音調津神社から |
オリコマナイ山(ca.235m)
松浦武四郎の絵図に描かれる本物モイワ。
音調津の街から杉の沢支線林道に入り、緩やかに西斜面を登る。
谷が耳型に開けている処から作業道跡が南北の尾根に対称についているが、下の方では作業道跡の上より山肌の方がヤブが薄い。鹿の声がよく響いていた。
作業道跡は上がるに従って歩きやすくなる。しかし、標高180mあたりの水平の作業道より上には上がらない。そのまま南峰へ上がった。南峰は樹林の中の笹薮で尾根の東側はエゾマツの植林となっており、暗くて海は見えない。
北峰へも薄いヤブが続く。北峰の方が高いようだ。北峰は稜線が長い。東側は険しく切れ落ちているが木は生えているしヤブもある。しかし波濤で泡立つ海面を見下ろしているとお尻が寒い。南峰よりは樹林が薄いので陸側を眺めるも、天候が良いというわけでもなかったのであまり遠方が望めず、どの山が松浦武四郎の絵に描かれたシュルクモイワに当たるのか見当が付かない。
下りは途中で尾根を乗り換え、杉の沢とポンヲナヲベツの鞍部に下りた。この尾根の周囲は若い植林である。北側は植林したてで幼木ばかりだ。南側も背が低いが針葉樹であるので中は暗くなっている。
泉浜覆道が目立つ 北の海岸線 |
美幌から 振り返る |
鞍部にはかつて広尾山道と呼ばれる道が通り、北海道の東海岸を結ぶ道路の一部であったという。杉の沢支線林道もその跡の一部なのではないかと思う。鞍部から北側に下りてみた。林道はすぐ南の盆地状地形の底で終わっていた。ポンヲナヲベツの水流を見に行くと谷は盆地状の台地から急に切れ落ちていて下りられない。しかし戻って林道の終点から幼樹の中を目を凝らすと少しだけ歩道の跡のようなものがつながっているのが見えた。ブルドーザーで作られたような土盛りの列に若木が植えられているのに微かでも道の跡がよくぞ残っていたものだと思った。
道の跡は鹿がよく踏んでいる。台地の端に路盤が続き、小さな谷の脇をジグを切って急降下してポンヲナヲベツに下りていた。しかし鹿用の道ではないことは歩けば分かる。かつては人間用だった。河原を下っていくとすぐに潮騒が聞こえる。砂防ダムと番屋があり、黄金道路に下りた。
今回の広尾山道は音調津〜ポンヲナヲベツに限られるが、音調津から広尾まで山中を通るルートもある。昔からある道でこの時も林道の分岐付近で拡張改修工事が行われていた。そちらは黄金道路同様、もう二車線の舗装道路にまで発達してしまった。途中の美幌からこのルートに抜ける連絡道も、アイヌの時代から連絡道があったことを示す地名が残っている。美幌からの道も車道として今も供用されている。一方で広尾山道のように消えかかっている道もある。
オリコマナイ山の名は地形図にないが、幼少時より音調津に住んでいた土屋茂の本にあるので山名として扱って良いのだと思う。しかし先住民アイヌの言葉である「モイワ」を優先したい気がする。
「オリコマナイ」はオリコマナイ覆道の延長から、オリコマナイ山南峰東側の河谷のことかと考えていたが、現在は様々な工事で失われてしまったオリコマナイ山の西から南の裾を流れていた小流を指すようだ。オリコマナイ山南裾には標高20m程度、幅が最大で150m程度の台地がある。土屋茂によると昭和のはじめまで、この川は広尾山道の鞍部から南の谷間の東寄り(オリコマナイ山の際)を流れてきて、谷の形に従って音調津川には合流せずに狭い台地の上を流れて、一部では池のような遅流となり直接海に注いでいたという。このオリコマナイの注いでいた音調津地区の音調津川より北の浜辺を「オリコマナイ浜」と呼ぶと言う。
土屋茂はオリコマナイを「オリカ・マク・ナイ(丘の上・後ろ、奥、山手・川)」としているが、ori ka oma nay[丘・の上・ある・川]の方が松浦武四郎の残した音の記録に即して自然ではないかと思う。ori はオリコマナイ山ではなく、オリコマナイ山南端の標高20m程度の台地を指していると考える。アイヌ語の旧記では隣り合う母音のうち、はじめのものが追い出されることがあるのでカタカナで書くとオリコマナイとなる(補記参照)。
この台地は東の海側は黄金道路や大きな建物の拡幅で削られ、西側も美幌川・西広尾川沿いを経由して広尾市街と音調津市街を結ぶ道路の拡幅・線形改良で削られ、もう水が流れることもないし、かつて水が流れたことを想像することも難しい状態だった。オリコマナイの水流も音調津川の支流に落ちている。
オリコマナイ山北峰が海に臨む地点は kamuy eorusi[非常に危険な・水中から屹立する断崖]。土屋は松浦武四郎の記述からカムエヲウシ・カムイオッチシかとしているが、地形から考えてカムイエオルシではないかと思う。ただ、黄金道路・オリコマナイ覆道が作られたので断崖の足が海面に洗われている部分はもうない。
北側に続いてオソオマナィ o- so oma nay[川尻に・滝・ある・河谷]があるらしいが、覆道の上であり見ていない。
広尾山道の北側に下った沢はポンヲナヲベツであり、もう一本北側のヲナヲベツと対になっている。ヲナヲベツはオナゴベツとも呼ばれる。土屋によるとヲナヲコッペというのが最も古い記録のようだ。諸説あるようだが自分には分からない。
(12月21日補記)
掲示板を通じて留井さんにオリコマナイの解についてのご意見をいただいた。
o-rik-oma-nay 「河口付近で高い所から出る川」
この解の方が音に即していて、地形もシンプルに言い表されている気がする。
松浦武四郎の辰手控に、モイワ(オリコマナイ山)と共に描かれて名の振られるシユルクモイワは、その構図から考えるに広尾町の大丸山のようである。
十勝平野を南下してくると楽古川の右岸の所で山地が海に迫り、平野の先が見通せなくなるが、その後は広尾町市街地のある平野がまた広がる。
この十勝平野の見える限りの空間が楽古川の所で狭くなって曲がっている所でオピツマナイ川が楽古川に落ちている。オピツマナイ川の別名がシリコマナィ sir-ik oma nay[見える限りの空間の・関節・にある・河谷]で、その源頭にある山として sir-ik oma nupuri[見える限りの空間の・関節・にある・(河谷の)霊山]と呼んだのがシユルクモイワであったと考える。
参考文献
土屋茂,アイヌ語の地名から見た広尾町の歴史と風景,土屋茂,1994.
松浦武四郎,高倉新一郎,竹四郎廻浦日記 下,北海道出版企画センター,1978.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集3 辰手控,北海道出版企画センター,2001.
知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1992.
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