にある・所]で、この洞窟一帯を漠然と(小幌駅の場所も含めて)指し、「小幌」の起源と思われる。

 永田地名解の和訳「屍洞」はおどろおどろしい。森美典(2008)は「こんな縁起の悪い地名が他にもあるのだろうかという思いもある」としている。kew は元来は「骨格」という意味であり、骨だけになった姿から「死体」の意味になったのではないかとする説がある。骨のまだ露出していない死体なら赤の他人でも儀式なり埋葬なりすべき作業があり、放置していても数年で野生動物に食われたり朽ちたりして分からなくなるものである。ランドマークとして見るなら一時の死体の姿ではなく作られた墓等の生者を納得させる恒久的な施設であろう。一時的な「屍」と訳さずに、地名アイヌ語小辞典にある「骨」と訳した方が良いのではないかと考えてみる。

 だが、骨にしても、洞窟全体に比べれば小さな、しかも埋まっていた骨で洞窟の名となるだろうかという気がする。何らかの地形を表した別の言葉だったのが kew に付会されているのではないかと思うが思いつかない。kew-poru の類例だけでなく、kew が使われたと明らかに考えられる地名も管見にないので疑問は残るが、大筋で永田地名解に従っておく。

 宗谷のケウニ(モケウニ沼の辺り)を死骸と絡める解釈が上原考にあるが「屍洞」同様に信じ難い。同所を「枯木アル処」とする永田解も木が生えていればどこにでも発生して数年で朽ちてしまう枯木が地名に使われるのか、ケウニで枯木アル処といった意味になるのか、更に信じ難い。だが、ケウニは小幌の音の類例かとも思われる。ケウニの地形を見て検討したいが、地形図を見ても茫漠とした場所が広がっているばかりでどうも分からない。

 釧路川筋左岸の五十石の辺りにもケウニがあってチャシコッとも言ったようだが、やはりよく分からない。



推定チカセトゥシ
(ローソク岩)
奥は約55m立岩

チカセトゥシ/チカポシ

今井八九郎(北海道測量原図):チカフシトフシ(約55mの立岩の位置に振られる)
松浦武四郎(蝦夷日誌):チカフシトウシ
松浦武四郎(廻浦日記):チカフントウシ
森春成 他(罕有日記):(カハリシラリから)拾丁許にてチカホシの小岬あり、又七八丁にてケイホロイ
松浦武四郎(午手控):ケソウラフイカイジヽ 昔し孔雀の如き鳥が巣を懸しと云也・・・イカイシヽは立石の事也
松浦武四郎(東蝦夷日誌):ケソラフイカイシヽ(岩)・・・またチカフシトウシ(岩磯)とも言よし
永田方正:チカ セト゜シ 鳥巣(岩) 高岩ニ鳥巣アリ故ニ名ク「アプタ」土人ハ「ケショラプ」即チ孔雀ノ巣アリト云フハ信ジ難シ室蘭江鞆土人ハ「ケショラプ」ヲ鷲鷹ナリト云フハ是ナリ
私見:cikap-set us -i[鳥の・巣・がついている・もの]/cikap us -i[鳥・がついている・もの](ローソク岩、或いはローソク岩と55m立岩)

 この地名のありうるカマナタモイから樺利平までの海岸を歩き俯瞰しても鳥の巣が目立つ地点はなかった。鳥の生息数の減った現在では致し方ない。樺利平の西の入口に標高55mほどの立岩があり、そのカマナタモイ寄り約400mに30m程の高さの少し小ぶりのローソク岩がある。

 cikap-set は海鳥の巣ではなく和人に輸出する装飾用の羽を採取する猛禽類の巣とする説があり、これらの岩の上方は猛禽類の営巣に適した場所でありそうなことはその姿から見て取れた。55mの岩の海側には周辺では他に見られなかった海鳥の糞の掛かった白い部分があり、猛禽類に限らなければ今も鳥の住まう場所ではある。

 ケショラプは kes o rap[斑・そこにある・羽]で孔雀ではないかという説があるが、アイヌの人が交易品で孔雀の模様を見ることがあったとしても、孔雀のようではない立岩の名でその名を使うとは考えにくい。動物園で見るクジャクではなく、永田地名解の伝える室蘭絵鞆のアイヌの人が言った鷲鷹などの猛禽類であって、その羽根を輸出用に採取するための場所として地名を付けたと考える。東蝦夷日誌が書くように、「鳥」で言ったチカプシトウシであると同時に「鷲鷹」のケショラプイカイジシでもあったのだろう。また、kesorap をヤマドリやキジではないかとする説もあるが、標準和名がヤマドリの鳥は北海道に生息せず、キジは昭和初期に移入されたコウライキジのみである。或いはヤマドリに似て斑紋があり、北海道ではヤマドリと呼ばれることのある元から生息しているエゾライチョウのことかとも思われるが、海鳥ではないエゾライチョウが海辺の立岩に地名を付けて呼ぶほどいつも居たり巣を作ったりするとは考えにくい(但し、アイヌ語千歳方言辞典などではエゾライチョウは humiruy である)

 鷲鷹の営巣地となりそうな場所であり、午手控の立石、永田地名解の高岩ということで、約55mの立岩かローソク岩のどちらかがチカプセトゥシと考えた。

 約55m岩が北海道測量原図にある位置で、高くより海に突き出していて目立つのでローソク岩を差し置いてチカプセトゥシとして名づけられたかと考えていたが、蝦夷日誌はチカフシトウシ「を過てカワリシラリ少しの岬也」とし、罕有日記はカハリシラリから「拾丁許」で「チカホシの小岬」とし、「又七八丁」でケイホロイとしている。チカホシはチカプセトゥシと同じようなことを言う cikap us -i[鳥・がついている・もの]だろう。蝦夷日誌に載る蝦夷行程記では、カマナタモヱ〜チカフシトウシが八丁四十五間、チカフシトウシ〜カハリシラリが五丁十五間とされている。樺利平と55m立岩は近接しており、55m立岩がより海に突き出ているので蝦夷日誌の言うカワリシラリの「少しの岬」であり、罕有日記の里程に全幅までの信頼はおけないが(イコリ〜ケイホロイの合算里程は正確のようである)55m立岩よりはローソク岩の方がケイホロイ(岩屋)までの中程に近いと言うことで、ローソク岩が蝦夷行程記・蝦夷日誌・罕有日記でのチカプセトゥシ/チカポシであったと考える。

 北海道測量原図での位置より、地形としてよく似ており、鷲鷹の営巣を妨げるものも無さそうな約55mの立岩もチカプセトゥシであったのかもしれないとも考えてみる。

 また、廻浦日記から us ではなく un が使われたこともあったかと考えてみる。

 ケショラプイカイシシの後半の部分は e-kay-cis(頭が・折れている・岩山)と、地名アイヌ語小辞典にある。先が多少丸まっているが、この程度でも先の方で折れていると見なされたのだろうかというのが気になる。


カパシラ

今井八九郎(北海道測量原図):カハリシラリ(約55m立岩の東南東約500mに振られる)
松浦武四郎(蝦夷日誌):カワラシラリ 少しの岬也
市川十郎(野作東部日記):河原白利(カハラシラリ)
松浦武四郎(廻浦日記):カハリシラリ
松浦武四郎(巳手控):カハラシラル
森春成 他(罕有日記):(ノツコツサアから)十町許にてカハリシラリ・・・又拾丁許にてチカホシの小岬
松浦武四郎(午手控):カハリシラル 水かぶり岩多きを云
永田方正:カパラ シラル 平磯
大正頃の五万図:樺利平
私見:kapar sirar[平たくある・岩]

 地図上では岩礁地帯が続いている様子が見てとれる。チカセトゥシ付近から満潮時に見渡すと海上に出ている平らな岩は見当たらないが、干潮時は200mの幅で800mに渡って平磯が出現する。この平磯は直径30cm程度の岩がゴロゴロしており、基盤には平らな一枚岩があるようだが、岩がゴロゴロする様子は kama[扁盤]と表現されるものとは異なっている。

 kapar sirar というアイヌ語は、知里真志保の「アイヌ語入門」にある音韻法則で kapassirar と発音されるはずなのに記録では皆、r が s に音韻転化していない点を森美典(1981)・(2008)は不審としている。ここの平磯はとても広いので、kapar sirar の間に程度の甚だしい事を指す助動詞 ruy が入っていたのではないかとも考えたが、こうした地形の類例は kapassirar である(小樽の川平・神恵内の川白・乙部の蚊柱など)。バチラーのアイヌ語辞典には知里真志保の示すアイヌ語の音韻法則や単語に合わない例がいくつも掲載されており、現代アイヌ語とは異なる音韻法則があったのではないかとも考えられ、樺利平もそうした例の一つで現代アイヌ語の単語で書くとすれば類例同様、kapar sirar であろうとの教示をオタルナイレコードの浜田さんよりいただいた。

 北海道測量原図での位置はこの平磯の東端である。


干潮時

満潮時

ヌプキオチ/ヌプコッチャ


これが濁りたる姿か?

市川十郎(野作東部日記):延古津茶
松浦武四郎(廻浦日記):ノフコツチヤ
松浦武四郎(巳手控):ヌツケヲチ
森春成 他(罕有日記):(イコリから)十四五町にてノツコツサア、十町許にてカハリシラリ纔(わずか)の汀あり
松浦武四郎(午手控):ヌフコツ 水がにごると云事也
永田方正:ヌキ オチ 濁リタル処 「ヌプコッチャ」ト云フハ誤ナリト
森美典(1981):語源はヌプキ・オッ・イ(Nupki-ot-i 濁り水・どっさりある・所)であろう
私見:nupkioci(nupki ot -i)[濁り水・たまっている・処]


右奥がノツコツサア
中央左に滝が見える

 nup kotca[原っぱ・の前]と、nupki oci(<ot -i)[野萱・の群在する所](nupki oci も日本語にすると複数の意味がある)を予想していた。しかし行って見ると、ノツコツサアと思われる出崎の西側には「原っぱ」や野萱の群生は見られず、全てゴロタの浜の陸側は樹林であった。また樺利平とノツコツサの岬の間にある沢はいずれも滝となって海岸に落ちているが、沢水が濁っていると言うことはなく、滝の攪拌で海水が濁っていると言うこともなかった。

 樺利平の東縁の、平磯が消える辺りに海底の小石が全て薄い褐色で、しかも海藻の生育が悪く海底まで海上から見透かせ、海水が掬ってみると濁っていないのに、白濁しているように見える地点があった。或いは海藻などに有害な鉱泉が海底から出ているのか。ここだとすれば「濁り水のたまっている処」は成り立つように思える。

 罕有日記は「ア」の名で「ノツコツサ」を出している。まだノツコツサアと思われる出崎の西側手前までしか踏査していないので「野萱」「原っぱ」を完全には否定できない。しかし、原っぱや野萱は短期間で移り変わることもあるのではないかと思う。nup は「陸地の中で山でも川原でもない所」ともされ、単に原っぱではなく、原っぱになるようなそうした地形を nup と呼ぶのであれば、海岸からすぐに山の斜面となる小幌礼文華海岸で nup kotca は考えられない。山の迫った海岸線で野萱の群生というのも考えてみれば現実的でない。nup kotca の方が旧記に伝わる音に沿っているような気がしていたが、森美典(1981)の通り、nupki ot -i[濁り水・溜まっている・する所]だったと考える。

 地名アイヌ語小辞典には ca の項に「岸」の意味が載っている。ヌフコツチヤ/ノッコッサは、同じ所を指した nupki ot ca[濁り水・溜まっている・岸(海岸)]かと考えてみたが、ca で「岸」の意味が新しいアイヌ語辞典に見られない。また、地名アイヌ語小辞典での ca の用例を見ると位置名詞ではなかったかとも思われ、単独で使われるのか疑問が残る。森美典(1981)は「ヌプコッチャやノフコッサは和人訛と考えられる」としている。和人の前に、アイヌの人の方で先に訛っていたこともありそうだが、訛りには変わりないと考えておく。


その4(イコリ岬から礼文華)

参考文献
1)重松熊五郎,阿武多場所様子大概書付,東蝦夷地各場所様子大概書,新北海道史 第7巻 史料1,北海道,北海道,1969.
2)今井八九郎,北海道測量原図(東蝦夷地),東京国立博物館蔵デジタルコンテンツ
3)松浦武四郎,秋葉實,蝦夷日誌 校訂 一編,北海道出版企画センター,1999.
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5)松浦武四郎,高倉新一郎,竹四郎廻浦日記 下,北海道出版企画センター,1978.
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12)金田一京助,増補 國語音韻論,刀江書院,1935.
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15)松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集5 午手控1,北海道出版企画センター,2007.
16)北大解剖教室調査団,小幌洞窟遺跡,北方文化研究9,北海道大学北方文化研究室,思文閣出版,1987.
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25)森美典,虻田地方史研究 西胆振のアイヌ語地名考 上,森美典,1981.



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(2009年4月16日上梓(親頁から分割) 2017年4月23日その1〜4に再編・改訂 2020年2月18日改訂)