ウカオップ岳(鷲別岬107.3m)
地元ではあまり山扱いしていないようだ。アイヌ伝説上のウカオップ岳に比定する説1)があるので、それをタイトルにした。室蘭市と登別市の境界となっていて、縄文中期から続縄文期にかけての遺跡がある。古代の人々もこの山の麓なら住みやすかったことだろう。幕末には南部藩によって異国船に対する見張所が岬の付け根に設けられた2)。時に山扱いもされない目立たない山だが歴史の舞台であった。2007年12月と2009年6月に登った。
★鷲別神社(登別市)から
鷲別神社の手前に駐車スペースがある。鷲別1丁目広場という名前らしい。JRの鷲別駅からも鷲別神社まで歩いてすぐである。室蘭市内のバスの便も多い。アプローチは恵まれている。
鷲別神社の狛犬は狐のようだ。狐の狛犬は稲荷神社に限らないのだろうか。保食神も祀られているからお稲荷さんの類なのか。神社のすぐ横に湧水があり鯨明神の看板がある。鯨明神は鷲別神社の別名(神様のお名前)のようだ。明治末期、寄り鯨の肉を近隣町村に売ってそのお金を元手に神社を建て、鯨に感謝しての明神だという。水はとても冷たい。
駐車スペースに戻って児童遊具の奥の茂みの中に鷲別岬遊歩道の案内板と木道がある。
一旦、広い水平道となる。サクラ並木が植樹されている。もう大きな木で、花見の季節に登ってみたい。鷲別遺跡は桜並木より上の山の斜面一帯が指定されているようだが、夏なら草むらがあるだけで、どこが遺跡・貝塚なのかサッパリ分からない。無闇に歩道を外れて、貴重なまだ埋もれているかもしれない埋蔵物を踏み潰さない気持ちでいた方がいいのかもしれない。貝塚が登別側、住居跡が室蘭側に発見されているという。
桜並木の東の端から山道となる。一直線の丸太の階段とジグが切られた緩やかな道がある。ジグのノンビリ道の方が気楽だ。ある程度の高さに達すると一直線でも傾斜も緩み、ジグ道もなくなる。テレビ電波中継局のアンテナが現れてすぐで、90度折れる。ここは幌別方面の海岸の展望がある。一直線の海岸だが、砂の流出を防ぐ突堤工も延々と続いていて天橋立が鋸状であるのと似ている。
山頂は折れてすぐだが、その途中に小さな木橋がある。岩の割れ目でもあるのだろうか、藪に覆われて浅そうな窪みなのだが下はよく見えない。なんだかちょっと楽しい。
山頂には50cmほどの展望台がある。登ってもあまり展望は変わらない。鷲別岬の崖の下の海岸線はヤブに隠されて見えず、水平線だけが見える。
鷲別1丁目広場 |
桜並木 |
木橋 |
★日の出町(室蘭市)から
室蘭市側からも踏み跡がある。舗装道路から密漁予防の看板のある階段を登って山肌に取り付くと、はじめは山頂から離れるようにトラバース気味に登る。西側には地元の人の畑が見える。稜線に出ると海岸へ下りる踏み跡との分岐になっており、稜線に沿って登る。途中、何度か踏み跡は二列に平行分裂したりするが、全て山頂までつながっている。ミズナラとカシワの気持ちの良い森だが、海の展望はあまりない。途中、北電の電波反射板があり、少し開けていて、陸側に少し展望が開ける。再び樹林に入る。道は最初のうち少し勾配があるが後半はほとんど平坦だ。
樹林が切れて三角点と擬木の柵が現れる。この柵はどうも市界(鷲別遊歩道園地界)を示しているようだ。三角点は室蘭市側ということか。柵を越えて展望台があって山頂だ。
稜線に上がったところから海岸への踏み跡を辿ると、かなりヤブに覆われているが途中、枝分かれしたりロープの張られているところがあったりして、岩石ゴロゴロの海岸に下り立つ。山肌は、上部は延々と連なる岩場だが、下がるに従ってお花畑の草原が増える。これは美しい。驚きであった。6月に海岸に下り立つとゴキブリと見まごうばかりの大きなフナムシがウジャウジャと岩に張り付いていて走り回り、ちょっと人類の滅亡を想像してしまった。見渡せる限りではゴロゴロの石浜が続き、一周出来そうな気がしたが、どうだろうか。
稜線の踏み跡 |
カシワの葉 |
山頂展望台 |
近所の人に聞いてみると「鷲別の山」や「神社山」と呼んでいる人もいるようだが、「名前なんか無い」とか、「岬と呼んでいる」という答えの方が多かった。池田(2003)によると「ワシベツ山」、「鷲別岬の山」という呼び方もあるようだ。「ワシベツシレトコ」と記録されたこともある1)3)。
池田(2003)は漁民の山当ての研究によって、この山をアイヌ叙事詩の中に現れる「ウカオップ岳」と比定した。「ukaup,-i ウかウプ」は、この地域に所縁の深い知里真志保の地名アイヌ語小辞典4)にも単語として掲載され、「岩石が重畳している所。[<u(互)ka(の上)o(に群在する)-p(もの)]」との意味で載っている。鷲別岬はイタンキ浜から見ても幌別方面から見ても「岩場ばかりだ」とは感じる。しかし、この言葉の真意はここの場合、岩の重なりではなく、海上から見て互いの上に視界の中で重なるものであり、鷲別岬のこのピークがウカオプ uka o p[互いの上・にある・もの]であることが示された。
アイヌ叙事詩の中では、ウカオップのカムイは鯨に引っ張りまわされるカワウソを助けなかったようだ1)5)。
伊能図によるとウカウプは知床半島の西海岸、積丹半島の西海岸、雷電岬付近にもある。他にも道内にはあるようだ。知床と積丹のウカウプについて永田方正は「岩石重ナリタル所」「岩石多キ所」とする6)が、いずれも平地の殆ど無い海岸沿いに位置することから、ここと同じように山当て上の地名であったことも考えられるのではないかと思う。永田地名解は鷲別周辺にウカヌカルンベと言うアイヌ語地名を記しているが、その解釈はどうも要領を得ない。
鷲別近傍に「オカヌカルベ」というアイヌ語地名の近世記録がある。
安政3年の寺地強平の蝦夷紀行の行きしの日記に、チリヘツ(知利別川)とワシベツ(鷲別)の間に「オカヌカルベ」という所があるとある。帰りの日記ではトンケシ(富岸)を過ぎてエトモ(絵鞆)方面とモロラン(元室蘭)の追分で山道(元室蘭方面)に入り半里斗(2km程度)山間の平原を進んだ後に曲がりくねった山道となってやや久しくして「オカヌカルベ」の堠木があり、それより一山越えて谷間に下るとワシベツの細流があるという。オカヌカルベと書かれた標柱があったのが鷲別川の右岸なのか左岸なのかどうもよく分からない。
安政4年の罕有日記ではトンケシを過ぎて「ヲカヌカルヘ」の一里標があり、十丁余(1km強)で右モロラン左ヲイナウシの追分で、左斜めに出崎が見えてその岬山を背に南部衛士の出張陣屋があるという。左斜め前方の出張陣屋の後ろの山の出崎というのが鷲別岬なのだろうが、追分より十丁余トンケシ寄りとなるともうワシベツよりトンケシの方が近くトンケシからも十丁程度だが、トンケシも一里標があるように書かれている。会所(ホロベツ会所)より十六丁余ともあり、ホロベツ会所から旧富岸川までは3.5kmほどあるので一里標には近傍の地名が一里標の名前として書かれているだけでその地名の発祥地ということではないのかもしれない。
「オカヌカルベ」の場所がはっきりしないのだが、永田地名解の「ウカヌカルンベ」はオカヌカルベと同じものの明治期の転訛した発音か永田方正なりの原形推定で、ウカオップとほぼ同義のウカヌカラペ uka nukar pe[互いの上・に見える・もの]で、鷲別岬の山の別名であったと考える。
岬の名としてはワシペッノッ WASPET not[鷲別・岬]/ワシペトゥンノッ WASPET un not[鷲別・にある・岬]と呼ばれていた10)ようである。
参考文献
1)池田実,漁労と地名 ―「胆振の山立て」から―,pp25-44,6,アイヌ語地名研究,アイヌ語地名研究会・北海道出版企画センター(発売),2003.
2)登別町史編纂委員会,登別町史,登別町役場,1967.
3)榊原_蔵・市川十郎,野作東部日記,1855-56.(北海道立図書館蔵原本北海道総務部行政資料室所蔵の複写本)
4)知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1992.
5)久保寺逸彦,アイヌ叙事詩・神謡聖伝の研究,岩波書店,1977.
6)渡辺一郎,(財)日本地図センター,伊能大図総覧 上,河出書房新社,2006.
7)永田方正,初版 北海道蝦夷語地名解,草風館,1984.
8)寺地強平,東京阿部家資料 文書編10 蝦夷紀行,福山市教育委員会,2020.
9)森春成・高井英一,罕有日記 巻7,1857.(函館市中央図書館蔵写本)
10)知里真志保・山田秀三,室蘭・登別のアイヌ語地名(復刻版),知里真志保を語る会・噴火湾社,2004.
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