鳥居峠 (木曽路)
とりいとうげ

 中山道の難所で峠の頂点近くに御嶽山の遥拝所があり、御嶽四門の一つである北の「涅槃門」とされた。北の門だが、西の菩提門である長峰峠より南にある。江戸方面から来て最初に御嶽山が望める場所と言うことで、東側の奈良井から薮原に向かって歩いてみた。難所と言われた鳥居峠だが、登山者の感覚で越えると、標高差270m程度で緩やかで歩きやすいハイキング感覚の道であった。


★奈良井駅〜鳥居峠



鳥居峠奈良井側の地図
赤色点線は歩道歩き
茶色点線は車道歩き

 奈良井駅から昔ながらの宿場町の景観を残す奈良井の街を通り抜けて、鎮神社の先の車道が曲がる所で僅かに雪の残る左手の階段を上がって、車道をショートカットする。地道である。少し登ってまた車道に戻る。U字のカーブを一つ登って、今度は左手に看板と石畳と道標の石がある。ここに入る。石畳は復元のもののようで、ならい荘の前を通ってきた道と合流する手前で、それほど長くなく終わってしまう。石畳の道に入らず、ならい荘の前を通って少し遠回りして来る道が旧道のようである。


奈良井の街

鎮神社

近道入口

線路を見下ろす

石畳の入口

クルミ沢

 クルミ沢を渡り、一登りで優しいお顔の石像のある小さな鞍部を通過する。この鞍部の奈良井川側の小山の上に「くるみ沢展望台」(現地の標識では「木曽駒ヶ岳展望台」)があり、東屋が建てられているが、木々に遮られて木曽駒ヶ岳は余りよく見えなかった。クルミ沢の下手を「くるみ坂」とする資料があるが、奈良井から鳥居峠までで、この小さな鞍部の南側の僅かな下り区間とこの先の中ノ茶屋跡の上手のジグザグ箇所を除き、全体が緩い登り勾配で通されている旧中山道で、クルミ沢の下手の部分だけを特別に「くるみ坂」と呼ぶのは不可解である。鳥居峠が奈良井坂とか薮原坂と呼ばれたように、この小さな鞍部のことが「峠」である「くるみ坂」ということではなかったかだろうかと考えてみる。くるみ坂の「くるみ」は、この先の最初に渡る沢の名が「クルミ沢」であることに因るのだろう。また、奈良井側末端付近を「観音坂」と呼んでいる資料もある。観音坂は、今のならい荘の所に「観音塚」があったことに因る、奈良井側から見て最初の勾配区間のサンタ沢から観音塚にかけての登り坂を指して呼んだものだろうか。ならい荘からクルミ沢にかけては勾配がそれまでに比べて勾配が緩くなっている。


小鞍部

優しいお顔の石像

くるみ沢展望台

中央アルプスの展望

 鞍部から緩く下る。窪地の脇を水平道で辿っていく。小沢を二度渡ると東屋があり、「中ノ茶屋」の看板が掛けられている。中ノ茶屋の跡地とのことで「クルミ茶屋」とも言ったという。東屋の脇に「本沢自然探勝園(葬沢)」の看板がある。看板によると天正10(1582)年の鳥居峠の戦いでの戦死者を葬った場として「葬沢(ほうむりさわ)」と呼ばれるとあるが、葬沢の名は寛政年間編修の中山道分間延絵図に出てこない。ここの看板では、葬沢がどの沢を指しているのかはっきりしないが、「本沢自然探勝園」の後ろに「(葬沢)」とあることから、本沢(ほんさわ)の別名ではないかと思って調べてみると、「木曽の鳥居峠(1973)」には「・・・そのとき、ここの本沢が死人で一ぱいになり血の川が流れたと言う。それでその沢をほうむり沢とも言う。」と書いてあった。本沢の別名が葬沢である。

 この看板のすぐ下手の渡ってきた小沢を指して葬沢と考えている人が多いようだが、この下手の沢は中山道分間延絵図では「マセ尾沢」とあり、マセ尾沢などの本流にあたる、峠道の東側を流れている沢が「本沢」とある。葬沢の音は本沢に近い。「本」が音読みで「沢」が訓読みだから、特別の事情でもなければ「本沢」が本来の意味に即して宛てられた用字とは考えにくい。「ほんさわ(本沢)」の音は「ほりさわ」などの転と考えられ、「ほりさわ」から「ほんさわ」に遷り変わっていく中で残っていた、中間的な訛音であった「ほんりさわ」を「ほうむりさわ」と捉えるようになって生まれた伝承が戦死者を葬ったと言うものでは無かったかと考える。もし本当に戦国時代から本沢が「葬り沢」と捉えられていたなら、中ノ茶屋はそんなおどろおどろしい地名の場所のすぐそばで営業を続けていたことになる。数体の小さな石仏はあったが戦死者の墓は見かけなかった。記憶もまだ生々しかったであろう戦いの20年ほど後から葬った所を通る五街道の一つとして江戸幕府に整備されたのなら、大勢葬ったのに墓もないのかと道から見える所に早くから供養塔などが建てられて知られていても良さそうな気がするが供養塔なども見かけなかった。「葬沢」と言う表記と戦死者を葬ったと言う伝承自体が、中ノ茶屋が営業を終えて以降に作られた新しいものだったのではないか。地形図で見ると本沢の下流域は深く直線的な細い谷筋なので、「掘り沢」か「彫り沢」或いは「掘れ沢」と考えるのが素直な気がするが、奈良井川への落ち口からの姿を見ておきたい。

 マセ尾沢・下マセ尾沢は幕末頃に作られたという中山道宿村大概帳では「上やせを沢」・「下やせを沢」とある。「やせお沢」の方が今の音に近いのか。

 どの沢も立派な板橋で渡るが、沢を見下ろすと飛沫の掛かる岩や草木には氷が着いている。

 中ノ茶屋の東屋の先で尾根をジグザグに登る。ジグザグとは言えそれほど急な斜面でもなく、緩やかに登れる。登り口に幾つか石仏がある。またトラバース道となって次の沢が中山道分間延絵図では「矢立沢」。この辺りから後方に奈良井の街並みが見えるようになる。新しい送電線の電柱が連なっていて、ちょっと古道の雰囲気を削ぐ。

 道の右手の山側には時折水の浸み出しているところがあり、その一つに竹筒が差し込まれて水が汲めるようになっているところがある。中山道分間延絵図で「船水出水」とあるのは、この辺りのことと思われる。道は更に緩やかに登り、少し広くなったところに「一里塚跡」の石碑がある。鳥居峠の一里塚は残っておらず、古老の話や古地図から「ほぼこの辺り」ということで建てた石碑とのことである。


中ノ茶屋跡東屋

登り道の様子

船水出水?

一里塚跡碑

 更に緩やかに登って左手上に木橋が見えて、「桂沢」を渡る。見えていた木橋はすごく上のような感じがしたが、歩いてみるとすぐに見えていた木橋に達する。まもなくまた復元の石畳が現れるが、これはごく短く、中利(なかり)茶屋跡の休憩舎が見えて旧国道に合流する。合流点の辺りには道分石や馬頭観音の石碑がある。中利茶屋は馬方茶屋といって馬方衆が多く利用し、中央線開通後もしばらくは営業を続けていたという。

 中利茶屋跡の休憩舎は立派なもので、トイレ・水場も設けられているが、トイレと休憩舎は冬期使用禁止、水場の水も流されていなかった。休憩舎の辺りからは奈良井の街がよく見える。道にはこの辺りだけ積雪があって、凍結しているところもあったが、簡易アイゼンを出すほどでもなかった。旧国道はこの先は「堀割」と呼ばれ、切り通しになって車道が続いているが、旧中山道は休憩舎から左手の山に少し登り、堀割の脇を通っている。少し登るとまず頭上に御嶽信仰の明覚霊神碑があり、その下手に唯一講社霊神碑があり、堀割を見下ろして更に進むと、鳥居峠最高点とも言うべき「峰の茶屋跡」で明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)所碑がある。更に進むと峠山へサテライト道路に出る。旧中山道はこの先、サテライト道路に交差しながら埋められていて、その先の雪なげくぼ(トチノキ沢)の辺りから形をとどめ、御嶽神社前に続いているが、サテライト道路から雪なげくぼ(「雪なげ」はナダレのこと)の間は完全に道型が失われているので、サテライト道路を下り、堀割を過ぎた旧国道に出る。ここは旧国道・御嶽神社への青木新道・北方への林道の五叉路となっている。熊除けの鐘が設置されている。

 中山道分間延絵図には峠の北側に三軒の立場茶屋が「峰之茶屋」として描かれている。現在の旧中山道の峠道の北側はすぐ堀割になっていて茶屋が建つようなスペースは無い。堀割は明治23(1890)年の車道(明治新道)開通時に新しく掘り込まれたものなのだろうか。


桂沢の先の
板桟橋を見上げる

旧国道に
合流する

中利茶屋跡
休憩舎

奈良井の
展望

明覚霊神碑は
高い所にある

堀割の旧国道を
見下ろす

明治天皇
駐蹕所碑

サテライト道路に
下りつく

★鳥居峠〜薮原駅


御嶽遥拝所付近拡大図
赤色点線は歩道歩き
茶色点線は車道歩き


鳥居峠薮原側の地図
赤色点線は歩道歩き
茶色点線は車道歩き

 サテライト道路を下りた五叉路から一番左手の青木新道に入る。青木新道は旧国道が拓かれてから御嶽神社前に茶屋を開いた青木氏が作ったのだという。車が通れる道で殆ど水平である。道の下手側には栃の大木が連なっている。その内の一つが「子産みの栃」でウロがあり、このウロの中で乞食がお産をして安産であったと奈良井では伝えられていると言うが、人が入れるほど大きなウロではない。子産みの栃は大木だがそれほど古い木ではないらしく、何度も代替わりしているという。また、薮原では、ここで捨て子が拾われたとか伝承があるという。

 御嶽神社の鳥居が見えてくると左手の山側から旧中山道が合流し、道分石がある。旧中山道を鳥居峠の方ヘ辿ってみたが、倒木や藪があり、雪なげくぼ(トチノキ沢)より上手で道型は完全に消失していた。道分石のすぐ先には不動明王の石仏がある。昔はここに水行用の人工の滝があったといい、その為の不動明王である。ここにも熊除けの鐘がある。道の反対側は少し広くて「峠茶屋」の跡で、御嶽神社へ通り庭になっていたという。その先に石段と鳥居があり、御嶽神社(遥拝所)がある。神社の後方には霊神碑などの石碑が多く有る。神社左手後方から御嶽山が見えるが、山頂部が薄く手前の山の上に出ているだけで、大きくは望めない。石の鳥居は明治8(1875)年のもので、鳥居峠の名の由来になったとされるものでは無く、鳥居の無かった鳥居峠だった時代もあったようだ。多分、「とりい」も何らかの越える尾根のあり方で呼んだのが訛ったもので、鳥居の存在が鳥居峠の名の元では無いだろうと思う。院政期より前の発音での木曽山脈と飛騨山脈を繋ぐ「つり(吊)・を(尾)(turiwo)」の転が「とりゐ(toriwi)」でないかと思う。

 鳥居の前から掘り込まれた道を下ると御岳手洗水鉢の前の広場に出る。御嶽神社の裏手の御嶽山を望むところからも階段道で下りてくることが出来る。御岳手洗水鉢のすぐ上には硯水があり、埋められた木枠の中に水が溜まっている。御岳手洗水鉢は硯水のすぐ下にあるが、水源は別(中利茶屋跡休憩舎と同じか)のようである。手洗水鉢の水も冬場は止められているようで、手洗いは出来なかった。鳥居の前にあった峠茶屋は当初はここにあったらしい。

 小さく溜まっているだけの硯水は、利用しようのない「漫ろ水」だったのが転訛して「硯水」になったのだと思う。


サテライト道路から
下りた五叉路

青木新道沿いの
トチノキ

子産みの栃

旧中山道と
青木新道の分岐

旧中山道は
ヤブ気味

峠茶屋跡

水行場跡の
不動明王像

御嶽神社(遥拝所)の
鳥居

御嶽神社

御嶽山を
望む

遥拝所から
手洗水鉢へ下りる

硯水
多分、元は「漫ろ水」

 御岳手洗水鉢の前の広場から下手側へは道が三方向に分かれている。左手が近江屋新道で南斜面の山の横手を緩やかに下りていく道でメインの中山道という雰囲気である(開通は資料によって明治初年とも明治32(1899)年とも書かれる)。屋号が「近江屋」の人が拓いたという。真ん中は丸山公園で、すぐ先で芭蕉句碑などが立ち並ぶ小山の上の広場となっている。行き止まりのようだが句碑の後ろから下手へ下りる道が付いている。右は測候所跡方面へ続く道である。近江屋新道以前の旧中山道は、この辺りではどうもよく分からないようである。

 近江屋新道を緩やかに下っていくと右手頭上に東屋があるのが見える。登ってみると薮原の街がよく見える。丸山公園から下りる道も、この東屋の所に下りてくる。峠茶屋跡から御嶽手洗水鉢と、この東屋の所の道だけが鳥居峠の道の中で急傾斜で掘り込まれており、或いはこの二ヶ所だけは旧中山道そのままの姿ではなかったかと考えてみる。

 御嶽手洗水鉢から測候所跡への道は平坦な中を進む。薮原展望台の東屋を左下に見て更に進むと右下に旧国道からのアスファルト道路が見え、まもなく合流する。その先に立派な休憩舎がある。休憩舎から、その先のベンチに囲まれた広場の辺りが木祖森林測候所跡で、大正7(1918)年に設置され昭和11(1936)年に廃止され、建物はその後の旅行者の失火で失われたという。ベンチに囲われた広場の左寄りから下りていくと近江屋新道と合流する。アスファルト道路の終点の辺りからも近江屋新道に下りることが出来る。


御嶽手洗水鉢

手洗水鉢前の分岐

石碑の並ぶ丸山公園

測候所跡の
休憩舎

近江屋新道から
東屋を見上げる

東屋から
薮原の展望

 近江屋新道と合流して何度かジグを切って緩やかに山の斜面を下っていく。「大曲り」というのがこの辺りのようだが、どのカーブが「大曲り」なのかよく分からない。坂の途中に経塚牛馬供養塔がある。坂ノ下沢(坂ノ沢とも)に下りると旧国道を横断する。ここには案内板と熊除けの鐘があり、ここからまた150mほど復元石畳がある。坂ノ下沢の「坂」とは峠のこと。復元石畳が終わる辺りで左手に赤いお社がある。原町稲荷である。唐松林の中を更に下っていくと遠回りしてきた旧国道と合流し、緩斜面の中を下っていく、この緩斜面が「青木原」らしい。

 復元石畳は鳥居峠の道中に三ヶ所あったが、その他の箇所に全く石畳の痕跡が見られなかったのが気に掛かる。くるみ沢展望台入口の鞍部のように、崩れにくい場所で、地形にルートが規定されて昔から切り替えられてもいなさそうな箇所でも見られなかったのは、本当に昔はあったのなら解せない。本当にあったのなら中山道落合の石畳のように埋められていたとしても、関心の高い古道であるから、信濃路自然歩道の整備の時などの機会に調査なり発掘なりされて、落合の石畳のように史跡なり文化財なりに指定されていても良いような気がするが、そうした指定を受けている様子も見受けられない。明治の新道築造の際に基礎に転用したというなら記録なり記憶なりで知られている気がする。昔の中山道だった時代の鳥居峠に本当に復元されるような石畳があったのだろうか。

 消防署の横で太い道路を横断し、更に下っていく。緩やかだった奈良井側より斜面が急な印象である。天降社(てんこうしゃ)、原町清水、御鷹匠役所跡、飛騨街道追分と過ぎ、薮原神社の下で中央線のガードをくぐると薮原の街である。藪原宿は明治17(1884)年の大火で大半が焼失したと言うことで、奈良井のように古い姿のまま保存されている街並みではないが、名物お六櫛を売る店などが並ぶ姿は味わい深いものがある。高札場跡、墓地を過ぎ、薮沢の流れと一緒になっている歩道の中央線のガードをくぐって薮原駅に着いた。


唐松林の
近江屋新道

経塚牛馬供養塔
後ろに馬頭観音がある

旧国道を
横断する

坂ノ下沢沿いの
復元石畳

原町稲荷

旧国道に合流する

天降社

原町清水

参考文献
生駒勘七,御嶽の信仰と登山の歴史,第一法規出版,1988.
八木牧夫,ちゃんと歩ける中山道六十九次 東 江戸日本橋〜藪原宿,山と渓谷社,2014.
長野県木曽郡木祖村教育委員会,木曽の鳥居峠,木祖村教育委員会,1973.
楢川村誌編纂委員会,暮らしのデザイン(木曾・楢川村誌6民俗編),長野県木曾郡楢川村,1998.
中山道分間延絵図 第11巻,東京美術,1980.
楠原佑介・溝手理太郎,地名用語語源辞典,東京堂出版,1983.
児玉幸多,近世交通史料集5 中山道宿村大概帳,吉川弘文館,1971.
橋本進吉,古代国語の音韻に就いて 他二篇(岩波文庫33-151-1),岩波書店,2007.
木祖村自然同好会,木曽路鳥居峠(旅物語2),ほおずき書籍・星雲社,2002.



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(2016年12月29日上梓 2023年1月22日URL変更)