![]() 福知山市三和町菟原下 轟大橋から |
![]() 福知山市三和町細見谷 中出梅田神社付近から |
![]() 篠山市桑原から |
丹波の国の兵庫県と京都府の境にある山。山頂に立つと丹波の中心と言う感じがする。多くの登山コースがある。
狼谷を巡る各コース
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河谷(篠山市)コース |
細見谷からのコース
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菟原下区有文書に永正15(1518)年の年記のある「鹿倉山泰林寺絵図」があり、鹿倉山に4〜6坊が描かれているという。
戦国時代を描いたと見られる慶安元(1648)年の奥付のある「佐々木谷旧記」では天田郡にあった寺の山号として「四神楽山」と書く。山号は寺の所在地に因むことがある。また、佐々木谷旧記では四神楽山近傍の地名として「兎原」が登場し、これは現在の菟原かと思われる。寺号は雲泉寺となっており、丹波志以降で鹿倉山にあったとされる「太平寺」とは異なる。また、雲泉寺の所在地とされる「天田郡山内郷」という郷名は他に見られない。佐々木谷は菟原下と同じ天田郡内(福知山市内)ではあるが福知山城下より北で多少離れている。寛政6(1794)年の丹波志では山として、また山号として「鹿倉山」と書かれる。山号として「シカクラ」と振り仮名が付いている。三和町史(1995)は佐々木谷旧記の四神楽山雲泉寺と丹波志の鹿倉山太平寺、更に文化年間古城跡見取図絵巻にあるという泰平寺、鹿倉山泰林寺絵図の鹿倉山泰林寺を同一の寺か関連堂塔ではないかとしている。江戸時代中期〜後期の作と見られる地元に伝わる轟水路絵図では「鹿倉山」と書かれる。明治24(1897)年の三角点点の記は、俗称「鹿倉山」に設置するこの三角点に「四村山(しむらやま)」と点名を付す。日本歴史地名大系は鹿倉山を括弧書きで「四ヶ倉山」と書く。国土地理院は2010年現在、「鹿倉山(しかくらやま)」としている。国土地理院で採用している地名は地元の役場からの上申である。三和町史には「しかぐらやま」と振り仮名がある。
西紀町史(1987)は「四ヶ村山」と書き、春日町(現・丹波市)野瀬、西紀町(現・篠山市)桑原、三和町(現・福知山市)の中出と菟原下の四ヶ村に境を接するゆえの山名と解く。内田(1995)は点の記の「四村山」の字を引きつつ、地元(旧西紀町)の古老の意見として篠山市桑原の他、福知山市(旧三和町)内の田ノ谷、中出、菟原の三ヶ村を合わせて四ヶ村が鹿倉山の名の由来とする。
鹿倉山を囲む行政単位 | ||||||
中世 | 近世 | 近代 | 現代 | |||
郷村 | 惣村 | 村 | 村 | 大字 | 市町村 | |
菟原 | 菟原下 | 菟原下 | 菟原 | 菟原下 | 菟原 | 福知山 (三和) |
細見奥 | (細見中出) | (中出) | 細見 | 中出 | 細見 | |
中嶋 | 中嶋 | |||||
田ノ谷 | 細見奥 | 田ノ谷 | ||||
草山 | 桑原 | 桑原 | 草山 | 桑原 | 草山 | 篠山 (西紀) |
これらの説は論理が同じであるのに中身が異なることから怪しさを感じる。四ヶ(箇)までが音読みであるのに、村が訓読みと言うのも不審である。西紀町史の説の、春日町(現・丹波市)野瀬(野瀬谷)は北端の野瀬峠(赤土峠)でも鹿倉山の山頂から稜線を約1.7km南に離れており、鹿倉山の斜面を離れて既に稜線は平坦で、間に河谷峠/田ノ谷峠を挟み、鹿倉山を取り囲む四ヶ村に加えるには離れ過ぎている。中世・近世の行政単位としての細見中出村や菟原下村や桑原村に対応するのは、南西斜面では野瀬谷村ではなく田ノ谷村もしくは細見奥村であった。
内田(1995)の説では菟原村に対応する細見奥村は中出と田ノ谷を包含している一方で当時の鹿倉山西斜面の中嶋(中嶋村)の名が四ヶ村の中に入っておらず、兵庫県側の名は桑原(桑原村)を含む草山村であった。中出を入れて行政単位を揃えると2km近くも離れた村未満の野瀬谷を加えるか、中嶋を無視するかしなければ四ヶ村にならない。西紀町史(1987)でも内田(1995)でも挙げられている中出の、中嶋と並立していた頃の領域は厳密には鹿倉山山頂に接していないが、最高地点の八川山は鹿倉山山頂までの距離が約550mで鹿倉山の衛峰と言える位置であり、野瀬谷の鹿倉山に最も近づいた場所に比べれば鹿倉山の一角と言えそうではある。中出地区が鹿倉山北方稜線の東側(鍋坂川流域)に張り出すことや、箱部峠を南側から越えると北側もまだ京都府でなく兵庫県であることに見られるように、人為的な村界はこの地域でよく見られるが、田ノ谷と野瀬谷に関してはそのような歴史的経緯も現状も管見に見ない。近現代の大字の区分では鹿倉山は、中出に中嶋が合流したので中出・田ノ谷・菟原下・桑原(河谷は桑原に含まれる)の四つの大字の境界になっている。しかし大字は既に村ではなく、鹿倉山の名はそれより前からある。鹿倉山の山頂を共有していると言うことを厳密に解釈して、中出を除いて中嶋を加えれば、中世近世でも四ヶ村と言うことになるが、伝承で中嶋が取り上げられずに中出が取り上げられているのはどうも信用できない。また、四ヶ村だったとしても、なぜ「鹿倉」と表記され、「しかくら」/「しかぐら」と呼ばれているかが説明されていない。
天野(1987)は佐々木谷旧記の中の四神楽山の表記を、太平寺の鎮守社に奉納される神楽からの字ではと推測している。鹿倉山の音についてはクラの断崖・岩場・険所の意(鎌倉など)と、周辺に動物の名を用いた地名が多い(狼谷・猪の鼻・牛峠など)ことから、「鹿の住む険しい山」の意と解く。また、佐々木谷旧記での四神楽山雲泉寺の所在地とされる天田郡山内郷について、綾部藩が六人部谷を山裏郷としたことと同じような意味合いではと推測している。
慶佐次(1994)は古代の鉄に関わる山名ではないかと推測する。鹿倉山の「鹿(しか)」は「スカ(洲処)」の転で、タタラ製鉄に用いる砂鉄を採取できる場所ということのようだが、砂鉄に関係なくとも洲処はあるのではないか。「洲処グラ」/「洲処クラ」と古型を考えるとして、その洲処とはどこか、洲処にグラ/クラがどう関わって山の名となっているのかに言及していないのは、山名を推測するにしても聊か省き過ぎのように思われる。自然のままの地形であったら目立つ洲の出来ていそうな処は、山地とその間の小さな平野しかない鹿倉山周辺に見当たらない。製鉄遺跡が鹿倉山を取り囲む岼ヶ鼻川/河谷川・細見川の流域にあるという話も聞かない。製鉄神といわれる毘沙門天を祀る毘沙門堂が桑原にあることも鹿倉山の名が鉄に関わるのではないかという傍証としてか挙げられているが、桑原の毘沙門堂は鹿倉山から河谷川と箱部峠を越えた地形的に離れた場所にある。洲処と同様に、製鉄と無関係に毘沙門天が祀られることも当然あっただろう。
丹波志には山麓の菟原下村について「此所ニ鹿ノ倉 小ノ倉 猪ノ倉トテ 古三ツノ倉アリ 権現不動稲荷ヲ祭レリ 上古屯倉ノ古事ヲ不聞 中古ノコトナルヘシ」とあった。菟原下には猪の倉(イノクラ)・小倉(オグラ)という小字がある。鹿倉山に権現(熊野権現/熊野神社)、小倉に不動明王、猪の倉に稲荷神がそれぞれ祭られているように読める。険しい箇所に神仏を見るは人類にある程度共通と思われるので、鹿倉山の「倉」については猪の倉・小の倉と並ぶ、天野(1987)の推察の通り何かしら地形の険しい箇所ということではないかと考えた。特に、鹿の倉、小の倉、猪の倉と三つの倉の地名が菟原下の中に集まっているのはクラの形状を区別して言わんとしているのではないかと考えてみた。
鹿倉山には鹿の字が当たっているが、「鹿の倉」では動物の鹿が入っているとも鹿が使っているともとれない。山間の集落の更に小字では丹波志の通り、上古の屯倉でもあるまい。そもそも屯倉(みやけ)とは「倉」の音が違う。菟原下の郷倉は菟原下二丁目の集落の中心の成満寺のそばにあったことが轟水路絵図から分かる。「鹿の座(くら)」と考えても鹿が座っているとか、ここだけが鹿が必ず獲れる所と言うのもおかしな話である。イノクラを川(ヰ)のクラ(ー)、オノクラを尾(峰)のクラ、シカグラは、顰む(縮んで皺が寄った・しかめっ面のシカ)ーが約まったものではないかと地名用語語源辞典を起点にまず考えてみた。
![]() ^の倉の地図 |
![]() カラト岩 |
![]() 小倉 (奥に写る山地) |
猪の倉、小倉について地元の方に伺ってみた。猪の倉については、「猪でも出たんだよ」と笑われながら菟原下二丁目集落の北西方、鍋坂川以南の平坦な水田地帯を指すと教えていただいた。この水田地帯は江戸時代に轟水から上井根水路が引かれてから水田になったと言う。土師川の水面よりかなりの高さのある台地で、元は水利の悪い平坦地だったようだ。明治時代の地図では中央に桑畑も描かれていた。岩場は全く見られない。水田の中に大岩があると言うことも無い。「猪の倉=ヰのー」と言う仮説は違ったようだ。ここの場合、鹿倉山から鍋坂川吐合に延びる狼尾根の山地が菟原下二丁目集落西方で突然途切れて段丘を形成し、土師川から見ると山地が引いている様に見えて、そのあたりを漠然と指す「居退く(ヰノク)峰(ヲ)等(ラ)」では無かったかと考えるが、動詞「ゐのく」が、平安時代にはあったようだが、更に古い時代からあったのかどうかがよく分からない。福知山市の隣の綾部市市街地の井倉町(いのくらちょう)も元は由良川が緩やかに北に撓んで南側の山地との間が開いた平地の中央に位置する村であった。
猪の倉のはずれの鍋坂川右岸の土師川合流点付近の京街道(山陰街道)の脇の小丘に古びた稲荷社があった。水田のある段丘から下りて、京街道(山陰街道)より土師川側にあるこの稲荷のある丘は、厳密には猪の倉には含まれないようだが(猪の倉地区は山陰街道より西側だという)、菟原下で稲荷といえばここしか無いようである。
小倉については国道9号線の法面工事の大きな辺りの土師川右岸を指すと言う。不動尊の存在も教えていただいた。菟原下の北側の山の西斜面の林道沿いの山林の谷間に不動尊が祀られていた。三角点「栗山」の西尾根が土師川に落ちる国道9号線の法面は現在は大きくコンクリートで覆われているが、昔は岩が露出していたと思われる。この崖の下はそのまま川に下り、峡谷となっていたが昭和58年の水害の後、水路を開く為に削り河床を重機で平らにしたという。今でも峡谷の痕跡は残っている。ここが小倉(峰(の)ー)発祥では無いかと思った。尾根の一角の不動尊では今でも菟原下の例祭が行われていると言う。古い導水管が裏手の谷間に何本も落ちており、水に関わりの深い不動明王らしい。猪の倉が「居退く峰ら」のようなので、菟原下一集落の後ろ(空間的に内部)の方と言う意味での、単に「奥等(おくら)」では無いかと言う考えも捨てきれない。捨てきれないと言うより「奥等」の方が飾りが無く自然で妥当な気もする。しかし小字小倉にある菟原下一の裏山の山頂に昭和58(1983)年に設置された三角点の点名が「栗山(くりやま)」であるのは岩場を指すグラ・クラの語源であると言われている「くりぬいた」などと言う時の動詞「刳(くる)」を用いた「刳り山」と言うことで、やはり国道9号線脇の法面工事箇所が刳られた山ということを指し、小倉は「峰刳」のような気もする。何か他に区別をつけられる材料がないか探している。
道路のコンクリートの法面と言えば、菟原下から鹿倉山に向かう途中、カラト岩付近にも大きなコンクリートの法面工事が岼ヶ鼻川の両岸にある。細くのびた岼ヶ鼻川沿いの耕地が、迫る山地に一旦途切れる場所である。「顰むグラ」「顰むクラ」という仮説のシカは、動詞「顰む」の語幹なので、日本語としては「シカムグラ」「シカムクラ」或いは「シカミクラ」「シカミグラ」となる。地名用語語源辞典にあったシカを動詞「顰む」の意味で名詞を修飾するように使うには、活用語尾が付かなくてはならなかった。シカムグラは言いにくいのでシカングラ・シカグラと変化したかと考えてみるも、無理があるように思われる。シカグラ・シカクラが先か、シカムラが先か、鹿倉と書いてシカムラと発音していたような徴候もあるので、文献上での明確な音としては「鹿倉」の表記が主に使われてきた中で書かれた「四神楽」のシカグラが初出ということになりそうだが四神楽の用字はどうも作為的な感じがする。四ヶ村の場合と同じで、四が音読みなのに神楽が訓読みなのは無理矢理作られた感が拭えない。振り仮名の少ない丹波志で、平易な「鹿倉」に「シカクラ」とあるのも考えてみれば不審である(丹波志は原本が伝わっておらず、シカクラの振り仮名が原本にもあったものかどうかは不明。或いは菟原下村の条の「鹿ノ倉」に合わせて振られたものか)。ーと言うにはカラト岩でも少々小さい気がする。岩場を指すグラ・クラではなく、山地に囲まれた菟原下で山地のあり方を区別する為に、山地を指すヲ(峰)を用いた猪の倉同様の「シカムヲラ」「顰む峰ら」ではなかったかと思う。sikamuwora の uw が約まって u となったか、中世院政期までにヲがオに同化することで uwo が uo となり、日本語には母音の連続を嫌う傾向があるので、更に約まってシカムラとなったのではなかったか。カラト岩周辺は岼ヶ鼻川の河谷が、カラト岩をはじめとして皺が寄るように狭まる場所である。狼谷出合付近より上流で谷は再び下流ほどではないが広がる。また、明治時代の三角点名にある四村山や民間語源的に伝わるシカムラと言う音にも対応する。これが鹿倉山の名の元だったのでは無かったか。地名に拡充性があることは本居宣長や吉田東伍や柳田国男の指摘する所である。最後の「ら」を「等」と解くなら「等(ら)」は動詞に付かないので、「シカム・ラ」「ヰノク・ラ」は日本語として文法的にありえない。
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日本語では動詞カラム/カラグや、名詞カモメ/カゴメのように g と m の音に相通が見られる。シカグラ(四神楽)はシカムラの訛ったもので、シカグラに「鹿倉」の字が宛てられて、漢字に引かれて清音のシカクラの読み方が現れたと言う順序ではなかったか。w 音の消失と m/g 音の相通が逆の順序で起こっても同じことになりそうだが、「十把一絡げ」の例がすぐに思い浮かぶカラム/カラグの相通に対して、日本語を母語とする者としてシカムをシカグとは言えないような気がする(「仕掛く」との混同を感じるからか)。シカムオラという名詞句が、シカムラという名詞になってからでないと相通が起こらない気がする。
当初は、「顰むー」が鹿倉山山頂付近の狼尾根や地獄尾根、烏帽子岩・大天狗岩などの岩場を指しているのではないかと考えていたが、これらもカラト岩同様、岩場というには小さい気がする。菟原下から遠望して岩場と指呼できない大きさである。山ならばあの程度の岩場は在って当たり前である。
丹波志には土師川水源の一つとしての岼ヶ鼻川の流路上や菟原下から桑原へのルート上の地名として「寺ヶ谷」が記されている。他の地名との配列から現在の地形図の鹿倉山から流れ出る「狼谷」に相当すると思われる。寺ヶ谷の「寺」とは太平寺などの寺社ではなく、太平寺跡と伝えられる一帯の緩傾斜地を指しての「平(たいら)」の転訛とも考えられる。その場合はその「平」に寺社としてあったのは熊野権現だけで、太平寺も雲泉寺も泰林寺も泰平寺も「寺ヶ谷」という地名の音や表記が伝えられる中で生まれた架空のものであったと考える。その名を地形からも説明出来る寺ヶ谷に加えて不確かさのある太平寺などの寺社伝承だが、水が乏しいとはいえ寺の池の跡と伝えられる湿地もあり、寺の伽藍を描いたと言われる戦国時代の年記のある絵図や江戸時代の絵巻が地元に残され、積極的に寺の存在を否定する根拠も無いので、何かしら寺があったが廃絶したと第一に、第二に平が寺に転訛して太平寺などの伝承が生まれたと考えておく。寺の梵鐘を埋めたと伝えられるこの池は鹿倉山泰林寺絵図では「ショウブ池」という名だと言う。単に水場としての地名であったショウズ(清水)の転訛が考えられる池の名であった。
佐々木谷旧記の舞台となる戦国時代より昔、菟原下村に外から僧が来た。山間の小字名シカムヲラ/シカムラ/シカグラが文字にされたことは、まだ無かったかもしれない。僧は漢字の読み書きが出来た。僧は村人に教えられた地名「シカムラ」を「シカグラ」と聞き、篠山・草山方面に抜ける間道のある村はずれの「顰む峰ら」の奥の寺(「太平寺」など寺号はここでは問わない)に、シカグラの音に合わせて山号を漢字表記で鹿倉山と決めた。寺が山号より前からあったのか、山号と建立が同時だったのかは今となっては分からない。また、今の鹿倉山のピークにそれより前に別の名前があったのかどうかも分からない。僧と交流のあった菟原下の住人はこの寺の山号がシカムラに因むものだと知っていたので、鹿倉山と書かれていてもシカムラサン・シカムラヤマと呼んでいた。その後、寺は、佐々木谷旧記が描く通りかどうかはともかく、江戸時代を迎える前に退転した。寺のあった谷筋は寺ヶ谷と呼ばれるようになっていた。江戸時代に入って世が落ち着き、佐々木谷旧記の作者が漢字の標準的な音で呼ばせようとして鹿倉山を四神楽山と書いた。或いは漢字で書かれた地名の音こそ本来の地名で、村人が使うシカムラサン/シカムラヤマは訛った矯正すべきものだと考えていたのかもしれない。しかし地名とは文字を知らない民衆の間でも口頭で成り立つものであり、訛っているから誤っているといったものではなく、漢字表記の標準的な音と違うから誤っているといったものでもなく、訛っているように聞こえても古い言葉を伝えていることもある。後から宛てられた漢字の方が寧ろ無理をしている。菟原下の住人は、相通と用字でシカグラという人も居たが、明治時代まで祖先から伝わる音、シカムラサン・シカムラヤマと主に呼び続けた。通婚などのあった近隣の草山村・桑原村でもそう呼ぶようになっていた。江戸時代の太平の300年でこの寺の退転の話が佐々木谷旧記や丹波志のように文字として伝わり続け、シカムラより奥の轟水が灌漑用に猪の倉まで導水され、岼ヶ鼻川沿いのシカムラより奥にも田畑が拓かれ、「鹿倉山(しかむらさん)」の方が「顰む峰ら(シカムラ)」より心の中の存在として大きくなり「顰む峰ら」は忘れられ、鹿倉山をなぜシカムラサンと呼ぶのかも忘れられ、山名が周辺四ヶ村に因むと言う民間語源が生まれた。明治の三角点測量では地元に予め準備させた資料に「鹿倉山」とあるのに住人が「シカムラサン」と呼ぶのを不審に思った中央から来た選点者が由来を聞き、それならばと新しく「四村山」と点名に字を宛てた。しかし菟原下では鹿倉山の表記も現代まで使われ続けた。近代以降、当用漢字音訓などの教育で、「倉」の字を訓読みではクラ/グラとのみ読む意識が普及し、シカムラは菟原下でもシカグラ/シカクラに置き換わっていった。菟原村が合併した三和町、更には福知山市としても「しかくらやま」と呼んでいる。漢字「鹿倉」をシカグラと読ませたかった佐々木谷旧記の目的は300年の時を経て果たされた。一方で菟原下ほどは鹿倉山と結び付いていなかった西紀町側では菟原下から伝わっていた「シカムラヤマ」と言う呼び方と四ヶ村の民間語源伝承が現代まで残されていた。このような流れではなかったかと思う。
深山林道の名、深山も鹿倉山の呼び方の一つらしい。
八川山の名は深山林道正面出合の登山案内板の他に地元の江戸時代の絵図に見られる。伊能中図では菟原下で土師川に合流する川の名として八田川と書かれていたが、それと関係があるのだろうか。明治初期収集の菟原下の小字名で八川・八田川という小字名はないようだが、八田と言う地名は丹波ではよく見られる。当ページでは昭和58年の水害後と思われる橋の銘版からこの川を「鍋坂川」とした。
参考文献
1)三和町史編さん委員会,三和町史 上巻(通史編),三和町,1995.
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4)古川茂正・永戸貞著,古川正路,芦田完,丹波志 天田郡,福知山史談会,1973.
5)永戸貞著・古川茂正,古川正路,丹波志,名著出版,1974.
6)轟水路絵図概要解読図,三和町史編さん委員会,三和町史 資料編,三和町,1998.
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8)西紀町史編纂委員会,西紀町史,兵庫県西紀町,1987.
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16)慶佐次盛一,兵庫丹波の山(下),ナカニシヤ出版,1992.
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19)中田祝夫・和田利政・北原保雄,古語大辞典,小学館,1983.
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