天塩川対岸から見た
鬼刺山
鬼刺山 (728.1m) 鬼刺辺川右股
おにさしやま

 音威子府村の鋭鋒。筬島駅周辺・天塩川佐久西岸を除き、山麓からは殆ど見えない。地元では「鬼をも刺す」ほど鋭い山だから鬼刺山と名づけられた、という説も言っているが、和人が殆ど足を踏み入れなかった時代からその名の記録のある麓を流れる鬼刺辺川の水源の山であることを言う山名でアイヌ語が起源である。


★筬島駅--北西面直登沢出合

 筬島駅から筬島大橋で天塩川を渡り、国道40号線を100mほど西に歩くと道路の南側に白い鳥居と青い屋根の筬島金毘羅神社(物満内神社)の小さな社があり、そのすぐ先で左に入る砂利道がアプローチとなる「オニサシベの沢林道」である。ゲートはなかった。

 内陸に金毘羅神社とは奇異な気もするが、筬島金毘羅神社は開拓の頃、筬島集落に行く為には天塩川を危険のある渡船か氷橋で渡るしかなく、海のように大きな天塩川の渡航の安全を祈り祀られたものだという。開拓当時の苦労が偲ばれる神社である。


筬島駅

オトイネップタワー

筬島金毘羅神社

冬の筬島金毘羅神社

 オニサシベの沢(鬼刺辺川)は砂防ダムの新設・改修工事が行われていて、歩いた日は標高90mあたりまで、林道終点の300mほど手前までしか林道を歩けなかった。その先は砂防ダム新設による林道付け替え工事中で、沢の中を歩いた。林道終点は広場になっており、車が駐車できる状態だったが、工事現場付近は狭くて車は停めることが出来ない状態だった。

 林道終点には新しい砂防ダムがあり、これを越えて更にもう一つ古い砂防ダムを越え、広く平らな河畔林のある河原を歩いていくと、すぐに二股に到着する。右股に左股が直角に合流している。川の中の石にはきれいな青緑色のものや赤色のものが散らばって美しい。


林道終点の砂防ダム

二股

 左股の方が山頂へは近道になるが、左股の標高200-300mに掛けて、地図では等高線が込み、谷が非常に深く細くなっている様子が考えられるので右股から登山することにした。標高130mあたりまでは河畔林があるが、それより上では谷が狭く斜面が急峻になる。植生は草付きで、ネマガリタケのこともあるが滝が現れたら巻き辛い雰囲気。谷が狭く切り立っているので薄暗い。

 標高120mあたりで幕営。このあたりの左岸には蛇紋粘土の露頭があり、これより下では蛇紋粘土の粒子が沈殿している箇所があるが、それほどは多くない。

 谷が狭まってくると左岸から滝が落ちている。遡行気分が高まってくる情景だ。沢床に岩盤も現れる。まもなく1mほどの小さな滝があり、続いて2m、3mと3つ滝が続く。1mは特に問題はないが、2mは大きな釜を持った壁から落ちるような直瀑で、右から巻く事も出来そうだが、巨大な流木が掛っており、これを頼りに正面から登った。3mも壁から落ちるような滝でやはり流木が掛っていたが、ここの流木は小さめで頼りにならない。そのうちなくなってしまうだろう。これは左から巻いた。


支流の滝

1m滝

2m滝

3m滝

 その後、谷が広がり、右岸斜面から湧水が見られたりする。標高260mあたりで再び谷が狭まり、今度は膝ほどの深さだが小さなゴルジュも現れる。ゴルジュの通過に特に問題はないが、谷が狭まった最奥は流木の沢山掛った10mほどの滝になっている。流木を頼って直登。青緑の小石・赤い小石の母岩らしき岩も見られるようになる。こうした岩には縞模様がある。中には玉子のように内側が青緑、外側が赤色の大きな礫を含んだ礫岩(角礫岩?)もある。

 これらのカラフルな岩のうち青緑のものは、玄武岩質の火山灰が海底火山から噴出し、海底に降り積もって、地熱や熱水の影響を受けながら青緑色に変質していった輝緑凝灰岩で、赤いものは青緑になった輝緑凝灰岩が酸化作用を受け鉄分が酸化されたことが赤い理由でないかと考えられるそうだ。玉子のような赤青二色のものは、水中に噴出した同質の溶岩が海水中に押し出され、海水で急冷されて砕けたものが輝緑岩の礫として堆積し、堆積岩として礫岩になるうちに長い年月を掛けてまず青緑色になり、続いて礫岩の外側から酸化され、赤色を呈するようになり、酸化が及んでない内側は青緑色の元の色を呈しているのだと言う。輝緑凝灰岩の小石は多孔質なのか、乾くと水をよく吸う。

 他に磁鉄鉱かクロム鉄鉱だという黒い粒と白い脈を多く含んだ黒色の蛇紋岩、花崗岩に似たひん岩など全体的に暗い中にさまざまな岩が見られる。鬼刺山周辺は地質では空知層群が分布。中生代ジュラ紀の約1億5000万年前に太平洋で巨大な海底火山が形成され、海洋プレートに乗った空知海台となり、その上にプランクトンの死骸や海底土石流で巻き上げられた土砂などが堆積し、古ユーラシア大陸に押し付けられて海底からの玄武岩質の火成岩と堆積岩が組み合わさった空知層群となって陸上に押し上げられた。蛇紋岩はこうした押し付けられる過程で生じた断層に、より深部から迸入してきたものだと言う。

 以上、岩石については札幌在住のS氏にご教授いただいた。感謝します。


谷が
広がる

赤い小石と青い小石
これらの母岩もある

外側と内側で色の
違う礫の入った礫岩

 この滝を登りきり、更に2mほどの、銚子口が水平一直線な四角いナメ滝を登ると少し明るくなり、まもなく北西面直登沢出合である。地形図上では両岸から十字に沢が合流しているが、実際は左岸が下流側、直登沢がその少し上流でずれて合流している。本流は急に曲がっていて、行ってみると十字のような印象は受けない。


上から見た
ゴルジュ

ゴルジュ最奥の
10m滝

ゴルジュの上の
四角い滝

★北西面直登沢出合--山頂

 谷は非常に狭い。岩盤に水流が流れている。流木が沢山詰まっていて歩きにくいのだが滑りにくい。滝登りとするようなホールドは少なくペロリとした感じだから流木はありがたい。両岸は殆ど高い泥壁草付きの雪崩斜面である。標高340mの二股では山頂に突き上げる右を採りたかったが、右は5mほどの滝となって落ちており、その上にもナメの奥にツルリとした急なナメ滝が続いている様子が伺え、5mの部分はホールドを頼りに登ってみたのだが、その先も登ってしまうと、更に先で登れない滝が現れて戻ることになった場合、草付ばかりで周囲に懸垂下降する支点が取れそうにないので、ヤブ漕ぎは長くなるが戻って左を行くことにした。


北西面直登沢入口の
様子

この直登沢本流を
登るのは諦めた

 左は右より谷が広く、両岸の斜面もやや緩やかである。枯れたイタドリの根元をつかみ、ホールドの少ないナメ滝を巻いたりして標高を上げていく。何となく小汚い雰囲気。「美しい自然」とか「雄大な自然」、「厳しい自然」と言う言葉ではくくれない自然のあり方である。その上で2つほど細い5m位の直瀑があるが左、右と斜面から巻ける。2つめの直瀑を巻き終わると、まもなく水流がなくなる。標高550m付近と思われる。

 しばらく沢型が続くが泥壁で登れなかったりして巻いたりする。谷地形を主稜線まで登ると遠回りになるので、標高600mあたりでヤブ漕ぎになってから右の尾根に上がる。尾根は顕著ではなくヤブは殆どネマガリタケで「猛烈」と言うほどではないがまずまず濃かった。傾斜はそれほどきつくなかった。

 標高660mあたりで主稜線に合流すると、少しヤブの丈が低くなる。標高700mまでは浅い二重山稜になっていて、これほど細い稜線なのに不思議な気分だ。標高700mを越えるとネマガリタケから潅木になり、初めて東面も見下ろせた。非常に急峻である。

 潅木を漕いで山頂に到着。登ってきた北東側がやや樹木が多いが展望は良い。周囲のヤブは胸ほどの高さである。南側にはケスタ状に山稜が連なっている。東には時折、鬼刺山と間違われる621m峰、北側には筬島大橋と筬島駅前の集落、天塩川に分断されながらも更に北へ連なる天塩山地のペンケ山・パンケ山が見える。天塩山地が隆起するより天塩川の方が先にあったのだ。


南方 天塩山地の
走向山稜ケスタ風

東方
621m峰

北方 筬島駅方面

一等三角点

 昭和59年に三角点測量の為に南側から東面を経て刈り分けがつけられたと点の記にあったが、山頂の南側にも東面を見下ろしても、刈り分けの痕跡は全くわからなかった。三角点の名は「鬼刺岳」。昭和59年の測量隊は東側を流れる物満内川沿いの林道から南西面の沢(ニセィパロマ/通称ヌッパの沢)を遡り、621m峰との鞍部を乗っ越して鬼刺辺川左股源頭からヤブを刈り分け山頂に達したと言う。

 当初は北西面沢ではなく西面沢を登ろうと考えていた。山頂から見下ろす西斜面は非常に急峻で詰めのヤブ漕ぎが大変そうだ。掴むヤブが最も急な部分に確実にあるとはいえ、西面沢と違い一番急峻な部分を標高500mあたりで通過した北西面沢というルートはそれほど悪くなかったかもしれないと思った。


★山頂--北西尾根--右股本流--下山

 下山はややこしい沢を避け、北西の尾根伝いに下りた。尾根上はごく上部ではヤブの丈が低かったが、すぐに猛烈なヤブ漕ぎとなった。傾斜もきつく、これを登るのは相当なアルバイトと思われる。標高550m付近の傾斜の緩むあたりでは振り返って鬼刺山の鋭いピークが眺められる。鬼刺山周辺はケスタ地形で、東西に鋭く、南北に間延びしたピークが多く、鬼刺山も地図上ではそんなピークのような気がするが、どうしてどうして、西から見ても鋭鋒であった。


西斜面
これを登ろうと考えていたのか・・・

振り返って
鬼刺山山頂

 標高500mあたりで西面直登沢の枝沢に入り、傾斜の緩くなった西面直登沢に合流する。短い下りのヤブ漕ぎだったが平坦な部分が長く、1時間以上掛ってしまった。枝沢は傾斜は緩いものの斜面は急峻で、全てイタドリの生える泥壁草付きであった。

 西面直登沢に下り立つと、直登沢の奥にはそれなりの滝が見えた。チャレンジャーはこの西面直登沢を詰めて山頂を目指して欲しい。鬼刺辺川左股や物満内川支流(通称ヌッパの沢:アイヌ名ニセィパロマ)から鬼刺山も興味が持たれる。


西面直登沢
両岸雪崩斜面

 平坦な中に岩盤のある西面直登沢を下るが、300mの三股より下では谷も広がり、晩秋の午後の風情の沢の中を静かに下山した。

大きい地図と、以前本項に合わせていた内容の頁


★山名考

 オニサシベの沢(鬼刺辺川)は、文化4(1807)年の近藤重蔵の天塩川川筋図で「ヲニシヤシベ」と書かれる。天保郷帳では「ヲニサツペ」(角川日本地名大辞典より)、天保はじめ頃と思われる今井八九郎の天塩川図では「ヲニシヤシヘツ」、「安政4(1857)年調査の松浦武四郎の丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌では「ヲニサツペ」だった。同氏の東西蝦夷山川地理取調図も「オニサツヘ」となっている。調査時の野帳である手控には「ヲニサツヘ」「ヲニシヤツヘ」「ヲニサシヘ」が見られるが「ヲニサツヘ」と書いていることが多いようだ。明治5(1872)年の佐藤正克著「闢幽日記」で「オニシヤシベツ」、明治24(1891)年の永田方正著「北海道蝦夷語地名解」では「オニサシュペ」と同じ場所が書かれた。掲出される多くの地名に解釈をしている永田方正だが、オニサシュペについては「?」としている。アイヌの人に多く地名の意味を聞いた松浦武四郎もヲニサツベについては意味を聞かなかったか、記録していないようだ。天保郷帳に載る事や松浦武四郎の書き振りから川の名だけでなく、コタンの名でもあったようだ。近藤重蔵が天塩川を遡行した頃はオニサシベコタンはオニサシベの沢吐合から物満内川吐合にかけての天塩川左岸に広がり、物満内川附近では中洲にもチセがあったようだ。松浦武四郎が安政4(1857)年に天塩の運上屋で聞き取りしたかと考えられている手控にある天塩川の地図(テシホ川筋大概図)でもコタンを示すかと思われる丸印はヲニサシヘにおいて左岸に付されている。

 音威子府村史(1976)ではオニサシベの沢の地名の意味について「今後の調査研究を待ちたい」として意味を不明としている。

 現在の筬島駅周辺の市街地が耕作に適した平地の広がる天塩川の右岸にあり、筬島金比羅神社が平地の広がる筬島駅前集落の中心部からアクセスしにくく、狭い天塩川の左岸の鬼刺辺川の川口附近に座すことを考えると、筬島金比羅神社が建てられた境内には元々何も無かったのではなく、それより前からアイヌの人々の幣柵(ヌサ)があり、その幣場の存在を指すオヌサo- nusa us pe[その尻に・ヌサ・ある・もの]がオニサシベの沢の語源ではなかったかと考えてみるが、幣場があったと言う資料は見ていない。ウ行音がイ行音に変化するのは室蘭の輪西が和主と書かれた例や、音威子府村史(1976)が明治時代の北海道実測切図にある村内の天塩川支流シーペニカルシを江戸時代の松浦武四郎の記録のシイヘヌカルシとして「シペ・ヌカ・ウシ・イ(鮭・見るのを・常とする・ところ)」と解している例がある。


明治24年・道庁20万図「枝幸」から

 鬼刺山そのものかと思われるアイヌ語の山名として松浦武四郎の文久2(1862)年の天塩日誌に「ユアニノボリ(高山)」が登場する。しかし、天塩日誌を含む東西蝦夷山川地理取調紀行は興を添える為にフィクションを交えているとされる。天塩日誌の元となった安政4(1857)年の幕府への復命書の写しである丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌では「ユアニノホリ」が登場するが「(高山)」とは断られていない。手控の中でも同様である。日誌の中で「ヲニサツベ 右の方小川有。此上に椴の木陰森たる処有。則ユアニノホリと云よし。」とある。この文章を読むと、ユアニノホリはヲニサツベの河口あたりから見え、また山頂付近がトドマツで覆われているように読めるが鬼刺山の山頂は鬼刺辺川河口付近から見通せないし、山頂付近にトドマツは木陰を為すほどは生えていない。鬼刺山山頂付近は風衝と多雪で天塩川河畔付近から見えるほどには近代以降の伐採前でもトドマツは茂らなかったのではないかと思う。

 明治24(1891)年の北海道実測切図(通称道庁20万図)では「エア子ヌプリ(274m)」を天塩川川岸から殆ど離れない尾根上の二つ目のピーク付近(三角点「尖山435.4m」の下手の280m等高線の囲むコブ)としている。音威子府村史はエアネヌプリ e- ane nupuri 「その頭・細くある・山」と解釈し天塩川右岸の小山としている。松浦武四郎の安政3,4年の大中河川の聞き書きした手控で東西蝦夷山川地理取調図の原図の一部とされる「川々取調帳」では、ユワニノポリは天塩川本流のすぐ脇に描かれている。万延元(1860)年の跋文のある東西蝦夷山川地理取調図にユワニノホリ等は描かれていない。音威子府村史(1976)はエアネヌプリについて「天塩川右岸の小山」としている。

 現地で眺めてみると、この道庁20万図のコブは殆ど目立たず名前を付けて指呼できるような山ではない。しかしそのもう一つ天塩川寄りの220mの等高線で囲まれるコブは三角錐の鋭角で目立つ山だった。トドマツはあったとしても近代以降に伐採されているだろう。また、三角点「尖山」の選点は大正5(1916)年でエアネヌプリのアイヌ語の意味を受けての点名のようにも思われるが、このピークが尖って見えるのは東側の物満内川流域のごく狭い範囲からに限られ、エアネヌプリそのものではないと思われる。


220m峰
エアネヌプリ

280m峰は
指呼できるような山ではない

 「エアネヌプリ」と名づけられる山の形状についてはまだ十分研究が進んでいないようだ。松浦武四郎はここ以外の北海道内外のエアネヌプリと思われる山名について、後ろに細くつながっていることが由来であると記している。同名やアイヌ語の近い音の山は昔の地図には幾つかあり、いずれも眺めて三角形であるようだ。鬼刺山も220m峰も三角形ではある。

 鬼刺山はこの地域で最も大きな山であり、鬼刺辺川河口からは通せないが、500mほど北に下がった筬島駅前集落付近からは尖峰として見ることができる。オニサツベコタンのアイヌの人も天塩川右岸(筬島駅付近)に渡った時など日常生活で仰ぐこともあったと思う。尾崎(2000)は鬼刺山をエアネヌプリとしている。


筬島大橋から鬼刺山を望むと
鬼刺山はトドマツの奥だが・・・

 鬼刺山が筬島駅前集落の中心部から見えることから日々仰ぐ山としてこの地域を代表して名づけられて親しまれていたとも考えたくなるが、220m峰は天塩川の交通上のランドマークである。天塩川狭隘部の難所を遡行し終えて最初に見える目立つ山であり、航行の安全のシンボルたり得る。オニサシベの沢が o- nusa us pe なら山麓に幣柵があり、そこで祈られたことに天塩川での航行の安全が含まれていたかもしれない。祈るのが和人となって航行の神である金比羅が祀られたのも、そこで kamuy に祈ることついて、アイヌの人から聞いていたと言うことではなかっただろうか。この役割は天塩川河畔からは見えない鬼刺山では果たせない。一般向けにアレンジされた読み物であった天塩日誌よりは復命書である丁巳日誌の記述を重く見るべきであり、東西蝦夷山川地理取調図の下図のユアニノホリの位置を松浦武四郎の心と見るべきであろう。鬼刺山はエアネヌプリ/ユアニノボリでは無かったと思う。

 近藤重蔵は文化4(1807)年に天塩川を遡行した際の日記を兼ねた天塩川川筋図でオニサシベコタン近くに「カ子ヌブリ」の存在を記録している。松浦武四郎の書くユアニノボリと同じものではないかと思われる。「かねぬぶり」とされるが一文字目の「カ」の字の右肩が少し張り出して、第一画の末端がハネていない。フィールドノートである天塩川川筋図には他の資料などから明らかに「カ」である他の文字でもハネていない「カ」があるが、「カ子ヌブリの「カ」は形の似る「ヤ」で、「エアネヌブリ」の約まった「ヤネヌブリ」と書かれたものだったと考えてみる。天塩川の川筋から見えた山を記す天塩川川筋図において山裾まで一本の緩やかな線で山型に描かれる「カ子ヌブリ」が鬼刺山とは考えにくい。鬼刺山なら手前の山の上に聳えるように描かれたはずである。

 木々のざわめきさんからアイヌ語の用法などについてメールにて教唆をいただいた。改めて謝意を表します。

大きい地図と、以前本項に合わせていた内容の頁

参考文献
音威子府村史編さん委員会,音威子府村史,音威子府村,1976.
東京大学史料編纂所,近藤重蔵蝦夷地関係史料3(大日本近世史料),東京大学出版会,1989.
角川日本地名大辞典編纂委員会,角川地名大辞典1 北海道 上巻,角川書店,1987.
今井八九郎,天塩川図,東京国立博物館蔵デジタルコンテンツ
松浦武四郎,秋葉實,丁巳 東西蝦夷山川地理取調日誌 上,北海道出版企画センター,1982.
佐々木利和,アイヌ語地名資料集成,山田秀三,草風館,1988.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集4 巳手控,北海道出版企画センター,2004.
佐藤正克,闢幽日記,日本庶民生活史料集成 第4巻,高倉新一郎,三一書房,1969.
永田方正,初版 北海道蝦夷語地名解,草風館,1984.
松浦武四郎,吉田武三,松浦武四郎紀行集 下,富山房,1977.
北海道庁地理課,北海道実測切図「枝幸」図幅,北海道庁,1897.
松浦武四郎,秋葉實,武四郎蝦夷地紀行,北海道出版企画センター,1988.
尾崎功,天塩川アイヌ語地名考 ―天塩から名寄まで―,尾崎功,2000.



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(2006年11月12日上梓 12月5日加筆 2011年9月25日山名考改訂 2017年5月29日内容の一部を子頁に移転 2019年8月13日リンク修正)