下ホロカメットク山の位置の地図下ホロカメットク山(1668.1m)

 石狩側からは一列に並んでいるように見える十勝連峰だが、十勝側に突き出した支脈があってT字型に山が並んでいる。そのTの字の足の先の部分に他の山々より少し低く、ぽつんと存在している山が下ホロカメットク山である。その形はほぼ完璧な円錐形で尋常でない美しさである。山自体の形の美しさもさることながら、隣の境山との吊尾根はほぼ完璧な双曲線を描いており、私は大雪山系の山々からこの曲線を見るたびに魅了されている。下ホロカメットク山の形は鹿児島県の開聞岳とよく似ているが、標高は遥かに高いものの比高は開聞岳より小さい。また、少なく小さいながら放射谷があるので螺旋コースで登るわけにはいかない。

 登山ルートとしては残雪期に富良野岳原始ヶ原登山道から深い針葉樹林帯を横断するか、山には雪、林道は無雪のコンディションを狙って十勝側の奥十勝林道から北斜面を登るルートが考えられる。時期が早ければ十勝岳温泉から上ホロカメットク山、境山を経由して山の稜線を縦走するルートも可能だろう。幾つかの書物で紹介されているのを見た。私は原始ヶ原を横断するルートを採った。


下ホロカメットク山の地図1下ホロカメットク山の地図2

 2002年は雪が少なく原始ヶ原登山口までの林道に雪は全く無し。

 富良野岳原始ヶ原登山口から林間コースを選んて原始ヶ原を目指す。林間コースは殆どが作業道跡なので雪が残っていても幅広く歩き易い。最後の3の沢の川岸部分は面倒なトラバースが続くがそれほど長くない。

 3の沢を渡り20mほどの台地を一登りすると原始ヶ原に到着する。後は原始ヶ原の雪原をひたすら1083mの原始ヶ原最奥のトウヤウスベ山と十勝連峰のコルを目指して直進する。原始ヶ原は疎林で見通しは良い。景色も良い。最奥の五反沼は湧き水があるようで、少し水面が開いていた。

 1083m鞍部からは見通しの悪い暗い針葉樹林だが、天気さえ悪くなければ時折見える下ホロカメットク山を目指せばよく、問題はない。途中3本の川はスノーブリッジがあったが、水も多くなく飛び石で渡れた。途中、細長い湿原か、南北に細長い木の無い所を何度か横断する。

 1083mコルはポンルーチシ(小さい・峠)というアイヌ語地名が伝わる。ポンルーチシは安政5(1858)年に松浦武四郎が通った山越えルートだったことが佐藤(1996)によって明らかにされたという。ポンルーチシは松浦武四郎の日誌にあるが、フィールドノートである手控には出てこないようである。

 下ホロカメットク山の真西の沢地形から登ることを計画していたが、雪がないようなので境山とのコルまで北に回り込んだ。一の沢は完全に雪で塞がっていたが、左岸が急斜面になっていたので真西の沢型に雪があったとしても北側に回り込んでいたと思う。

 吊り尾根のコルは湿原のようで小さな池があった。コルからの登りだが、支庁界のすぐ南の浅い沢地形が広葉樹の疎林で登りやすく、1550m付近まで雪が残っていた。それより上ではカーペットが広がっていた。山麓のハイマツは猛烈だったが、1550m辺りまで上がるとハイマツの丈も低くなり、簡単に歩けるようになった。残雪には6本以上の爪のアイゼンがあった方が良いように思う。下りは気持ちの良いグリセードが出来た。

 この山は二重式火山のようで、標高1600m近辺に下の火山の火口縁があり、僅かに平らになっている段があるのが登っていると分かった。鹿児島の開聞岳の鉢窪と同じだ。しかし山頂は開聞岳と違って狭く、痩せていてテントを張れるスペースもないところは違う。東斜面を見下ろすと麓から山頂直下まで雪が続いている様子が見えた。登るなら東側からの方がずっと雪で楽そうだ。

 展望は最高。前富良野岳からオプタテシケ山までの十勝連峰全山が揃って見える。トムラウシ山は鋭く東大雪もニペソツ山はもちろんウペペサンケ山や石狩岳も尖って見える。西の横断してきた樹海は静かだが、東の方は造林の作業道が網目状になっている部分が見えて少しうるさいように感じる。これだけの広い平坦地が林業しか行われていないということに改めて驚きを感じる。


下ホロカメットク山から眺めた十勝岳連峰(前富良野岳〜オプタテシケ山)


★山名考+周辺の川名考

 明治24(1891)年に神保小虎は北海道地質報文で、この辺りの山名として「カムイメトッ」と「ホロカメトッ」を記している。

 明治27(1894)年の北海道庁による北海道実測切図では下ホロカメットク山と思しき位置にパナクシホロカメトヌプリと記されていた。二つめのクは小文字である。明治29(1896)年の陸地測量部による北海道仮製五万分一図ではパナクシホロカメトックヌプリと記されていた。メットクではなくメトックであった。北海道実測切図の「メト」は神保小虎の「メトッ」を何らかの解釈に基づいて変更したようにも思われる。

 解は神保小虎の記した名で完結しているならば、下ホロカメットク山の「ホロカメットク」の部分はhorka metot[後戻りする・深山幽谷]ではないかと言う気がするが、前半のhorkaはルートとしての川を修飾している例が多い。だから更に後ろに、北海道実測切図や仮製五万図ではその川の水源の山としてnupuriが付いてpana kus horka metot nupuri[川下の方・を通る・後戻りする・深山幽谷・山]になったかと考えてみるもmetot[深山幽谷/山中]を一つの川のように扱って良いのかどうかよく分からない。神保小虎のようにmetot[深山幽谷/山奥]が山名語尾となるのかどうかも分からない。metotを一つの川の源頭域とみなせるとしても、川としてのpana kus horka metotや、pena kus horka metotkamuy horka metot(上ホロカメットク山と関連)をどの川/谷か特定しなければ、山の名としての解釈につなげられないような気がする。

 仮製五万図のパナクシホロカメトックヌプリの、ヌプリの前のクも説明が付けられない。〔pana kus 〔horka metot〕〕 ku nupuri[川下の方・を通る・川の流れる方角が下流と上流で逆になる・山中/深山幽谷・を飲む・山]ならカタカナで書けば、パナクシホロカメトックヌプリとなるが、「山が山中/深山幽谷を飲む」と表現してよいのかよく分からない。ある河谷が一つの山に飲まれているというイメージは想像できないことも無いが、ku[飲む]を地形を主語にして地名中に使った例を知らない。資料中に登場した順序から考えて、はじめは「メトッ」だったのが「メト」になり、更に前の資料が振り返られて小文字の「ッ」が復活したものの「ク」の音も無視できないような気がして「メトック」になったのか。

 メトックがメットクになったのは、仮製五万図では右横書きなのに小文字の「ッ」が前の音の右下に付くので、誤読されて新しい地図で「メットク」となったものと考える。

 本来がメトッなら、ku[〜を飲む]と言うアイヌ語が使われたという想定が、意味以前に不適切と言うことになりそうである。メトであったとしてもが小文字で表記されているのであるから、kuを考えるのは不適切であった。メト、メトックという音からは地名においては水源などを指す時に用いられる例の多いアイヌ語のetok[〜の前]と言う言葉が連想される。horkaである何某かの川のetokなら「メ」の音に川の名が隠れていると考えることも出来そうだが、その「メ」をmu -i[塞がる・所]などかと考えてみるも勾配のきつい山間の源頭の河川の落ち口などが塞がっていることはあり得ない気がする。tok[凸起]というアイヌ語が地名アイヌ語小辞典にあるが、20世紀末の新しいアイヌ語辞典に項が見られない。それ以前に下ホロカメットク山などは出っ張り程度で表現されるような小さな山ではなく、「メ」の音にも説明が付けられない。もっと神保小虎の記録を素直に読んで、horkametotとは川/谷ではなく十勝側から見て手前に戻ってきているような深山幽谷としての境山や下ホロカメットク山のある尾根で、kamuymetotが最奥の上ホロカメットク山周辺の十勝岳連山の主稜線と考えるべきなのだろうか。だが、川の名に付けられたhorkaは数多いが、尾根のあり方を指してのhorkaの例を知らない。

 北見の頓別川の支流鬼河原川源頭に明治30年の北海道実測切図と明治31年の北海道仮製五万分一図にmetotに近い音の「モトツ」を山名語尾として用いたオロウェンシュプンモトツ、オロピリカシュプンモトツという山名表記があった。現在の鬼河原川か一已内川のどちらかにあたりそうな川がシュウンナイと記されているが、オロウェンシュウンやオロウェンシュウンナイ、オロピリカシュウン、オロピリカシュウンナイといった支流の名までは記されていない。シュウンナイの支流のオロウェンシュプンの水源がオロウェンシュプンモトツで、オロピリカシュプンの水源がオロピリカシュプンモトツと思われる。この「モトツ」をmetotと考えてよいならnayのような川名の語尾は、その水源付近を指して省略される或はmetotと入れ替わることがあると考えてよいのか。アイヌ語山名では川を指すpetnayが落とされて替わりに山を指すnupuriなどの言葉が入り、「・・・川の水源の山」といった意味の山名となっていることが見られる。

 pana kus horka metotとは〔pana kus 〔horka (SORAPCI)〕〕 metotということで、下ホロカメットク山の東に水源を発するホロカソラプチ川の山奥であり、ホロカソラプチ川がパナクシホロカソラプチで、「パナクカソラチ(川)の水源(の山)」といったニュアンスになったものか。下ホロカメットク山の西の境山に水源を持つ支流である一の沢が、上ホロカメットク山に突き上げるシイソラプチに対してパナクシホロカソラプチと似たような位置関係にあるpena kus 〔horka (SORAPCI)〕であったか。現在の地形図ではホロカソラプチ川は下ホロカメットク山に接しているが、ホロカ十勝川は接していない。



空知川源流域のアイヌ語の川の名推定と
松浦武四郎の安政5年トカチ越え推定路の地図

 だが、ホロカソラプチ川の位置は明治時代の地形図より今の位置とあるが、シーソラプチ川に対してhorkaな位置と言えるのか、90度曲がって外側に向かっており、後戻りしているという感じではないので疑問の生ずる所である。

 また、上ホロカメットク山の位置も一の沢の源頭というわけではない。horkaの川の名の、上流が下流側の方ヘ向かっている他の例から考えて、現在「ホロカソラプチ川」とされているのがシイソラプチで、「一の沢」とされて下ホロカメットク山と境山の間に流れているのがパナクシホロカソラプチ、「シーソラプチ」とされて上ホロカメットク山に突き上げているのがペナクシホロカソラプチではなかったかと考えてみる。こう考えると、ホロカソラプチがhorkaの例外とならず、山の名がその川の水源ということで川の名と一致する。明治の地図でホロカソラプチの位置の誤記載があり、現在まで踏襲されていると考える。十勝川のsi-(又は無印)とhorkaの位置関係は現行で妥当であり、ホロカ十勝川に接していない両horka metot nupuriは十勝川の流れに関する名ではない。

 だが、そう考えるとシーソラプチ川と一の沢の上下関係が問題になる。空知川の上手に位置するhorkaの分流が一の沢で、下手の分流が上ホロカメットク山に突き上げる現在のシーソラプチ川である。山の名は神保小虎や北海道庁の測量に把握されたが位置に曖昧さが残り、ペナクシホロカとパナクシホロカの川の名が把握されず、先行する東西蝦夷山川地理取調図でシノマンソラチがヲタッテシケとヒヱノホリから下っているように描かれていることもあって、ホロカソラプチの流れを分流のない支流の川と誤認することで川のペナクシホロカとパナクシホロカの想定・推定が困難になり、空知川源頭域だけから見て下手に位置する「山」にパナクシホロカメトヌプリ=下ホロカメットク山と、上手に位置する山にペナクシホロカメトヌプリと、川の名に由来する山名であったと考慮されずに名が振られて、現在まで踏襲されていると考える。

 下ホロカメットク山はペナクカメトッヌプリ〔〔pena kus 〔horka (SORAPCI)〕〕 metot〕 nupuri[川上の方・を通る・後戻りする・(空知川の)・山奥・の山]で、現在の一の沢の源頭の山の意であったと考える。神保小虎の記録でmetotが所属形のmetociでないようなのが気にかかるが、概念形がそのまま並ぶこともあるのか。

 小泉秀雄(1918)は現在の下ホロカメットク山に「尖り山」や「槍ヶ岳」の名を提案しているが、定着しなかったようだ。これらの山名は坂本直行のスケッチなどのタイトルで用いられているのを見かけたことがある。小泉秀雄(1918)はトウヤウスベ山から下ホロカメットク山にかけての高原に「羆ヶ原」の名を提案しているが、こちらも定着しなかったようだ。「羆ヶ原」は、ヒグマは山間ならどこにでも居り、樹木が少なくヒグマを目にしやすい原というわけでもないので、無理のある提案だったのではないかと思う。

 松浦武四郎の安政5年の十勝ルーチシ越の際の野帳である午手控の翻刻の頭注で解読の秋葉氏は松浦武四郎の記したサヲロノホリを下ホロカメットク山としている。しかし、氏の解読された松浦武四郎の文章を読む限り、サヲロノホリは佐幌岳で下ホロカメットク山については何も言っていないように私には読める。日高山脈主稜線上のルウチシ(峠・シーソラプチ川支流ニゴリ沢落ち口のすぐ東と推定)から磁石を南に切ってシノマイサヲロの小沢(西佐幌川と推定)とノシケタサヲロ(佐幌川本流(二の沢)と推定)の間を峯まま(尾根上を)進み、「右の方シノマイサヲロの向」にある「高山」は佐幌岳しかない。

・上ホロカメットク山

 上ホロカメットク山が下ホロカメットク山と対になる〔〔pana kus 〔horka (SORAPCI)〕〕 metot〕 nupuriであったかには疑問がある。北海道実測切図では、現在のシーソラプチ川の最奥にペナクシホロカメトヌプリと振られ、十勝岳連峰の主稜線とパナクシホロカメトヌプリへの稜線の分岐点となっているが、十勝岳連峰の主稜線がクランク状になっており、十勝岳側の北北西に「カムイメトヌプリ」の名がある。ペナクシホロカメトヌプリ(1933m)とカムイメトヌプリ(1936m)の二箇所で主稜線が屈曲してクランク状となっている。クランクの西側がおかしいようで、南側に撓みながら前富良野岳方面に連なっており、三峰山と富良野岳に相当するピークは描かれていない。

 カムイメトクヌプリとペナクシホロカメトクヌプリとパナクシホロカメトクヌプリはほぼ直線上に並んでおり、カムイメトクヌプリとペナクシホロカメトクヌプリ、ペナクシホロカメトクヌプリとパナクシホロカメトクヌプリの距離間隔はほぼ1:4である。カムイメトクヌプリとパナクシホロカメトクヌプリの距離は約6.5kmで、現在(2017年)の地形図での上ホロカメットク山と下ホロカメットク山の距離約6.2kmと大きな差はない。現在の地形図で、上ホロカメットク山をカムイメトクヌプリと見なしてペナクシホロカメトクヌプリの位置を見ると1850mのコブがある。ペナクシホロカメトクヌプリとは別に現在の境山に相当するピークが名無しで描かれているので、標高値も合わせて、1850mのコブがパナクカメトッヌプリpana kus horka (SORAPCI) metot nupuri[川下の方・を通る・後戻りする・(空知川の)・山奥・の山]で、現在の上ホロカメットク山はカムィメトッヌプリkamuy metot nupuri[カムィの・山奥・の山]と考える。kamuyは連体修飾用法で「非常によい・美しい、非常に危険な。」と訳されるが、ここの場合は単に「最奥にある」といったニュアンスで名づけられたのではなかったかと考えてみる。十勝岳連峰の山々は何れも美しく、天候が悪化すれば危険なのは何れの山も同じであり、以下で考えるように上ホロカメットク山は昔から直下にルートがあったことが考えられ、この山が特に「非常に危険」であるとは思えない。metotが共通しているのでカムイメトッも空知川の山奥ということかと考えたが、或いは崖の連なる上ホロカメットク山北西面のヌッカクシ富良野川の源頭が「非常に危険な山奥」と言うことだったかも知れないとも考えてみる。十勝川側は谷は狭いが等高線の間隔が広く、航空写真等見ても危険そうな感じがしない。

・pena kus horka(現シーソラプチ川)上流の支流名

 北海道実測切図・北海道仮製五万図には現在のシーソラプチ川の支流名として下からセチリンペッ、ポロピナィ、ペケケヤッペッが記されている。セチリンペッとポロピナィが左岸支流で、十勝岳連峰主稜線に達する最も奥の川がペケケヤッペッである。明治時代の深い山間ということで、地形描写のあまり正確でない地図上の地名なので現在の地形図と衛星写真(GoogleEarth)からその位置を推定してみる。

 標高1195m付近に境山から落ちる左岸支流がセチリンペッと考える。アイヌ語のsitu or un pet[山の走り根・の所・に入る・川]の転訛と考える。本流との間に直線的な細い尾根を挟んでおり、この尾根がsituであると考える。

 ポロピナィは地形図上では谷筋がはっきりしないが、裂溝状の崖記号のある標高1400mの所で落ちる左岸の谷筋と考える。谷筋を230mほど遡ると上方から長く延びる広大な岩塊斜面に出る。この岩塊斜面の谷筋であると言うことの〔poro pi〕 nay[大きい・石・河谷]ではなかったか。

 ペケケヤッペッは、崖の続く十勝岳から富良野岳の北斜面の中央にあって降り易いD尾根に入る処であることを言った、par -ke -ot pet[口・の所・についている・川]の転訛と考える。富良野岳の南西のルウチシとは別の山越えルートであったと考える。「〜についている」の-otは、戸口や窓のすだれに関して使われるようである。山の通りやすい鞍部も戸口の一種のようにみなされることがあったのではないかと考えてみる。


★松浦武四郎の安政5年十勝越えルート

 佐藤輝雄(1996)の、松浦武四郎の安政5年の十勝越えの足跡推定には、トウヤウスベ山北東方のポンルーチシの東方から佐幌川筋のノシケタサヲロ川端までに誤認があるように思われる。

 ポンルーチシから下ってきて二番目の、ニゴリ沢の源流の一つがシユマフウレナイとされるのは日誌・手控の里程からも衛星写真の真っ赤な姿からも同意するが、次の「小川無名」がシーソラプチ川とされているのは、「小川無名」が「シユマフウレナイと合流してソラチえ下る」等に合わない。但し、同氏足跡図でのシユマフウレナイの位置はニゴリ沢とシーソラプチ川の間の尾根上にあたっており、ニゴリ沢の流域とは思われるが水流があるのかどうかよく分からない所である。シユマフウレナイを横断したのはもう少し西の地形図にある水線のニゴリ沢本流と思われる。


松浦武四郎の安政5年
トカチ越え推定路
(サヲロルベシベ〜サヲロ本川端)

 次の地名「ニナウシユマ」「も」「シユマフウレソラチえ落る」とされ、シユマフウレソラチとシユマフウレナイは同一ということになるが、先の「小川無名」をシーソラプチ川とすると、別の川と言うことになってしまう。

 シユマフウレナイはsuma hure nay[その石・赤い・河谷]で、沢中が清くないことを日本語のニゴリ沢と似たように言っていたと考える。

 ニナウシユマはシユマフウレナイの右岸支流か左岸支流か、日誌・手控の文でははっきりしない。日誌の挿図では左岸支流として描かれているが、手控の挿図と東西蝦夷山川地理取調図では右岸支流として描かれている。手控の「シユマフウレナイの北岸へこゆるニ ニナウシユマ といへる小川有」を「ニゴリ沢北岸へ渡ったらニナウシユマという小川があった」ととるなら現在の地形図に照らすと左岸支流と言うことになりそうだが、手控の挿図では両側から小川を合わせた下のシュマフウレとヌモッヘがほぼ平行して右上から左下に流れて左が下流の空知川にそれぞれ合流するように描かれている。そのシュマフウレにニナウシマが右岸から合流している。ニナウシユマの辺りを歩いていた松浦武四郎はニゴリ沢の右岸を北岸と考えていたのではないか。日誌の挿図も、針位を見直して「午に取りて」サヲロ側に進んだ方向を南とするとシユマフウレナイとヌモツペの流れ方は同様であり、更に空知川が僅かに北に偏って流れ下るように描かれているので、手控のソラチ本流へ出た時の「こへて西岸に泊る」で翌日に「宿所より直ニ」日高山脈主稜線に向かうのも空知川の左岸を西岸と考えていたということで説明出来そうである。だが、日誌の挿図でニナウシシユマ(ママ)が左岸支流となっているのは分からない。

 北海道仮製五万図ではニナウに似た音を含む「タン子ニナラオシマッケクシュヌプリ(〔tanne ninar〕 osmake kus nupuriと推定)」が、トーヤウスペ山の東南東に細長い尾根上の山として描かれるが、この山は細長く延びた(tanne)尾根上の山であるということでシーソラプチ川とニゴリ沢の間の844.9mの三角点「合ノ峰」峰しか考えられない。この峰のある細長い尾根がninar[台地]だとすると、ニナウシユマは左岸支流となりそうである。だが、この長尾根の後ろにあたる沢より、300mほど上流で合流する大麓山から下る右岸支流の方が大きく、この右岸支流の手前にも820m標高点のninarと呼べそうな高まりがある。ニゴリ沢はこれらの支流の下手では両岸とも立った斜面の上に緩斜面が広がっている。ニナウシユマは元々川の名ではなく地域名であって、下手両岸のninarの内の左岸の方をtanne ninarと呼び、両岸のninarが消える後ろの所と言うことのninar osmak[台地・の後ろ]の転訛と考える。川としてはそこの大きな右岸支流の名と考える。

 次のヘテウコヒ(ペテウコピ)、別名シユマフウレソラチブトがシーソラプチ川とホロカソラプチ川の落合とされているが、ポンルーチシから二番目の沢をシユマフウレナイ/シユマフウレソラチとすると、この落合はシユマフウレソラチが落ちていないことになってしまう(ブトはputu[その出口])。また、シーソラプチ川の大きな支流である一の沢が言及されていないことになる。一の沢落ち口付近からホロカソラプチ川落ち口付近までの900mほどで「十五六度」渡渉するというのも考えにくい。

 ヘテウコヒからサヲロルベシベ(ルウチシ)に上がり、ルートを間違えてまた空知川に下りてしまったのが空知川の下流側とされているが、「上」、「左りの方え過し」とされているので下りてしまったのは空知川の上流側と思われる。

 また、ホロカソラプチ川とシーソラプチ川の落合から東へ登った主稜線上がサヲロルベシベとされているが、そこから空知川の下流側に下りるということは、本来進むべき南方への尾根に空知川側への分岐がないので間違えようにも選択肢がないということになる。下流側に空知川のある右の方へ過ぎたら、尾根上の鞍部ではなく谷地形を何度も横断することになるので「凡一里」も進む前に気が付くはずである。同地点から主稜線上を約2.1km南下した817m標高点から、南下する主稜線より顕著な西に延びる尾根に入って傾斜が加わる辺りまでの計約3.2kmを「凡一里」と見なすとすると、出直す為にサヲロルベシベまで戻ったということは本来の行程と合わせて主稜線上の約2.0kmを三度歩いているということになって、サヲロルベシベでコンパスを見直した意味が無い。戻る最中に「雪少しぬかり出して」とあるので三度目は自分たちの足跡が残っていたはずである。サヲロルベシベに戻ってコンパスを見直しても、約2.0kmは一、二度目と同じ所を歩くことになってしまう。

 サヲロルベシベをホロカソラプチ川とシーソラプチ川の落合から登った主稜線上とすると、「峯まゝ来ること凡二里(約7.9km)」でノシケタサヲロに下りるには、佐幌川本流(二の沢)の谷が深く狭い所に下りなければならなくなる。谷底も狭い所なので、あったとされる「丸小屋(跡)」も建てるスペースがなかったのではないか。上の図のようにニゴリ沢の落ち口をヘテウコヒと、そのすぐ東の主稜線上をサヲロルベシベと考えると、サヲロルベシベから約6.7kmで596m標高点のコブの手前に達し、そこから少ない標高差の斜面で谷の広くなっているノシケタサヲロ川端に下り立てる。1.2kmほどの差は「此間至極の難所。竹多し。」とあることから、難渋して長く感じたと言うことと思われる。

 また、サヲロルベシベから「凡十丁も行や両方に谷有」更に「行こと凡三十丁にして右の沢をシノマイサヲロ」だが、ホロカソラプチ川とシーソラプチ川の落合から登った主稜線上をサヲロルベシベとすると、凡そ四十丁(約4.4km)主稜線を南下した場所での右の沢は空知川で、シノマイサヲロが右の沢として現れるのは約7.0km先である。同地点から主稜線を北東に向かって約4km進むとすると、1kmほどで十勝側へ入り込んで南方へ向きを変える尾根に乗ってしまい、空知川へは下りられなくなる。この尾根を回避して更に3kmほど北上してから空知川へ下りると、シーソラプチ川を分けたホロカソラプチ川の源頭に近く地形も緩く「両崖切岸川巾十間計急流」という記述にはならないだろう。

 誤って空知川に下り立った地点は、手控の「凡一里も行、十丁計谷合を急に下りし」から北上して尾根が広がり、主稜線より空知川へ落ちる側稜の方が大きくなっている主稜線上の817m標高点から空知川への側稜に入り、尾根の遷急点(サヲロルベシベから尾根伝いに約4.7km)から谷に下りて空知川へ下りたと推定して図に主線として記したが、遷急点から空知川までは約440mなので十丁とは差がある。誤って稜線を4kmほど北上したのは間違いないが、一帯に空知川まで急に下り始めて1kmほどある谷筋が見当たらないので、空知川に下り立った地点が精密に決められない。また、図に示したルートで空知川へ下りたと考えると、佐幌方面には無いやや大きな登りを経るのと、817m標高点の所で90度に近い角度を曲がることになる。

 但し、手控の里程には私の考えるルートでも合わない所がある。日誌では里程が書かれていないのだが、ホンルウチシを下って二度目の小川からニナウシュマの間の「七八丁」は、ニナウシュマを上のように考えると4.3kmほどとなり、大きな開きがある。また、二度の小川とシュマフウレナイが「三ツ合て落る」とされ、手控の挿図でも三股に描かれているが、三股になっている所が地形図でも衛星写真でも確認出来ない。シュマフウレに沿って下りた全体の「凡三里計と思ふ」は、二度目の小川からニゴリ沢出合までが10km強なので、下の方ではそれなりに太くなっているニゴリ沢での「十五六度」の渡渉を交えることで長く感じたと言うことで、さほどズレはないと考える。ホンルウチシからなら13kmほどとなる。ニナウシュマからソラチ本流までの里程は手控にも日誌にも書かれていない。

 松浦武四郎の安政5年の手控の翻刻本には「余録」として、この十勝越えは当てずっぽうに山中を歩かされたのではないかとされているが、空知川に誤って下りてしまうなどの一部にそうした面はあったのかもしれないが、全体としては違うと思う。「余録」には佐藤輝雄氏の見解として上川からの十勝越えは美瑛〜白金温泉〜美瑛川水源〜ルーチシ(峰越し)〜トムラウシ温泉〜十勝川筋下りが最も容易とされているが、トムラウシ温泉から十勝川までのトムラウシ川には深い峡谷があって急峻である。トムラウシ川の峡谷を避けて残雪の尾根伝いに十勝川に下りたとしても、十勝平野に出るまで川が山に寄っている箇所で、何度も残雪期の増水した十勝川本流を渡渉しなくてはならない。十勝川は増水期でなくても水量が多く流れの速い川である。白金温泉から美瑛川で東側に回り込むのは遠回りであり、遠回りを避ける為に辺別川から残雪の尾根に上がったとしても、十勝川本流の渡渉の連続は避けられない。トムラウシ川流域にも幾つもアイヌ語地名があるので、トムラウシ川の峡谷も通過されていたのだろうが、残雪期・増水期に十勝平野の十勝川の南側へ行くならよりこのルートが安全で速いということで選ばれたのが松浦武四郎の通ったルートと考える。現シーソラプチ川上流のペペケヤッペッで考えたように、ルートは他にもあったのではないだろうか。

参考文献
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(2002年5月10日上梓 10月13日写真挿入及び修正 2012年4月22日山名考修正 2017年9月30日改訂)