モエレ山(62m)
元はゴミの山という噂がある。夢の島のようなものか。しかしモエレ沼の袋地がゴミ処分場だったとしても、モエレ山の基底面の標高(10m前後)から上の山体までゴミからなっているかどうかには疑問がある。基底面下はゴミの埋め立てで地盤が良くなって、その上に盛られた土の山かもしれないと考えたりする。モエレ沼公園の一角にある山でモエレ沼は河跡湖。昔の石狩川。モエレ沼に囲まれた後背湿地だった低地に新たなる山が文明の廃棄力で隆起(堆積)した。元々ほとんどが石狩平野の湿原だった札幌市東区では数少ない山であり、その最高点。
展望は良い。山肌には植生によるパッチワークも見られたが月日に伴いパッチもボヤけ(2005年イサム・ノグチ師によって開山)、秋に訪ねた日には音のある虫の棲家となっていた。この虫の音は芸術作品の一部?登山道は3本あり、一部は人間工学的に無理のある登山ルートなのか踏み跡として当初のものとは別のものも発達している。これら踏み跡の発達も作品(by イサム・ノグチ氏)の自動進化なら感動する。踏み跡ルートは山の形状から自然発生的でありながら一直線そのもので、やはり山そのものが人工と言う感じがした。2009年9月登頂。
モエレ沼・橋の上から |
ガラスのピラミッド |
★初登(南東登山・北西下山)
札幌のバスセンターからバスでアプローチ。地下鉄環状通東駅発のバスがメインのようだ。夏場は駐車場の横までバスが入ってくれる。モエレ沼公園下車。冬場ならモエレ沼公園東口のほうがモエレ山には西口より近い。
バス停から待合室とレンタサイクル合造の建物を過ぎてモエレ沼を橋で渡る。橋からはモエレ山とヒシがよく見える。食いたい。橋を渡りきって山麓に到着。そこはポプラの並木で縁取られた樹林で、林間の道を歩いてモエレ山に近付く。
林を抜けると道はコンクリで緩い階段状。周囲は草原で虫の音が高い。登るに従い展望が広がる。札幌周辺の山々でも定山渓天狗岳が見えたのは意外であった。樺戸山地・夕張山地は一通り見える。日高山脈もかなり見える。
山頂は石畳の広場になっていて、非常に風が強かった。風で帽子が飛んでいっても風下の山腹なら風は弱くなっている。草を掴んで下りていけば取って戻れる。
林間を抜けて スタート |
直線状の踏み跡 蜘蛛の糸 |
正面登山道を 見下ろす |
山頂の広場を一周してみた。縁に立っている人が多く(捨身行?)、中心の路面にある説明を読む人は少ない。ガラスのピラミッドと海の噴水の間のアスファルト道路の延長で、芝生斜面を無理して一直線に最短で登ろうとしている人が多く見下ろせる。ちょっと雲の上の仏様になって、蜘蛛の糸を見下ろしているような気分だ。南西の登山道も5合目付近以下の大きくカーブして傾斜が緩む地点から直線状に踏み跡がテニスコート・野球場方面に延びているのが見える。
北西の野外ステージを囲む木立に向かっては正面登山道とも言うべき一直線の手摺付き階段道が整備されている。ここも多少苦行のようだ。ここを一旦下山してみた。
苦行らしい。膝に手をついて登る人々とすれ違うが、自分の膝もスピードを上げると笑いそうだ。下山地点は十字路になっているが並木に囲まれていて山頂と違い風の弱さが印象的だ。ホッと一息つく感じがする。
正面登山道 下から |
★二登(南西登山・東下山)
山麓の西側を巡り南西側から二登した。モエレ山の北西面は幼樹が多い。これから大きく茂るのだろう。
野球場の周囲は築山になっており、本来の野球はこうであったかもしれないと感じたりする。テニスコートは窪地の中に掘り込まれているがネットも張られている。自転車の練習をしている親子が多いようだ。
南西面登山道は角を挟んで二つ入口があるが大差はない。登りに掛かるとクローバーのパッチが分かる。もう色が落ちかかっていて遠目には分からなかったが、クローバーなのにずいぶん高く茂っているようだ。他にもマメ科の蔓草やマツヨイグサが茂っているが、もう花期はとうに終わっていたようだ。
草茫々 |
峰続き? プレイマウンテン |
中ほどで野球場とテニスコートの間から登る踏み跡と合流し、残りは一直線状に階段を登って山頂である。芸術でも人間の習性に合わせざるを得ないと言うことか。
下山は初登の道を下り、中腹から分岐してガラスのピラミッドと海の噴水の間の通りにつながる道を下りた。この道は非常に緩やかである。回り込むように下りて、次第に隣の山、プレイマウンテンが近付き山頂に憩う人や、砂漠のキャラバンのようなシルエットになって山頂へ向かう人の列が見える。東側は道が緩いだけでなく斜面全体が緩く、スポーツをしている人の中を下りる。直登する踏み跡が近付いて下山する。
★山名考
モエレ沼は前述の通り昔の石狩川の河跡湖である1)。モエレ山はこの沼の名に拠ったものだろう。
モエレ沼はアイヌ語のモイレペット 〔moyre pet〕to[静かである・川(の)・沼]とされる2)。石狩川の曲流が切り離され三日月湖になり、川の形は保っているものの緩いもしくは殆ど止まった流れとなり、この名である。明治期の地形図では現在のモエレ沼の北西方・篠路町拓北南側につながるまとまった水面の沼が今のモエレ沼と繋がってあり、そちらに「モエレト」と振られており、モエレトの北西の口から出た流れはフシュコサッポロ川に注いでいる。また、雁来村の東寄りから対雁村の西端を経て豊平川の分流が今のモエレ沼の南端につながるかつながらないかのように描かれている2)。
モエレ沼は丘珠沼とも呼ばれた。丘珠(おかだま)の語源は永田地名解にある「オクカイ タム チャラパ(男の刀を落としたる処)」と云われるが、訛るにせよ略されるにせよ、この言葉がオカダマになるというのは相当無理があるように思われる。アイヌ語で "okkayo tam carpa." と言うのを日本語に訳せば「男が刀をばらまく」だが、地名なら最後に「処」に相当するような言葉が付かなければならないように思われる。それが略されているとしても、carpa は二項動詞であるから「オッカヨ タム エ チャラパ」のように充当の接頭辞が動詞に付くはずである。
永田地名解によると「オクカイ タム チャラパ」は「川名」だという。「丘珠(おかだま)」は、現在のモエレ沼と北西方に連なっていた「モエレト」の沼が繋がっており、それらの二つの沼のある川のアイヌ語での何らかの説明が "okkayo tam carpa." と誤って聞き取られ、その二つの沼を含む川の、石狩川の側から見て後ろの領域ということをアイヌ語でウコットマク〔u- kot to〕mak[互い・についている・沼・の後ろ]と言ったのが「丘珠」と宛て字されたと考える。
"okkayo tam carpa." は、"put -ke ta u- ci- epa." で、「出口・の所・で・互い・される・に行く」ということで、入るのは豊平川からも伏古札幌川からもありで、片方の沼を出るともう片方の沼に着くということでなかったかと考えてみる。
参考文献
1)榊原正文,データベースアイヌ語地名3 石狩U,北海道出版企画センター,2002.
2)榊原正文,データベースアイヌ語地名2 石狩T,北海道出版企画センター,2002.
3)山田秀三,北海道の川の名,アイヌ語地名の研究(山田秀三著作集) 第2巻,山田秀三,草風館,1983.
4)永田方正,初版 北海道蝦夷語地名解,草風館,1984.
5)陸地測量部,北海道仮製五万分一図「札幌」図幅,陸地測量部,1896.
6)田村すず子,アイヌ語沙流方言辞典,草風館,1996.
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