山名考
有珠山
有珠山周辺のアイヌ語地名については地元の森美典(2008)が詳しい。
1891(明治24)年の永田方正の「北海道蝦夷語地名解」2)では Ye kere use guru イェケレウセグル「軽石ヲ削リ出ス神(有珠ノ噴火山ノ名ナリ)」とされた。山田秀三3)は有珠地区の山として松浦武四郎の記述からウス・ヌプリ(有珠の・山)を第一に挙げながらも、これに「イェ(ye)は元来膿のことであるが、火山を地面のおできと考えたのか、熔岩や軽石のこともそれでいった」と解釈をつけた。森美典(2008)は明治時代の雑誌記事や、やはり明治時代の地元に長らく埋もれていた資料にあった古老の説を引き、uhuy nupuri[燃えている・山]を第一に挙げながら「ke-reは『削らせる』の意なのでこの解には首をかしげたくなる」と永田・山田の解釈に疑問を呈している。森美典(2008)も参照する虻田町史4)ではアイヌの古老が有珠山に酒を捧げる時に「チケウィウセグル、チケウィウセカヌイ(ママ)『形の悪い者』『形の悪い神』」と表現している例を伝える。榊原正文(2007)は ye kere us kur とし、「熔岩<軽石>・削らせる・よくした・(魔)神」と解しつつ、松浦武四郎の東蝦夷日誌にあった「ウシヨロノホリ」より us oro nupuri[砂浜入江(有珠)・の所の・山]が本来の起源であったとしている。
永田の解を逐語的に解釈すると ye ke -re use kur[膿(軽石?)・削る・(使役の接尾辞)・普通の(連体詞)・人]となりそうだが、ke[削る]は二項動詞なので使役の接尾辞 -re と合わせると使役の動詞としては「〜が〜に〜を削らせる」のように三項取らなくてはならない6)が、ye と use-kur の二項しかないのでアイヌ語として文法的に破綻する。kur は gur と発音されてもアイヌ語では k と g の音を区別しないので同じ事である7)。kamuyではあるが、「形の悪い」とされ、災厄ともなっており、尊崇される位の高い kamuy という状況ではなかったと思われる。
榊原正文(2007)の ye kere us kur では、永田がウセと記述した部分を us ウシとしているが、虻田町史の「チケウィウセグル」の例からもウセの音で考えたほうが良いのではないかと思う。この解釈でも項が足りず文法的にも成り立たないのは ye kere use kur の場合と同じである。有珠山の噴火活動は周期があり間歇的で、動詞 us を使って「いつもその行為(軽石を削りだすこと)をしている」とは表現されないような気もする。削りだすのは火口から噴出される火山灰ではなく噴火と関わり無く進む開析のことなのだろうか。
イヘケレウセクル i- he- ke -re use kur[それに・上の端の方・を削る・(使役の接尾辞)・普通の・者]のような気がする。最初の i- は目的語の替わりとなる接頭辞で動詞の項を一つ減らす。he- は頭や上の方を示す接頭辞で動詞の項を一つ減らす。長いので普段からこう呼んでいたのではなく雅語での表現であり、それゆえに冒頭のイヘがイェと聞き取られたと考える。何らかのもっと強い力に「頭を削らされている」「普通の者」と言うことではなかったか。アイヌの古老のチケウィウセグル/チケウィウセカムイのチケの部分は ci-ke で、ci- が中相形形成の接頭辞で ci-ke で「削られる」という意味となり、削る主体が有珠山そのものではないことがイエケレウセクルと同様に表現されているのではなかったかと考える。チケウィウセグル/チケウィウセカムイは、アイヌ語に wi という音節はないようなので、ウィの部分を文字に起こした人の耳による別の音の誤認と考える。修飾語+自動詞の合成自動詞で cikewen use kur/kamuy[削られて悪くなっている・普通の・者/カムィ]ではなかったかと考える。室蘭の地球岬2)(ポン/ポロ チケウェー)3)も cikewen で自動詞の名詞的用法で「削られて悪くなっている所」といったことではないかという気がする。
森美典(2008)の uhuy nupuri は道内の多くの火山や火山を思わせる山がこの名を持っていたことを考えると、有珠山もまたこう呼ばれていてもおかしくない気がする。ただ江戸時代以前の記録では出てこないようだ。虻田町史(1962)、壮瞥町史(1979)9)ではウフィヌプリとしている。アイヌ伝承の聞き取りの中で「ウフィヌプリ」と語られたのが書かれている。明治24-28年頃の地元に残された「白井筆記」にはオフイヌプリと書かれている1)と言う。明治29年の雑誌太陽10)の伊藤保三の地理紀行記事の中でアイヌ語のウ井ノボリ Uinovori(焼けたる・山)として登場している。伊藤は「オヽ」というアイヌの人にアイヌ語を問い直したと言う。
榊原正文(2007)のウショロヌプリの解で、us oro[湾・の所]とされるが、ウシを[湾/入江]とする訳は近年発行のアイヌ語辞典6)11)12)に見当たらない。しかし有珠地区を示すウショロは1824(文政7)年の上原熊次郎の解13)にもあり、昔から「湾/入り江」と言われてきた。入江の地名として使われているのは有珠の他、現在でも通用している地名で湾のある小樽の忍路、寿都の潮路などがある。陸上でも尻餅をついたような地形でオショロコッと呼ばれる地名は道内に残されている。アイヌ語の o はカタカナにするとオだが、やや日本語のウに近い14)。ウスケシ(湾の端)などといわれた函館や、せたな町大成区の臼別(うすべつ)にも顕著な湾がある。湾や入江を指す us は、いわば古語であり現代アイヌ語に残らなかったと考えるべきなのだろうか。ウシヨロノホリの出典とされる東蝦夷日誌15)は先行する蝦夷日誌16)、竹四郎廻浦日記17)、二つの東西蝦夷山川地理取調日誌18)19)を元に脚色して作られたとされ、これらの元本では見落としもあろうがウショロはあってもウショロヌプリの記述は見られない。が、1791(寛政3)年の菅江真澄は「えぞのてぶり」の中で「蝦夷の詞にはウシヨロノ・ノボリとこそいふなれ」19)と記している。ウシヨロノのノの文法的解釈が自分には付けることが出来ないが(或いは USORO un nupuriか)、江戸時代よりウショロヌプリに類する山の呼び方もあったと考えるべきのようである。
山田秀三のあげたウスヌプリは松浦武四郎の戊午東西蝦夷山川地理取調日誌に「ウスノホリ」19)とあり、安政(1854-59)の頃のアイヌの人々はウスヌプリと呼んでいたという事と思われる。1808(文化5)年の秦檍麻呂の東蝦夷地名考でも「ウスノボリ」21)とある。他の記録は、菅江真澄を除けば臼岳とか宇須岳といった和名としての記録ばかりを見るような気がする。山麓の有珠や有珠山の名を、有珠山の山容が臼(うす)に似ているからとする説があるが、ウス場所など古くから記録のある山麓の地名が先で、山名はそれから取られたと考えた方が自然である。松浦武四郎の安政3年の手控(フィールドノート)に「ウス山 ウツシヨロの訛り、此澗の事を云也」とあるのも、山の名の前に山麓の地名があったということを地元の人から聞いたと言う事と思われる。
アシリヌプリ・アシタヌプリという名も有珠山のアイヌ語名として見られるが、アシリヌプリは1663年からあった小有珠フシコヌプリ husko nupuri[古い・山]に対して、1853年生成と言われる(異説もあり)の大有珠アシリヌプリ asir nupuri[新しい・山]とされ、外輪山を含めた有珠山全体の名称としては不適切であろう。asir nupuri は音韻法則上、カタカナで表記するとしたらアシンヌプリと発音されることも考えられる7)。小有珠以前には外輪山の上に溶岩ドームはなかった。アシリヌプリ、フシコヌプリ、アシタヌプリの音としての記載の出典については江戸時代以前の史料に見当たらないようだ23)。1855(安政2)年の長沢盛至による東蝦夷地海岸図台帳に「土人いいしは・・・新に新山の突出したり・・・」24)とあり、この記録を引用する町史等で新山・古山に括弧書きで「アシリヌプリ」「フシコヌプリ」が書かれていることがあるが、これは日本語としての記録で、音としてアイヌが何と呼んだかまでは書かれていないと見るべきではなかろうか。日本語に堪能なアイヌの人もいたので、アイヌが「アシリヌプリ」と大有珠を呼んだ記録にはならないように思われる。アシタヌプリは地元では「動く・山」の意として伝わっているようだが、近年のアイヌ語辞典を見てもアシタヌプリで「動く山」や、それに近い意味になる訳を見ていない。河野常吉の1895(明治28)年以降のアイヌの人への聞き取りで大有珠がアシリヌプリ(新山)、小有珠がフシコヌプリ(古山)であると報告されたのが、管見ではアイヌ語の音として紹介された初出のようである。或いはこの地方の方言では音韻変化則とされる n の前の r が n にならなかったか、破裂を強くダ行音のように発音する人もいるというラ行音に準じて閉音節末の r を d のように、音韻則が適用しないように分析的に発音して asir nupuri をアシタヌプリのように聞いた人がいたということだろうかと考えてみる。
新日本山岳誌(2005)は「山名はアイヌ語の『ウショロ』(胸)で湾口があたかも臆(むね)(ウショロ)のようで、これが訛ってウスとなった」としているが、「むね」ならば二回目も「胸」の字を使えば良いのに「臆」とは異な用字である。湾口が胸のようであるとの地形は想像しにくい。臆の字でウショロとするのは松浦武四郎の東蝦夷日誌15)にあるが、松浦武四郎はウショロの「臆」に「フトコロ」と振り仮名を付けている。ウショロを「臆」だけでなく「懐(フトコロ)」とも書いている17)18)。現代に於いて「臆」は「むね」と読み、「ふところ」とは読ませないが、振り仮名が付いていたのだから引用するならば振り仮名の指した意を汲むべきでなかったろうか。但し、アイヌ語で「ふところ」は upsor である。深く入った有珠湾が懐のようだという解釈は頷きたくもなるが、us oro[湾・のところ]を似た音の upsor に付会した解釈であったのだろう。
有珠山は有珠/ウショロのコタンの名が先にあるウスヌプリ US nupuriか、ウソロヌプリ(ウショロヌプリ) USORO nupuri、またウフィヌプリ uhuy nupuri であったと考えておく。イェケレウセグルやチケウィウセグルはカムイノミなど限られた場での呼称だったと考えておく。
参考文献
1)森美典,豊浦町・洞爺湖町・伊達市・壮瞥町のアイヌ語地名考,森美典,2008.
2)永田方正,初版 北海道蝦夷語地名解,草風館,1984.
3)山田秀三,北海道の地名,北海道新聞社,1984.
4)虻田町,虻田町史,虻田町役場,1962.
5)榊原正文,洞爺湖周辺のアイヌ語地名,pp47-66,10,アイヌ語地名研究,アイヌ語地名研究会・北海道出版企画センター,2007.
6)中川裕,アイヌ語千歳方言辞典,草風館,1995.
7)知里真志保,アイヌ語入門,北海道出版企画センター,2004.
8)田村すず子,アイヌ語,言語学大辞典 第1巻,亀井孝・河野六郎・千野栄一,三省堂,1988.
9)壮瞥町史編さん委員会,壮瞥町史,壮瞥町,1979.
10)伊藤保三,洞爺湖,pp4019-4027(pp211-219),2(16),太陽,博文館,1896.
11)田村すず子,アイヌ語沙流方言辞典,草風館,1996.
12)萱野茂,萱野茂のアイヌ語辞典,三省堂,1996.
13)上原熊次郎,蝦夷地名考并里程記,アイヌ語地名資料集成,佐々木利和,山田秀三,草風館,1988.
14)北道邦彦,アイヌ語地名で旅する北海道(朝日選書),朝日新聞社,2008.
15)松浦武四郎,吉田常吉,新版 蝦夷日誌 上 東蝦夷日誌,時事通信社,1984.
16)松浦武四郎,秋葉實,校訂 蝦夷日誌 一編,北海道出版企画センター,1999.
17)松浦武四郎,高倉新一郎,竹四郎廻浦日記 下,北海道出版企画センター,1978.
18)松浦武四郎,秋葉實,丁巳 東西蝦夷山川地理取調日誌 上,北海道出版企画センター,1982.
19)松浦武四郎,秋葉實,戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌 上,北海道出版企画センター,1985.
20)菅江真澄,内田武志・宮本常一,菅江真澄全集 第2巻,未来社,1971.
21)秦檍麻呂,東蝦夷地名考,アイヌ語地名資料集成,佐々木利和,山田秀三,草風館,1988.
22)松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集3 辰手控,北海道出版企画センター,2001.
23)三松三朗,温故知新 有珠山明治活動以前史料集,壮瞥町 昭和新山生成50周年記念事業実務委員会,1997.
24)長沢盛至,東蝦夷地海岸台帳,北海道立図書館北方資料室蔵マイクロフィルム.(1855年)
25)河野常吉,有珠岳の噴火,河野常吉著作集1 考古学・民族誌編,北海道出版企画センター,1974.
26)京極紘一,有珠山,新日本山岳誌,日本山岳会,ナカニシヤ出版,2005.
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