小幌駅探訪 アイヌ語地名など
日本一の秘境駅の呼び声高い室蘭本線小幌駅に行ってきた。今でこそ全く人家がなく、道路から歩いて近づけないといわれる小幌駅だが、昔は車道や国道37号線の峠のドライブインからの踏み跡があり、今も小幌駅から道の通じている岩屋観音・小幌には人家があって人が住んでいた。今でもそれらと同じ道ではないが道は通じている。また、昔の地図には小幌以外にも現在では道の通じていない海岸、小幌駅の前浜である文太郎浜やピリカ浜、樺利平に人家がいくつも記載されていた。そういった時代はまだ過去のものではない。今でも知床などには残っている。都会で生活しているとそうやって生きてきた人々はあまりに遠く感じるのかもしれないが、決して遠いものではない。
この汽車で初訪。 今年は雪が少ないかも。 |
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駅名票 なぜか隣の礼文が「れふん」になっている。 |
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美利加浜トンネルの上から小幌駅を見る トンネルの上に向けて小幌駅から踏み跡が あるが、その先は小沢の護岸で行き止まりに なっていた。 何もないはずの小幌駅だけど、意外に建造物 は多くて待合室のほかに、鉄路の両側に小屋 以上のレベルの関連施設がある。 |
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後ろ髪引かれながら 帰りの汽車に乗った。 |
★小幌駅から道を辿っていける場所
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岩の割れ目を巻く箇所がある。 近づき過ぎないように。 上部には細引きの捨て縄が見られた。 張り方から考えるにこの垂壁を登ろうとする ロッククライマーではなく、釣り人だったろうか。 この下は文太郎浜(後述)の東の端に当たり、 海岸伝いでも行けない事もないのに、何故 下りる準備をしたのだろう・・・? |
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小幌洞窟の海岸の様子 西に洞窟があり、左に社務所のような 青い建物とトイレがある。嘗ての民家は 青い建物の所にあったらしい。そのまま 一部を残して庫裏に転用したのかも。 トイレは施錠されていたような気がする。 庫裏 菅江真澄は円空仏を見て、窟の中のカシ(笹の屋)の 子ども連れのアイヌの人と挨拶したことを記している。 |
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岩屋観音の前に注ぐ小沢沿いに国道の礼文華トンネル 西口から続く踏み跡がある。 途中までは車も通れる幅の平坦な林道で、砂防ダムの 所から林道を外れて沢の左岸に沿ってしっかりした踏み跡 が続いている。「やや整備されていない登山道」程度の 踏み跡で、十分通行できる。距離が短く勾配がきついわけ でもないので普通の靴で問題ない。 昭和36年の小幌洞窟遺跡の調査報告には洞窟に至る道が 小幌信号場からのものより他に書かれていないので、道は 無かったのかも知れないが、林道が付いてからは地元の 釣り人などが使っていたのだろう。林道は1970年代の航空 写真(国土地理院)に確認できる。地形図には道が描かれ ていないけれど、小幌駅が鉄道と船でしか行けないという のは幻想だ。 この道と岩屋観音と小幌駅を結ぶ道をつなぐと、自動車は 通行できないけれど、40-50分歩く意志があれば国道から 「道」を伝って小幌駅にアプローチできる。 |
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林道 |
国道から小幌駅まで40-50分と書いたが、道でない処を歩ける人なら旧礼文華トンネル西口から沢伝いに30分で小幌駅に到着できる。小幌駅が国道から歩いてアプローチできることは決して小幌の魅力を損なうものではない。道はあっても自動車は入らないし、豊かな自然環境と古来から伝わる人間の自然な営みの遺産は、道があっても確実に存在する。40年程前は小幌駅まで礼文華峠から作業道が通じ、自動車で乗り付けることもできたと言う。
小幌駅の北西の尾根上にも国道の昔のドライブインから明瞭な踏み跡があると言う話を聞き、2008年に言われた尾根を辿ってみた。所々に踏み跡の痕跡は残るものの、殆ど濃いネマガリタケに覆われて道として利用できたとは言いかねるものだった。
小船が上げてあった。 この浜は文太郎浜と言うらしい。 二人のアイヌに舟を漕いでもらって海を行く 菅江真澄はこの辺りで「笹家二ッ立り、 アヰノこれを仮屋(カシ)とて栖ぬ」と記し、 少なくとも1960年代までは家があり、 漁師の文太郎さん7)が住んでいたそうな。 釣り船も出してくれたらしい。 |
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ここいらの浜に多い真ん丸で真っ黒な石 |
通称「仙人の居間」を 通過しなければならない。 ここで夏は生活していたらしい。 荒れ果てた様子はちょっと恐い。 特にチラッと見える寝袋はすごく恐い。 |
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倉庫もある。 | |
コボロリゾートのベンチと思われる。 ここに座ると渡島半島に沈む夕日を 眺められる。 |
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コボロリゾートのコテージ(建設中)と思われる。 | |
水道もあります。 果実酒のサービスもあります? よく冷えています。 |
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オアラピヌイの立岩 美しいところだ。 この岩の右の下を抜けてピリカ浜に入る。 |
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エサマニカル 海岸へ下りる道 路盤は崩れ気味。 梯子は揺れる。 足場は滑る。 |
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ピリカ浜に見られる奇岩 | |
ピリカ浜の様子 JRのトンネルの護岸が自然に浸る 気分だけでいると気になってしまう。 大正時代の地形図にはこの浜に人家が 描かれ、浜の西寄りから国道に上がる 道が書かれていたが、辿ってみたけれど、 国道近くの上部を除いて痕跡は見つけ られなかった。 |
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難所がある ピリカ浜を西に進んだどんづまり。 もうプヨヌプリの窓が大きく見えるすぐ手前に難所がある。 凪の干潮でも股下まで海水に浸からなければ窓岩はくぐれない。 沢登りの防水装備で浮き輪を持って通過した。恐かった。 と、思っていたが初回通過時は干潮でも潮位の高い日だった ようだ。2回目に通過した干潮時(多分、大潮)は全く海水に 触れることなく通過できた。 道という意味ではこの手前までが小幌駅から日帰りで遊びに いける限界だろう。 |
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難所を抜けて窓をくぐると、窓の西側には テントサイトがあって、生活感がある。 但し水は西側の少し離れた沢から取って こなければならない。途中で干満によっては 海水で足を濡らすかもしれない。 |
「全北海道キャンプ場ガイド’91」には「小幌海岸キャンプ場」が掲載され、国道から真南に点線が駅を通り海岸まで記されている。しかしこの本の案内図は国道の記載自体がデフォルメされており、どこから小幌に下りたものかハッキリしない。キャンプ場としては長万部町の管理で、設備なし、開設期間使用自由、利用料金無料、「沢水しかなく利用可否不明、飲用水は携帯したほうがよい」と書かれていた。このキャンプ場は近年の版には掲載されていない。長万部町域の小幌駅前から海に向かって右手のピリカ浜方面への道に少し入った右手の平坦地(「仙人の居間」跡の裏手)がテントサイトで、その辺りの(コボロリゾートの)ベンチのように見えたものは、キャンパー用の本物のベンチだったのではないかという気がしている。或いはテントサイトのナンバープレートを下げた枠か。
菅江真澄の寛政3年の小幌沖の船旅は、船中のアイヌの人達が日本語を使えたので風光を愛でながら色々話しをしたり、イルカを見たりと楽しかったようである。
2006年に数十年間、小幌駅の除雪などを請負いながら世間を避けて夏は仙人の居間、冬は小幌駅待合室で暮らしていた「小幌の仙人」(地元では「小幌太郎さん」)と呼ばれていた方がお亡くなりになったそうだ。釣り人が通報し衰弱して救出される様子はテレビ番組でも放映された。しかし甲斐なくお亡くなりになった。自分が最後に行った時はまだ居間も待合室も寝袋が雑然と置かれ、生活感がプンプンとした状態だった。小幌駅とその周辺はこれからどう変わっていくのだろうか。一つの歴史が終わった気がした。
参考文献
1)渡辺茂,豊浦町史,豊浦町,1972.
2)永田方正,初版 北海道蝦夷語地名解,草風館,1984.
3)菅江真澄,内田武志・宮本常一,菅江真澄全集 第2巻,未来社,1970.
4)松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集4 巳手控,北海道出版企画センター,2004.
5)知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1992.
6)北大解剖教室調査団,小幌洞窟遺跡,北方文化研究9,北海道大学北方文化研究室,思文閣出版,1987.
7)小幌付近,p28,1,北海道の釣り,遠藤釣具店,1964.
8)斎藤豊,噴火湾の秘境 小幌海岸の釣り,pp52-54,24(11),北海道のつり,水交社,1994.
9)全北海道キャンプ場ガイド’91,北海道総合出版,1991.
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