おふゆやまのいちのちず雄冬山(1197.7m)+浜益御殿

 増毛連峰の一峰。増毛山地の西の稜線の中では最高峰。鋭鋒群別岳と好対照をなす、たおやかできれいな山だ。南側の石狩市浜益区幌から浜益御殿を経て登頂し、天狗岳へ縦走した。山頂に置かれる三角点の名は「雄冬岳」である。

 幌から浜益御殿・雄冬山を経て、武好三角点(708.8m)までを記す。武好三角点から先の縦走記録は天狗岳のページを参照


★幌学校入口から浜益御殿

 幌学校入口のバス停前から北を向くと赤い鳥居がある。幌稲荷である。こちらに進む。バス停の傍にはコンビニ(よろずや)があり、食品が調達できる。

 往時の増毛山道は幌稲荷の右手からスタートしていたそうだが、現代はそちらへは入らず、幌稲荷の階段の前で道なりに左折する旧道(旧国道231号線)を辿る。旧道は幌の北の集落の床丹に続くダートであるが、それほど荒れていない。標高65m辺りで右折して旧道と分かれる。ここからは道路は舗装されている。果樹園などを横に見ながら登っていき、標高330mでT字路に当たる。2009年4月30日はここまで雪がなく、車で入れた(2001年は420m付近から雪)。ここから先は右も左も残雪が多く自動車は走れなかったが、右手200mほど向こうには向こう側(幌小川経由)から上ってきて浜益御殿に登ったであろう登山者のマイカーらしき車が見えた。

 残雪は350mを越えるまで途切れることもあったが、その先は十分だった。この尾根上は増毛山道と重なっている。標高350mを越えた所で林道は直角に左折し山肌を登っていくが、直進する作業道か林道跡があり、そちらに入っているトレースが多かったので、自分も入ってみた。

 入ってすぐ、一つ目の谷地形を横断する所に湧き水があって水が汲めた。その先は道跡が下り気味になっているので尾根に上がることにした。木の間越しに浜益岳(の手前のコブ)を見ながら緩やかな尾根を上がり続けて標高533.4mの大阪山(三角点「幌」ピーク)。ここは北側に木が少なく、浜益御殿のこれから登る尾根や浜益岳がよく見える。山頂近くの木の根元の雪の穴からエゾクロテンが顔を出し入れしていた。まだ冬毛だった。

 一旦下り、鞍部から樹林となりすぐにスノーモービルの通行を禁止するロープや標識をくぐって緩やかに斜面を登っていく。この鞍部までは林道がある。ずっと緩やかに登り、標高700mを越えると木が少なくなってくるのを感じる。760mあたりで樹林はなくなり尾根に出ると浜益岳の巨大な姿が見える。

 地形図で見ると標高850m付近には少し傾斜のきつい部分があるが、登ってみると殆ど気にならない。この上の稜線上はヤブっぽいが、西斜面は広く余裕があり、かつての増毛山道の刈り分けだろうか、ダケカンバが並木のように続く部分もあった。気がつくと浜益御殿山頂、そんな雰囲気で山頂に到着した。


大阪山から浜益御殿

浜益御殿山頂間近 増毛山道?

雄冬山の地図★浜益御殿から雄冬山へ

 浜益御殿の山頂は、ずいぶん下からも見えていたがハイマツが出ていた。ここのハイマツはずいぶん高い。

 雄冬山南尾根標高1000mまでひたすら平坦で疎林の雪原が続く。二箇所ほど一時的な避難程度に使えそうな小さな林はあるが、それも小さく疎林には違いない。背後には浜益岳に続いて群別岳の鋭い姿が見える。群別岳中腹の水平な崖は貴婦人のネックレスのようだ。

 南尾根の1050m付近にやや痩せて傾斜のきつそうな尾根が見えるが、見た目ほどきついわけではない。潅木が出ているので、スノーシューやスキーでの通過は難儀するかもしれない。増毛山道はこの痩せ尾根の下から雄冬山東斜面をトラバースしていたようだ。斜面は厳しく、少しでも積雪があれば雪崩が考えられ、晩秋や早春は使えなかった道だろうと感じた。

 痩せ尾根が終わると巨岩が一つあるが通行に問題はない。その先は痩せてこそいないものの傾斜が再び急になるので傾斜の緩い東側に巻き気味に登った。

 山頂は非常に平坦な雪原である。ハイマツに囲まれた真っ白な雪原で、ちょうど河童の皿のような山頂だと感じながら、うろうろと動き回って写真を撮ったが、気温が高く、やや霞んでいたことと、雄冬山の登りから強まってきた風に体を揺すられて満足な写真は撮れなかった。ハイマツのお皿の南側の外側は細い岩礫帯を挟んで雪の着いていないハイマツ林の南斜面が落ちていた。北側のお皿の外側はすぐに雪が続く急斜面で天狗岳の崖が大きく見える。


鞍部から雄冬山

雄冬山南面

西尾根 三角点「千代志岳」方面

岩尾天狗

★雄冬山から武好三角点まで

 雄冬山山頂を後に、広い尾根を歩くが1050-1000mは痩せていて通行に難儀した。西風が強まっていて尾根上にいると吹き飛ばされそうなので、途中から尻滑りで東斜面を下りてしまった。ここの東斜面には1000m弱の部分に段があり、増毛山道もここを通っていたのだろう、並木状のダケカンバ林も見られた。振り返ると雄冬山がステキに白い。白坊主だ。

 971m標高点のコブの南はボウル状疎林でスキーに適。エゾユキウサギが走っていた。もう夏毛だった。そのまま緩斜面が続き、少しだけ登り返して武好三角点の丘を通過したが、標柱は雪の中、見ることは出来なかった。


北尾根

雄冬山北面


北面はスキー適
この並木状も増毛山道?

★山名考

 松浦武四郎は安政4年に当時開削されたばかりであった増毛山道を通過し日誌等に記したが、雄冬山の名の扱いは分かりにくい。

 まず、天狗岳東鞍部からの絵では「ヲフイ岳此奥に当たる」の文字と棒線が天狗岳の裏側を指している。一方で現在の雄冬山と思しき位置には、真ん丸な雄冬山北面さながらの山容に「イワヲノホリ」と振られている。雄冬山北東直下からと思われる絵では西の山影にイワヲノホリと振られている。増毛付近からの遠望図中では雄冬山と思しき姿に「イワヲイ岳」と振られている。

 文中では「イワヲナイノホリ と云。是此辺第一番高し。」などとあった。雄冬山は標高で浜益御殿や天狗山に比べて200m前後高く、山容の良さから浜益岳(1257.7m)にも引けを取らずに高く見えることもある。雄冬山は江戸時代は「(和地名としての)岩老・山」か、イワオナイの水源の山のように呼ばれていたのだろうか。

 当時ヲフイ岳と呼ばれていたのがどこだったのかは疑問として残る。或いは天狗岳北西稜である「天狗の鼻」がヲフイ岳の実態であったかもしれないと考えてみる。

 フィールドノートである手控では天狗岳東鞍部からのスケッチ(原画)に、雄冬山の位置に「イワヲノホリ」ではなく、「ヲフイ岳」と記されていた。同じ手控に「シャコタ(ママ)よりヲフイと云は此の岬也」と、ホロヒ(現在の日方岬か)をヲフイと呼ぶ人々(積丹方面の人)がいたことを記している。日誌ではホロヒを「ヲカムイを越て見ゆるは即此岬也」と、積丹の神威岬沖から北航の際に見え始める山地としてのヲフイサキと記している。

現行地形図
(2009)
増毛町史
(1974)
三角点名
(1914)
仮製五万図
(1897)
道庁20万図
(1890)
丁巳日誌
(1857)
巳手控
(1856)
雄冬山
おふゆやま
オフイヌプリ
uhui-nupury
雄冬岳
オフユダケ
ウフイヌプリ ウフイヌプリ
Ufuinupuri
イワヲノホリ
イワヲナイノホリ
イワヲイ岳
ヲフイ岳
浜益御殿
はまますごてん
牛石
べこいし
浜益御殿 浜益御殿

 明治時代に北海道庁の発行した地図ではウフイヌプリという名が現在の雄冬岳の位置に振られていた。

 岩老の元となったイワヲナイ川も現在の地名としては残っていないが(マルヒラ川を岩尾川と書く資料もあり、この川は雄冬山に突き上げている)、iwao[硫黄]はこの辺りでは近代鉱山が営業出来たほど採れたらしいのでiwao-nupuri[硫黄の・山]、〔iwao-nay〕 nupuri[イワオナイ・山]という解は考えられるそうにも思う。硫黄は岩を割ると中に含まれている状態だという。だが、アイヌの人は硫黄を普段の生活で使ったのだろうか。本州以南なら鉄砲などの火薬に使うことがあったかと思うが、アイヌの人の狩猟用飛び道具は弓矢ではなかったか。増毛山道開通以前にあった前身のアイヌの人の道の分岐が岩老方面に下りていた、ru-aw o nay[道の股・にある・河谷]がイワオナイ、ru-aw o nupuri[道の股・にある・(川の)山]がイワヲノホリの元の姿でなかったかと考える。

 増毛町史では雄冬山はuhuy-nupury(ママ)とし、雄冬山が雄冬集落からは手前の山の陰になって見えないことから麓の地名が近隣の最高峰に振られたとし、ウフィヌプリの名は火山に用いられることが多いものの増毛山群は有史以前にその活動を終えていることから火山であることを示すのではなく、雄冬という地名を航海の松明を燃やす灯台のような意味合いでuhuyであろうとしている。しかしuhuyは「燃える」という自動詞であり、「燃やす」という他動詞ではない。松明を燃やすならuhuykeなどの他の言葉が使われるのではないかと思う。日高地方のフイハップのように赤い崖を「燃えている」と表現したとされる地名もあるので、雄冬海岸や天狗の鼻の地形図に見られる多数の崖もまた沖から見れば赤い部分があるのではないかと考えてみるが、実際に船に乗っての確認は難しい。が、この辺りの住人は昔から漁で沖に出ていたはずだ。麓から見えないからオフイだけでなく、オフイヌプリが雄冬山そのものを表す地名ではないとする増毛町史はやや即断に過ぎたのではあるまいかとも考えてみる。増毛町史ではイワヲイヌプリを雄冬山手前の三角点千代志岳867.5m付近としている。そこなら雄冬市街から見えそうだが、昔からの漁師の視点が落ちていたようにも思われる。

雄冬海岸と増毛山道の地図 雄冬と岩老の間のケマフレもhureという赤い意味の単語を含んだ地名である。増毛町史では何の足が赤いのかよく分からないような書き方であったが、山田秀三は赤岩岬のこととしている。

 山田秀三は、雄冬そのものは雄冬市街南方の岬の赤い崖の辺りとしているが、それが松浦武四郎の日誌のヲフイ岳と離れてしまうような点が解せない。また現在の雄冬市街は、松浦武四郎はヒカタトマリとだけ記し、この停泊適地そのものがオフユでなさそうである。雄冬岬の位置をどの岬地形とするかで、もめそうなことも松浦武四郎は記している。また、千代志別川下流右岸にはウフイカルベシベという名の支流もあった。

 ヲフイとは本来、千代志別川から雄冬港までの居住可能域のない断崖絶壁地帯を指す中地名であったものが、多少規模は小さいものの似たような地形が続くことから北に広がり、日方岬・カムイエト岬・大別苅から南は雄冬岬・タムパケ・床丹付近までの断崖絶壁地帯を指す大地名となり、ホロヒの日方岬辺りと天狗岳の東側もヲフイであったことになったような気がする。

 「オフユ」についてもう少し考えてみる。赤い崖説だが、赤い所はケマフレのようにhureと言った方がはっきりする気がする。燃えるuhuyに付会された別の音ではなかったかと考えてみる。火山でないのuhuyが用いられているような音で記録された山は雄冬山の他に旭川市と幌加内町の境のウフィシリがある。現在のシラッケ山で江丹別川の水源にあたる。近文のアイヌの人が冬に幌加内方面に猟に行く時に越えたと言われる辺りの山である。h とy の音からru-par o sir[道の・口・ある・山]の転訛かと考えてみる。

 松浦武四郎の日誌に出てくるヲフイマフは現在のオフユ川のようで、「ヲフイ岬の前の処と云儀なり」とされているが、オフユ川を遡って、三角点「千代志岳」を乗り越え、ウフイカルベシベで千代志別に下るのがアイヌの人の北海道西海岸を南下するルートであり、ヲフイ岬の「前」にあるヲフイマフはru-par oma p[道の・口・にある・もの(川)]でなかったかと考える。ヲフイは千代志別からオフユ川にかけての一帯が発祥で、ru-par[道の・口]か、ru-par o -i[道の・口・ある・処]の転訛ではなかったかと考える。ウフイカルベシベはru-par -ke o rupespe[道の・口・の所・にある・峠道]か、ヲフイが先のオフイ ka o rupespe[ヲフイ・の上・にある・峠道]か判断が付かないが、山間の和人は通らなさそうなルートなので、この辺りがヲフイ/ウフイの発祥であることを示しているのだと思う。雄冬岳/雄冬山は、かつてのイワオヌプリでもあって、日方岬〜天狗岳の辺りとは考えず、雄冬岬の上の最高峰として現状で良いのだと思う。

 千代志別を指したチセソシベ/チセウシヘ等は、浜益御殿と雄冬山の鞍部に向かっている、cis eus pe[中凹み・に頭が届く・もの(川)]ではなかったかと考える。

参考文献
松浦武四郎,秋葉實,武四郎蝦夷地紀行,北海道出版企画センター,1988.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集4 巳手控,北海道出版企画センター,2004.
松浦武四郎,秋葉實,丁巳 東西蝦夷山川地理取調日誌 上,北海道出版企画センター,1982.
松浦武四郎,秋葉實,丁巳 東西蝦夷山川地理取調日誌 下,北海道出版企画センター,1982.
増毛町史編纂委員会,増毛町史,増毛町役場,1974.
5万分1地質図幅「雄冬」,工業技術院地質調査所,1963.
北海道庁地理課,北海道実測切図「増毛」図幅,北海道庁,1893.
高桑真一,古道巡礼,東京新聞出版局,2005.
山田秀三,北海道の地名,北海道新聞社,1984.
やぶやま探訪記Database



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(2009年5月9日上梓 2017年5月18日山名考改訂)