松浦武四郎らの安政5年十勝越えルート



空知川源流域のアイヌ語の川の名推定と
松浦武四郎の安政5年トカチ越え推定路の地図

 佐藤輝雄(1996)の、松浦武四郎の安政5年の十勝越えの足跡推定には、トウヤウスベ山北東方のポンルーチシの東方から佐幌川筋のノシケタサヲロ川端までに誤認があるように思われる。

 ポンルーチシから下ってきて二番目の、ニゴリ沢の源流の一つがシユマフウレナイとされるのは日誌・手控の里程からも衛星写真の真っ赤な姿からも同意するが、次の「小川無名」がシーソラプチ川とされているのは、「小川無名」が「シユマフウレナイと合流してソラチえ下る」等に合わない。但し、同氏足跡図でのシユマフウレナイの位置はニゴリ沢とシーソラプチ川の間の尾根上にあたっており、ニゴリ沢の流域とは思われるが水流があるのかどうかよく分からない所である。シユマフウレナイを横断したのはもう少し西の地形図にある水線のニゴリ沢本流と思われる。

 次の地名「ニナウシユマ」「も」「シユマフウレソラチえ落る」とされ、シユマフウレソラチとシユマフウレナイは同一ということになるが、先の「小川無名」をシーソラプチ川とすると、別の川と言うことになってしまう。

 シユマフウレナイは suma hure nay[その石・赤い・河谷]で、沢中が清くないことを日本語のニゴリ沢と似たように言っていたと考える。

 ニナウシユマはシユマフウレナイの右岸支流か左岸支流か、日誌・手控の文でははっきりしない。日誌の挿図では左岸支流として描かれているが、手控の挿図と東西蝦夷山川地理取調図では右岸支流として描かれている。手控の「シユマフウレナイの北岸へこゆるニ ニナウシユマ といへる小川有」を「ニゴリ沢北岸へ渡ったらニナウシユマという小川があった」ととるなら現在の地形図に照らすと左岸支流と言うことになりそうだが、手控の挿図では両側から小川を合わせた下のシュマフウレとヌモッヘがほぼ平行して右上から左下に流れて左が下流の空知川にそれぞれ合流するように描かれている。そのシュマフウレにニナウシマが右岸から合流している。ニナウシユマの辺りを歩いていた松浦武四郎はニゴリ沢の右岸を北岸と考えていたのではないか。日誌の挿図も、針位を見直して「午に取りて」サヲロ側に進んだ方向を南とするとシユマフウレナイとヌモツペの流れ方は同様であり、更に空知川が僅かに北に偏って流れ下るように描かれているので、手控のソラチ本流へ出た時の「こへて西岸に泊る」で翌日に「宿所より直ニ」日高山脈主稜線に向かうのも空知川の左岸を西岸と考えていたということで説明出来そうである。だが、日誌の挿図でニナウシシユマ(ママ)が左岸支流となっているのは分からない。

 北海道仮製五万図ではニナウに似た音を含む「タン子ニナラオシマッケクシュヌプリ(〔tanne ninar〕osmake kus nupuri と推定)」が、トーヤウスペ山の東南東に細長い尾根上の山として描かれるが、この山は細長く延びた(tanne)尾根上の山であるということでシーソラプチ川とニゴリ沢の間の844.9mの三角点「合ノ峰」峰しか考えられない。この峰のある細長い尾根が ninar[台地]だとすると、ニナウシユマは左岸支流となりそうである。だが、この長尾根の後ろにあたる沢より、300mほど上流で合流する大麓山から下る右岸支流の方が大きく、この右岸支流の手前にも820m標高点の ninar と呼べそうな高まりがある。ニゴリ沢はこれらの支流の下手では両岸とも立った斜面の上に緩斜面が広がっている。ニナウシユマは元々川の名ではなく地域名であって、下手両岸の ninar の内の左岸の方を tanne ninar と呼び、両岸の ninar が消える後ろの所と言うことの ninar osmak[台地・の後ろ]の転訛と考える。川としてはそこの大きな右岸支流の名と考える。

 次のヘテウコヒ(ペテウコピ)、別名シユマフウレソラチブトがシーソラプチ川とホロカソラプチ川の落合とされているが、ポンルーチシから二番目の沢をシユマフウレナイ/シユマフウレソラチとすると、この落合はシユマフウレソラチが落ちていないことになってしまう(ブトは putu[その出口])。また、シーソラプチ川の大きな支流である一の沢が言及されていないことになる。一の沢落ち口付近からホロカソラプチ川落ち口付近までの900mほどで「十五六度」渡渉するというのも考えにくい。

 ヘテウコヒからサヲロルベシベ(ルウチシ)に上がり、ルートを間違えてまた空知川に下りてしまったのが空知川の下流側とされているが、「上」、「左りの方え過し」とされているので下りてしまったのは空知川の上流側と思われる。

 また、ホロカソラプチ川とシーソラプチ川の落合から東へ登った主稜線上がサヲロルベシベとされているが、そこから空知川の下流側に下りるということは、本来進むべき南方への尾根に空知川側への分岐がないので間違えようにも選択肢がないということになる。下流側に空知川のある右の方へ過ぎたら、尾根上の鞍部ではなく谷地形を何度も横断することになるので「凡一里」も進む前に気が付くはずである。佐藤輝雄(1996)の空知川に誤って下りてしまうルートを谷地形を何度も横断しないようにサヲロルベシベから主稜線上を約2.1km南下した817m標高点から、南下する主稜線より顕著な西に延びる尾根に入って傾斜が加わる辺りまでの計約3.2kmを「凡一里」と見なすと修正して考えるとしても、出直す為にサヲロルベシベまで戻ったということは本来の行程と合わせて主稜線上の約2.0kmを三度歩いているということになって、サヲロルベシベでコンパスを見直した意味が無い。戻る最中に「雪少しぬかり出して」とあるので三度目は自分たちの足跡が残っていたはずである。サヲロルベシベに戻ってコンパスを見直しても、約2.0kmは一、二度目と同じ所を歩くことになってしまう。


松浦武四郎の安政5年
トカチ越え推定路
(サヲロルベシベ〜サヲロ本川端)

 サヲロルベシベをホロカソラプチ川とシーソラプチ川の落合から登った主稜線上とすると、「峯まゝ来ること凡二里(約7.9km)」でノシケタサヲロに下りるには、佐幌川本流(二の沢)の谷が深く狭い所に下りなければならなくなる。谷底も狭い所なので、あったとされる「丸小屋(跡)」も建てるスペースがなかったのではないか。上の図のようにニゴリ沢の落ち口をヘテウコヒと、そのすぐ東の主稜線上をサヲロルベシベと考えると、サヲロルベシベから約6.7kmで596m標高点のコブの手前に達し、そこから少ない標高差の斜面で谷の広くなっているノシケタサヲロ川端に下り立てる。1.2kmほどの差は「此間至極の難所。竹多し。」とあることから、残雪が思いのほか消えていて難渋して長く感じたと言うことと思われる。

 また、サヲロルベシベから「凡十丁も行や両方に谷有」更に「行こと凡三十丁にして右の沢をシノマイサヲロ」だが、ホロカソラプチ川とシーソラプチ川の落合から登った主稜線上をサヲロルベシベとすると、凡そ四十丁(約4.4km)主稜線を南下した場所での右の沢は空知川で、シノマイサヲロが右の沢として現れるのは約7.0km先である。同地点から主稜線を北東に向かって約4km進むとすると、1kmほどで十勝側へ入り込んで南方へ向きを変える尾根に乗ってしまい、空知川へは下りられなくなる。この尾根を回避して更に3kmほど北上してから空知川へ下りると、シーソラプチ川を分けたホロカソラプチ川の源頭に近く地形も緩く「両崖切岸川巾十間計急流」という記述にはならないだろう。

 誤って空知川に下り立った地点は、手控の「凡一里も行、十丁計谷合を急に下りし」から北上して尾根が広がり、主稜線より空知川へ落ちる側稜の方が大きくなっている主稜線上の817m標高点から空知川への側稜に入り、尾根の遷急点(サヲロルベシベから尾根伝いに約4.7km)から谷に下りて空知川へ下りたと推定して図に主線として記したが、遷急点から空知川までは約440mなので十丁とは差がある。誤って稜線を4kmほど北上したのは間違いないが、一帯に空知川まで急に下り始めて1kmほどある谷筋が見当たらないので、空知川に下り立った地点が精密に決められない。また、図に示したルートで空知川へ下りたと考えると、佐幌方面には無い30mほどのやや大きな登りを経るのと、日高山脈主稜線から外れる817m標高点の尾根の広い所で90度に近い角度を曲がることになる。

 但し、手控の里程には私の考えるルートでも合わない所がある。日誌では里程が書かれていないのだが、ホンルウチシを下って二度目の小川からニナウシュマの間の「七八丁」は、ニナウシュマを上のように考えると4.3kmほどとなり、大きな開きがある。また、二度の小川とシュマフウレナイが「三ツ合て落る」とされ、手控の挿図でも三股に描かれているが、三股になっている所が地形図でも衛星写真でも確認出来ない。シュマフウレに沿って下りた全体の「凡三里計と思ふ」は、二度目の小川からニゴリ沢出合までが10km強なので、下の方ではそれなりに太くなっているニゴリ沢での「十五六度」の渡渉を交えることで長く感じたと言うことで、さほどズレはないと考える。ホンルウチシからなら13kmほどとなる。ニナウシュマからソラチ本流までの里程は手控にも日誌にも書かれていない。

 日誌のバナクシサヲロの河端に出る前の「少しの小山を越て下ること三四丁」は、突起物としての小山ではなく小さな山地の鞍部(距離約200m)を越えるということと思われる。シノマイサヲロからパナクシサヲロに20m程の高さの鞍部を乗り越すだけなのに、鞍部に連なる200mもの高さの小山を登るのは川沿いが余程困難でなければ徒労である。佐幌川(二の沢/シノマイサヲロ)の596m標高点より東の河谷は狭くない。河谷は広いが十勝川本流域まで向かうなら、20mほどの鞍部を越えてパナクシサヲロに出た方が、距離が短く水量も少なく早かったということだろう。

 松浦武四郎の安政5年の手控の翻刻本には「余録」として、この十勝越えは当てずっぽうに山中を歩かされたのではないかとされているが、空知川に誤って下りてしまうなどの一部にそうした面はあったのかもしれないが、全体としては違うと思う。「余録」には佐藤輝雄氏の見解として上川からの十勝越えは美瑛〜白金温泉〜美瑛川水源〜ルーチシ(峰越し)〜トムラウシ温泉〜十勝川筋下りが最も容易とされているが、トムラウシ温泉から十勝川までのトムラウシ川には深い峡谷があって急峻である。トムラウシ川の峡谷を避けて残雪の尾根伝いに十勝川に下りたとしても、十勝平野に出るまで川が山に寄っている箇所で、何度も残雪期の増水した十勝川本流を渡渉しなくてはならない。十勝川は増水期でなくても水量が多く流れの速い川である。白金温泉から美瑛川で東側に回り込むのは遠回りであり、遠回りを避ける為に辺別川から残雪の尾根に上がったとしても、十勝川本流の渡渉の連続は避けられない。トムラウシ川流域にも幾つもアイヌ語地名があるので、トムラウシ川の峡谷もアイヌの人々は通っていたのだろうが、残雪期・増水期に十勝平野の十勝川の南側へ行くならよりこのルートが安全で速いということで選ばれたのが松浦武四郎の通ったルートと考える。松浦武四郎の日誌に案内人を頼むのに地元のアイヌの人の解説が「当時(今時期)は川々水増して其方(真冬なら十勝へは氷結した空知川で向かうということ)中々行難し」とある。現シーソラプチ川上流のペケケヤッペッを歩きやすいD尾根に山越えする par -ke -ot pet[口・の所・についている・川]の転と考えている。ルートは季節に応じて他にもあったのではないだろうか。

参考文献
佐藤輝雄,十勝ルウチシを尋ねて,pp2-6,20,松浦竹四郎研究会会誌,松浦武四郎研究会事務局,1996.
松浦武四郎,秋葉実,戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌 上,北海道出版企画センター,1985.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集5 午手控1,北海道出版企画センター,2007.
知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1992.
北海道庁地理課,北海道実測切図「夕張」図幅,北海道庁,1894.
陸地測量部,北海道仮製五万分一地形図「十勝岳」図幅,陸地測量部,1896.
松浦武四郎,東西蝦夷山川地理取調図,アイヌ語地名資料集成,佐々木利和,山田秀三,草風館,1988.
中川裕,アイヌ語千歳方言辞典,草風館,1995.
田村すず子,アイヌ語沙流方言辞典,草風館,1996.



トップページへ

 資料室へ 

下ホロカメットク山へ
(2019年7月7日下ホロカメットク山の頁から分割)